第40話 ピアノと小川

 イベントの開始時刻が近づいてきた。サナエはイベント目当ての客をそれぞれのテーブルに誘導し、注文を取ることに集中していた。カズヤは開演五分前にカフェに着いた。

「いや、遅くなって悪い」

「何やってたのよ。始まっちゃうよ」カオルがカズヤをつつく声が聞こえた。

「和田君、何飲む?」

「ブレンドお願い。悪いな、こんな間際で忙しいのに」

「大丈夫。ブレンドね」サナエは注文をダイスケに伝える。カズヤだけではない、多くの人が開演間際に入ってきてコーヒーを頼む。これを開演に間に合わせるように順番に素早く捌くには、複数のコーヒーを同時に淹れる必要がある。それぞれの適量を見極め、ドリップを止めてカップに注ぐ。簡単なようで、かなり難しいのだ。サナエが未だにコーヒーを任せられていないのは、コーヒーの淹れ方だけでなく、ブレンドとストレートの微妙な違いや温度の違いによって僅かに変わる抽出速度を適切に計りながら、複数のコーヒーを同時に淹れる技術がまだまだ足りないからだった。


 河野がサナエを手招きした。ちょうど最後のコーヒーを運び終えた時だった。

「サナエちゃん、そろそろ開演の時間よ。MAIさんを呼んできてくれる?」

「ああ、もう時間か。結局一回もリハーサルできませんでした」

「サナエちゃんなら大丈夫よ。さあ」河野はサナエの肩を軽く叩く。

「はい」サナエはMAIのいる控え室に入った。キーボードで練習していたMAIがヘッドホンを外した。MAIは本番用のドレスに着替えていた。青いドレスに、斜めにスパンコールが飾られている。

「MAIさん。時間です。そろそろ舞台袖にお願いします」

「分かったわ。それじゃあ、司会、よろしくね」MAIはウインクをした。サナエの緊張がますます高まる。いよいよ始まる。いつもとは違う、イベントの幕開けだった。



  

「間もなく演奏会を始めます」サナエはステージの脇に立ち、マイクを握っていた。「お手元にパンフレットはございますか? 持っていない方は挙手してください。スタッフがお渡しします」パンフレットは開演三十分前から入り口で来店者に配っていた。それ以前にこのカフェにいた人にも一通り配っていたから、挙手をする客はいなかった。

「それでは、今しばらくそのままお待ちください」サナエの言葉に、河野が室内の照明を徐々に落とした。わずかな間接照明と非常口を示す緑色の明かりがあるだけで、ほとんど真っ暗に近い。サナエは合図を待った。客のしゃべり声がだんだんと小さくなり、すっと静かになった。その代わり、自分の心臓の音がやけに大きくサナエの耳元で響いていた。


「サナエちゃん、大丈夫。始めて」河野の声が聞こえた。サナエは、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。舞台袖にいるMAIに合図をした。まずは、MAIの曲からだ。

 MAIがステージに上がった。照明が彼女の姿を追いかける。ドレスを飾るスパンコールがライトを反射する。ステージの左に設置したグランドピアノの前に立ち、礼をした。観客から大きな拍手が起こる。MAIはゆったりとした動作でピアノの椅子に腰掛け、譜面を開いた。一曲目は、歌詞のない、ピアノの繊細なメロディーの曲、とパンフレットに書いてあった。そういえば、サナエは結局今日演奏される曲を一度も聞いたことがなかった。曲の紹介も、一昨日の打ち合わせの時に教わった曲のイメージを頼りにアドリブでいくしかない。大丈夫かと、不安になる。

 演奏が始まった。右手が鍵盤の上を滑るように動き、音を奏でている。小川のせせらぎのように、きらきらと音符が流れていくようだった。自然と降りた瞼の裏に、陽光を写した水面の奥でそよぐ水草の、その細い一つひとつに気泡が浮かぶ姿までが鮮明に見えた。MAIのピアノの旋律が進むたび、その気泡が水面で弾け、こぽこぽと音を出した。事前に曲のイメージを聞いていたとはいえ、音からこれだけはっきりと風景を想像できるなんて経験は今までなかった。


 MAIの演奏は、繊細さの中に迫力がみなぎっていた。これはいよいよ、司会で失敗するわけにはいかない。曲の終わりが近づいているのを感じて、サナエはまた緊張した。

 手が大きく跳ね、和音を弾いた。フェルマータの最後の最後まで、MAIは緊張を緩めなかった。すうっと手が下ろされ、ゆっくりと立ち上がり、観客に礼をした。観客席からまた割れんばかりの拍手が沸き起こった。

「ありがとうございました。改めまして、本日はこの演奏会にお越しいただき、ありがとうございます。本日演奏をしてくださるのは、ジャズピアニストのMAIさんです」サナエは右手をMAIの方に伸ばした。MAIが軽く会釈をする。プロフィールを簡単に紹介し、MAIを舞台中央の椅子に誘導する。椅子と言っても、カフェのカウンターで使っている椅子を流用したもので、斜め掛けするのが精一杯の簡単な作りの物だった。舞台で座るとなれば、こういう形式が相応しいだろうとダイスケが用意したのだ。「そして、わたくしは、本日司会を務めさせていただきます、飯塚です。いつもはこのお店のホール係をしています。短い時間ですが、皆さんよろしくお願いします」サナエはそこまで一気に言うと、観客に頭を下げた。サナエは舞台上を移動し、MAIの隣に腰を下ろした。


 ここから先は、しばらくフリートークの時間だった。

「一曲目から、すばらしい演奏でした」サナエが言う。「MAIさんは作曲も手がけているそうで、今日演奏する曲の半分はオリジナルの曲なんだそうです」観客から感嘆の声が上がった。「この曲もそうですよね?」

「ええ」

「何をイメージして、この曲を作られたんですか?」特に意識することなく、自然に言葉が出てくることに自分でも驚いていた。台本を覚えているとはいえ、もっと緊張すると思っていたのに、なんだか、楽しくなってきた。

「この曲は、去年の夏に尾瀬に行った時、湿原のなかで静かに流れる小川や鳥のさえずりを聞いているうちに、日常から遠く離れた静かな世界を表現しようと思ったんです」

「そうですか。確かに、きらきらとした川のせせらぎが聞こえるようでした」サナエは、自分のイメージを織り交ぜながら言った。


 フリートークという形を取っているが、もちろんサナエもMAIもおおよそ台本どおりの話題を振り、それに答える形で進んでいった。MAIの話を聞いている振りをして、次の自分の台詞を思い出す。だいたい、その繰り返しだった。

 二曲目と三曲目は続けて演奏された。二曲目は海外のジャズピアニストのカバーで、三曲目はオリジナルの曲だった。一曲目とは違い、アップテンポの軽やかなリズムがステージから観客席に飛び込み、ボールが跳ねるように音符が飛び回る。MAI自身が踊っているように、体を大きく動かして全身で音楽を表現していた。


 三曲目が終わると、舞台は再び大きな歓声に包まれた。MAIは再び立ち上がり、大きく礼をして、舞台の中央に戻った。

「ありがとうございました。どちらもダイナミックでリズミカルな演奏でしたね」サナエはMAIが椅子に座ったのを確認して言った。台本によれば、次はMAIの演奏中に起こったハプニングを話す流れだった。ひとたび始まってさえしまえば、あとは流れるようにイベントは順調に進んでいった。

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