第39話 黒板とキーボード

 夢を見ていた。まるで記憶の中のテープがそのまま再生されたような、鮮明な夢だった。朝日を受けて輝くコウタのいたずらな笑顔を追いかけるうちに目が覚めた。意識が戻ると、元旦の印象は急速に薄れていった。本当はつい三ヶ月前なのに、ずいぶんと昔の記憶のように感じた。

 母の記憶との戦いが始まったのは、思えばコウタと同棲を始めた頃だ。母の記憶から逃げようとして、コウタとの関係がぎくしゃくし始めた。身から出た錆、ということなのだろうか。


 特急列車は順調に進んでいた。車窓にビルの姿が目立つようになった。都心に近づいている。都心の風景を懐かしく感じた。信州の盆地で育ったはずなのに、いつの間にか東京での生活の方が大切になっていた。それは、東京で出会った大切な人たちとともに暮らす街だからかもしれない。

 スーパーあずさは、新宿駅に向けて右に大きくカーブをした。中央線から別れ、専用のホームに滑り込むように到着した。山手線に乗り換える。


 高田馬場に着く頃には日もだいぶ陰ってきた。夕暮れが近づいている。サナエはコートの襟を整えて、改札を出た。正面にバスのロータリーがある。春休みにも関わらず、バスが律儀に発車の時間をじっと待っていた。

 カフェに向かう途中、ロータリーから続く横断歩道の中程で、見知った顔を見つけた。カオルだった。

「あ、サナエ。偶然。これからバイト?」

「うん。カオルは?」

「ちょっと早く研究室出てきちゃって、どうしようかなって。イベントって七時半からでしょ? 今からお店行っても大丈夫?」

「もちろん。多分まだ空いてるから、今のうちにいい席取っちゃいなよ。和田君も来るでしょ?」

「うん。でもまだ研究室にいるよ。始まるまでには行くからって」


 二人でカフェに向かう。カフェのある路地の入り口に、今日のイベントを告げる立て看板が設置してあった。ダイスケの、癖のある角ばった字がハート型のポップに書かれているのに違和感が漂う。

「あ、MAIって知ってるよ。有名な人じゃん」カオルはポップを指差す。

「え、そうなの? なんだか、どんどんイベントのハードルが上がっている気がするんだよね。カフェのイベントの域を超えてるよ、きっと」

 サナエたちは看板を見ながら、カフェに続く路地に入った。

「いいじゃん。お店の宣伝にはなってるみたいだし。もうじきテレビでも紹介されるんじゃない?」

「あんまり有名になってほしくないんだ。もっと、ひっそりとしてた方が、あのカフェには合っているし」サナエは複雑な気持ちだった。たくさん人は来てほしいけど、必要以上に騒がれるのは気が進まない。しかし、それは世間が決めることで、サナエにはどうすることもできない。


「そう? 私は自分が知ってるお店が有名になったら嬉しいけどなあ。ほら、自慢できるじゃん。あのお店は昔からの馴染みの店なのよ、とか」

「ドラマの見過ぎだよ。そんなこと言ったら、男の子引いちゃうよ」

「ええ、駄目?」

「多分駄目。さて、着いたよ。カオル先にどうぞ」サナエはカフェのドアを開けた。

「あ、うん。ありがと」カオルはドアをくぐり、中に入っていった。カフェはサナエの予想通り、まだ席に余裕があった。イベント目当ての客はまだいないらしく、既に設置されているステージ近くの席にはまだ空きがあった。

 サナエはカオルをステージ前のテーブルに案内し、そのまま控え室に入った。荷物をロッカーに入れ、着替えをする。イベントの司会をやるのにいつもの服装でいいのかとも思ったが、衣装など貰っていないし、お店の店員ということが分かる方が相応しいような気もする。シャツを来て、エプロンをつける。それだけで、カフェの店員らしくなるから不思議だった。

 父からの預かりものを持って控え室を出た。そういえば、河野の姿がカウンターにはなかった。またビラ配りでもしているのだろうか。出演者の控え室になる物置部屋にも入ってみたが、ここも無人だった。


 カウンターにはダイスケ一人だけのようだった。

「ダイスケさん。マリコさんは? またビラ配りですか?」

「ああ、そうだよ。裏通りで配っているらしい」ダイスケはコーヒーを淹れながら言った。「まだかなあ、もう二時間くらいになるのに。もうじきMAIさんが来るから、それまでに戻ってきて貰わないと、お店が回らないよ」

 サナエとしては、この二時間、ダイスケが一人で回していたことの方が驚きだった。たまに、一日中一人で切り盛りしていることもあるが、サナエにはとても真似できないといつも思う。

「私、探しに行きましょうか?」カオルが近づいてきた。

「ああ。カオルちゃん、本当はこういうのは駄目なんだけど、お願いできるかい?」ダイスケは申し訳なさそうに言った。

「いいですよ。あ、私ブレンドをお願いします。それじゃあ、行ってきます」

 カオルは、ちゃっかりとコーヒーを頼んでからお店を出て行った。


「サナエちゃん、このコーヒーを三番カウンターのお客さんにお願い」サナエはとりあえず父に渡された紙袋をカウンター内の棚にしまい、ダイスケに渡されたコーヒーを客に提供する。しばらくは、普通に客の相手をしていた。MAIが来るのは五時くらいだ。その時刻までまだ四十分程ある。それまでにカオルが戻ってくればいいが。

 幸い、カオルが来てから新しい客は入って来なかった。追加の注文を取り、帰る客の会計をしているうちに、時間はゆっくりと過ぎていった。

「ただいま。マリコさん連れてきましたよ」

 カオルが河野を連れて帰ってきた。とりあえず、MAIよりも早く帰って来て、サナエとダイスケはほっとした。

「ごめんね、すっかり遅くなってしまって。でも、きっと今日もいい出会いがあるわよ」河野はふふふと笑った。


「マリコさん。どこまで配りに行ってたんですか? もうじきMAIさん来ちゃいますよ」

「もうそんな時間? あらやだ」河野はオーバーに口元を手で覆った。前と同じで、きっとイベント前のお店にいたくなかったのだろう。

 MAIは時間通りにやって来た。

「今日はよろしくお願いします」MAIは薄手のコートを羽織り、ジーンズ姿だった。大きなキャリーケースを引き、肩からは大きな箱を下げていた。

「肩のそれはなんですか?」

「これはキーボードよ。控え室で少し練習させてもらおうと思って」MAIは言った。キャリーケースには今日の衣装が入っているという。

 出演者控え室にMAIを通した。MAIにコーヒーを出し、サナエは向かい側に座った。

「MAIさん、最後の曲はできました?」サナエは、とりあえず今日最大の懸念事項を確認することにした。


「もちろん。完璧よ。いい感じ」MAIは楽しそうだった。サナエの予想通り、完璧と言った。その言葉を聞くたびに、不安が広がっていくのはなぜだろう。「そうそう、プログラムは昨日のうちにできたってダイスケさんから聞いてるわ。きっとその箱の中じゃないかしら」MAIはサナエの右側にある段ボール箱を指した。ふたを開けてみると、確かにプログラムの書かれたプリントがたくさん詰め込まれていた。

「事前に用意しておくものは、このくらいで大丈夫ですか?」

「ええ。大丈夫。台本だけど、この間の打ち合わせの感じで問題ないから、あなたのやり方に合わせるわ」MAIは言った。そもそも司会をすることに慣れていないサナエにとって問題がないはずがないが、MAIを信じるしかない。

「台本は、だいたい頭に入ってます」来る途中の特急の中で、サナエはノートに書き留めた今日のイベントの流れを頭に叩き込み、台本も読んでおいた。やるからには失敗したくなかったし、こうなったら意地だ。


「さすが、学生さんは飲み込みも早いわね」MAIの言葉に、サナエは条件反射的に謙遜してしまう。いやいや、そういうことはいいから、準備をしなければいけないのだ。

「MAIさん、今日の流れを確認させてください」

 サナエは、覚えた内容を始めから話した。一昨日の打ち合わせの通り、開始の挨拶から始まって、演奏と小休止の繰り返し、そして閉演とアンコールまで。MAIは頷きながら静かに聞いていた。

「オッケーよ。大丈夫。私もフォローするし」MAIは笑顔で言った。

「じゃあ、開演まで二時間くらいですけど、衣装の準備とか、お願いします。時間になったら呼びますから、それまでここにいてください」サナエは言って、部屋を出た。

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