第43話 ブレンドと掌

 カフェの営業が終わった。さっきまでのイベントの盛り上がりがまるで嘘のように、照明を落とした店内が静かにサナエたちを包み込んでいた。

 サナエはテーブルに椅子を上げながら、先に帰っていったMAIの言葉を思い出していた。

「サナエさん、コウタ君を拘束しちゃってごめんなさい」イベント終了後、サナエを呼んだMAIは言った。「コウタ君、すごく頑張ってたわよ」

「はい。さっき話は聞きました。こちらこそすいません。コウタが無理なお願いをしたみたいで」普通、アーティストに個人的な想いを託すことなんてしないし、それを受けることもないだろうに。


「まあ、最初はね、どうかと思ったんだけど。このお店で初めてマリコさんやコウタ君と会って、その時にコーヒーを頂いたの。それがすごく美味しくって。また来ようと思ったら、引き受けるしかないでしょ? まあ、それは冗談だけど、でもこの人たちなら信用できるって思ったのは、やっぱりコーヒーの力なんじゃないかなって」

 MAIは笑顔だった。イベントの主役としての役目を果たし、満足そうだった。河野のコーヒーが、今度はコウタとMAIを結びつけ、そしてこのイベントの企画が始まったようだった。

「大変だったと言えば、コウタ君のことや『Be Mine』のことをサナエさんに気づかれないようにすることくらいよ。楽しかったわ。コウタ君を大切にね。あんな人、なかなかいないわよ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 サナエは、また泣きそうになった。MAIはサナエの手を握り、優しく微笑んでいた。明日も地方で演奏会があるそうで、MAIは余韻を残したまま店を出ていった。


 椅子をテーブルに上げる傍らで、カオルとカズヤが床のモップ掛けをしている。客なのだからとサナエが言っても、二人は手伝うと言って聞かなかった。でも、二人が片付けを買ってでてくれたおかげで、いつもより早く作業が終わった。

「今日は皆ありがとうね」河野が言った。

「ありがとうございました。じゃあ、私たちはこれで」カオルは言い、カズヤの腕を取った。


「え、もう帰るのか?」カズヤはダイスケやコウタと話しているところだった。名残惜しそうにカオルを見る。

「そうよ。邪魔者は早く退散しないとね」カオルはそう言って、カズヤの腕を掴んでドアの方に向かう。「お疲れさまでした」

「お邪魔しました。おい、分かったからそんなに強く引っ張るなって」カズヤが振り返りながら言い、ドアを開け、出ていった。

 サナエはマリコと向き合い、笑った。あとで、あの二人には改めてお礼を言わないといけない。ただでさえ研究で忙しいのに、色々あったはずなのに、サナエに内緒でイベントの準備をしていたのだ。あの二人はサナエの想像以上に強い絆で結ばれているのかもしれない。


「サナエちゃん、私からも謝らせて。コウタ君のこと、こき使って悪かったわ」河野は言った。

「ううん。いいんです。私、コウタのことを何も分かってなかったんですね。今日は本当にありがとうござしました」コウタが河野に話を持ちかけなければ、恐らくサナエはまだ母のことで悩み、そしてコウタとの関係はもっと悪化していただろう。コウタの相談に乗ってくれた河野に、感謝しなければいけないのはむしろサナエの方だった。

「こちらこそ。あ、そういえば、松本でお父さんから何か預かってこなかった?」


「そうだ。マリコさんに渡すようにって頼まれてました」イベントのことですっかり忘れていた。サナエはカウンターの棚から紙袋を取り出した。

「はい。これです。コーヒー豆なんでしょうけど、お父さんがどうしてこれを?」

「あなたのお父さんが作ったブレンドよ。あの人、昔からブレンドに凝ってたんだけど、ようやく自分の納得する味のコーヒーができたから、飲んでみてくれって頼まれたのよ」

「お父さんの?」ブレンド熱は治まるどころか、既に沸騰していたらしい。

「美味しかったらぜひ店で使ってくれ、ですって」河野は少し困ったような顔をした。しかし、声はなんだか楽しそうだった。「すごい自信よね」


「そうですね。お父さん、まだ諦めてなかったんだ」それも、母との約束だったのだろうか。いや、きっと違うだろう。しかし、もしかしたら、父は母のためにこのコーヒーを作ったのかもしれない。「マリコさん、私にお母さんのこと色々話してくれたのって、今回のコウタの話がきっかけで?」サナエはちらっとコウタの方を見た。コウタはダイスケとの話に夢中で、こちらの会話の様子を気にしている素振りは見せなかった。

「そうよ。コウタ君の話を聞いて、ちょうどいいタイミングだと思ったの。あれがなかったら、未だにお母さんのことをあなたに話していなかったでしょうね」

「そっか」コウタの言葉に、皆が賛同してくれたのが嬉しかった。コウタのサナエに対する気持ちが、すべてのきっかけだったのだ。


 サナエは河野の腕の中にある父のコーヒーを見つめた。「マリコさん、折角だから、お父さんのコーヒー飲みましょうよ」もし、父が母の思い出をこのコーヒーに宿しているのだとしたら、この場でそれを飲むのが相応しい気がした。

「そうね、そうしましょう。ダイスケ君、コーヒーの準備、お願いできる?」河野は振り返り、ダイスケに向かって言った。コウタと話をしていたダイスケは、コーヒーの由来を聞いて驚いた様子だった。


「いいですよ。あ、サナエちゃん、淹れるのやってみるかい」

「え、いいんですか?」

「君のお父さんの作ったブレンドだろ? サナエちゃんが淹れなくてどうするんだ。コウタ君も手伝ってやんな」ダイスケはサナエとコウタをカウンターに連れていった。

 サナエは、コウタにお湯とカップを用意してもらい、その間に豆を挽き、ドリッパーにセットした。

「お湯、沸いたよ」コウタがポットを指差す。

「ありがとう。先にカップにお湯を入れて」

 コウタの指先に絆創膏が巻かれているのが目に入った。

「その絆創膏、どうしたの?」

「ああ、これはクローバーを台紙に貼付ける時に紙で切ったんだ。大丈夫、たいしたことないよ」コウタは言った。それでも痛々しいことに変わりはない。


 サナエはコウタからポットを受け取り、ドリッパーにお湯をゆっくりと注いだ。温かな湯気とともに、コーヒーの香りがふわりと鼻の奥をくすぐった。サナエは左手を伸ばしてコウタの手を握った。コウタの手は少し冷たかった。コウタは何も言わなかったけれど、しっかりとサナエの手を握り返した。コウタの気持ちが伝わるのを感じだ。ずっとこうしていたいと思った。この先もずっと、こうして二人で並んでいたい。一緒に暮らそうと思った時の気持ちが蘇ってきた。

 コウタとの間にあった溝はもう気にならなかった。そんなものは最初からなかったのかもしれないけれど、例え存在していても、気にすることはないと思った。手を伸ばせば、すぐそこにコウタの掌がある。手をつなごう。手をつなげば、そんな溝も平気で飛び越えられる気がした。嬉しいことも楽しいことも、辛いことも悲しいこともすべて、二人なら乗り越えていけると、今なら思える。

 まずは、母のことをコウタに話そう。今日ならきっと、コウタも受け止めてくれるだろう。

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