5月27日は海軍記念日

古癒瑠璃

5月27日は海軍記念日

――天気晴朗、なれども波高し、ですよ先輩!


5月27日の朝

 パンダの置物をしまうと引っ越しの準備は終わった。

 ダンボールにガムテープを貼り付けそのまま玄関脇の脇に置く。

 キッチンとリビングしかないようなアパートだ。台所の大半は既にダンボールに埋まっている。

 茶色い山に囲まれながらミルでコーヒー豆を挽く。安っぽい豆でも、コーヒーはコーヒーだ。


 夏の日。風鈴の音と共によく嗅いだ匂いがキッチンを覆う。

 ふと、名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたがきっと錯覚に過ぎない。


 珈琲を入れ一息。もう少しすれば引っ越し業者が来る。

 この部屋で飲む最後の一杯になるだろうと思えば、途端にコーヒーの味がどことなく感慨深いものになった。


 引っ越し先はここから少し離れたところになる。

 空気はここよりももっと乾燥しているし、海は遠く、冬はとても寒い。そんな北国。

 転勤は会社勤めの宿命とはいえ、あいつと回った夏祭りを見る前に旅立つのが惜しく感じられてならない。


 このコーヒーミルはこの部屋に置いていくつもりだ。

 持っていくには、今の自分には少し、重すぎる。


いつかの8月の会社

 陽炎の立ちこめる社屋の前であいつと初めて会った。

 事務所へと通じる階段を覗き込んでは手元にある地図を確認ししきりに首をひねっている。

 なるほど、とその様子に納得して俺はあいつに話しかけたんだ。


「今日から来るっていう新人さん?」

「あ、はい。――商事なんですけれど……」

「ドアに書いてある会社名違うから、最初は戸惑うよな」


 通勤しているものにとっては慣れたものでも、初めて来た人間にとっては義榛を抱かせるには十分のトラップだ。

 この事務所へ通じる扉は、正確には社屋の渡り廊下に通じている。いくつかの会社の事務所が点在するこの社屋なのだが、扉にはこのビルの持ち主である会社名しか記されていない。

 俺は臆することなく扉を開けて扉の前で右往左往していたあいつを招くと、行き先を指さした。


「会社は渡り廊下の突き当たり。廊下は狭いけど、中は広いから」

「あ、はい! 有難うございます!」


 第一印象は、真夏に出会ったこともあってヒマワリのような奴だと思った。

 おろしたてのスーツに着られてこなれていない、不慣れな服装。

 大きめの頭にボブくらいに切りそろえられた髪型。

 それがペコペコと何度も首を振るものだから、どことなく、風に揺れる大輪の花を思い浮かべた。


「先輩……ですよね? わたし、今日から入社致します東郷松菜です!」


 ――天気晴朗、なれども波高し、ですよ先輩! 覚えやすいでしょ?


 その後、何度も聞いたこのフレーズを、始めて聞いたのはそういえばこの日だっけ。



10月の時雨


 北の大地の雨は、本州にいた頃とは比べものにならないほど冷たい。

 傘を持ってこなかったことを後悔しながら役に立たないコートを強く握り、道を急ぐ。

 区画整理の行き届いた碁盤の目の街並みは、住所こそ覚えやすいが慣れない人間にとって迷路に等しい。

 どこまでも続く直線も、代わり映えのしない横道も、なにもかもが見慣れない。

 雨に霞む町並みを足早に駅へと急ぐ。

 10月ともなれば雪が降ってもおかしくない気温ばかりが目にとまる。

 遠く、山を見やれば頂上は既に白化粧がすまされていて、いよいよ持って遠くに来てしまったという感が強まる。

 駅で電車に飛び乗りそのまま二駅ほど区画を進む。改札口から吐き出された街並みは住宅地にしても少し物足りない。

 少しでも郊外に出れば、驚くほどに高い建物がないのがこの土地のありかただ。

 ここでは5階建てのマンションですら、立派に高層建築物を名乗れるほど。

 この辺り一帯で一番高いその建物。その4階フロアが弊社の誇る社員寮だ。

 自分の部屋を目指す途中、先に帰っていたのだろう部屋着に着替えた後輩に出会った。

 コンビニに行くのか、手には妙に大きながま口を持っている。記憶が確かなら、少し前に開かれたレクリエーションで、誰かが賞品に混ぜ込んでいたジョークグッズだ。

 大方、百均か、安かったのか、そんな所。それを実際に使う度胸はさておき、小柄な彼女にはそのがま口は妙に似合っている。


「あ、先輩。こんばんわ……ってびしょ濡れじゃないですか! 傘は忘れたんですか?」

「……ああ、いらないと思ったんだけどな」

「今日、これから気温下がるから風邪引きますよ? すぐ、暖かいシャワー浴びた方が良いです」

「そうするよ」


 軽く挨拶を交わしてから部屋へ。廊下が濡れるのも構わずコートを脱ぎ捨てると、言われたとおりにシャワールームへと飛び込んだ。

 熱いお湯を頭から浴びる。

 皮膚ではなく、体の奥が温まる感触。寒さに縮こまった表面はまるで象の皮膚のように現実感に乏しい。

 暫く呆けるようにしてシャワーを浴びながら今後の予定を頭の中で考える。

 昨日、レベル上げ途中で放置したドラゴンクエストがそのままだ。突然入った仕事のメールで資料づくりを始めたから。中途半端に終えたゲームに対する欲求が、胸のどこかでまだ燻っている。

 だが、そもそもが俺のゲームじゃない。遊びに来たどこぞの海軍大将みたいな名前の後輩が部屋に放置していった一品だ。

 引っ越しの荷物に紛れていたそれに手を出したのがつい最近。

 ブーメランが強いんですって、とそれはもう何度となく力説されたのを覚えている。

 シャワーからあがり、髪を乾かすのもほどほどに、ドラゴンクエストのレベル上げを再開していたところで部屋のチャイムが鳴らされた。

 玄関へ向かうと、開けて欲しいと、女性の声がする。

 聞き覚えのあるその声に従い扉を開ければ、隣室にいるはずの後輩が鍋を抱えて立っていた。


「先輩、おでんたべません?」


 小柄な彼女には、明らかに余りある大きさの鍋を受け取ると彼女を部屋へと招き入れる。

 適当にインスタントもので済まそうとしていた晩ご飯だ。彼女の提案は渡りに船と言える。

 勝手知ったる他人の家とばかりにさっと室内へ侵入した後輩は、リビングのモニターに堂々と映されたゲーム画面を見つめ、快哉をあげている。


「あー、ドラゴンクエスト! 先輩、ドラクエやるんですか! あ、しかもこれ、わたしまだやったことない奴です……。

 一緒にやりましょうよ、先輩。ほら、おでん持ってきて――こっちで!」


 どことなく学生気分の抜けない彼女に苦笑しながら、おでん鍋をテーブルに置き自分は食器の準備を始める。

 それだけで少し、懐かしい気分になった。


2度目の8月


 花火を一人で見た。元来、暑さに弱い人間である俺にはすこし、この暑気の残った夜の蒸し暑さは、堪える。

 周囲には浴衣を着込んだ子ども連れやカップルの姿が。カランコロンと石畳をならす草履の音が、どこか寂しげに夏の終わりを告げていた。

 俺は帰り道につく人の群を眺めるように、遅めの歩幅で道を行く。

 駅へと続く道は一直線に。色とりどりの衣服の人間が連なり歩み、蠢いている。


最初の8月


「先輩、なんで花火あるって教えてくれなかったんですか?!」

「いや、知らなかったんだよ」

「うぅ――見たかったですよ、花火! こっちに来て初めての夏祭りだったんですから!」


 夏の終わり。連れだって来た祭りの帰り道。電車から降りて社宅へ向かう途中に、先ほどまでいた境内の方角から大きな炸裂音が聞こえ始めたのが口論の始まりだ。

 もっと、トウゴーが一人、脇でがなり立てているだけで自分は平気の平左と聞き流しているだけなのだが。


「あ、ほら! 三尺玉ですよ! あーきれいだなぁ……近くで見たかったなぁ……」

「おまえ、大きさとか絶対適当にいってるだろ」

「おっきいって事がつたわればいいんですよ!」


 たーまやー、だの。かーぎやー、だの。

 底抜けに明るく放たれる彼女の声を耳に、家路につく。

 手にはパンダの置物が一つ。無駄に大きくて重たいコイツは、何を間違えたのが祭りで射落とした射的の景品だ。


「先輩、ちゃんと可愛がってくれなきゃだめですよ?」

「いや、お前にやるよこれ」

「だめですー。先輩が取ったんだから、ちゃんと責任持って先輩の部屋に飾ってくださいー」


 かわりに、ほら、と彼女が持ち出したのは少し大ぶりの、どことなく古くさいミル。


「うーん、ずっと欲しかったんですよねーこれ! 美味しい珈琲、楽しみだなぁ!」


 るんるんと跳ねるような仕草で喜ぶ彼女を尻目に、自分は絶対に続かないのだろうなと予想していた。

 案の定、祭りのフリーマーケットで手に入れたミルが彼女の部屋での役割を終えるのに一月もかからなかった。


「先輩、たすけてー!」


 ミルが動かなくなったと持ち込んできたその日。ただ単に豆の入れすぎで詰まらせているだけだと分からせるのに一時間の説明を要したあの日。

 大きくて、古くさいミルが俺の部屋に置かれるようになったあの日。

 季節外れの、風鈴の音が聞こえた、あの日。



 1月の始まり


「先輩、あれなんですかね? 子どもたち一杯居ますけど」

「あー、あれじゃないか。百人一首大会。飛び入り参加OKとか書いてあるポスター」

「あー、なるほど。ちょっとブームですもんね百人一首。わたしもでようかなー」


 後輩と二人で連れ立って、街一番の大きな神宮を訪れていた。

 盛況も良いところで、雪厚い時期だというのにどこからこんなに人が集まるのかと感心するほかない。

 雪道になれた後輩がすいすいっと進んでいく中、3度の転倒を経て購入を決意した雪ぐつでおっかなびっくり後を追う。


「はー、去年には先輩と一緒に神社にお参りに来るなんて思いもしなかったんですけどねー」

「俺の台詞だよ、それは」


 なんの間違いがあったんですかネー、とどこかからかったイントネーションで笑みを交えながら彼女は口にする。

 俺は努めてそれに答えないにしながら彼女に追いつくと、そのまま、彼女を追い越していく。


「あ、待ってくださいよ先輩!」


 本当に、どうしてこうなったのだろうか。

 二人で連れ立って社務所に向かうと、いくつか種類のあるおみくじの列に並ぶ。


「金運! 金運のお守り付きのやつで!」


 と、彼女が激しく主張したため、金色の招き猫の入った少し高めのおみくじを引く。

 折りたたまれた紙を開けば、そこに書かれていたのは吉の文字。


「あ、先輩、吉ですか? へっへー、わたしは中吉ですから運勢で勝ちましたね! 今年は先輩より豪運を見せびらかすぞ――!」

「たわけ。大半の神社じゃあ中吉よりも吉の方が運勢は上だ。今年もどうやら運勢ではお前に負けずにすみそうだな」

「えぇ――! なんですかそれ――! どこのルールですかー!」

「知らん。神社本庁にでも聞いてこい」


 納得がいかないのか、暫くがなり立てていた彼女は静かになったかと思うと駆け出した。どうやらおみくじを結びに行くらしい。嫌なことはすぐにでも忘れたい性分なのだろう、と苦笑を浮かべる。

 自分の引いたおみくじをなにとはなしに眺める。


 商売 はじめるに好機

 失物 すぐ手元にあります

 旅行 さしつかえない

 恋愛 好かれているでしょう

 願望 もうじき叶うでしょう


 俺はそれをそっと畳むと、おみくじを結んでいる彼女の元へ足を運ぶ。

 鈴の音が喧噪の中、高く、高く、響いている。

 風が雪と共に、それを運んでいる。

 その寒さに、寂しさを感じる前に、俺を呼ぶ彼女の声が聞こえた。


初めての1月


「先輩、忘れないでくださいね。

 ――天気晴朗、なれど波高し、ですよ。

 覚えやすいでしょう?」


 忘れやしない。きっと、そのフレーズはいつまでだっても自分の中でくり返し、くり返し、季節のように、風に揺れる風鈴の音のようなささやかさで蘇り続けるんだ。


「あーあ。

 先輩と花火を近くで見たかったんですけどねー。

 今度は忘れちゃ駄目ですからね?」


 忘れやしない。きっと、一人になってもあの時期になれば花火に足を向けてしまうだろう。色とりどりの光を見るために足繁く、暑気をくぐり、通うのだろう。


「先輩、忘れないでくださいね。

 ――先輩が幸せになるのが一番ですよ」


 忘れやしない。コーヒーの匂いを嗅ぐ度にきっと泣いてしまうだろうけれど、何時の日か、そんな思い出を越えていけるだろうから。お前の願ったことは忘れない。


「先輩。」


 忘れやしない。


「――先輩。」


 忘れられるものか。


「――――大好きでしたよ」


5月27日の朝

 コーヒーを入れる。

 コーヒーミルで豆を砕き、その匂いを堪能しながらゆっくりと丁寧に。

 小柄で新しいハンドルを回し、ゆっくりと、ゆっくりと。

 二人分のコーヒーを入れる。


「あ――先輩、おはようございます! 今日も良い匂いですね!」


 似ても似つかない、この日のために。


 


 

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