第10話 だめ。好き以外、言わせない

 間近に感じた祭りの明るさも賑わいも、今は遠く。闇に片足を突っ込んだまま俺たちは、人々を塞き止めるようにして立ち尽くす。

「千早くん、なんで兼行さんと、ここにおると…?」

 まるで鏡に映したみたいに、彼女と同じ表情を浮かべているのは北川さんだった。状況が良く飲み込めずにいる俺から、隣の彼女へと視線を移すと、みるみるその両目は険しくなっていく。

「有紗、あんなに警告したとに…」

 警告。穏やかでない響きに、ふっと先日の今井との会話が思い起こされる。

「女子は怖いとよ」

 まさか。彼女の赤い目、伏せた顔、隠す黒髪。思い出せば出すほど、合わさってしまう。彼女が何か、言い出せないような目に遭っていたのだろうこと。

「私も好きって何」

 人波を、逆流しながら近づいてくる。

「手繋いどったやん。付き合っとっちゃろ?」

 そのたび彼女の肩が上擦って。

「彼女がおるって噂、やっぱり…兼行さんやったとやろ!」

 迫る深紅の浴衣が燃えるみたいに、

「有紗のこと騙して!陰で笑っとったっちゃろ!」

 その火の手が一気に振り上げられ、

「北川さん!」

 俺はその手首を掴んだ。それを眼前にして、彼女は耐えるようにじっと目を歪ませたまま、それでも閉じていなかった。

「有紗だって、千早くんのこと…」

 身を捩るから力も散る。

「ずっと…ずっと前から好きやったとに!!」

 男の腕を押し込めるわけもないのに、北川さんはそれでも掲げた手を振り下ろそうとしていた。だが、つい撫で落ちたその一粒に、吸い取られるようにして力が抜ける。俺はゆっくりと、手を放した。

 そのまま顔を覆って泣く姿を、並んでどんな顔で見つめたのだろう、俺も、彼女も。嗚咽がざわめきを塗りつぶす中で、考えても考えても、俺はただ、一言しか掛けてやれなかった。

「北川さん…ごめん」

 こんなことなら最初から、冷たくすれば良かった。そのほうがよっぽど優しかった。飾った笑顔が嫌いな俺は、多分それを一番良く知っていたのに。

「…それしか言えん、ごめん」

 ここまで全部、中途半端だった。優しさの振りをした独りよがりの偽善が、俺が、北川さんをここまで追い詰めた。それがきっと、大事にしたい彼女をも傷つけた。

 傲慢にも荷物を背負ってあげていたつもりでいた俺は、それを結局彼女たちに押し付けていただけなのだ。

「ひどいよ、千早くん…」

「うん」

「有紗、本当に好きだっ…っ…」

「…うん」

 そして涙の流れ込む、想いを紡ぐ。


 呼び止めれば振り向く背中。

 いつも目を見てくれる瞳。

 最後まで聴いてくれる頷き。

 人懐こい笑顔。

 全部、全部。


 こんなの懺悔にも償いにもなりやしないけれど、北川さんが落ち着くまで俺は、ひたすら向かい合い頷いた。その言葉を全部、全部、心に聴かせた。




 ずっと目を逸らしていた、これが後ろめたさのかたち。

「…兼行さん」

 人波に彼を残し脇へ逸れた私たちは、木々の合間からちらつく祭りの華やぎに照らされていた。指先についたマスカラを忌々しそうに見つめる有紗の、か細い灯りにも光る濡れた頬。私は焼き付けなければいけないと思った。失うのは嫌だと、あの日教室で声を上げた、私と同じ。溢れて溢れて、蛇口を締められても構わず流れ続け、ついに今、出し尽くした彼女の姿を、私も一緒にこの胸に抱き留めようと思った。

「…有紗だって、千早くんのこと、好きやもん」

「うん」

「やけん、諦めん」

「…有紗」

「兼行さんが、千早くんのこと傷つけたら一生許さん。大事にせんやったら、有紗、すぐ、…もらって、いく…」

「…うん」

 最後のほうは涙声だった。彼女の想いもまた、枯れることを知らなかった。どれだけ止められても注ぐことをやめない。ぎゅっと痛いほど分かる。だから頷いた。私も、この恋心を、身体全てで抱いて掴んで離さなかったのだから。

「でも、有紗もひどいことした。お祭り、千早くんに断られて、兼行さんと、行くんやって、思ったら…。上履きとか机とか…ごめん」

 瞑った目尻から弧を描くは一筋、それだけ色が違って見えた。彼女のくるおしい恋情に混じる、さめざめとした悔恨。私はそれを、ここに流していく。

「ううん…私も、気持ち知ってたのに…こそこそ千早くんと話したりして、…ごめんね」

「…それは許さんけど」

 ふっと笑う彼女の素顔。強くて、柔らかい。大事に恋を抱き締めた、それは一人の女の子の笑顔。今やっと私は、彼女と、本当の意味で向かい合って見つめ合えた。

「有紗、帰る」

 巾着から出した私のハンカチを、彼女は受け取らなかった。

「いい。だってまだ、負けとらんっちゃけん」

 幾重にも涙痕の残る頬をくいっと上げて、

「じゃあね」

 それを撫でた手を一瞬だけ振ると、彼女の後ろ姿は、迸る夜灯りの中へとけていった。




 眠たそうな月明かりだけを頼りに暗がりを、手を取り合って二人進む。あれだけの大人数が押し寄せたのに、ここまで来れば景色も随分開けてきた。とは言ってもこの闇だ。花火が上がり始めるまでは、数人の話し声と、下駄に上がり込む芝生の感触くらいしか分からない。あとは、傍らに彼女の息遣い。適度に周囲と距離を取り、少しちくりとする青い香りの上、俺たちは並んで腰掛けた。

「…さっき、北川さんがさ」

「え?…うん」

 俺の口から出たその名前に、彼女は少しドキリとしたようだった。別れ際、笑顔を交わし合っていたのを少し離れたところから見ていた俺には、何をされたかなんて無粋なことは、尋ねられなかった。去っていった彼女を問い質すこともできないし、ここにいる彼女に謝ることもできない。きっと二人の間では決着がついたのだ、それを蒸し返す権利など、俺には無い。

 それでも守れなかったと悔いるのは、これきりにしなければならない。自分を戒めるためにひとつ、大きな呼吸を飲み込んだ。

 俺の神妙な様子を感じ取ってか、少しの間の後、彼女はゆるやかに顔を向ける。訊きたいことはまだあった。だから手探りで、その瞳に言葉をつぐ。

「…言っとったやん?…私も好きって何…って」

 今夜聞かせてくれるはずの、大事な返事。

「えっ…」

 どんなに夜に紛れたって、彼女の動揺を俺は見過ごさなかった。彼女が向こうの手をゆるく握り、口元を押さえて忍ぶ。息を潜め、隠す赤面すら俺には見える。

「…」

 だんまりを決め込む彼女が焦れったい。もうすでにこうして、手を結んで隣にいるのに。これ以上どうすれば、その心に触れられるのか。

「さや果」

 たまらずそう呼んだ。

「…それは、二人のときだけって…」

「…二人になりたいと?」

「そういう、意味じゃ…っ!」

 繋いだ手だけが、二人の間に座している。その束ねた指を割り込んで、絶対に振りほどけないくらいにかたく、指を絡めた。

 もう、逃がさない。

 速さを増す、鼓動が聞こえる。それが二人の世界を成す。草を踏む音も騒ぎ立てる声ももう関係無い。長い睫毛に佇むもどかしさ。こんなに、融かすほどに、秘しきれない愛しさを乗せ見つめているのに。

「…俺はなりたいけど」

 跳ねる彼女の短い吐息。

「毎日昼休み、楽しみやったし、晴れろって念じたし、…いつも」

 最短距離で見つめ合う。

「俺、」

 震える彼の黒い瞳。

「さや果のこと、好きやけん」

 もう、離せない。動けない。こんなにも絡まって、指先から、瞳から、身体のすべてに熱を宿らせ流れ込む。掴まれる。だからきっと逃げられない。彼が欲しい言葉を、私が届けるまで。

「…もう限界」

 絡み合う手を強く引かれた。彼の吐息が瞬間、触る。そして煮え切らない私の唇を、彼の手が、

「ちは…っ!」

 塞ぐ。

「だめ」

 瞳いっぱいに、彼。

「好き以外、言わせない」

 こんなにも。

 直情な眼差しが、烈しくて切なくて、際限なく滲んで沸き上がるこの気持ちが、どうしても言葉にならなくて。

 なんで泣くんだろう、全然悲しくなんかないのに。こんなに、こんなに満ちているのに。塞き止めるものは何も無くなって、満ちすぎて溢れて掬えない。あの日の涙と全然違う、溶けるように熱い、染みるように痛い。

 それが彼の小指を濡らすから、唇からそっと離したその手で、ひりひりと焼け付く涙を、撫でてくれた。頬に落ちる、親指の優しい感触、ぽつり、ぽつり。

 そして黙って見つめてくれる。待っている。こんなに大きくて、大切で、溢れて抱えきれない想いのすべてを、私が、自分で、心ごと、唇に乗せるのを。

「…さや果…」

 気持ちを伝えなきゃ。しっかり言わなきゃ。どうか今は、笑って。

 笑って、私。




「…好き」




 弾けた。

 光った。

 頭上で瞬いた大輪の花火が、待ちわびたように両手を広げ、彼女のとびきりの笑顔を、煌々と迎える。

「千早くん、好き…」

 泣いているのに、笑っている。華奢な雫を乗せる睫毛、涙を纏う頬、好きと言う唇、熱を溢す瞳。そのすべてで笑っている。やっと手に入れた。赤にも緑にも黄色にも輝くこれ以上ない、七色の、本物の、笑顔。

「…っ好き…」

 涙が伝うほどに何度も差し出される「好き」を、俺は噛み締めるように刻み込むように、受け取った。指先の鼓動は暁の水面のように穏やかに。同じテンポ、ひとつのリズム。俺も彼女も、いっぱいになった瞬間。

「俺も好き、さや果…」

 花火が呼ぶたびそうやって笑うから、指をほどいて、俺はさや果を抱き締めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る