第41話 夢と花言葉

 気づけば残り一曲でプログラム上は終了というところまで来た。開始から一時間半が経過していた。少し時間は押しているが、この程度の遅れは仕方がないだろう。サナエは最後のMCを始めた。MAIとサナエが互いの夢を話す時間だった。

「ありがとうございました。このイベントもあと一曲を残すのみとなってしまいました。MAIさん、最後に、今年の目標を聞かせてください。夢、でもいいですよ」

「こちらこそ、今日は楽しい演奏ができて嬉しかったです。そうですね、今年はオリジナルアルバムを出したいと思ってます。もっと練習をして、大きな舞台で演奏したいですね」


「MAIさんならきっと大丈夫だと思います。今日は私も感動しました。次の演奏会も必ず行きます」

「ありがとうございます。飯塚さんは、何か夢はありますか」

「私は、大学で植物の研究をしているんですけど、学会発表があるので、まずはそれが目標です。あとは、ちゃんと卒業したいです。そして、いつか研究者になって、一つでも多く生命の謎を解き明かすのが私の夢です」

「理系の女の子って憧れます。わたし、中学生の頃からずっと理科が苦手だったんですけど、飯塚さんはどうして理科が好きになったんですか?」MAIが、台本にない台詞を差し込んできた。


 サナエが驚いてMAIを見ると、彼女はウインクをした。わざと、サナエにアドリブを要求しているらしい。本来ならここで「お互いに頑張りましょう」と当たり障りのないことを言い、曲に入ることになっていたのに。

「そうですね」言いながら、サナエは必死で文章を作った。幼稚園時代の風景が頭を過った。母と一緒に何度も行った公園で、ともに過ごした時間だ。それがサナエの原点だった。それに触れないわけにはいかない。「母の影響が大きいと思います。私の母は文系でしたけど、私に植物の花の名前や身近な自然現象のことをいつも話して聞かせてくれました。どうして夕焼け空は赤くなるの、とか。そう言うことに真剣に答えてくれたことで、自然と興味を持つようになったんだと思います」サナエは、母の姿を思い出していた。真っ白なワンピースを着て、風になびく髪を手で押さえながらサナエの前をゆっくりと歩く母の姿だ。母には本当に色々なことを教わった。外で母と過ごす時間が、サナエにとっては勉強の時間だった。勉強が面白いと感じることができたのも、母のおかげなのかもしれない。


「そうなんですか。素敵なお母さんですね」MAIは目を細めて、感慨深げに言った。「私もいつか、飯塚さんのお母さんみたいになれたらいいなって思いました」

「MAIさんならきっと大丈夫ですよ。MAIさんの音楽は自然そのものだと思いました。色々な景色を旅することができて、楽しかったです」サナエは、なんとか流れを修正し、話をまとめることができてほっとした。「さて、次の曲が最後となるわけですが、この曲はジャズではないですよね」MAIがプログラムの最後に選んだ曲は、九十年代のポップソングだった。有名な女性シンガーソングライターの歌だが、サナエはちゃんと聞いたことはなかった。


「ええ。でも、私の大好きな曲、というよりは、これは母の好きな曲なんですよ。私が幼稚園に通っていた時に、送り迎えの車の中で、母がいつも口ずさんでいて、よく覚えているんです。私を作った素と言ってもいい、そういう曲です」

「素敵なエピソードですね。それでは、皆さんも最後まで楽しんでください」サナエはそう言葉を結び、ステージから降りた。

 MAIの演奏は、いつの間にかカフェを包むような温かさを孕んでいた。曲は、すれ違う男女の悲哀を軽快なリズムで刻み、帰る場所は一つだと気づく、そんな歌詞だった。

 観客は懐かしいメロディーに体を預けている様子だった。河野のコーヒーと同じように、聞く人を時間から解放するような、ゆったりとした演奏だった。

 歌が間奏に入り、ピアノが柔らかな音を奏でる。ポップソングのジャズアレンジというのはあまり聞いたことがなかったが、ピアノの軽やかなリズムが曲にメリハリをつけているように思った。そして、歌が再開する。


 その時、カフェのドアが静かに開いた。誰かが入ってきたようだ。こちらの方に人の来た気配はなかったから、カウンターの一番奥に座ったのだろう。カウンターはエル字になっていて、舞台の脇からではその姿を見ることはできなかった。イベント中に、イベントとは全く関係なく客が来ることが稀にあった。入って始めてイベントに気づき、大抵の人は席もないために店を出ていく。それも仕方のないことだった。告知をしているといっても限界はあるし、ライトをつけた看板にも気づかない可能性はあった。いずれにしても、不運な客だと思った。あと少しで終わるから、それまで辛抱していてください。サナエは心の中で間の悪い客に謝った。

 MAIは最後まで朗々と歌い、ピアノの旋律がゆっくりと曲の終わりを告げた。

 拍手が大きく、そして長く続いた。MAIはピアノの脇に立ち、観客に向かって何度も頭を下げた。


「ありがとうございました。MAIさんでした」サナエも拍手を重ねる。素敵な曲だった。今度、CDを借りてみよう。

 MAIは深く一礼し、一旦舞台から降りた。カフェは拍手でいっぱいになった。MAIは沸き立つような喝采を背にして得意げに微笑んでいた。

 細かい拍手が、次第にアンコールを求める合図に変わった。頃合いを見て、MAIがサナエの手を取り、再びステージに上がる。


 拍手が大きくなる。サナエの心臓が呼応するように大きく拍動していた。自分が演奏していたわけでもないのに、高揚していた。拍手を受ける側に立ったことのないサナエは、場の空気にすっかり飲まれてしまった。

「それでは、皆さんのアンコールにお応えして、もう一曲演奏します」MAIが言った。会場の熱気が再燃したように、大きく膨れ上がった気がした。「演奏する前に、皆さんに歌詞カードを配ります」

 歌詞カード、そんなものあったっけ、と思っていると、ステージ前の席に座っていたカオルとカズヤが立ち上がり、足下から箱を取り出すのが目に入った。どうやら歌詞カードを配る役目は彼ららしい。いつの間にそういう話になったのか、そしていつの間にそのようなものを準備していたのか。サナエは目の前で起こる出来事に頭がついていかなかった。


「はい、これサナエの分」カオルがそう言って、歌詞カードを渡してきた。歌詞カードの一番上には、四葉のクローバーが押し花の要領で貼り付けてあった。本物の四葉のクローバーだった。カズヤの持っているものにも同じ細工がしてあった。まさか、すべての歌詞カードに四葉のクローバーが。それだけの数のクローバーを揃えるのは簡単なことではない。そのことは研究をしているサナエが一番よく分かっていた。

 河野やダイスケも手伝い、歌詞カードが観客全員に配られた。ダイスケが両腕で大きく丸を描いた。それを見て、MAIは大きく息を吸い込んだ。


「これは私が今日のために作った歌です」MAIは言いながら、サナエの手を放し、ピアノの前に向かう。サナエは、ステージの真ん中で、歌詞カードをじっと見つめていた。クローバーの下に視線を移すと、歌のタイトルが書いてあった。それを見て、サナエははっとした。

「それでは聞いてください。『Be Mine』」

 その言葉を、サナエは知っていた。いや、知っているなんてものではない。それこそサナエがその人生をかけようとしている、四葉のクローバーの花言葉だった。

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