第44話 サナエと母

 父の作ったブレンドを四人で飲んだ。河野のブレンドとはまた違った、でも深みのある美味しいコーヒーだった。母と一緒に淹れたコーヒーの味を思い出した。父は母とサナエが二人でコーヒーを作っている姿を想像しながら、ずっとこの味を目指していたのだろう。これならお店で出せるかもね、と冗談とも本気ともとれることを河野は言い、ダイスケも乗り気だった。父をこれ以上その気にさせてしまっては医者を辞めると言い兼ねない。それだけは止めてほしいとサナエは思った。


「サナエのお父さんって医者だよね? こんな風にブレンドとかできちゃうものなの?」

 コウタは意外そうな顔をして言った。父と河野の関係を知らないのだからそれも当然だった。サナエは父と河野の間にあるつながりを話した。

「そうだったんだ。未だにそういうのが続いてるって、すごいですね」コウタは河野に言った。

「サナエちゃんのお父さんはもともと凝り性だったし、コーヒーが好きだったから、ずっと研究してたんじゃないかしら」


「そうなんですよ。一日中コーヒー豆をミルでぐりぐりしてたし、私も良く飲まされました」母が死んでからも、父はコーヒーの研究を止めなかった。何年もかけて父は理想の味を追求し、完成させたのだ。本当は、母に飲んでもらいたいに違いない。このコーヒーを母と二人で飲むのが夢だったのだろう。それは叶わなかったけれど、父は諦めなかった。コーヒー一杯にかける情熱をサナエは感じた。

 父のコーヒーはカフェに受け入れられたのか、その香りはしばらくテーブルの周りに漂っていた。河野が最後の一口を飲み干すと、さあ、と言って立ち上がった。


「二人も今日はご苦労様でした。サナエちゃんはもちろんだけど、コウタ君も今回はありがとう。素晴らしい歌詞だったわよ」

「いや、何か恥ずかしいです。青臭い内容ですいません」コウタは慌てて立ち上がり、申し訳なさそうに頭を下げた。

「あら、すごく良かったわよ。とにかく、サナエちゃんをよろしくね」河野は笑った。その笑顔は、まるで学生時代の頃に戻ったように若々しかった。もしかしたらサナエを母と重ねているのかもしれない。それでもいいと思った。母と重ねられることにもう違和感はなかった。クローゼットの中のワンピースを、明日久しぶりに着てみよう。鏡の前に立てば、サナエも母に出会うことができるかもしれない。


「はい、今日はありがとうございました。サナエ、今日はもう帰ろう。もうじき終電だし」

「あ、うん。マリコさん、大丈夫ですか? 上がっても」

「ええ、カップは片付けておくから、気をつけて帰りなさい」

「はい。じゃあコウタ、着替えてくるからちょっと待っててね」

 サナエは控え室で着替えた。バッグを持って、コウタのところに戻る。コウタが手を出してきた。サナエはその手を握った。さっきと違い、コウタの手は温かかった。まるで父のコーヒーのように、温かい空気が二人を包むのを感じた。




「ねえ、私もコウタに黙っていることがあるの」

 最終電車に揺られ、大泉学園駅で降りた。南口を出てしばらく歩いたところで、サナエは意を決し、母の話を切り出した。夜道は街灯があるとはいえ暗かった。暗い方がかえって良かった。コウタに顔を見られずに済む。サナエからもコウタの表情はよく分からなかった。

「私のお母さん、私が中学生の頃に事故で亡くなってるの。最近はお母さんのことで夜はうなされるし、ずっと不安定で。それをコウタに話すのがずっと怖くて」

 コウタにずっと隠してきた母の不在と、母と向き合うことができず葛藤していた日々が蘇ってきた。しかしそれはずっと昔の記憶のように感じた。

「サナエがお母さんのことでうなされてたのは、本当は気づいていたんだ」コウタがサナエの手を握り直した。「うわ言のように、繰り返しお母さんって言ってたからな。だいたい想像はついた。サナエがそのことを俺に知られたくないって言うのも、研究で疲れているって強情に言い張るから、なんとなくな。サナエはいつだって強がって、一人で抱え込んで。だから、マリコさんにそのことを話して、なんとかサナエの気持ちが前向きになるように、俺たちなりに考えたんだ」


「そっか、気づいてたんだ」

「ごめんな。驚かせようと思って。お前には嘘もついたし、皆にも、今回のことは内緒にしてもらってた」

 コウタに強がって嘘をついていたのはサナエも同じだったから、コウタを責める気にはならなかった。「あーあ、私、お母さんのことを言ったらコウタがどう思うだろうってすごく不安だったのに、心配して損した」

「まあ、そうだな。でも、言いたくないことを無理に言うことはないし、サナエが何かをきっかけに言ってくれるまで、待っているつもりだった。この間は、俺も感情的になって悪かった」コウタの声は少し湿っていた。

「ううん。もういいの。お母さんのことは、もう大丈夫だから」


 サナエは母との思い出をコウタに話した。コウタは、相づちを打ち、時々笑いながらサナエの話を聞いていた。「ランドセルには思い出がね、なかなか素敵なことを言う人だったんだな」

「そうなの。お母さんは、私の理想だよ」

 サナエの言葉に、もう強がりも嘘もなかった。母のことは、もちろん思い出すと悲しくなるし、つらくなる。それでも前に進む勇気を、サナエは河野や堀越から貰った気がしていた。母の友人がその人生をかけて守ろうとしているものがある。それを知ることができて本当に良かった。

 いつの日か、コウタと一緒に母の墓参りに行こう。きっと、母も安心するはずだ。心配することはない。コウタは医者じゃないし、自分のことを本当に愛してくれている。

 だから、大丈夫だよ、お母さん。

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夢のクジラ 長谷川ルイ @ruihasegawa

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