第4話 とろけおちる 6 最終話

 岸田は公恵の骸を背負って緩やかな斜面を登っていた。公恵は気を失うように静かに息絶えた。岸田がなにかをする必要もなく、深い山の中にあるバス亭から、荒れた林道を歩き始めると間もなく、いつの間にか死んでいた。

 健康な肉体でも、その時がくれば機能を停止する。本当はあのとき、編集長に殺されていたはずの彼女は、森林の冷気を浴びてそのまま本来の姿になった。

 岸田の養分となるために。

 日当たりがよさそうな丘のはずれに、こんもりとした木々の塊があり、その横に岸田は立った。足元に公恵を横たえ、このまま立っていればいいだけだと安心する。

 深呼吸すると木々や草花から立ちのぼるすがすがしい空気が肺に満ちる。

 公恵の服を剥がしていく。邪魔な物をすべて取り去ろう。

 これで自分は自分に戻らずにすむ──。これほどの安心感。

 このあたりでも一番背の高い木になろう。この地面にしっかりと根を生やして。どんどん高く伸びていくだろう。高く伸びるためには、大地に沈み込むことからはじめるのだ。

 岸田は自身も肉体だけになると、ヒンヤリとした公恵の遺体の横に仰向けになった。地面に腐って染み込んでのち、今度は時間をかけて上を目指すことになる。

 これまでにないほど高いところを目指そう。

 時間はいくらでもある。退屈しないだけの記憶もある。何人もの生きた証を蓄えた。ひとつひとつゆっくり辿っていけば、そのうち立派な樹木になれるだろう。このあたりを見下ろすほどの。


 富岡は、何時間もベッドに腰を掛けたままでいた。寝るわけでもなく、立ち上がるわけでもなく。

 あれはいったい、なんだったのか。自分はなにを見たのか。または見なかったのか。

 警察から戻ってから、そのことばかり考えてしまう。

 喉に手をやる。

 どこかへ消え去った老人の指の感触がまだ残っている。老人はみつこの血を吸い、肉を囓り、飲み込んだ。みつこは、最初は恍惚に満ちた表情だったが、ほどなく皺だらけの顔となって、絶命したときにはミイラのようにカラカラになっていた。

 富岡が電話をし、駆けつけた警察からは「なにがあったんですか」と問われたものの、ろくな説明はできなかった。

 老人はカバンも名刺も置いたまま、消えた。

 なんとなく、富岡はあの老人はもはや別人のような姿になっているのではないかと感じていた。だから、街角ですれ違っても気付くことはないだろう。

「おお、とろける。とろけおちるよ、まったく。これは、これは……」

 老人はそう口走ってみつこを食べ、満足したように部屋を出て行った。最後に富岡が見たとき、いくぶん背が伸びて、髪も黒々と、襟元で巻いていたような気がするのだ。薄暗い玄関が、人感センサーのライトでパッと照らされたとき、靴を履く老人の笑う姿は、どう見ても二十代の若者のようにしか見えなかった。

 あれは、誰だ。

 富岡はそう思っただけで、よく見ようとしたときにはすでにその姿は消えていた。

 警察では防犯カメラの映像から老人が建物から出て行ったことを確認しており、そのおかげで富岡の話をある程度は信じてくれた。そもそも富岡にはどこもみつこの血さえもついていなかったので、実行犯ではないと判断されたのだった。


 二度も陰惨な事件のあった図書館の入り口は、公園に面していた。事件から数年後、その公園は数か月にわたって大規模に改修された。ガラス張りの図書館入り口のすぐ近くに、森から運ばれてきた若い木が植えられた。

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底辺かける高さ 本間舜久(ほんまシュンジ) @honmashunji

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