35. りーん


 ――りーん。


 人の住まなくなった家は、すぐによどんでしまいます。

 この古びた住宅街には場違ばちがいにも思えるような白い洋風住宅でも、その例外ではありません。

 空気ばかりではありません。祖母が暮らしていたころは、壁も、床も、光るほどに綺麗きれいに見えた内装も、すっかりくすんでほこりをかぶって。

 ほとんど寝たきりになっても、二度も入院を重ねても、執拗しつようにこの家に戻ることを希望したのは、自分の去ったあとがこうなるとかっていたからだったのでしょうか。


 明らかに、祖母がいたころに比べてほの暗くなったこの廊下。家のなかを曲がりながらつらぬくようなこの果てに、祖母が身罷みまかった部屋があります。

 敷地の南、当時はよく整えられていた庭を望む、十畳ほどの和室でした。

 寝たきりになってからも、布団をやめて介護ベッドを入れてからも、祖母はずっとそこで寝起きし、そして毎朝、ヘルパーさんに窓を開いていただいて、そこからずっと庭をながめていたそうです。


 数十年前、埋め立てがまだ進んでいなかった頃は、あの窓から庭のかなたに大きく広がる浜をのぞめたのだそうです。

 さらに向こうにざわめく海、そこから吹きくる潮の香り。

 そんな潮風を懐かしんでのことでしょうか。祖父に先立たれる前、あの和室を自分の寝間に定める前、その頃から、夏が来るたび、あの部屋の窓を大きく開けて、祖母は窓に風鈴を吊るしていたものでした。


 大きな硝子がらすの風鈴でした。


 ――りーん。


 海の底を思わせるような深い青をしていました。

 その表面には、蟹のような章魚たこのような、海の生き物らしいものがゆらりと描いてありました。

 そんな不思議な風鈴が、夏風に吹かれ鳴く音は、なにか魔法の気配すらびた音楽でした。


 ――りーん。


 風鈴が鳴くたびに、深い海の空想が、部屋のなかへと染み入る気さえしたものです。


 ――りーん。


 亡くなるその前の日まで、祖母はこの音に聞き入っていたということです。


 ――りーん。




 どうして、今まで気づかなかったのか。


 祖母はちょうど一年前の午前七時、海の潮が引きはじめるちょうどその時に亡くなりました。窓はもちろん閉ざされており、それから今日まで、あの部屋の窓が開いたことは、ただの一度もないのです。


 ――りーん。


 あの謎めいた風鈴も、さらに不思議と、どこへともなく消えてしまい、こんな音を立てるものなど、ふすまの向こうにあるはずがなく。


 ――りーん。


 襖の向こうから響く、懐かしい、いえ、それゆえに総毛そうげ立つほどに恐ろしい音の正体を確かめることなどできず。

 きびすをかえして暗い廊下を引き返そうとしたのです。


 ――りーん。


 ――りーん。


 けれども、遅すぎたようです。

 廊下の向こうからも、あちこちの部屋からも、あの風鈴にそっくりの音を立てるものたちが、こちらへ集ってきているのでした。

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