4.彼女のはかない想い
とある日の夜、ここは唐草潤太の自宅である。
リビングには唐草兄弟と彼らの母親の計三人。テーブルを囲んで和やかな夕食の一時を過ごしていた。ちなみに、彼らの父親は仕事の虫らしく本日は残業で帰宅が遅くなるらしい。
リビングの片隅にあるテレビからは青春学園ドラマが流れている。そのドラマこそ、潤太の学校で撮影が行われたあのラブコメドラマ「明日こそ愛あれ」であった。
ブラウン管に映し出される一人の女の子。可憐で愛らしいアイドル夢百合香稟は、失われた青春時代を取り戻したい一心だったのだろう、女子高生役を生き生きと演じていた。本日の放送は第一話ということもあって、ストーリーにおける登場人物の紹介が中心のようだ。
潤太と拳太の兄弟は、彼女主演のそのドラマを食い入るように視聴していた。どれほど食い入っているかというと、夕食のおかずにまったく手を付けずそれがすっかり冷め切ってしまうほどであった。
「こら、あなた達! テレビばかり見てないで、ごはん早く食べてちょうだい」
母親はテーブルを叩きながら息子二人を叱り付けた。このままではいつになっても夕食が終わらない、だから片付けも終わらない。彼女は少しばかりイライラしているようだ。
「わかってるよぉ。でも今、丁度いいところなんだよ」
香稟に夢中になっている拳太にしたら、母親のお説教などまるで聞く耳持たず、馬耳東風とはまさにこのことだ。
「いいところって、女の子が映ってるだけじゃない」
「それがいいところだって言ってんの。あの香稟ちゃんが映ってんだよ。見逃すわけにはいかないよ」
拳太から香稟の魅力ばかり伝えられても、興味のない母親にはそれがさっぱりわかるはずもなく。しかもドラマの展開にもさっぱりついていけず、つまらなそうな表情でお漬物をぽりぽりとつまんでいた。
その一方で、潤太も拳太と同じくテレビに釘付けになっていた。普段からテレビを見ないのにどうしてか、それはもちろん夢百合香稟が主演だからだ。最初こそドラマのストーリーを楽しもうと思っていた彼だったが、いつしか彼女の魅力と演技力に引き込まれてしまいテレビから目が離せなくなっていた。
「あ、わかったわ」
そんな中、母親はポンと両手を叩いた。何かに気付いたようだ。
「この女の子が、これから誰かに殺されちゃうんでしょ」
「ブッ!」
彼女の口から飛び出した予想外の一言に、彼ら二人は口に含んでいた食べ物を吹き出してしまった。
「そんなわけないだろっ。これはそういうドラマじゃないんだよ!」
「あら、そうなの?」
「母さんがいつも見てるサスペンスものじゃないんだよ、これは。黙って見ててよ」
拳太はすっかり呆れ顔である。大好きな香稟が殺される展開なんて誰が望むかといったところだ。もしそうだったら、監督やプロデューサーに敵意を剥き出すに違いない。
サスペンスドラマ好きの母親はというと、お望みの展開ではないと知ってがっかり。つまらなさに拍車がかかりますます憮然とするばかりだ。
「つまんないわね。母さん、てっきり誰が殺されるんだろうってワクワクしながら見てたのに。残念ねぇ」
「そ、そんなのにワクワクしないでよ、母さん!」
ここで潤太が思わず突っ込んでしまう。母親の思考が異常なのではないかと一抹の不安を覚えた瞬間でもあった。
「せっかく犯人まで予想してたのに……」
そう言って残念がる母親。まだ殺人が起こっていないのに、犯人というものを予想する彼女はやっぱり変わった人なのかも知れない。
そうしている間にも、ブラウン管の向こう側では青春ラブコメドラマが第一話の佳境へと進んでいく。どう間違っても、殺人事件などは起きたりしない。
潤太はブラウン管越しの女子高生を見つめていた。いや、正確には女子高生役を演じている夢百合香稟の姿を見つめていた。
(……まさか、あの子がアイドルだったなんて、今でも信じられないよ)
偶然出会った女の子イコール夢百合香稟と知った数日前のあの夜、彼は彼女宛に手紙を書いた。そして、彼女からリクエストされて描いた代々木公園の風景画と一緒にそれを送った。
その手紙で自分の愚かさを謝罪した。もし許してもらえるなら友達でいてほしいとも伝えた。消極的な性格の彼にしたら勇気ある行動だったと言えよう。
返事がもらえなかったらそれでもいい、夢から覚めるだけなのだから。そう諦めていた矢先、彼女から返事の手紙が届いた。そこには、次のような一文がつづられていた。
「ありがとう。あたしもお友達でいてほしいです。また連絡します」
それ以来、彼女からの連絡は今日までない。
超多忙なスーパーアイドルから手紙が届いただけでも本望。さらにお友達でいられるなんて幸せ者だ。潤太はそう自分を納得させながら、ごく普通の日常を過ごしていた。
またいつか、彼女とおしゃべりができる日を夢見て――。
* ◇ *
それから数日経った、ある晴れた日曜日。
その日の潤太は早々と目覚めていた。お天気のいい日曜日は絶好のお出掛け日和。やりかけの絵を完成させようと、彼は朝っぱらから出掛ける支度をしていた。
ブルーのパーカーに袖を通し、ブラウンのチノパンに両足を突っ込んだ。次は持ち物だが、スケッチブックに筆記用具、ハンカチにポケットティッシュ。それとなけなしのお小遣いが入った財布だ。
本日向かう先は、自宅から数百メートルほど離れたところにある河川敷公園。青色の川面と緑色の木々、そこに溶け込む灰色の石の堤防。そんなのどかな風景画はもうまもなく完成といったところだ。
「よし、準備もできたし、そろそろ出掛けよう」
彼はいつものリュックサックを抱えて、すがすがしい気持ちで自分の部屋を出ていく。すると――。
「潤太、電話よー」
一階から響き渡る、彼の母親の大きな呼び声。
誰かから電話が来たようだ。彼は駆け足で階段を下りていく。
いざ電話のところまで向かってみると、母親がなぜかニヤニヤしながら受話器を持っていた。
「あんたも角に置けないわねぇ、このこのぉ~」
母親はぐりぐりと、彼のお腹の辺り目掛けて肘鉄をねじ込んできた。
「な、何するんだよ!?」
彼は何が何だかさっぱりわからない。とりあえず受話器を受け取らないと相手に悪い。
こんな朝から電話を寄こすとしたら色沼か浜沼だろうな。そう思いがら受話器を耳にあてがう。
「もしもし――?」
その直後、受話器の向こうから聞こえてきた声は、あまりにも意外で、びっくりで、嬉しくて、待ちわびていた声だった。
「――香稟です。お久しぶり、元気だった?」
その声の主は夢百合香稟。いつもテレビを通して聞いている、あのアイドルの美声そのものであった。
「わっ! ど、どど、どうしたの!?」
「どうしたのって、お手紙でまた連絡するって言ったでしょ」
まさか本当に連絡が来るなんて。これは夢ではないだろうか。
まったく想定していなかっただけに、彼の動揺ぶりはそれはもう半端ではない。
だが、いくらアイドルとはいえ知らない相手ではないのだ。彼は少しだけ冷静になり、受話器に付着した手汗をパーカーの袖で拭った。そして再び受話器を耳にあてがう。
「ごめんね。いきなりだからびっくりしてさ。それより何か用かな?」
「あのね、あたしね、今日久しぶりにオフをもらったの!」
香稟の声はとても弾んでいた。オフということは、芸能人でいうところの休日の意味である。久しぶりのお休みがさぞ嬉しいのだろう。
「潤太クンって、今日はヒマかしら?」
そう問われた途端、彼は咄嗟に背負っていたリュックサックを廊下に放り出してしまった。さも、どこにも出掛けるつもりはないと言わんばかりに。
「う、うん、ヒマだよ。今日はまったく、全然、予定入ってないんだ」
本日の絵画完成予定を一瞬で打ち消してしまった。女の子と絵画を天秤にかけた結果、ただ女の子を選んだだけのこと。どうやら彼も、思春期を迎えた健全なる男の子だったようだ。
さて、彼がヒマなのはわかった。ここからが彼女の本題だが――。
「もしよかったら、あたしに絵を教えてくれないかな?」
「“え”って、まさか絵画のこと?」
「当たり前でしょ! 他にどういう“え”があるっていうのよっ」
「ごめん、思いつかないや」
すっかりお友達のような会話で盛り上がる。というよりも、この二人は非公式ながらもすでにお友達同士なのである。
それにしても予想外だった。まさか彼女の口から絵を教えてほしいなんて飛び出してくるとは。彼は面を食らって驚きを隠せないでいた。
「そうと決まったら、これから待ち合わせしましょ。新宿駅西口の改札口の側でいいかな? あなたもスケッチブックを持ってきて」
「わかった、これからすぐに行くよ」
待ち合わせ時刻を約束してから、彼はそっと受話器を置いた。
少しの間、電話機の前から動くことができなかった。小刻みながら全身がぷるぷると震えている。心臓の鼓動も張り裂けんばかりに高鳴っている。そうなのだ。彼女からのお誘いが嬉しくてたまらないのだ。
そこへ、背後から静かに忍び寄ってくる人影がひとつ。電話の相手、香稟の正体が誰なのか気になって仕方がない母親の登場である。
「ねぇ、潤太。相手の女の子はだーれぇ?」
彼女はにやにやしながら問いかけてくる。
彼は内緒にしようと適当に取りつくろう。
「と、友達だよ。そう、学校の友達なんだ」
「あら? あなたに女の子の友達なんていたかしら?」
「い、いるよ! 一人や二人ぐらい」
彼はごまかそうと躍起になっている。本当のことを言うと、母親の言う通り、彼に友達と呼べる女の子は学校にはいなかった。消極的で引っ込み思案な性格なので友達を作るのが苦手だからだ。
「あら、そう。それならそのお友達、今度お家に連れてらっしゃい」
「えっ、う、うん……」
息子に女の子の友達ができると母親としては心が躍るほど嬉しいものらしい。ご馳走でおもてなししてあげるからと、彼女はルンルン気分でスキップを踏みながらリビングへ戻っていった。
さて、困った。いくら友達になれたといえど、アイドルに気安く遊びにおいでなんて誘えるわけがない。彼は廊下に立ち尽くしたまま大きな溜め息を漏らした。
(あっ、そんなことよりも、そろそろ出掛けなくちゃ!)
悩んでいても仕方がない。今は香稟との約束が大切だ。
彼は慌ててリュックサックを背負うと、待ち合わせ場所である新宿駅へと向かうのだった。
◇
それから一時間ほど経過した。
潤太は新宿駅に到着した。満員電車の中から押し出されると、プラットホームはプライベートを楽しむさまざまな人々で賑わっていた。さすがは日曜日である。
待ち合わせ時刻までは十分に間に合う。しかしなぜか心は逸る。彼は駆け足気味に、待ち合わせ場所の西口改札へと向かう。
まるで迷路のような駅構内を抜けていく。彼が西口改札前まで到着すると、まだ香稟の姿はそこにはなかった。
(まだ来てないのかな?)
彼は周囲を見渡してみたが、彼女らしき人物をその目に捕らえることはできなかった。約束の時刻までまだ余裕がある。ここでのんびり待つことにした。
ここまで急ぎ足で来たせいか、彼の額にはにわかに汗がにじんでいた。ポケットからハンカチを取り出し、今にも滴ってきそうな汗を拭う。
待っている間、彼は西口改札を潜り抜ける人波を観察していた。それにしても人の流れが途切れることはない。混雑に対応できるよう駅員の人数ももちろん多い。
改札口付近には、待ち合わせしているであろう人々もたくさんいた。この人達の中にも、彼と同じように女の子と待ち合わせしている人もいるのだろう。
人間ウォッチングをしていると待つのはそれほど苦ではない。とはいえ、少しでも早く彼女と合流したい気持ちがないと言えば嘘になる。彼の表情からそんな心情が見て取れた。
『ツンツン』
いきなり、背中を誰かに指で突かれたような感触。彼は慌てて後ろへ振り返る。
そこには、シックな色合いの衣装をまとった女の子が立っていた。薄青色のブラウスに藍色のジーンズパンツ、茶色い帽子をかぶり、黒いフレームの眼鏡を掛けて、赤茶色のトートバッグを肩からぶら下げている。
「おす、お待たせ」
その女の子は愛想よくニコッと微笑んだ。
彼は一瞬、この女の子が誰なのかわからなかったが、じっくり観察してみると、待ちわびていた彼女なのだと気付いた。
「か、香稟……ちゃん?」
「ピンポーン、正解。どう、なかなかの変装でしょ?」
ちなみに、彼ら二人は周りの人達に気付かれないよう小声で話している。
彼女の変装はなかなかの完成度だった。その姿からはとてもアイドルとは思えないほど地味で目立っていない。しかしながら、女の子ならではのチャーミングさはしっかり表現している。おしゃれな着こなしと言った方が正解だろう。
お化粧もナチュラルな感じだ。アイラインやチークはなく、唇はリップを入れているもののそれほど艶やかではなく控え目。どちらかといえば、本人とバレないよう工夫しているという印象だった。
「驚いたよ。髪型も違う気がするけど?」
「うん。演技用のウィッグを付けてきたのでーす」
「ああ、かつらのことか。ど、どうりで」
肩まで伸びる髪の毛を束ねて、それをウィッグで隠してふんわりと仕上げた。それが帽子とマッチしていてよく似合っている。
テレビの中にいる香稟とは別人のようだ。アイドルとはまた違った魅力に引き込まれた彼は、知らず知らずのうちに彼女から目が離せなくなっていた。
「ん、どうかした?」
「ううん、何でもない」
潤太は恥じらいをごまかすように香稟から目を逸らした。
それよりも、本日の目的は絵を描くことだ。ということで、彼女はトートバッグからスケッチブックを取り出した。
「ほら見て。この機に買ったんだよ」
「へぇ、これボクのより紙の質がいいヤツだよ」
「へぇ~。スケッチブックにもそういう違いがあるんだぁ。さすがに詳しいんだね」
「ま、まぁ、それぐらいはね」
彼は褒められるとすぐに照れてしまう。しかも、女の子から褒められるとより恥ずかしかったりする。
「それじゃあ、行こうか!」
「う、うん」
彼女は彼のパーカーの袖を掴んで引っ張るように歩き出す。まるで出会ったあの時のように彼をリードしながら。
さて、これからどこへ行くのだろう?彼女達の目指す先は山手線乗り場であった。
「ま、待ってよ。ど、どこに行く気なの!?」
「横浜だよ」
「よっ、横浜? 横浜って、“ヨコハマたそがれ”のあの横浜?」
「うん! たそがれようが、たそがれまいが、これから行くところは横浜なの」
今日も彼女に主導権を握られてしまったようだ。とはいえ、彼はそれがまんざら嫌でもないご様子。むしろ、どんな展開が待っているのだろうかと期待と興奮が入り交じったような表情だ。
彼女は軽やかな足取りで、彼を引き連れて品川方面へ向かう山手線の電車へと乗り込んだ。そして、空いている座席を見つけるなり隣り合って腰掛ける。
「どうして横浜に? どこか行きたいところでも?」
「八景島!」
「ハッケイジマっていったら……。八景島シーパラダイス?」
「そう! あたしね、まだ行ったことがないの。それに八景島は景色もすっごく綺麗らしいから、そこで絵を描くのもいいかなぁって思ったの」
綺麗な景色ならモチーフとしては最高だ。潤太も反対はないだろう。まだ八景島は未体験だったので、彼は見知らぬ景色を頭に思い描きながら期待に胸を膨らませていた。
胸を躍らせる二人を乗せた電車は、乗り換え駅となる品川駅に向かって走行した。
◇
香稟と潤太の二人は、品川駅から京浜急行線へと乗り換えて金沢八景駅へと辿り着く。そこからシーサイドラインを五分少々進んだ先に、本日の目的地の八景島シーパラダイスがある。
八景島というのは横浜市金沢区に属する人工島であり、八景島シーパラダイスはこの人工島に造成された大きなテーマパークだ。水族館にアトラクション施設、それにショッピングモールなどが備わっており週末にもなると家族連れで大変賑わう。
八景島の周囲は海そのもの。高層ビル群に囲まれた大都会とは違って、すがすがしい青色が目に眩しく海風が心地よい涼を呼ぶ。幸運にも今日のお天気は晴れ。この青空の下なら風景画を描く絶好のスポットもたくさんありそうだ。
「わぁ、いいところだわ。うんうん! やっぱり海が近いっていいわね」
「それにしても広いなぁ。これならいい風景画が描けそうだ」
潤太は今にもスケッチブックを広げてスケッチを始めそうだ。その一方で、すっかり舞い上がっている香稟は風景画なんてそっちのけで遊び心満載のようだった。
彼女がワクワクしながら向かう先は八景島シーパラダイスの入場口。スケッチする場所を探していた彼などお構いなしに。
「ほら潤太クン、行くよ。アクアミュージアムへレッツゴォー!」
「ちょっと待って。絵を描きに来たんじゃないの?」
「その前にまずは視察を兼ねて思いっきり楽しまなきゃっ! せっかくここまで来たんだもん」
「そ、そりゃそうだけど……」
絵を描きに来たのか、それとも遊びに来たのか。そんな疑問が頭に浮かんでしまうものの、嬉しさいっぱいの彼女の勢いに流されるままそれに従ってしまう彼なのであった。
入場券を購入した彼女達二人は園内へと入っていく。さすがは日曜日だけに、午前中にも関わらず園内はすでに家族連れやカップルで混雑していた。
実を言うと、潤太はこういったテーマパークに馴染みがない。小さい頃から遊園地で遊んだ経験がほとんどなく、遊園地とはどういう場所なのか、どう遊んだらいいのかよくわからないのだ。
八景島シーパラダイスというテーマパーク初体験。ウキウキ気分の香稟に連れられるがまま、果たしてこの後、どのような展開が待っているのだろうか。
◇
彼女達二人がまず訪れたのはアクアミュージアム。ここは大規模な水族館といったところだ。その規模は日本最大級を誇る。
水槽内を優雅に泳ぐ大小さまざまな魚類、そして人気者のラッコやイルカといった海洋生物が、ファンサービスとばかりに愛嬌を振りまいてお客様一人ひとりを出迎えてくれる。
「見て見て! スタジアムでショーがあるみたいよ。行ってみましょう」
「わかったから、もう少しゆっくり行こうよ」
香稟はアイドルであることも忘れて、嬉々としながら無邪気にはしゃいでいる。一方の潤太は追いかけるのに精一杯、楽しむ前からすでにへとへとといった感じだった。
アクアスタジアムでは、イルカやアシカが演技をするエンタテイメントショーが開催されている。この施設で一番人気があるということで、彼女達二人がやってきた時にはすでに会場内はたくさんの観客で埋め尽くされていた。
そんな混雑を掻き分けながら、彼女達二人はプール全体が見渡せるスタジアム上段の方まで足を運ぶ。
「ここにしましょう」
運よく二つ並び合った座席が空いていた。彼女達はそこへ腰掛けた。
混み合うスタジアム内は子ども達でいっぱいだ。期待と興奮を抑え切れないのだろう、プールを泳いでいるイルカに向かって弾んだ声を連呼していた。ショーの開催まであと数分、待ち遠しくてたまらないようだ。
いよいよ、スタジアム中央にダイバースーツに身を包んだトレーナーが姿を見せ始めた。ショーの主役となるイルカもそれに反応して泳ぐスピードを速めた。どちらも準備万端といったところか。
トレーナーがマイクを握って観客に挨拶する。待望のショーの幕開けとなり、スタジアム内が割れんばかりの大歓声に包まれる。
まず始めはアシカの登場だ。丸いボールを鼻の上に乗せたり、ハードルをジャンプしたりとコミカルなパフォーマンスを披露した。そのお茶目な仕草に、観客席から大きな笑い声が漏れる。
これには潤太と香稟も感心したようで、拍手をしながらその様子を眺めていた。
「うまいもんだね、あのオットセイ」
「やだ潤太クン、あれアシカよ」
「えっ、そうなの? アシカとオットセイって何が違うんだろう。区別がつかないんだよね」
「似てなくもないもんね」
彼らが言う通り、アシカとオットセイは外観が似ているために混同されやすい。しかし、名称が異なるわけだから生物学上も別の生物に分類されている。
アシカとオットセイは同じアシカ科。あえて違う点を挙げるとしたら、耳の耳介の大きさ、あとオットセイの方がアシカよりも体毛がふさふさで小型である。それほど大きな違いはないと思ってもらってよい。
さて、アシカのショーが終わると、次はいよいよショーの看板スターのイルカの登場だ。
「あ、いよいよイルカさんだよ」
「どんなことするんだろう?」
彼女達二人はワクワクしながら、プールを遊泳しているイルカの姿を目で追った。
トレーナーの指示により、イルカ数頭が水しぶきを上げながら天高く舞い上がった。そればかりではなく、甲高い声を発しながら後ろ向きに泳いだりしてトリッキーな動きまで披露した。
そのたびに観客席から大歓声が上がる。さすがは芸達者のイルカだ、観客の視線と歓声のすべてを我がものにしていた。
イルカは知能が高いことはよく知られており、脳の大きさは人間に次ぐと言われている。しかも高いコミュニケーション能力、さらに人懐っこさもあってアニマルセラピーに利用されるなど人間との結び付きも深い。
芸達者のイルカだが、これにはオペラント条件付けという心理学的要素が関係している。スキナーという心理学者のネズミを使った実験が有名だが、餌という報酬を得るためにトレーナーの指示に従っている原理だ。犬のしつけも同様の原理を応用している。
ファンサービス旺盛なイルカは、歓声が上がるたびにその期待に応えようと素晴らしいパフォーマンスを見せてくれる。またトレーナーとの連携プレーも見事で秀逸だ。
観客席の子ども達はそれはもう大喜びだ。ご両親もとても楽しそうに拍手喝采である。無論、香稟と潤太も例外ではなかった。
「キャー、すっごーい!」
「うわぁ、イルカってすごいなぁ!」
イルカのパフォーマンスはそれからもしばらく続いたが、時間にして三十分ほどでショーは大きな拍手に見送られながら終幕となった。
ショーをたっぷり楽しんだ彼女達二人はアクアミュージアム内へと戻っていく。すると――。
「あっ! こっちにペンギンがいるみたい。潤太クン、ほら行くよ!」
「わっ! ちょっと香稟ちゃん――」
水族館にあるものすべてが新鮮なのだろう。香稟は何かを見つけるたびに潤太のパーカーの袖を引っ張って駆け出していた。
変装してのお忍びの来訪だけに、本当ならもっとおしとやかにおとなしく振る舞うものではないか。彼女がアイドルとバレてしまうのではないかと、彼は内心ヒヤヒヤして気が気でない。
そうはいっても、せっかくお仕事がオフの日。こういう時ぐらいは羽を伸ばして目一杯遊んでもらおう。彼はそう思いながら彼女の言うがままに行動を共にすることを決意した。
彼女達が息を切らせて辿り着いた先、そこは広大な敷地の中にごつごつとした岩でできた砦に囲まれた場所。コウテイペンギンの住処であった。
彼女達二人は手すりの側まで近寄り、よちよちと歩くコウテイペンギンを眺めている。
短い足でよちよち歩くペンギンは、本当に愛くるしくてかわいい。アニメやマスコットのキャラクターにも起用されるのがよくわかる。
ご存知の通り、ペンギンは鳥類ではあるが空を飛ぶことができない。ちなみに足が短いと思われがちだが、実際は体内の皮下脂肪の中で足が折れ曲がって隠れている。体外に出ているのは足首から下の部分なのである。
「かわいいね、ペンギン」
「あ、エサ与えてるよ、ほら、あそこ」
「え、どこどこ? あ、ホントだぁ」
憩いのプールにたくさんの魚が投げ込まれると、コウテイペンギンの群れは一斉にそのプールへと飛び込んでいく。むさぼるように捕食する姿はやっぱり動物といった感じだ。
「すごい勢いだね。あのペンギンがあんなに早く走るなんて」
「やっぱりお腹が空くと、人間もペンギンも変わんないね。ボクと一緒だ」
「潤太クン、ごはん食べる時、あんなにがめついの?」
「君も見ただろ? ほら、君が夕食をご馳走してくれた時」
「あっ、思い出したぁ! そういえばそうだったね。あははは」
「そんなに笑わないでよ。ひどいなぁ……」
彼女達二人の記憶に、少しばかり懐かしい思い出が蘇ってきた。思わずクスクスと含み笑いを浮かべてしまう。
まさかスーパーアイドルから手料理をご馳走してもらえるなんて。その時の彼はちょっぴり優越感に浸っていた。一般人がそう経験できる出来事ではないはずだから。
男女二人が隣り合って並んで歩けばそれはもうデート気分。
ペンギンを観賞した後、アクアミュージアム内を一通り散策して楽しんだ彼女達二人。初めて出会ったあの時と同じく、きっと忘れられない思い出の一ページにするかのように。
◇
時刻は、お日様がてっぺんから顔を覗かせる正午十二時。
アクアミュージアムを後にした彼女達二人は、レストランで軽く昼食を済ませてから次なる目的地を目指してのんびり歩いていた。
ここまでやってきた理由は絵画を描くため。そのはずが、二人ともまだスケッチブックはカバンの中で眠ったまま。いつになったらスケッチが始まるのだろうか。
香稟はルンルン気分で歩く歩調も軽やかだ。日頃からの仕事のストレスを発散できて、今日のお天気のように表情もとても晴れやかである。
潤太も表情は穏やかだった。絵画ばかりではなく、時々はこうして景色を見ながら歩くのも悪くはないと思っていたのだろうか。
「ねぇねぇ、次はあそこに行こう!」
「え? あそこってどこ?」
「行ってみればわかるよ。さぁ、行くよ!」
彼女が人差し指で指し示したのは、上空高くそびえ立つ煙突のような建造物だった。彼女はそれが何なのか知っていたようだが、彼にはそれがさっぱりわかならい。
何か嫌な予感がする……。彼は少しだけ不安を抱きつつも、彼女に誘われるがままその建造物を目指して進んでいく。
彼女達二人が訪れた場所は、プレジャーランドという遊園地であった。
海に囲まれた遊園地ということもあり、ここプレジャーランドのアトラクションは水源を有効活用しているものが多い。風光明美な景色も楽しめるように、背の高い乗り物が多いのも特徴的だ。
そして先ほどの煙突のような建造物、それはこのプレジャーランドの名物である「ブルーフォール」というアトラクションだった。
ブルーフォールは一〇七メートルという高さから急降下する乗り物で、なんと最高速度は時速百二十五キロ、重力も四Gかかりジェットコースターを超えるスリル満点のアトラクションなのだ。
「うわぁ……。これはすごいな」
潤太はブルーフォールの先端を見上げてゴクッと息をのみ込んだ。この高さから落下したら即死だろうな――などと不吉な言葉が口から漏れそうになる。
恐怖のあまり両足がすくんで震え上がる。それもそのはずで、彼はジェットコースターのようなスリリングな乗り物が大の苦手なのだ。
「潤太クン、何してるの。ほら、乗るよ」
「乗る……?」
彼は目を丸くして呆然としていた。まさか、ブルーフォールに乗ってあの高さから急降下しようなどと考えているのではないかと。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待って! ま、まま、まさか、あれに乗ろうなんて言うんじゃ――」
「もちろん!」
「うわぁ、もちろんって、そんな笑顔で言わないで~!」
香稟はにっこりと笑ってとってもご満悦。なぜなら、こういうスピード系の乗り物が大好きなのだ。
それとは反対にスピード系の乗り物が大嫌いの潤太は、無理やり腕を引っ張られるものだから汗びっしょりになって許しを請う。こればかりは素直に了解なんてできない、どうにか勘弁してほしいと涙ながらに訴え出てみたものの。
「大丈夫だって。あたしが一緒に乗るんだから。これもいい勉強だと思ってさ」
「勉強って、こんなの大学受験とかどこかに役に立つの? ぼくそれなら進学なんて諦めるもん」
大学受験にアトラクション体験という科目があったら、受験生もさぞびっくり仰天だろう。
彼は必死になって拒み続けるも、彼女の圧倒的な乗りたいパワーにどんどん引きずられてしまう。気付いた時には、すでに二枚の乗車チケットを購入されてしまっていた。
もう覚悟を決めるしかないのか……。彼は憔悴しきった顔をしながら入場口の前でうなだれた。そこはまさに三途の川、絶望の淵に連れてこられた気分であった。
「もう、潤太クンは大げさなんだからー」
「……香稟ちゃんのいじわる」
彼はとうとう、彼女と一緒にブルーフォールという驚異の地へと足を踏み入れる。悪夢へといざなうゴンドラが彼を待ち構えていた。
ゴンドラに腰を据えてベルトをきっちりと装着する。そして、係員から注意に関する説明が終わるとゴンドラはゆっくりと上昇を始めた。
「こ、これって、あのてっぺんまで行くんでしょ……?」
彼は頭上をそっと見上げてみる。青空の下には煙突の先端が見える。それがゆっくりと近づいてくる、ということは、地上からどんどん離れているということだ。
その一方で、ゴンドラが上昇すればするほど彼女の心はドキドキワクワクだ。急降下するその時を今か今かと待ちわびている。
「そんなに怖がらないで。たった九十秒で終わるんだから」
「九十秒!? そ、そんなに時間がかかるの!?」
九十秒という時間に興奮し胸を躍らせる者もいれば、九十秒という時間に恐怖し胸を締め付けられる者もいる。こういう場面で対象的な二人であった。
そうしている間にも、ゴンドラはゆっくりながらも上昇していく。落下ポイントまであと少しといったところだ。
潤太は両手を合わせて祈るようなポーズをしながら、全身をガタガタ震わせている。
(どうかボクをお守り下さい。どうかボクをお守り下さい。どうかボクを……)
ついにゴンドラが落下ポイントまで到着した。すると、スピーカーからカウントダウンの放送が流れてきた。
「――6――、5――、4――、3――」
悪夢へといざなうカウントダウン。彼の心は恐怖に支配された。
『ゴクッ――』
彼はぐっと目を閉じて緊張の息をのみ込んだ。
「――2――、1――」
『ガタッ――!』
ブルーフォールはフォールという名のままに、急速な落下をスタートさせた。
「ぎゃぁぁぁぁぁ~~~!!!」
時速百二十五キロの落下速度、そして四Gの重力が、ゴンドラに乗る彼ら二人に猛烈な勢いで襲いかかる。
香稟は喜びの歓声を上げた。黒髪が降下する引力によって振り乱される。ウィッグが飛ばされたら大変だ。彼女は必死になって両手で頭を押さえていた。
潤太は戦慄のあまり顔が引きつる。時間の経過とともに、恐怖心はさらなる悪化の一途を辿る。目を閉じたまま全身を硬直させて、雄たけびなのか悲鳴なのかわからない奇声を発していた。
落下時間の九十秒、その一分三十秒は、彼にとってあまりにも長くて、そして苦しい時間だったであろう。
一〇七メートル上空から地上へ到着した時には、彼は口の中から魂が抜け出てしまい、すっかり放心状態であった。
「大丈夫? 潤太クン……って大丈夫じゃないね」
さすがにブルーフォールの急降下は、スリルに免疫のない彼には厳しかったようだ。
「あそこで休もうか」
香稟は潤太を支えながら近くにあるベンチへと向かう。
彼は崩れるようにベンチへともたれかかる。彼女はその隣に腰掛けると、ハンカチを取り出して彼の顔を拭ってあげた。
「ごめんね。あそこまですごいとは思わなかったから」
彼女から介抱されると恥ずかしくて照れくさい。彼は顔を赤らめながら無理やり姿勢を起こした。
「き、気にしなくていいよ。も、もう、大丈夫だからさ……」
上擦った声でそう返答した潤太。しかし、顔色は赤というよりもやっぱり青ざめている。まだ恐怖感が全身を縛り付けているようだ。
「無理しないで。あたし、そこで飲み物でも買ってくるね」
「あ、ありがとう」
ベンチへ深く腰掛けている彼を残したまま、彼女は買い物のためにその場から駆けていった。
ここプレジャーランドの園内には、軽食や休憩ができるオープンカフェがいくつか備えてある。彼女はそこで買い物を済ませることにした。
オープンカフェの店頭には、遊園地らしいカラフルな制服を着た女性の店員が待機していた。香稟はそこへ辿り着くなり、アイスコーヒーとオレンジジュースを注文した。
「はい、お待ちどうさまでーす」
「ありがとうございまーす」
店員は最初こそ愛想のいいスマイルだったが、途中から不思議そうな顔に変わっていた。しかも香稟のことを怪訝な目つきで凝視している。
「あの、すみません」
「はい、何か?」
店員からいきなり呼び掛けられて、香稟はキョトンとした顔で返事した。
その数秒後、店員から驚くような質問が飛び出した。
「……夢百合、香稟に似てるって言われませんか?」
「えっ!」
香稟はびっくりして絶句してしまった。
似ている――ということはまだ本人だとバレてはいないようだ。だが、まじまじと見つめられたらバレてしまうかも知れない。彼女は慌てて視線を泳がしたり微笑みを浮かべてみたが、それがむしろぎこちなくてわざとらしい。
「そ、そうですか? 初めて言われちゃった、あはは……」
逃げるようにそこから立ち去っていく。立ち去った後も店員から疑惑の眼差しを背中に浴びて、香稟の心臓は焦りと動揺でドキドキバクバクだ。
どうにかバレずに逃げ切ることができた彼女、コーヒーとオレンジジュースの入った紙カップを持って潤太の待つベンチへと向かう。
(あ――)
その途中、彼女はふと歩みを止める。
彼女の見つめる先には、ベンチに腰掛けている彼の姿があった。スケッチブックを広げて何やら手を動かしている。ここ八景島の風景画でも描いているのだろうか。
彼女はゆっくりと彼の側へと近づいていく。そして、彼に気付かれないままベンチの後ろ側へ回り込んだ。
そっとスケッチブックを覗き込んでみる。すると、わずかな待ち時間だったにも関わらず鉛筆の線が何本も描かれていた。
(…………)
景色を見つめて記憶し、視点を落としたらすぐにスケッチブックに鉛筆を入れる。その動きはとても滑らかだ。彼女は声を掛けるタイミングを失っていた。
一分以上は経過したであろうか。余程作画に集中しているのだろう、彼女が後ろにいることにまったく気付く様子がない。ちょっとした物音にも反応しないぐらい熱中している。
そんな彼の邪魔はしたくはないが、このまま忘れ去られてしまったら寂しくてたまらないというわけで。
「はーい、お待たせ」
「わっ!?」
紙カップを頬に押し当てられて、潤太は冷たさのあまり上擦った声を上げる。彼はようやく香稟が背後にいることに気付いた。
「あ、ありがとう。びっくりしたよ」
「絵、描いてたんだね」
彼女はオレンジジュースを口にしながら、彼の隣のベンチにちょこんと腰を下ろした。
「うん。ここからの角度が、何となくいいイメージに見えたから」
スケッチブックには園内の一部の風景が描かれている。遊園地という無機質な佇まいが絵の中に溶け込むと、生きていると見まがうような質感が浮き出てくるから不思議なものだ。
イメージが浮かんだらそれをすぐに描写する。それをわずか十数分でやってのける彼は、やはりプロ顔負けの才能の持ち主なのであろう。これには彼女も感心するばかりであった。
「香稟ちゃんは描かないの?」
「え? そ、そうだね。あたしも自分で描きたいものを見つけたら描くつもりだよ」
「ふ~ん」
彼女は結局、描写を続ける彼を横で見つめるだけだった。
真剣な眼差しでモチーフとなる景色とスケッチブックを交互に睨み付け、繰り返し鉛筆で線を立てていく。一本一本のさまざまな太さの線が、少しずつ絵画として構成されていく様は見ていて圧巻だ。
それから時間にして十分少々、スケッチブックの絵は繊細なタッチのままで下書きの完成となった。
「わぁ、綺麗に出来たね」
「ありがとう。ちょっと荒くなっちゃったけどね」
「そうかなぁ。すごく丁寧に描かれてると思うけど」
「香稟ちゃんは誉めるのがうまいね。お世辞でも嬉しいよ」
「やだ、お世辞なんかじゃないわ。あたしはこれでも素直で正直なんだから」
潤太は褒められてばかりで照れっ放しだった。言葉では謙遜していても、いつになく気分が高ぶっていたのは間違いない。
彼の作品が秀でているのは素人の香稟にも十分に理解できる。だからこそ絶賛しているのだ。自分にはない才能を目の当たりにして嫉妬してしまうほどに。
それからしばらくの間、彼女達二人は身近なことや私生活のことで世間話を楽しんだ。
「そろそろ行かない?」
「うん、行こうか」
ベンチに腰掛けて一時間あまり。たっぷり休憩できた彼女達二人は、再び園内をぶらぶらしながら遊べるアトラクションを探すことになった。
次はスリルな乗り物はやめよう。彼女はゆったりできるアトラクションへ彼を誘うことにした。そんな彼女が選んだものとは、高さ九十メートルもある展望塔、その名も「シーパラダイスタワー」である。
「これなら大丈夫でしょ?」
「う、うん。ごめんね、気を遣わせちゃって」
「気にしないで。せっかく遊びに来たんだし、二人とも楽しめなくちゃ意味がないもんね」
彼女達二人を乗せたドーナツ型の円盤はゆっくりと上昇し始める。窓越しから見える三百六十度の大パノラマは、それはもう言葉では言い表せないほどの絶景であった。
彼女は窓にへばりついて、はるかかなたの遠景に心を奪われていた。
「あそこに島が見えない? どこかしら?」
「多分、房総半島じゃないかな」
「ボウソウ? ボウソウって暴走族の島かなにか?」
「おいおい、わざとらしいボケだよ、それ」
「あはは。これは失敬失敬。房総半島って千葉県でしょ?」
「なーんだ、ちゃんと知ってるんじゃないか」
「えへへ、偉いでしょ? これでも勉強はちゃんとしてたんだからね」
「勉強か……」
絵画ばかりでお勉強がおろそかな潤太。学校では面倒くさい授業ばかりだが、お勉強は将来のために役立つのだがらやるしかない。
その一方で、お勉強がしたくてもお仕事ばかりでできない者もいる。アイドル活動に専念するために学業を見捨てるしかなかった彼女のように。
彼は大パノラマに映るすがすがしい景色を眺めながらそっと口を開く。
「友達から聞いたんだけど、高校やめちゃったんだってね」
香稟はうつむき加減で寂しそうな表情で答える。
「うん。だって、とても学校に通える余裕はなかったから。芸能生活と学業を両立させるのは正直自信がなかったの。今になってから結構後悔してるんだぁ。学校辞めちゃったこと」
アイドルという立場、そして高校生という立場の選択に葛藤した挙句の結論。悔やんでも悔やみきれない現実を受け止めるしかなかったが、それでもやっぱり悔いは残る。
学校に通っていたら友達といっぱい遊べる、好きな科目の勉強もできる、部活動で趣味や特技を発揮できる。きっと楽しくて充実した時間を過ごせたはずだから。
「学校にいた時は友達とお店に寄り道したり、映画を見にいったりしてたけど。いざ自分がアイドルになっちゃったら、遊んだりするヒマなんてなくて、学校の時の友達にも声を掛けにくくなっちゃったし、すごく孤立しちゃったんだなと思ったわ」
高校生という立場を失ったことによる虚無感。彼女は空しさに包まれた胸のうちを淡々と語った。そんな彼女に同情したのだろうか、彼も寂しそうな目をしながら視線を彼女の横顔に向けていた。
「芸能人っていうのは、ボク達のように自由がないんだね」
「そういうこと」
学業に縛られながらも自由を謳歌し、ごく一般的な私生活を過ごしている彼には、芸能人の悩みなんて到底知ることはできないだろう。今はただ、彼女の気持ちを察してあげることしかできない。
「あたしね、小さい頃、当時のアイドル歌手に憧れてテレビを見ながら一緒になって歌ってた。あたしは人前で歌を歌ったり、演技したり、みんなに見られるのがきっと大好きなんだろうって。あたしは今でもそう思ってる。だから、この世界に入ったのを後悔はしてない。だけど……」
「だけど?」
そう問い返す潤太。
ほんの数秒の沈黙――。香稟は抑揚のない口調で語り出す。
「芸能界っていう世界は、華やかなスター街道ばかりじゃなくって、楽しいことよりも辛いことの方が多かった気がするな……」
これまでの芸能活動は決してお気楽なものとは言えなかった。
歌やダンスのレッスン、演技指導、一般常識を学ぶための教育などは厳しいものばかり。しかも、テレビや映画といった表舞台に出るためにはオーディションにも参加して合格しなければいけない。
運よく人気アイドルになれたとしても、それはそれで大変だ。撮影や収録は深夜にも及び、一日のスケジュールが分刻みになることもある。当然ながら睡眠時間だって十分に取れなくなるのだ。
話し終えた彼女の瞳は虚空を見つめている。その表情からは満たされない悲哀感がうかがえた。ただこれ以上、彼女は愚痴や不平不満を漏らすことはなかった。アイドルであることを自覚し、不自由な生活そのものを覚悟した者の潔さだったのかも知れない。
彼女への気遣いもあったのか、彼もそれ以上問いかけることはなかった。正直なところ、どう声を掛けたらよいのかわからなかったのだろう。
ただ、ひとつだけわかったことがあった。それは、彼女とのかけ離れた距離感だ。いくら友達同士であっても、一緒にお出掛けする仲であっても、彼女は雲の上にいるような遠い存在であり、地上からはとても手が届かない存在だということを。
シーパラダイスタワーで空中散歩を楽しんだ後、彼女達二人はもう少しだけ園内をぶらぶらと散策した。午後三時過ぎになり、素晴らしい休日を過ごさせてくれたここ八景島に別れを告げた。
◇
夕暮れ時。
香稟と潤太の二人は帰路の途中、もう一箇所だけ寄り道することになった。向かう先、そこは代々木公園であった。
この時まで、彼女のスケッチブックは真っ白なままだった。今日はデートではなくあくまでも絵を教わるための外出、というわけで彼女が選んだモチーフこそが代々木公園だったのだ。
電車を乗り継いで、彼女達二人はお互いにとって思い出のある風景に辿り着く。夕陽の優しい光に照らされる緑の景色は趣があって美しく、風景画を描くにはぴったりの場所である。
出会ったあの時と同じベンチへと腰掛ける彼女達二人。
「ここで描いた絵を贈ってくれてありがとう」
「まだ持ってるんだ」
「当然でしょう。素敵な風景画だもん。大切にしまってあるわ」
「どうもありがとう」
彼女達はベンチに座ったまま、しばらく代々木公園の景色に見入っていた。あの時の思い出を思い返しながら。
「あれから数週間が経ったんだね。まるで昨日のことみたい」
「そうだよね。時が過ぎるのって早いな」
数週間前のあの時――。それは楽しくも、ちょっぴりドキドキする緊張感のある夢のような一時だった。
潤太にしたら今でも信じられない感覚が残っている。偶然出会った少女から誘われるがまま街を散策してデート気分を味わったのだから。
「本当に不思議だよ。どうしてボクと君があんなところで出会ったんだろうってね」
「それって、運命だとか言いたいの?」
「運命かぁ……。そうかも知れないね」
もし、これが運命だとしたら彼にとってこんな幸運はないだろう。
もう二度と会うことはない、そう諦めていた中でこうしてまた彼女と一緒にこのベンチに腰掛けている。しかも、絵画という趣味の話題で話せる友達になれた。これを幸運と言わずして何と言うのか。運命というものに心から感謝するしかなかった。
運命はさておき、そろそろ絵画制作の時間。彼女はトートバッグからスケッチブックを取り出した。
「おっ、いよいよ描き始めるんだね」
「うん。あたしから誘っておいて何も描かなかったら、嘘つきになっちゃうもん」
「僭越ながら、描き方のアドバイスをさせてもらうよ」
「よろしくお願いしまーす」
指南役の潤太画伯に向かって、生徒の香稟はクスッと笑ってぺこりと頭を下げた。
彼女はスケッチブックの白いページに鉛筆を立てる。そして、風景を見ながらひと筆、またひと筆と鉛筆の筆先を走らせた。出だしこそ順調だったが、描いている途中で……。
『ポキッ――』
「あっ!」
鉛筆を握る手に力が入っていたのか、鉛筆の芯が折れてしまった。
「ははは、力みすぎだよ」
まずは練習だから思いのままに描いてみよう。彼からそう指導を受けた彼女は、力を抜こうと肩を上下に回したり深呼吸をしたりして緊張を解きほぐした。
そして再チャレンジ。新しい鉛筆を握り締めてキャンパスに黒い線を描き始めた。リラックス効果のおかげか、先程とは違って筆先はさらさらとキャンパスの上を滑らかに滑っていく。
「うんうん、その調子だよ」
「やった、あたしもやればできるんだね!」
描き始めてから二十分後、白かったスケッチブックは少しずつ代々木公園の景色へと変わっていった。しかし、その出来栄えは思い通りとは言えなかった。さすがに素人が描くキャンパスには思い通りの風景は写ってはくれないようである。
「う~、どうもイメージ通りにならないなぁ」
「最初はみんなそうだよ。最初から上手に描ける人なんていないさ。少しずつ慣れていけば、きっとうまくなると思うよ」
「やだぁ~、すぐ上手になりた~い!」
ないものねだりなのか、ただのわがままなのか。香稟は子どものように駄々をこねる。
アイドルらしからぬその駄々っ子ぶり。それを見ながら潤太は頬を緩めて苦笑いを浮かべていた。困ったふりをしていても、内心ではそんな純粋で自然体の彼女をいとおしく思っていたようだ。
絵画制作という幸せな時間。このまま時が止まってしまえばいいのに……と、本気で考えてしまう彼であったが、そういう時に限って邪魔者は突然やってくるのである。
「おーい、潤太じゃないか!」
『ドキッ――!』
背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。彼はビクッと瞬時に全身を震わせた。
ゆっくりと後ろへ振り向くと、なんとそこには、彼の数少ない友達である色沼と浜柄のコンビがいるではないか。
(や、やや、やばい――!)
彼は心の中でそう叫んだ。
女の子と二人きりなのがバレてしまったら大変だ。学校のクラス中から冷やかされてしまい、赤っ恥をかいてしまいかねない。焦るあまり背中が冷や汗でにじんでいく。
「潤太クン、どうかしたの?」
「えっ、いや、その……」
香稟から問われても彼は焦るばかりでしどろもどろ。この場から逃げ出したくても、彼女を置いて逃げるわけにもいかず。
「おい、潤太、何してる……あら? そこの女の子は」
お邪魔虫の男子二人は、潤太の隣で座っている女の子に気付いた。
「あ、いや、この女の子はその――!」
彼はどうにかごまかそうと躍起になったが、慌てるあまり口がおぼつかない。そもそも、この状況を見られてしまってはどうやってもごまかしようがないだろう。
色沼と浜柄は女の子に関心が沸き興味津々、失礼と思いつつも彼女のことをまじまじと凝視した。そして、あることに気付く。
「あれ? その子、夢百合香稟にちょっと似てないか?」
「ホントだ! 髪型は違うけど、そっくりさんじゃないかっ」
彼ら二人は興奮気味に、夢百合香稟の話題で騒ぎ出した。
このままでは本人だとバレてしまう。邪魔者二人を追い払わなければならないと、潤太はこれまで以上にしどろもどろになってしまった。
(わわわ、ど、どど、どうしよう――!)
この緊迫した状況の中、ただ一人冷静だった香稟がベンチから姿勢よく立ち上がった。
「はじめまして、あたしは夢野香といいます」
「えっ!?」
男子二人に向かって自己紹介をした彼女。混乱してあたふたしている潤太に助け舟を出したのか。それはそれとして、彼女が名乗った名前は聞き覚えのない名前であるが、“夢野香”とはいったい……?
「あたしと潤太クンは、絵が趣味のお友達同士なんです。あなた達も潤太クンのお友達ですか?」
「はいはい友達でーす! オレは色沼っていいます」
「オレは浜柄っていいます! よろしくお願いしまーす」
色沼と浜柄の二人は元気よく挨拶をした。相手がかわいい女の子、しかも夢百合香稟にそっくりときたら明るく振る舞うのも無理はない。
その一方で、潤太は唖然とするばかりだった。ただ内心では、彼女がうまく会話をつないでくれて安堵もしていた。
ここで下手に会話に入ったり遮ったりしたら、むしろ不自然になってしまうだろう。そう思ってか、彼は黙ったままコクリコクリと頷いて彼女の話に合わせていた。
「おい、潤太! ちょっとこっちに来い」
「わ、わぁ!?」
色沼と浜柄にいきなり腕を掴まれた潤太は、彼女から少し離れたところまで連れ出されてしまった。
「な、何すんだよっ!?」
「おまえさ、いつの間にあんなカワイイ子と知り合ったんだ? しかも香稟ちゃんにそっくりだなんて!」
「そうだそうだ! おまえばっかりズルイじゃないか。抜け駆けなんて許さないぞ。詳しく教えろよ」
ここぞとばかりの質問攻め。男子二人は眉を吊り上げて悔しがる。
あの消極的で根暗な潤太が女の子とデートだなんて――。しかもスーパーアイドルと瓜二つともなれば、納得がいくはずもなく頭ごなしに語気を強めるのもやむなしか。
何も語らないままでは帰してもらえそうにない。潤太は重たい吐息を漏らして、当たり障りのない範囲でいきさつを説明する。
「数週間前の日曜日に、たまたまここで絵を描いてたら彼女と偶然出会ったんだよ。そこで、いろいろ絵の話をしてたら仲良くなってさ」
焦りと緊張で背中が汗びっしょりの潤太。それを冷ややかな目で見つめる色沼と浜柄の二人。これで帰してもらえると思ったら大間違い、潤太は彼ら二人に羽交い締めにされてくすぐり攻撃に遭ってしまう。
「ほう、それはまた偶然だなぁ。おまえばっかり幸せを満喫しやがって、許さないぞ!」
「何でそういうことをオレ達に報告しなかったんだよ? 幸せ独り占めってやつか!?」
「わぁ、やめてよ~! ど、どど、どうしておまえ達に報告しなくちゃいけないんだよ~! あはは、やめてぇ~!」
それから十秒ほど、彼ら二人のくすぐり地獄が続いた。ようやく解放された時には、潤太の顔は苦しみに耐え抜いた涙と汗でびっしょりだった。
息も絶え絶えでひざまずいていると、そこへ意地悪な色沼と浜柄の二人がニヤニヤしながら猫なで声で囁いてくる。
「おいおい、そういう言い方すんなよぉ。オレ達昔からの友達じゃないか」
「そうそう、そういう言い方はよくない。オレ達は友情で結ばれてんだぞ」
友情で結ばれた友達同士はそれこそ一心同体。さすがにそれは大げさかも知れないが、友達同士なら幸せを共有しようというのが彼ら二人の言い分なのであった。
これには潤太も憮然として不平不満を漏らすしかない。人のプライバシーに土足で踏み込むなんて失礼極まりないからだ。
「はぁ、はぁ……。こ、こういう時ばっかりそういうこと言って調子いいな。ちゃんと説明したんだからさ、もう放っておいてくれよ」
潤太はそれはもうすがるように許しを請う。悪友二人もそこまで性悪ではない、というわけで。
「勘弁してやるよ。オレ達もこれから行くとこあるしさ」
「コレに関しては、明日にでもじっくり聞くとするかな」
「おいおい、もう許してくれよぉ……」
お邪魔虫二人は、ベンチでひとり待っている彼女に愛嬌を振りまいてから代々木公園を去っていった。
ちなみに、彼ら二人はこれから原宿にあるお店のアニメ関係のコスプレイベントに参加する予定だった。潤太と彼ら二人、どちらが健全の男子なのかは想像にお任せするとしよう。
それはさておき、潤太は疲れ切った顔でやっと彼女の元へと戻ってきた。
「さっきはありがとう。うまくごまかしてくれて」
「危なかったね。危うくバレちゃうところだったわ」
香稟の冷静な判断により最悪の事態を避けることができた。
それはそうと、彼女が名乗った“夢野香”だが、これは彼女が咄嗟に思いついた偽名だったらしい。芸能人たるもの、プライベートの私生活を脅かされないためにも偽名を使いこなす必要があるのだろう。
「ところで、何を話してたの?」
「たいしたことじゃないよ。君が誰なんだとか、どこで知り合ったんだとか、そういったつまらない話だよ」
「なるほどね……。あたし達を見て恋人同士だと思ったのかな?」
恋人同士――。彼はその言葉に敏感に反応した。
「ど、どうなのかなぁ、そこまではわからないけど……」
彼は恥ずかしくなってうつむいてしまう。そして、なかなか止まらない汗をハンカチで拭った。
そんな純情な彼に、彼女は真剣な眼差しを向けている。
「ねぇ、あたし達って、他の人達にどう見えるのかな……? 恋人同士に見えちゃうのかな……?」
彼女は思わせぶりにそう問いかけてくる。
ベンチに腰を下ろして隣り合う彼女達二人。いつの間にか、その距離はほんの数センチメートル、肩と肩が触れ合ってもおかしくはない。
「ど、どうだろう……」
潤太は言葉に詰まってしまった。
友達同士とははっきり言えるかも知れない。でも、恋人同士なんてそんな大胆は発言はとてもできない。そもそも、恋愛というものがよくわからないのだから。
相手は人気アイドルなのだ、恋人なんてあり得ない。でも、意識すればするほど鼓動が激しくなる。彼は真っ赤な顔を上空へ向けた。恥ずかしくて彼女の顔を直視できない。
「ねぇ、答えてほしいな」
香稟はすがるような目線でそう訴えてきた。その身をちょっぴり彼に近づけながら。
ついに、彼女の肩と彼の肩がピタッと触れ合った。
彼の心臓の音がより一層激しくなる。その音はあまりにも大きく、彼女の肩まで伝わるほどだ。
彼女の熱い視線は彼の横顔を捉えていた。
彼はその熱視線に縛られたように全身が硬直した。
「潤太クン――」
そのやさしく誘いかけるような声は、彼を無意識のうちに彼女の方へ振り向かせた。
お互いの瞳の中に、お互いの顔が映る。
「…………」
「…………」
見つめ合う彼女達二人。
沈黙の時間が続く。まるで、時が止まってしまったかのような感覚だ。
胸が張り裂けそうになる緊張感。そして期待と興奮。彼はもう、彼女のことを意識せずにはいられない衝動を感じていた。
「か、香稟ちゃん、ぼくは――」
次の瞬間、彼女の麗しい唇がかすかに動く。
「なーんちゃってね!」
「――は!?」
香稟はにっこりとかわいらしい笑顔を浮かべる。
「今の台詞ね、ドラマの台本にあるんだ。上手にできるか不安だったけど、それっぽい雰囲気出てたかな?」
「ド、ドラマの台詞……だったの」
何というオチであろうか。彼女の思わせぶりな言葉の数々は、次のドラマ収録のための練習だったようだ。つまり、彼は相手役の練習台に過ぎなかったというわけだ。
それにしても、演技としてはよくできていたと思う。友達以上恋人未満という微妙な役どころをばっちり演じていたし、何よりも、潤太という少年を恋の虜にしてしまうほどの魅力を醸し出していたのだから。
まさに女優さながらの熱演。そうと知った彼はというと、全身から力が抜けてしまい萎んだ風船のようになっていた。アイドルからの熱いラブコールをちょっぴり期待していたようだが、残念ながら現実はそう甘くはなかった。恥ずかしさのあまり穴があったら入りたい心境であろう。
(そうだよな。彼女は超一流のアイドルだもんな。所詮、ボクとは暮らす世界が違うんだし、不釣り合いだよ……)
彼女は今世紀最後のスーパーアイドル。私生活も、着る服も、食べる物も、寝る場所もすべてが別格なのだ。彼はその時、弟からそんな言葉を投げ掛けられたのを思い出した。
夢百合香稟という名の女神は、どんなに手を伸ばしても届かない存在。それでも、こうして友達として一緒にいるだけで本当に幸せ者だ。彼は自分の気持ちにそう言い聞かせて自分自身を納得させていた。
「そろそろ、帰ろうか」
「う、うん。そうだね……」
空の色は、夕焼けから夕闇に近づいていた。
香稟はベンチから立ち上がるなり帰り道へと進んでいく。
彼女をきちんと送り届けるのも役目のひとつ。潤太も立ち上がるなり彼女の後ろ姿を追いかけていく。純真な恋心を代々木公園のベンチに置き去りにしたままで。
◇
「今日は楽しかったわ。付き合ってくれてありがとう」
「ボクの方こそ、誘ってくれて嬉しかったよ」
潤太と香稟の二人は、楽しかった一日の別れの舞台となる新宿駅にいた。
時刻は夕方六時三十分過ぎ。新宿駅の構内は相変わらず賑わっている。日曜日を満喫したり、これから日曜日を満喫しようとするさまざまな人種の群れで溢れ返っていた。
「それじゃあ、行くね」
「うん」
二人は手を振って別れの挨拶を交わした。
彼女は改札口へと足を向ける。それを無言のまま見つめる潤太。
すると、彼女がいきなり振り返る。言い残したことがあるようだ。
「ねぇ、潤太クン。答えてくれるかな」
「えっ、何をだい?」
彼女は意地悪っぽく微笑を浮かべた。
「あたし達が他の人からどう見えるか、よ」
「また、ドラマの演技の練習とか?」
「違うわ、潤太クンの率直な答えが聞きたいの」
潤太は先程、この質問に答えを出せなかった。いきなりだったし、照れくささと恥ずかしさが先行していたからであろうが、二回目の今ならはっきりと言える。
「友達同士に決まってるさ」
彼はすがすがしくそう回答した。世間から見たら恋人同士に見えても不思議ではない。しかし、彼自身がそれを意識しようとしなかった。いや、意識してはいけないと思った。
これからも絵画の先生として仲良くしたい。また誘ってもらえたら、隣り合って街を歩いたり遊園地で遊んだりしたい。それだけで満足だし、それだけで嬉しいと思える。そう、夢は夢のままでいいのだから。
「そっか、友達同士か……」
どういうわけか、香稟は少しばかり寂しそうにうつむいてしまった。
「どうかした?」
「ううん、何でもないわ。答えてくれてありがとう」
潤太からの問いかけに、彼女はお礼だけ言って明るさを取り戻した。
こうしている間にも、駅に設置された時計のデジタル表示は一分単位で時を刻んでいく。そろそろお別れしなければ。
「これからも絵をたくさん教えてね。また遊びに行きたい時は電話するから」
「うん、いいよ。いつでも電話してよ」
再びお別れの挨拶を交わすと、彼女は再び改札口に向かって歩き出した。
人混みに紛れながら改札口を越えていく。彼女が見えなくなるまで、彼はその場から離れようとはしない。
彼女が見えなくなったら、楽しかった今日という夢のような一日が終わりを告げる。彼の心に寂しさのような感情が沸いていた。
そして――。とうとう彼女が視界から消えてしまった。
(……さて、行くかな)
彼がゆっくりと改札口に背中を向けた、次の瞬間――。
「潤太クン!」
彼は素早く後方へと振り返る。視線の先には、改札の向こう側で別れたはずの彼女が手を振りながら立っていた。
「どうかしたの!? 忘れ物?」
潤太は大声でそう質問した。
彼ら二人の距離は数メートルほど。構内アナウンスと雑踏の足音の中で、その声はかき消されずに届くのだろうか。
いや、彼の声はしっかり届いていた。それを証拠に、香稟はコクっと頷いて伝え忘れたメッセージを張り上げる。
「あたしはね、恋人同士に見られた方が嬉しかった!」
「えっ!?」
「言っておくけど、これはドラマの台本にはないからね!」
そう伝えると、彼女は愛らしい照れ笑いを浮かべながら人混みの中に消えていった。
(……………)
それからしばらくの間、彼は呆然とした顔でそこに立ち尽くした。
たくさんの人々が彼の横を通り過ぎていく。デジタル表示の時刻もどんどん進んでいく。それでも、大地に根を張ったようにまったく微動だにしない。
彼の脳裏に、彼女の最後のメッセージが何度も何度も浮かんでは消えていく。――恋人同士に見られた方が嬉しかった!
(ど、どういうこと……?)
香稟は潤太に何を伝えたかったのだろうか。当然ながら、恋愛というテーマに疎い彼にその答えを導けるはずもなかった。
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