第42話 歌とコウタ

 ピアノの音が聞こえて、サナエは慌ててステージを降りた。前奏が流れる間、歌詞をじっと見ていた。明らかに、それは四葉のクローバーを題材にした曲だった。四葉の一つ一つに意味があることを教えてくれた母の言葉が頭を過る。希望、信仰、愛情、幸福の四つが合わさって、四葉は形作られている。その一つ一つが、歌詞には男女の物語として描かれているようだった。

 MAIの奏でるピアノの演奏は、まるであの日、母と二人で歩いた公園を撫でていた風のように、穏やかに、優しくサナエの髪を撫でた。そう、母の温かい掌で撫でられているような、そんな感触だった。前奏が終わり、MAIが静かに歌い始めた。


 サナエは、歌詞を見ながら、演奏に合わせて小さな声で口ずさんだ。初めて聞く曲なのに、言葉が体から溢れ出すように、自然と声が出た。

 コウタのことが頭に浮かんだ。コウタもこの歌の男のように、サナエを置いてどこかに行ってしまうのだろうか。この数日間の間に、コウタとの関係はすっかり変わってしまったように思えた。お互いマメに連絡を取り合う性格でもなかったが、それは一緒に暮らしているからでもあった。既に三日間、コウタとはまともにコミュニケーションを取っていない。こちらからの問いかけに、コウタが答える気配はなかった。


 コウタのことは今でも好きだ。穏やかな雰囲気も、ああ見えて真面目なところも、本をたくさん読んでいるところも、一緒に歩いている時にはサナエのペースに合わせてゆっくり歩いてくれるところも、そして、優しいところも、すべて好きだった。そんなことを改めて考えると恥ずかしくもなるが、離れてからの方が、コウタのことを考えている時間が増えた気がした。

 自分が自分でなくなったみたいに、サナエは急に不安になった。今日家に帰って、コウタがいなかったらどうしよう。その場に座り込みそうになるのを押さえるのが精一杯だった。それでも、サナエは歌を聞き、歌い続けた。


 どうして人は愛し合い、そして憎しみあうのか。世界から戦争がなくならないのと同じように、人の心はずっと昔から変わっていない。以前コウタが読んでいた武者小路実篤が活躍した大正時代も、それこそ源氏物語の頃から、人の心はまるで成長していない。そして何度も同じ過ちを繰り返している。

 MAIの歌声は、まるでサナエの心を見透かすように、心の膜の薄いところを選んで突いてくる。どうしようもなく、コウタが恋しくなった。コウタと過ごした日々が蘇ってくる。二人で初めてデートをしたこと、初めて手を握ったこと、初めてのキス。二人でいくつもの海を渡り、新しい世界を発見する日々。いつの日からか、それが当たり前の生活になってしまった。同じ部屋に住み、同じ食事を食べ、同じベッドで寝る。それが二人の日常だった。言葉もいらないような関係にサナエもコウタも甘えていたのかもしれない。


 歌はサビを通り過ぎ、一度目の間奏に入った。ピアノの旋律に乗って、また海の情景が浮かんだ。コウタと初めて出会った、あの日と同じ場所で、サナエは再びクジラと出会った。サナエは海面付近を漂っていた。周りの海水は不思議と温かい。サナエの遥か下、暗い海の底から大きなクジラがゆっくりと浮上してくる。海面近くで大きく弧を描くようにして、クジラはサナエの周りをぐるぐると泳いだ。光を反射して肌の色は灰色と青色の間を行ったり来たりする。クジラの動きに合わせて海水が回転を始めた。回転の中心にサナエがいた。サナエと一定の距離を保っていたクジラが、間奏の終わりと共にサナエに近づいてきた。


 クジラの目がすぐ近くを通る。透き通った瞳がサナエの視線とぶつかった。周りでは細かい気泡がぽこぽこと音を立てていた。クジラの瞳にはサナエの姿が映っていた。じっと見ていると、サナエの顔が次第にぼやけるようにして消え、代わりにコウタの姿が見えた気がした。

 サナエはふと顔を上げた。カウンターの奥に視線が吸い込まれる。コウタの笑顔がそこにあった。



  **



 演奏会は、アンコールを含めてすべて終了した。大きな拍手と歓声に包まれて、MAIは大きくお辞儀をして、舞台を降りた。

「サナエさん、お疲れさま。サナエさん?」

 MAIの声に、サナエははっとした。「あ、はい。ありがとうございます。あれ、もう終わったんですか? いけない、最後に挨拶しないと」サナエは、本当はすぐにでもコウタのいるところまで走りたかった。すぐにでも、そばに行きたかった。それでも、イベントの司会者として、最後まで仕事を全うしなければという使命感もあった。「舞台に戻ってください。私も行きます」


 MAIを先にステージに上げ、サナエも続いた。

「今日はイベントに来てくださって、本当にありがとうございました。MAIさんでした。皆さん、もう一度、大きな拍手をお願いします」

 クジラのイメージは既に消えていた。知らないうちに、また深海に戻ってしまったのだろう。名前も知らない、夢のようなクジラだ。

「ありがとうございました」MAIも挨拶をした。観客たちは皆立ち上がって、幸せそうな顔をしていた。コウタの姿も見えた。カウンターの近くに立って、サナエを真っすぐ見つめていた。拍手がなかなか鳴り止まない。しばらく舞台上で声援に答えていた二人だったが、何度も礼をしながらゆっくりと舞台を降りた。

 舞台袖から控え室に戻るのかと思ったら、MAIは再び観客の方に向かい合った。マイクを握り、声を出す。


「みなさん。実は、今日の最後の曲ですが、これはここにいるカフェの方々と一緒に作ったんです。皆さんに、その人たちを紹介したいと思います」

 思いがけない言葉に、サナエは驚いた。一体何を言い出そうとしているのだろう。

「最初に、このお店の店主である河野さんとダイスケさんには、楽曲作成ではありませんが、今日のイベントの準備をしていただきました。そして、最前列にいる男の子と女の子。彼らには歌詞カードの作成をお願いしていました」そこで言葉を区切った。人を探すように、店の入り口近くに視線を彷徨わせた。「最後に、向こうの彼」MAIは、カウンターの方に手を伸ばした。サナエの目が、その人物、コウタに吸い込まれる。「彼は、この歌のイメージと歌詞を考えてくれました。彼の存在なくして、この『Be Mine』は完成しませんでした。もちろん、私の隣にいるサナエさんも、研究で忙しい中司会を引き受けてくれました。皆さん、彼らにも拍手をお願いします」


 サナエは拍手のなか、耐えきれず舞台を降りてコウタのもとに駆け寄った。聞きたいことはたくさんあった。サナエは涙が溢れそうになる。こんな気持ちは初めてだった。

 サナエはコウタの両肩を掴んだ。

「コウタ。どうして、どうして連絡してくれなかったの? 喧嘩したから? あれは、私が悪かったわ。ごめんなさい。でも、昨日からずっと、電話しても出なかったし。それに、さっきの歌はなんなの? あんなの」サナエの声は喉から漏れる嗚咽で遮られた。必死に言葉を続ける。「反則だよ」

「ごめんな。歌詞がなかなかできなくて、MAIさんとさっきまでスタジオに籠ってたんだ」

「ずっと、準備してたの?」歌詞を作ったり、クローバーを準備したり、そんなことが数日でできるはずがない。今日のために、一体どれだけの時間がかかったのだろう。


「ああ、今まで黙っててごめんな。驚かせようと思って。このカフェの人たちや、サナエの研究室の先生や友達にも協力してもらってさ」コウタは、頬を掻きながら言った。黙っていたことへの後ろめたさと照れが混ざった表情をしていた。

「先生にも?」コウタから堀越のことが出てきたことに驚いた。「まさか、研究室にも来たの?」カオルやカズヤならこの店に来た時に話ができるだろうが、堀越はこの店に最近来ていないようだったから、他にコンタクトをとる場所はない。

「ああ。大変だったよ」カズヤの声がした。気づけば、カオルとカズヤ、そしてダイスケが周りに集まっていた。「飯塚のいないタイミングを見計らって、何度か先生の部屋で打ち合わせやら準備やら」

「もしかして、カオルとカフェに行ってた時?」サナエは言った。


「そうそう。あの時は私がサナエを連れ出している間に、コウタ君と和田君と中島君の三人でクローバーを選んだりして。予定より少し早く帰って来ちゃってちょっとヤバかったけどね」カオルがカズヤのあとを引き継いだ。ヤバかったというのは、あの段ボール箱のことだろう。相田の荷物と言っていたが、あの中身は、本当はクローバーだったという。

「中島、ナイスフォローだったな」カズヤは言った。「最初にこの話を持ちかけられた時は、正直うまくいくのか自信なかったけどな」

「ね。色々と大変だったけど、コウタ君がちゃんと引っ張ってくれて良かった」

「ねえ、どうしてこのイベントに?」サナエはコウタに聞いた。

「お前が最近寝付けてないことは知ってたし、元気づけてやりたいって思ったんだ。だから、マリコさんに相談したんだよ。こないだライブに行っただろう。あれがヒントになって」

「そうだったんだ。ごめんね。私のために、こんな」溢れる涙で声が出なかった。嫌われたわけじゃなかった。それどころか、本当に心配してくれていたのに、その気持ちを無下にしていた自分が恥ずかしかった。


 きっと、コウタはサナエの母のことを河野から聞いたのだろう。河野はそれで、このイベントと並行してサナエに母との約束のことを話し、そしてサナエ自身の心の扉を開こうとしたのだ。

「泣くなよ。ほら、MAIさんが呼んでるぞ」コウタがサナエの肩を抱き、耳元で囁いた。

 サナエは溢れる涙を指で拭った。もう悲しくはなかった。ただただ、嬉しかった。嬉しくて泣いたのは、これが初めてだった。MAIのもとへ向かう。コウタの優しい掌の感触が肩に残っていた。

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