夜明け告げる春

umekob.(梅野小吹)

夜明け告げる春

 寒い、と吐き零して、ふわりと空気に溶けたのは白い息。見渡す限りの氷面は僅かに届く月の光をキラキラと反射して、まるで大きな宝石の上を歩いてるみたいだ。

 分厚いフードを深く被り、薄桃の髪を揺らした少女は息を吐く。それが空気に白く消えた頃、彼女はキッと目尻を吊り上げ、胸元のペンダントを握ると冷たい森の奥を見つめた。



「……見ててね、お母さん。私、必ず──」



 ──春を、見つけてみせるよ。


 少女は呟き、暗く冷たい森の奥へと姿を消した。




 ◇




「寒、」



 深く暗い森の中。ぼそりと呟いた青年は白い息を吐き出しながら頭上を仰いだ。氷を纏う木々は北風に煽られてざわめき、月明かりが凍り付く草花に反射してキラキラと輝く。暗く美しい森の中を空に散らばる星屑と月の光だけが照らしている様は幻想的だ。


 ここは“永久の冬”を迎えて十六年目の、凍り付いた森の奥。虫も魚も動物も眠り、痛いほどの静けさだけが満ちた場所。


 真っ白に染まる森の中、深い菫色の髪を風に揺らした青年は気怠げに雪道を歩き続ける。



「……!」



 ふと、彼の耳が妙な物音を拾い上げたのも丁度そんな頃だった。息を潜めて耳を澄ます。──ここからそう遠くない距離の雪上で、複数の足音が駆け回っている様な音。



(……人間?)



 青年は眉を顰めた。一つは人間の足音だとはっきり分かったが、他の足音はそうではない。

 そこまで考えて、青年は白い息を大きく吐き零す。



「……全く、仕事の邪魔だな」



 気怠げに呟き、彼は音のする方向へと向かった。




 ◇




 ざくざくと、深い雪に足を取られながら少女は息を切らして走っていた。冷たい空気が肺に入り込んで痛い。胸が潰れそうだと危ぶむが、足を止める訳にも行かなかった。


 振り向けば、氷を体に纏った鹿のような生物が執拗に自分を追いかけて来ている。鋭利な角を此方に向け、徐々に距離を詰めて来る鹿に少女は戦慄した。追いつかれれば只では済まないだろう。少女は何とか振り切ろうと氷上を滑るように逃げるが、ふと突出していた木の根に足を取られた。



「!」



 踏ん張りきれず、冷たい氷上に全身を打ち付ける。肌に氷が張り付いて切れるような痛みを感じながら体を起こせば、既に彼女は複数の鹿に囲まれていた。



「ひ……!」



 鋭利な角が此方に向けられる。そのまま突進して来た鹿に身を強張らせ、少女はぎゅっと目を閉じた。──その時。


 ザンッ、と何かが空を切り、一瞬肌に暖かい風を感じた。重々しく駆けて来ていた足音も止まり、少女は恐る恐る目を開ける。

 視線の先に居たのは、見知らぬ青年。はらりはらりと散る、雪のような薄桃色の欠片が舞う中に佇む彼を、少女はじっと見上げる。



(……雪?)



 手の中に降って来たそれは、見た事もない欠片だった。雪ではない。紙でもない。儚げで柔らかい、美しい欠片。



「おい」



 不意に掛けられた声。少女はびくっと肩を震わせた。顔を上げれば、赤い瞳の青年が不服げに此方を見下ろしている。



「人間がこんな森の奥で何してる。ここは氷獣グラケラの巣だぞ」


「グラケラ……?」


「さっきお前を襲った生物の事だ」



 青年はそう言って剣をしまう。鹿の獣はいつの間にか消えていた。彼が剣で斬ったのだろうか。



「す、すみません。私、探し物をしてて」


「探し物?」


「そう!」



 少女はぱっと急に立ち上がり、青年に向かって輝く瞳を向けた。思わずたじろいだ彼に構わず、彼女は続ける。



「私、“春”を探しに来たの!」



 そうして放たれた言葉に、目の前の彼はじとりと呆れたように目を細める。そしてそのまま、くるりと少女に背を向けた。



「そうか。帰れ」


「どええ!?」



 まさかの返答に思わず奇声を上げた少女を無視して、青年はずんずん雪道を進んで行く。待って待って! と彼に食い下がると、心底面倒そうな視線を返された。



「何」


「貴方、旅人さんでしょ? ああいう変な生き物の退治に慣れてるみたいだし!」


「だったら?」


「お願い、一緒に」


「嫌だ」


「まだ何も言ってない!」



 提案する前に即刻断られ、彼は歩いて行く。ちょっとー! と呼び掛けるが、その背中が振り返る事は無かった。



「……何よぅ、ケチ」



 むう、と唇を尖らせる。ふと足元に目を向ければ、先ほど舞い落ちて来た薄桃色の欠片が氷の上に散らばっていた。



「……何なんだろ、これ」



 少女は首を傾げる。

 しかし、その答えが見つかる事は無かった。




 ◇




「……迷った」



 ぼそり。呟いた少女は氷上で途方に暮れていた。

 謎の青年と別れてから早数時間。月の位置的にもう夜中だろう、果てなく続く雪景色で方向感覚を失った少女は完全に迷子である。


 ランタンの中身も空になり、少女は小さく息を吐いて壁際の氷結晶を見つめた。

 月明かりが映った、透明な結晶。淡い光を放つそれ──氷月ひょうげつをピッケルで砕いてランタンに詰め、灯りを得た少女は再び宛ても無く歩き始めた。



「本当にあるのかな、精霊石……」



 はあ、と再び溜息が漏れる。

 彼女はこの森に、精霊石を探しにやって来たのだ。


 十六年前の麗らかな春の日、少女は生まれたのだという。しかし丁度同じ時期に、四季を司る精霊の一人・冬の精霊の力が暴走した事で、世界は氷に覆われてしまった。

 精霊の声を聞いて季節を告げる役割を持つ“精霊石”も凍りついてしまい、世界に「永久の冬」がやって来たのだとか。それ故彼女は、春に生まれたのに春を知らない。



(……でも、この森のどこかにある精霊石の氷を溶かせば、きっと、)



 春が来るのでは無いか。


 そう考えて彼女はここに足を踏み入れたのだ。それが如何に浅はかな考えであったかという事は、既にひしひしと感じている。


 少女は冷え切った体を震わせ、両腕を抱き締めた。



(……冷たい……流石に長く外に居すぎてるかな……)



 分厚く着込んで来たとは言え、気温が氷点下に達している世界を長時間歩き回っていれば凍傷になってしまっても不思議では無い。早く精霊石を見付けなければ凍え死んでしまう。


 しかし少女が一歩足を踏み出したその瞬間、がくんとその体は突然急降下した。



「!?」



 彼女が足を踏み出した先にあったのは、大きな穴。少女は目を見開くが、そのまま重力に引っ張られるように暗い穴の中に吸い込まれる。



「きゃあああ!?」



 そして彼女は、凄まじいスピードで暗い穴の底へと滑り落ちて行ったのだった。




 ◇




 ざく、ざく、と深い雪を掻き分けて歩く青年は、森の深層部へと辿り着いていた。氷柱のように聳える凍り付いた巨木に囲まれ、分厚く透き通った氷の塊が壁のように現れる。



「……ようやく見付けた」



 青年は呟き、冷たい氷の側面にそっと手を伸ばした。──しかしその時、彼の耳が聞き覚えのある声を拾う。



「……!」



 きゃあああ、と何処からとも無く響く悲鳴。数時間前に聞いた女の声だとすぐに理解する。

 一体どこから、と彼が辺りを見回すと、途端にその声の距離が近くなった。──刹那、頭上にふっと影が差す。



「きゃー!!」


「──!?」



 ──どすーん!


 強い衝撃と共に、青年は少女の下敷きになった。いたた、と呟いて起き上がる少女を腹の上に乗せた彼は目尻を吊り上げ、低い声を絞り出す。



「……てめえ……」


「ひい!」



 慌ただしく少女は彼の上から退いた。ごめんなさい! と謝るが、彼は不機嫌そうに彼女を睨むばかり。しかしややあって、彼は起き上がった。



「おい人間、何でまだ居る。帰れって言ったろ」


「……あの、ここどこ? 私、穴に落っこちちゃって」


「話聞けよ!」



 質問をスルーした少女に怒鳴るが、お構い無しに彼女は「わ、すごい! 氷の下だ!」と頭上を仰いで瞳を輝かせている。真上に氷の天井が広がっているのが珍しいらしい。青年は溜息を吐いた。



「……はあ、面倒な奴。早く帰れよ」


「嫌よ。私まだ春を見てないもん」


「お前、そんなに春が見てえの? こんな穴の底に落ちて来るほど」


「ううん。春を見たいのは私じゃないよ」



 にこ、と笑う少女の答えに、青年は面食らった。は、と間の抜けた声を返せば、彼女はふと首元から何かを引っ張り出す。



「これ、私のお母さんなの」



 そう言って取り出したのは、金の装飾の施されたペンダント。カチリと中身を開ければ、美しい女性の古い写真が現れた。



「私ね、十六年前の春に生まれたんだって。でも生まれてすぐ“永久の冬”が来ちゃったから、春を見た事は一度も無いの」


「……」


「それを、お母さんは酷く嘆いていたわ。一度でいいから私と一緒に、春を過ごしてみたかった、って」



 少女は悲しげに目を細め、ペンダントを撫でた。病床に伏せっていた母の姿を思い出す。いつか貴女にも春を見せたい、一緒に春を過ごしたい、と切なげに語る母の姿を。



「……結局、お母さんは春が来る前に病気で死んじゃった」


「……」


「だから、私……お母さんに、春を見せてあげたかったの」



 それで、この森に……、と消え去りそうな声で紡ぐ彼女に、頭上で大きな溜息が零れた。ちらりと顔を上げると、青年が額を押さえて苦々しい表情で彼女を見ている。



「……事情は分かった。そのペンダントの中の母親に春を見せたら、お前は街に帰るんだな?」


「……う、うん」


「じゃあ俺と取引しろ」


「取引?」



 少女がきょとんと目を丸める。そんな彼女を差し置いて、彼はぱちんと指を鳴らした。すると目の前に紙と羽ペンが現れる。



「うわ! え!? 魔法!?」


「うるせえ、いいからサインしろ。そしたら春を見せてやる」


「え……どういう事?」



 再び問い掛けたがぎろりと睨まれてしまい、少女はびくりと身を縮こめてペンを手に取った。そのまま文も読まずに紙の下部に名前を書いた直後、横からその紙を引ったくられる。



「……取引成立だな。いいだろう。特別に、春のを見せてやる」



 ……目覚め?


 彼は先ほどから何を言っているのかと少女が首を傾げた頃、不意に彼の手の中の紙がポン! と消えて薄桃色の欠片に変わった。数時間前にも見たその美しい欠片に、わあ、と少女の瞳が輝く。



「綺麗! これって何なの、変わった雪ね?」


「……何だお前、花を知らないのか」


「ハナ? それって氷の結晶が咲く氷花の事?」


「……いや、いい。見せた方が早い」



 そう言うと、青年は大きな氷の壁に手を付いた。ふとその奥に目を向ければ、桃色に輝く宝石のような、大きな石がキラキラと輝いていて。



(……あれ?)



 もしかして、アレって──。



「──おい、人間。よく見ておけ」



 ふと青年の口が開き、少女は顔を上げる。その瞬間、分厚い氷に添えられていた彼の手の先から淡い光が放たれた。


 すると分厚く凍り付いていた壁が、先ほどの薄桃色の欠片に次々と変わって行く。



「……!?」


「──俺は、“春の精霊”」



 氷の壁が次々と桃色の欠片に変わり、ひらひらと舞い落ちる。遂にその波は最奥で輝いていた大きな精霊石にまで届き──強い光を放って、暖かい風が少女の体を包み込んだ。薄桃の欠片が舞う中で、彼女はぎゅっと目を閉じる。



「俺は精霊として、この森に眠った“春”を、目覚めさせに来たんだ」



 そんな優しい声がして、森にはいつもの静けさが戻った。少女が恐る恐ると目を開ければ、信じられない光景が目の前に広がっていて。



「……!」



 緑の草、色とりどりの花々。

 吹き抜ける暖かい風、大きな大樹、優しい匂い。


 何一つ、見た事は無かった。けれどその穏やかな風が、光が、草花が──とてつもなく懐かしく感じて。



「綺麗……」



 呟きと共に、涙が溢れる。



「これが……春?」


「ああ」


「……すごい。私、こんな綺麗な季節に……生まれたのね」



 少女はぎゅっとペンダントを握り締め、微笑んだ。母はこれを見せたかったのだ。今も見ているだろうか、隣で。



「……ありがとう」


「……」


「ありがとう、精霊様……! 私、この光景を一生忘れない」



 彼女の言葉に、精霊はふっと口角を緩める。彼はやんわりと目を細め、優しい表情で頷いた。


 ──のも束の間。



「──で、報酬は?」


「へ?」



 ぱちり、瞬く。彼はずいっと顔を近付けて凄んだ。



「報酬だよ報酬。金払え。五百万」


「……五百万!?」


「さっき紙にサインしたろ」



 少女はサッと顔を青く染めた。そんな額、とてもじゃないが払えるはずがない。


 しかし目の前の精霊は、悪魔のような笑顔で耳元に囁いて。



「体売ってでも払って貰うからな? 人間」


「む、む、無理ぃーー!!」



 ようやく命の芽吹いた森の中、麗らかな日の出と共に、そんな少女の絶叫が響き渡ったのだった──。




 ◇




 雪解けを告げる小鳥達の号令が、森の中に響き渡る。

 静かな森は夜明けと共に、和やかな春の訪れを感じていた。


 新たな季節は、今から始まる──。




 End

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