第11話 and go on




 彼女が笑うと、欲しくなった。




 今日は一斉の、衣替えの日だった。もちろん俺も忘れていたわけではなく、きちんと学ランを着て登校しているのだが、ここに来るまでは特段何も感じなかった。本当の意味で秋を実感したのは、やっぱり、

「なんか懐かしい、それ」

 彼女の黒いセーラー服姿だった。

「…私もそう思った」

 俺が好きになった彼女も、渡り廊下で初めて言葉を交わした彼女も、初めてここでこの時間を過ごした彼女も。この制服を纏っていた。彼女の黒い髪は、あの頃よりまた少し伸びていた。

「さや果」

「うん?」

 呼べば隣で、振り向く彼女。俺に向けてくれる笑顔は屈託なく、そのすべてが気持ちよく澄んでいた。それが、憚るものなどもう何も無いと教えてくれる。

 どこにいても、誰がいても、俺が「さや果」と呼ぶたびに。

「エビフライ、ちょうだい」

「うん、どうぞ」

「違う、そっち」

「え?食べ掛けだよ」

 こんなこと、前にもあった。初めてここに、彼が来たとき。

「いいから。ちょうだい」

 憶えているのかいないのか、まったく同じ台詞、まったく一緒の体勢で、腕に隠れて目だけを覗かせる。こうしてねだられると、私は弱い。

「いいけど…」

 本当に、犬みたい。いつかそう言ってみようと思いつつも、この仕草が見られなくなるのは嫌だから、口をつくことは無いかもしれない。

「じゃあ、いただきます」

 箸で摘まんで差し出そうとしたエビフライは、

「え…」

 そのままお弁当に落ちた。

「…!」

 唇に濡れた感触。

 見開いた目に、赤い髪。りんごソーダも香れない。だって、息はどうすればいいの。それ以上もう何も考えられなかった。

 唇が触れる直前咄嗟に吸い込んだ酸素が、胸を押し上げたまま、さ迷う。

 弾力のせいにして余韻を長引かせ、いやいや離れていく、睫毛をそっと起こす彼。瞬きもできない私を見つめて、この上なく満足そうな笑みはまるで七色、光そのもの。

「あれ、言わんかった?食べたほう、ちょうだいって」

 私は震えながら、唇をなぞった。

「…聞いてない」


 ――四月の、新学級。

 ――五月の伸び伸びとした風。

 ――六月の濡れた空気。

 ――雲も厚みを増してきた、七月の午後。

 ――八月の夜風。

 そして九月は飛ぶように過ぎ。


 十月の、高い高い空。

「俺、欲張りっちゃけん」

「…だから?」

 この青は、春を抜き夏を駕し、

「…おかわり」

「…もう、…だめ」

 ずっとずっと澄みきった。どこまでも光、伸びていくように。

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だめ。好き以外、言わせない 美木 いち佳 @mikill

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