2.ほどけなかった運命の糸
新羅プロダクション。
東京都内某所の雑居ビルの一室、スーパーアイドル夢百合香稟の所属する事務所である。
所属タレントは現在十数名。従業員数も多くなく、数ある芸能事務所の中でも小規模の事務所と言える。
その日の夜、新羅プロダクションの社長室では怒号という名の大きな雷鳴が鳴り響いていた。
「このバカもんがっ! おまえは何考えとるんだ!」
怒鳴り声を上げているのは、事務所の社長の新羅恒男である。すっかり薄くなった頭髪に、不摂生を絵に描いたような小太りの体型。彼の見た目の印象はざっとこんな感じであろう。
彼は怒りのあまり真っ赤な顔して、ビルのフロア中に響かんばかりの怒号を撒き散らしている。
その矛先にいるのは、一時の自由を求めて下界へと舞い降りた、事務所の稼ぎ頭とも言うべき夢百合香稟だった。このたびの脱走劇のことで激しく叱られてしまい、彼女はすっかり委縮して縮こまっている。
「おい今日子、おまえもおまえだ! 何のためにマネージャーをやらせてると思っとるんだ!」
「申し訳ありません。今後はこのようなことがないよう細心の注意を払うつもりです」
香稟と一緒に怒られているのは、彼女のマネージャーの新羅今日子である。彼女は反省しきりで頭を下げるしかない。監督不行き届き、責任を追及されて減俸や始末書提出もやむを得ない状況だ。
「いいか、よく聞け! この不祥事で穴を開けたバラエティー番組はな、ヒット番組をいくつも手がけるプロデューサーが仕切っていた番組だったんだ。その意味がわかってるのか? おい、今日子、どうなんだ!」
「もちろんわかってます。こんな失礼なことをした以上、二度と出演依頼の申し出がないかも知れないと、そうおっしゃりたいんでしょ?」
「ああ、そうだ! おまえの不注意のせいだぞ。どう責任を取る気だ」
「……返す言葉もありません。申し訳ありません」
いくら人気アイドルでも常に仕事を優先してもらえる保証はない。テレビ番組に出演させてもらうには人気こそがすべてだが、それよりも重要なのはいわゆる“コネ”である。特に小規模の芸能事務所となると何よりもコネクションが頼りとなる。
香稟の身勝手な行動により収録が中止になってしまった。たったひとつの不祥事をきっかけにしてテレビ局側の機嫌を損ねたりすると、コネクションが決裂して業界から淘汰されてしまう可能性もあるのだ。
社長の激高はそれを暗に示しているわけだが、いくら大きな失態だったとはいえ、あまりにもマネージャーの彼女に強く当たり過ぎているように感じる。
それはなぜかというと、彼女こと新羅今日子はこの社長の実の娘だったからだ。マネジメントの極意を伝授していただけに、今回のミスが心底許せなかったのだろう。
それはもう耳が痛くなるほどの長い説教が続く。この緊迫した状況に香稟はいてもたってもいられなくなった。
「待って下さい、社長! 今日子さんは悪くないです。悪いのはみんなあたしです。あたしが……あたしがすべての責任を負いますから!」
『ドン――!』
彼は握り拳を机の上に叩き付けた。彼の形相は血管がぶち切れるほど怒りに満ちている。
「生意気言ってんじゃない! おまえのような子供がどう責任を取るつもりだ、バカ者! おまえは黙って反省していろ!」
窓ガラスを揺らさんばかりの大声におののき、香稟は金縛りにあったかのように身動きが取れなくなってしまった。反射的に閉口してしまい言葉を発することができない。
「もういい! 次にこういうことがあったら承知しないぞ! わかったか二人とも」
香稟と新羅今日子の二人は何度も頭を振り下ろした。そして、静かに社長室から出ていく。
社長室のドアの前でしばらく立ち尽くす彼女達二人。気まずさもあるのだろう、お互いに顔を見合わせることもなく押し黙っていた。
重苦しい空気が漂う中、まず口を開いたのは香稟の方であった。
「今日子さん、ゴメンなさい。こんな大問題になるなんて知らなくて。自分勝手な行動をして本当にゴメンなさい」
許してもらえるかわからない、それでも、許してもらえるまで謝るしかない。香稟の瞳には反省と後悔の涙が浮かんでいる。
新羅の表情は険しく口を真一文字に閉じたままだ。本来であれば許すべき行為ではないが、だからといって許さずにいるわけにもいかない。何よりも、こうして無事に戻ってきてくれたことを喜ぶべきであろう。それが管理指導、また保護者役でもあるマネージャーとしての責務なのだから。
「聞いて香稟。今回のことは、あたしと社長でなんとかするわ。あなたは何の心配もいらない。だから、もう二度とあんな真似はしないと誓って。いいわね?」
「……はい」
それはお説教ではあったが、母親のような思いやりのある愛情を持った言葉のようでもあった。少なくとも香稟はそう感じていたようだ。
香稟の頭をそっと撫でた新羅は、溜め息をひとつだけ零してほんのり口元を緩めた。
「車の手配があるから、あなたは休憩室で待っていて」
新羅はそう言うと、たった一人で事務室の方へと歩いていった。
マネージャーの言い付け通りに、香稟は所属タレントの控え室になっている休憩室までやってきた。
すると、休憩室にはすでに先客がいた。
肩先まで伸ばしたボブヘア、グロスで艶を出した唇が赤く染まって色香のある女性。キツネのような細い目つきが、同じ事務所の後輩である香稟のことをギュッと睨んでいた。
香稟は小さく会釈する。しかし、その女性は無愛想に視線を逸らした。
この先輩女性の名前は九埼まりみという。女優として活動しているが、あまり知名度は高くない。脇役の一人として時々テレビドラマに出演する程度の女性だ。
(…………)
張り詰めた空気が室内を埋め尽くしている。その雰囲気だけで、この二人が仲良しこよしの先輩後輩同士ではないことがわかる。
香稟は口をつぐんだまま椅子の上に腰を下ろした。新羅が早く迎えに来てくれるのを願いつつ。
「あんた、逃げ出したんだってね」
「――――!」
九埼の冷え切った一言が香稟の心に突き刺さった。心音がバクバクと大きく高鳴り出す。
「何でもゲイノーセイカツに疲れたっていう理由らしいけど? いいわねぇ、売れっ子さんは。あたしもそういう気分味わってみたいわ」
それは紛れもなく嫌味であろう。同じ事務所内でも売れる売れないの競争はある。この二人は先輩後輩の関係というよりも、芸能界におけるライバル関係といった方が正解なのかも知れない。
九埼は唇にタバコをくわえると、ライターでそっと火をともす。そして、軽く吸い込んだ煙を香稟に浴びせるように吐き出した。
(…………)
相手が先輩なだけに、失礼極まりない態度に文句など言えるわけもなく。香稟はうつむいてそれを我慢するしかなかった。
「でもさ、社長にいくら怒鳴られても、さほど気にしてないんでしょ? どんなミスをしようが、逃げ出そうが、社長があんたを見捨てるわけないもんね。スーパーアイドルって、ホントに羨ましいですこと」
口角を吊り上げて不敵な笑みを浮かべる九埼。凍りつくような鋭い視線からは、励ましや慰めといった人間らしい暖かさがまるで感じられなかった。
彼女は捨て台詞を吐き尽くすと、タバコの火を灰皿の上でもみ消して、ふらりと立ち上がって休憩室から去っていった。
ただ堪えるだけの悔しさ――。それが悲しみとなって込み上げてきて、香稟は嗚咽を漏らして涙を零した。それから数分間、新羅今日子が迎えに来るまでずっとその場で泣き続けたのだった。
* ◇ *
次の日の朝のこと。
アイドルとのデートを知らないままに体験していた唐草潤太は、いつも通りに学校へとやってきていた。
月曜日の朝というのは、他の曜日と比べて学生の足取りが重たそうだ。日曜日だけでは遊び足りないという気持ちの表れなのか、それとも遊び尽して疲れているだけなのだろうか。
ちなみに、彼が通う学校は学力もスポーツ成績も中くらい。卒業後の進路でも進学する者もいれば就職する者もいる、ごく一般的な男女共学高である。
いつも通りの廊下を歩いて教室まで辿り着くと、クラスメイト達が何やらざわついていた。そんなことなど目も暮れず、彼はいつも通りの自分の机へと腰掛けた。
(……信楽、由里さんか)
潤太は心の中でポツリとそうつぶやいた。
新宿で偶然出会ったあの少女。愛らしい笑顔が印象的だったあの少女。ちょっと怒りっぽくて思ったことをすぐに口にするあの少女。彼の頭の中に、ぼんやりながらも彼女の面影が浮かんでいた。
どこに住んでるのかな、どこの学校に通っているのかな。知りたいことがたくさんある。でも、また会える日がやってくるのだろうか。
教室内のざわつきなどまったくのうわの空。すると、二人組の男子生徒が彼のもとへと近づいてきた。その中の一人は、一冊の雑誌を手に持っている。
「潤太、おはよー」
「…………」
男子生徒の挨拶に返事をしない。潤太はボケっとした顔で視線は宙を飛んでいる。
「おい、どうした? 寝てるのか?」
「いや、目を開いたまま寝ないだろ」
目の前で手を振られたり、何度か声を掛けられた。それから数秒後であろうか、潤太はようやく彼らの存在に気付いた。
「おはよう、二人とも」
彼のもとに現れたのは、中学校時代からの仲間である色沼龍一と浜柄晋の二人。彼ら三人とも同じクラスメイトであった。
「それより、おまえ昨日どこ行ってたのよ? オレ達、家訪ねたんだぜ」
「そうだったの? ゴメン、ゴメン。昨日はちょっと多摩の方にね」
色沼と浜柄の二人はなぜか呆れ顔を浮かべた。
「おいおい、もしかして、おまえまた絵を描きに行ってたのか?」
「うん」
「相変わらず暗いなぁ」
「絵を描くことがどうして暗いの? 明るくなくちゃ描けないよ」
「そういう意味じゃないって」
トリオ漫才のようなやり取りが続く。
どちらかといえば、色沼と浜柄の二人は社交的で積極的なタイプだ。芸能やスポーツに関心も高く、趣味や興味も潤太とはまるで正反対なのだが、どうしてか彼ら三人は昔から気が合うようだ。
そんなことはどうでもいい。本題はこれからだとばかりに、色沼は手に持っている雑誌を潤太の机の上に広げた。
「おい、コレを見てみろよ」
「これは?」
「見てわからんのか? この写真の女の子、知らないわけないよな」
「う~ん……誰?」
「おまえの芸能音痴ぶりは筋金入りだな」
頭を傾げてみても見覚えがない。芸能人に間違いないのだが、いったい誰であろう。潤太は最後までそれが誰だかわからなかった。
浜柄は呆れたような顔をしながら、雑誌の上で微笑んでいる女の子に中指を突き立てる。
「この子はな、スーパーアイドルの名を欲しいままにしている若干十七歳、乙女チックなピュア天使と異名をとる、あの夢百合香稟だよっ!」
「ユメユリカリン――? あれ、どこかで聞いたことある名前だ」
「テレビ付けてたら、一日一回はお目にかかる人物だしな。何たってテレビのレギュラー番組四本、CM六本、おまけについ最近リリースしたシングルなんか百万枚の大ヒットだもんな」
「ふ~ん、それはすごいことなんだ」
こういった話に疎い潤太でも、今の話で夢百合香稟の人気ぶりが何となくわかったようだ。それでも、彼の表情は落ち着いていて変化がまるでなかった。人気があろうが、歌が大ヒットしようが、彼にしてみたらどうでもいい話なのである。
「で、そのアイドルがどうかしたの?」
どうかしたの?なんて言ってる場合ではない。色沼と浜柄の二人は興奮した様子で、とんでもない衝撃的なニュースを発表する。
「どうしたもこうしたもねぇよ! 来週の水曜日に何と、彼女がこの学校へ来るんだよ! どうだ、びっくり仰天だろ?」
「何でも、ドラマの撮影らしいんだ。彼女は今度、学園もののヒロインを演じるらしい」
どうやら、朝早くからの騒々しさの正体はこのことだったらしい。
ドラマの撮影で芸能人が来訪する話はよくある。それでも、日本中のありとあらゆる学校の中で、ここが選ばれるなんて確率から考えてもかなりの幸運だ。色沼と浜柄が鼻息を荒くするのも無理はない。
「ふ~ん」
興奮している二人をよそに、どうでもいいことにはまったく関心がないのが潤太という少年だ。
「ふ~~~んっておまえさ。そんな調子でいいのか? スーパーアイドルがこの学校へ来るんだぞ。どういうことか理解してる?」
「わかってるよ。芸能人が撮影のためにこの学校へ来るだけでしょ? 別におかしいことじゃないよ。だって、テレビ局のスタジオだけでドラマは作れるものじゃないもん。それぐらいはテレビを見ないボクでも理解してるさ」
「……言ってることは正しいけど、コイツ、やっぱりマヌケだわ」
潤太はふと、机の上に置かれた雑誌に目を向ける。そこにはミーハーな男子二人組だけではなく、日本中の男子から愛されているアイドル、夢百合香稟が写っている。
(あれ、この女の子って――)
彼は心の中で囁く。
(――信楽由里さんに似てるな)
* ◇ *
あの脱走事件から数日経ち、スーパーアイドル夢百合香稟は芸能人の一人として真面目に仕事をこなしていた。
数ある雑誌の写真撮影、テレビCM撮影、テレビ番組の収録と、彼女は休む間もなく働き続けた。その背景には、少しでも罪滅ぼしをしたいという彼女なりの思いがあったのだろう。
そんなある日、彼女は初の主演ドラマ「明日こそ愛あれ」の打ち合わせを終えてから、事務所へ戻る途中の首都高速道路の上にいた。車内にはもちろん、彼女のマネージャーの新羅今日子も同乗している。
「お疲れさま。今日は最後に、ラジオの収録があるからもうひと踏ん張りよ」
「はい」
香稟は素直にすがすがしく返事をした。
あの脱走事件以降、逃げ出したいとか、自由になりたいといったわがままを封印している彼女。
事務所の社長と新羅今日子の二人は、連日に渡ってテレビ局のプロデューサーに謝罪した。それはもう額を床に擦り付けるほど平身低頭に。収録を中止に追い込み、関係者に多大なる迷惑を掛けたあの不祥事はそれだけ甚大だったのだ。
その甲斐もあって、香稟は番組から降板せずに収録に参加することが叶った。つまり、アイドルとしての地位に傷が付かずに済んだというわけだ。つまり彼女は、自分自身のことを守ってくれたマネージャーに感謝の気持ちでいっぱいなのである。
「でもよかったわね、香稟。あなたが演じたかった役柄、見事に取れたんだから」
「すべて今日子さんのおかげです。今日子さんが、あたしのために必死になってプロデューサーさんへアピールしてくれたから」
「それだけじゃないわ。あなたの生まれ持ってのスター性があったからこそよ。いい、香稟。このドラマは絶対に成功させなきゃダメよ」
「がんばります。あたし、ようやくドラマでヒロインを演じることができるんだもん。念願の女子高校生役に」
香稟にとってこれが初めての主演ドラマとなる。これまで脇役として出演経験はあったものの、台本をきちんと受け取っての演技はこれが初めてであった。
これまでいくつものオーディションに挑戦したが、歌手として活動していた彼女の演技はまだまだ未熟、落選という苦い経験もした。しかし、レッスンを重ねていくうちに演技力を身に付けた彼女は、ここに来てようやく主演の切符を掴んだのだ。
そういう理由もあってか、彼女の表情はとても充実さを感じさせる。
新羅はそんな彼女を見て心から安心していた。もう普通の女の子に戻りたいなんてわがままを言わないだろうと。これで、マネジメントにも精力的に取り組めるというものだ。
表情こそ明るいスーパーアイドルだが、がんばり続けていたらかなり疲れているに違いない。少しでも労ってあげようと思いついた新羅は、香稟の肩にそっと優しく手を置いた。
「よし、今日は特別にお祝いしてあげる」
「え、お祝い?」
新羅は後部座席から身を乗り出して、運転手の早乙女に話しかける。
「早乙女クン、ちょっと寄り道するわよ。葛西インターチェンジで降りてくれる?」
「いいですけど、早く戻らないと社長がうるさいですよ?」
「いいわよ、少しぐらい。たまには香稟にものんびりさせてあげなくちゃね」
「今日子さん……」
新羅は微笑みながらお茶目なウインクをする。香稟は感極まって瞳が潤んでしまったが、それをごまかすように満面の笑みを返した。
首都高速道路を葛西インターチェンジで降りた乗用車は、東京湾を望む海岸線へと向かっていく。
しばらくすると、香稟の視界に青く透き通った大海原が現れた。
「わぁ、海だぁ!」
「いい眺めでしょう? わたしも昔はよく、この海岸線を走ってストレスを発散したものよ」
乗用車の窓を開けると、強い風と一緒にほのかに潮の香りがした。高層ビルに囲まれたコンクリートジャングルとはまた違った風景がそこにはある。同じ都内とは思えない眺めだ。
海岸線を走れば走るほど海はますます大きくなる。海というのは見る者の心を躍らせたり和ませたりするから不思議なものだ。
新羅の指示のもと、早乙女はある浜辺付近のパーキングに乗用車を停車させた。その直後、香稟は嬉しさのあまり勢いよく外へ飛び出した。
「わぁ、すっごくきれーい!」
ブロックの塀を乗り越えた彼女は、靴を履き捨てて砂浜まで駆けていく。浜辺へやってきたのは何年ぶりだろうか、まるで小学生のようにはしゃいでいる。
砂と戯れる彼女を目で追いながら、新羅はブロックの塀の上に腰を下ろす。
「あの子ったら、すっかりはしゃいじゃって」
「新羅さーん、三十分だけですよぉ! それ以上遅れると、オレが怒られちゃいますからね」
「わかってるわよ、うるさいわね!」
せっかく海に来たのに時計など気にしたくない。一時だけマネジメントというストレスから解放された新羅は、時計ばかり気にしている運転手に声を荒げて苦言を呈した。
押し寄せる波の音が、香稟の心を癒していく。
辺り一面に漂う潮の香りが、彼女の気持ちを落ち着かせる。
彼女は遠くを見つめるような瞳で、東京湾のさざ波を観賞していた。
「いいなぁ、こうやって近くで見る海って」
大きく両手を伸ばして、海の雄大さを全身で感じている彼女、そこへ新羅が砂に足を取られないようゆっくりとやってきた。
「来てよかったでしょう?」
「そうですね。何だか、すごく気持ちいいです」
「大きな海というのは、悲しい時や辛い時にいつも勇気をくれるわ。綺麗な景色を見ると、心が洗われる感じがするわね」
香稟はその時、“綺麗な景色”という言葉を聞いて、胸の奥にしまっておいたある記憶を思い出した。
「綺麗な景色――。彼がこの海を見たらきっと、綺麗な絵を描くんだろうな」
「ん、何か言った、香稟?」
「いいえ、別に何でもないです」
彼女はその記憶を、また胸の奥へとしまい込んだ。
その記憶とは――。あれからもう数日が経ったが、彼女にとって印象深い出来事、絵を描くことをこよなく愛する、あの唐草潤太という少年のこと。
しばらくの間、波しぶきの音と潮の香りを堪能した女性二人。長らく海風に当たっていたせいか体が少しばかり冷えてきた。
「そろそろ行きませんか?」
「そうね。行きましょうか」
アイドル活動の疲労を吹き飛ばすことができた。そしてマネジメントの疲労を解きほぐすことができた。すっかりリフレッシュした彼女達は、砂浜を踏みしめながら乗用車まで戻っていった。
彼女たちを乗せた乗用車は、勇気を与えてくれる大海原を後にした。
* ◇ *
ここは、唐草潤太の自宅である。
彼は学校から帰宅するなり、宿題もせずに下書きを終えた絵の色付けをしていた。これも、絵画が趣味である彼の日常茶飯事ともいうべきライフスタイルなのだ。
キャンパスに描かれているのはやはり風景画だ。赤色、黄色、緑色などカラフルな色ペンを取り出しては、白い背景にどんどん色を染めていく。その素早さはまさに年季が入っているといった感じだ。
「潤太、ごはんの準備手伝ってちょうだーい!」
色付けに没頭している彼を呼びつけたのは、一階の台所で夕食の支度をしていた彼の母親であった。
ただいまの時刻は夕方五時を回ったところ。どの家庭でも夕食の準備を始める時刻と言える。
面倒くさいと思ったのだろう、彼はあからさまに表情をしかめる。とはいえ逆らうわけにもいかず、溜め息混じりで色付けのペンをしまうと、自分の部屋を出てから一階の台所へと向かう。
「いつも遅いわね、あんたは。母さんが呼んだらすぐに来なきゃダメじゃないのよ。母さんはね、あんたをそんな不良に育てた覚えはないわよ」
「大げさに言わないでよ。そもそも不良だったら、料理の手伝いなんかしないでしょ?」
彼にとって、夕食の手伝いも日課のひとつとなっていた。
彼は石鹸で手を洗ってから、母親の指示を仰ぎながら料理の手伝いを始める。
「母さん、今日は何を作るんだい?」
「大根の皮剥いててわかんないの? まさか、大根使ってビーフシチューでも作るとでも思ったの?」
「そんなわけないでしょっ」
彼の母親はちょっぴりユーモアのある人物のようだ。
ふんわりとパーマをかけてぽっちゃりとした体格。明るく朗らかでおしゃべりが大好き、誰からも好かれるような柔和な人柄を感じさせる女性だ。
彼が手伝いを進めていくうちに、今晩の夕食はふろふき大根だとわかった。ビーフシチューよりも和風テーストの献立だ。
「ねぇ母さん、たまにはリッチなご馳走が食べたいよ」
「リッチ? サンドリッチかい? 夕食にパンなんて日本人らしくないわね」
「それをいうならサンドイッチ。リッチっていうのは高級って意味だよ。例えばさ、ウニイクラ丼とか、松坂牛しゃぶしゃぶ膳とかさ。あと北京ダックもいいよね」
高校生の分際で、やけにリッチな料理を知っている男である。
「あんたね、そういうことは父さんに言いなさい。それに何よ、そのペキンダックって? ディ○ニーみたいじゃないの」
「それはド○ルドダックでしょーが!」
ここにいる仲睦まじい母と子は、こういった会話を繰り広げながら夕食の支度を続けるのであった。
「お~い、兄貴ぃ! いたら返事してくれよぉ~!」
和やかな親子の会話を遮るほどの叫び声。それは、帰宅したばかりの潤太の弟である拳太の声だった。彼は慌てた様子で廊下をドタドタと走っていた。
「おい、拳太。ボクならここにいるぞ」
潤太の声を聞きつけて、拳太は台所へと飛び込んできた。
「はぁ、はぁ……」
拳太は苦しそうに息を切らせている。ただ事ではない様子だが、いったい何があったというのか。
「おいおい、落ち着けよ。どうかしたのか?」
「どうしたもこうしたもねぇよ! 兄貴の学校に、あの香稟ちゃんが撮影に来るんだって!?」
拳太が血相を変えて慌てている理由、それは潤太の学校で話題騒然となっていた夢百合香稟のドラマ撮影のことだった。
それがどうかしたのかと言わんばかりに、潤太は平然とした顔でコクリと頷く。
「そうみたいだな。でも、おまえよく知ってるな」
「さっき兄貴の学校の人がさ、そんな話してんの偶然聞いちゃったんだよ!」
拳太は歯ぎしりしながら悔しがっている。夢百合香稟のことになると、興奮して見境がなくなるのが彼の悪いところだ。
「いいよなぁ、ちくしょー! 兄貴んとこの学校はよ! 何でオレの中学に来ないで、あんな汚くて、あんなむさ苦しくて、おまけにろくな生徒がいない学校なんかに香稟ちゃんがぁ~!」
「悔しがるのは構わないけどさ、おまえ、かなり悪口言ってるぞ」
拳太の悔しさはそれはもう計り知れない。いきなり潤太に突っ掛かると、胸ぐらを掴んで憤怒に満ちた顔を近づける。
「何言ってんだよ、この幸福やろぉ! オレにもその幸運を分けてくれよぉ!」
「そんなこと言われてもなぁ。こればかりは、ボクにもどうしようもないよ」
弟のために幸運をわけてあげたいが、こればかりは無理。というよりも、アイドルに興味がない潤太にしたらそれが幸運なのかどうかもまるで理解できないわけで。
「くっそぉぉ~、憶えてろよ、この薄情者~!」
拳太はそう吐き捨てると、わめき散らしながら二階の自室へと駆け上っていった。
「ボクのどこが薄情者なんだよ、まったく……」
呆れた表情で溜め息を漏らしている潤太。すると、流し台で調理している母親がイライラしながら大声を張り上げる。
「潤太、早く大根の皮剥いちゃいなさい!」
* ◇ *
時は瞬く間に流れた。
いよいよ本日、潤太が通う学校にあのスーパーアイドル夢百合香稟がドラマ撮影のために来訪する。
というわけで、学校には朝早くからテレビ局のスタッフがわんさかと姿を見せ始めた。
大きなトラックが次々とやってきては、それを待っていたスタッフの面々が撮影機材をどんどんグラウンドへと運び出していく。
そんな慌ただしい中、滅多にお目に掛かれない有名人を一目見ようと、早起きした一部の学生がぞろぞろとグラウンド付近へと集まっていた。その物珍しさに、撮影のことを知らない一般人まで集まる始末だ。
とはいえ、撮影そのものはまだ始まっていないので、主役の夢百合香稟どころか脇役の役者すらこの場にはいないのだが。
◇
それからしばらく経ち、学生達が通常通りに登校してきた。
グラウンド内に設置された撮影機材、そしてグラウンド周辺を覆うほどの人だかり。厳戒態勢のようなその物々しさに、学生達は皆唖然とするばかりであった。
その中の一人である唐草潤太は、賑わっているグラウンドを横目に登校していた。
(あれ?)
彼は何かを見つけて、歩いている足を止めた。
(あいつ――!)
彼は小走りで、混み合う群れの中へと割って入っていく。
「おい、おまえ何してんだ!」
「あっ!」
いきなり潤太に腕に掴まれた人物がいた。その正体こそ、どんなことをしてでも夢百合香稟に会おうと企んでいた彼の弟の拳太であった。中学校への登校途中、ルートを変更してここへ立ち寄ったようだ。
「もう学校へ行く時間じゃないか! こんなところにいる場合か」
「いる場合だい! オレは絶対に香稟ちゃんに会うんだもーん!」
「ガキみたいなこと言ってんじゃない! ほら、早く学校へ行くんだ。ズル休みは許さないぞ」
拳太の首根っこを摘むと、潤太は無理やり彼を群れの中から引っ張り出した。人目もはばからずにだだをこねる弟を見て、叱り付けるというよりもすっかり呆れてしまっている。
「うわぁ、お情けを~! 香稟ちゃんに会いたい、せめてサインだけでももらっておくれよぉ!」
「簡単にサインなんかもらえるわけないだろ。いい加減に諦めて学校へ行くんだ」
サインは贅沢にしても、できることならひと目でも会いたい。そんな拳太の淡い夢を、潤太は一切聞き入れることなく厳しく突き放した。
「ちくしょー、バカ兄貴め! 憶えてろよっ、いつかギャフンと言わせてやるからなぁ~!」
拳太は悔し涙を流しながらそこから走り去っていく。時折振り返っては、潤太のことを睨み付けて罵声を飛ばしていた。
「アイツときたら、ホントにいつまでも子供なんだから」
潤太はぶつぶつと愚痴を口にしながら、いつもよりも騒がしい校舎内へと入っていった。スーパーアイドル来訪であっても、子供とは思えないほど無関心、いつも通りに振る舞う彼であった。
◇
いくらドラマの撮影とはいっても、今日が平日であることに変わりはない。そのため、学校では平常通りに授業が執り行われていた。
だがお昼時間ともなれば、生徒達は早々と昼食を済ませて我先にと撮影現場となっているグラウンドへと向かっていった。
潤太のクラスでもそれは他人事ではなかった。お昼休みが始まってまだ十五分しか経っていないというのに、教室内はすでに数名しか残っていない状況だ。もちろんその残っている数名の中には、芸能界にまったく興味のない彼も含まれている。
「おーい、潤太。何してんだよ。早くグラウンドに行くぞ」
「そろそろ夢百合香稟が到着するらしいんだ。急げよ、おい」
潤太をそう誘ってきたのは、彼の親友である色沼と浜柄の二人であった。スーパーアイドルをぜひとも拝んでおこうと、彼ら二人とも興奮のあまりいてもたってもいられない様子だ。
ところが、潤太はというと自分の机にポツンと座ったままだ。顔色ひとつ変えずに昼食をおいしそうに口にしていた。
「ボクは行かないよ。おまえ達だけで行ってきなよ」
楽しいランチタイムを邪魔されたくはない。彼はてこでも動かないつもりだ。
学校の活動の中で、お昼休みを楽しみにしている生徒は少なくないだろう。彼もその中の一人であるが、彼の場合は絵を描けるという点で美術の授業の方が楽しみと答えるに違いないが。
ランチタイムは確かに大切、だが今日は日常とは違う。生涯たった一度きりかも知れない人気アイドルを観賞できる絶好のチャンスなのだ。色沼と浜柄は彼の肩を掴んでゆさゆさと揺すり始める。
「おまえなぁ、どうしてそう人生を無駄に生きようとする?」
「今日という日を無駄にしたらな、おまえの人生はこの先も真っ暗だぞ?」
「そんな大げさな話じゃない! それに揺らさないでよ、ご飯がこぼれちゃうよ」
親友だけではなく学校全体が騒然としていても、この潤太という少年は意固地になってでもいつも通りに過ごそうとする。とにかく無駄なことにエネルギーを注がない男なのである。
「いつまでもメシ食ってる場合か。とにかく行くぞ!」
「そういうことだ。だから黙って付いてこい!」
「わぁ!?」
色沼と浜柄に無理やり廊下へと連れ出された潤太は、結局グラウンドへと向かう羽目になるのであった。
「まだ、ご飯ぜんぜん食べてないのにぃ~!」
◇
テレビドラマ「明日こそ愛あれ」は、笑いあり涙ありの青春ラブストーリーである。
主人公である女子学生が、ある事情で都会の学校へ転校してくるところから物語が始まり、そこで出会ったある男子生徒と部活動を通じて恋心を意識し始める。しかし、同級生や同じ部のメンバーが横恋慕したり、さらに他校の不良達が邪魔したりして、さまざまな困難を乗り越えながら二人の仲がより親密になっていく――。あらすじはざっとこんな感じだ。
さて、このドラマのワンシーンの舞台となるグラウンドには、主人公役の夢百合香稟のお出ましを心待ちにする生徒達で溢れていた。こともあろうか、生徒達だけでなく教職員までもが集まっている。お祭り騒ぎとはまさにこのことであろう。
色沼と浜柄、そして彼らに引っ張り出された潤太の三人も混み合っているグラウンドの一角にいた。前にも横にも人の壁だらけ、撮影を観賞するポジションとしては最悪だ。
「こりゃ、見えないぞ」
「肩車でもするか?」
「それじゃあ、下になったやつがまるで見えないぜ」
彼らが困った顔をしながら相談している間も、アイドルにまるで興味のない潤太は眉根を寄せて不機嫌そうな顔つきのままだった。ランチの途中で、しかも満員電車のような混雑の中に連れてこられたのだからそれも無理はない。
そうこうしているうちに、テレビ局のスタッフが撮影用のテレビカメラのチェックを始めた。撮影監督らしき男性がディレクターズチェアに座って、メガホン越しに大声を上げて何か指示を出している。
『ウォォォ――!』
突如、グラウンド内の野次馬達がどよめき始めた。
出演者の控え室として貸し出されていた柔剣道場、そこからマネージャーと一緒に彼女が姿を現したからだ。そうである、このドラマの主人公の夢百合香稟のご登場だ。
彼女は女子学生役ということで、チェック柄のブレザーとフリルのスカートの学生服に身を包んでいた。彼女自身、年齢的にも学生なのでまるで違和感はない、むしろお似合いとも言える。
生徒達のどよめきはまるで騒音のようだ。ひたすら名前を呼ぶ者もいれば、ただただわめき声を上げて興奮している者もいる。ドラマ撮影というお祭りはまさに絶頂期を迎えた。
「出てきたみたいだな。くっそー、ここじゃあ全然見えねぇよ!」
色沼と浜柄の二人は、アイドルの姿をひと目見ようとしてその場でジャンプしている。しかし、前列もみんなジャンプしているためアイドルの髪の毛一本すら拝むことができない。
潤太はどうしているかというと、どうでもいいよといった態度で一人教室へ戻ろうとしていたが、人で埋め尽くされた壁に閉じ込められて逃げられなくなっていた。
「これ以上は入らないでくださーい!」
テレビ局のスタッフもてんやわんやだ。やんややんやと大騒ぎの見学者達を必死になって制止している。入場禁止のパイロンやロープも役に立たないぐらいの熱気と勢いである。
さすがにこの状態ではまずいと思ったのだろう。テレビ局の関係者らしき男性が、撮影監督から何やら指示を受けて見学者達の前までダッシュでやってきた。
「静かにしてください。これでは撮影を始められません。どうかご協力をお願いします」
こうなると教職員の出番だ。生徒に注意を促してから数分後、グラウンド内のざわつきがようやく収まった。
撮影監督がゴーサインの合図をした。そして、“シーン3”と記載されたカチンコがテレビカメラの前に掲げられた。
「本番いくぞ。――アクション!」
いよいよ香稟が登場するシーンの撮影がスタートした。
体育館を背にしてグラウンドを一人寂しく歩く彼女、ふと立ち止まると、遠くを見つめるような視線を校舎に向ける。
これは主人公である女子学生が、転校を迎えるにあたりお別れする学校の校舎を複雑な思いで見つめているシーンを撮影しているようだ。
わずか三分少々のシーンではあったが、ドラマの中では重要なシーンだったらしく、主人公の心情を描写するような悲しみや寂しさを感じさせるものがあった。
「はい、カット!」
NGなしの一発OKというやつだ。撮影監督の掛け声が響き渡ると、香稟はドラマの役を解いて表情をほんのりと緩めた。
生徒や教職員といったギャラリーも皆、安堵の息をのみ込んで緊張を解いていた。ギャラリーはギャラリーでも、テレビカメラに映っている出演者ではないのでお間違えないように。
グラウンドでの撮影はこれで終わり。彼女は控え室である柔剣道場の方へと戻っていく。
丁度タイミングよく、お昼休み終了まで残り五分といったところ。グラウンドに集まった生徒達も授業に遅れまいと校舎内へと戻っていった。
「いやぁ、香稟ちゃん、いい演技してたなぁ」
「あれなら、もう女優としてもやっていけるな」
色沼と浜柄の二人は嬉々としながらそう話し込んでいた。とはいうものの、距離が離れ過ぎていて彼女の演技などまるで見えなかった彼ら、評論家っぽく語っているが単なる想像に過ぎなかったりする。
その一方で、嬉々としている友達に引っ張り回されただけの潤太。肩を落として途方に暮れる姿は何とも哀れである。
(もう昼休み終わっちゃうよ。ついてないや……)
彼は校舎の天井を仰ぎながら、残ったお昼ご飯の処理をどうしようか考えながら教室へと向かっていった。
◇
ドラマの撮影は滞りなく進んでいた。
校舎内のシーン、体育館内のシーン、そして教室内のシーンと。香稟は憧れだった主人公、そして女子高生役を演じた。
この主人公の女子高生だが、前向きで明るい性格の持ち主であるが人には言えない暗い過去を引きずっており、時折笑顔が消え失せて沈み込む表情を見せなければいけない難しい役どころだ。
彼女は台本通りに演じ切っていたものの、念願だった女子高生役に舞い上がっていたせいもあってか、暗くなるシーンで表情がにこやかになってしまい、撮影監督から撮り直しのお叱りなんかもあったりした。
それでも、それを反省してしっかりと役割をこなし関係者一同をうならせた。これも、スーパーアイドルの域を超越した天性なる才能だったのかも知れない。
時刻は瞬く間に夕方前。テレビ局のスタッフと役者の面々は、この日最後の撮影場所となる生徒玄関へとやってきた。
そのシーンは、下校しようと主人公の女子学生が下駄箱へやってくると、後ろから相手役の男子生徒に声を掛けられて、それに対して恥じらいながら返事をするといったシチュエーションである。
藍色の制服姿の香稟は、下駄箱でスタンバイする。
真っ黒な制服姿の男子生徒役の役者も、下駄箱近くの廊下で待機している。
準備完了の合図に、アシスタントディレクターが大きな声を上げた。
テレビカメラが静かに回りだした。
(…………)
無言のままで、自分の名前が入った下駄箱を目で追う女子高生。転校してきたばかりの設定だけに、その様子は少しばかりおぼつかない。
自分自身の下駄箱へ、彼女はゆっくりと視線を合わせていく。
「――――!」
その時、彼女の視線がピタリと止まった――。
彼女は自分自身の下駄箱とは違う、まったく想像していなかった下駄箱と遭遇した。それは、演技すら忘れてしまうぐらいに偶然的で衝撃的な遭遇であった。
撮影監督はすぐに、彼女の表情と動きが台本通りではないと気付いたが、さほど気にすることでもないと判断し、そのまま撮影を続行した。
シーンは次の展開となり、待機していた男子生徒がカメラの前へと現れた。そして、硬直している彼女に声を掛ける。
「やあ! 今帰るところ?」
(…………)
彼女は声を掛けられたことに気付かない。
これは台本通りではなかった。しかし、撮影は続行された。
(…………)
待つこと数秒間。台詞が発せられないこの状況に、ついに撮影監督は痺れを切らした。
「カーットォ!」
「はっ――!」
撮影監督の怒鳴り声に、我に返った女子学生。
「おいおい、どうしたのよ、香稟ちゃん! ここで君の台詞だったはずだよ!」
「ゴ、ゴメンなさい! つ、ついボーっとしちゃって」
彼女は恥ずかしさと申し訳なさから何度も頭を下げた。
下駄箱でのシーンは撮り直しとなり、スタッフはもう一度準備に取りかかる。男子生徒役の役者も先ほどの定位置まで戻っていく。
そして、彼女は気持ちを落ち着かせようと深呼吸する。
(…………)
まるで導かれるように、彼女はある下駄箱を横目で見つめた。
――“唐草潤太”という名前の入った下駄箱を。
* ◇ *
夕方過ぎ、本日の撮影は無事に終わりを告げた。
ここは校舎の二階にある教務室。テレビ局のスタッフや役者達が教職員とお礼を兼ねた挨拶を交わす。
主人公役の香稟も教頭先生に挨拶をした。教職員を束ねる教頭先生とはいえ、スーパーアイドルを目の前にしたらすっかり恐縮して平身低頭であった。
「いやぁ、今日はご苦労さまでした。わたしの息子があなたの大ファンでしてね。いやははは。もしよかったら、サインなんかを頂けないでしょうかね?」
教頭先生は手を擦ってゴマをする。それに気づいた一部の教職員がちょっぴり不服そうだ。職権乱用とはこのことで、一人だけずるいと言わんばかりの表情である。
彼女は快く了解した。彼女にしたら断る理由もない。
しかし、他の教職員の視線を気にしたのか、サインをする代わりにひとつだけ条件を提示することを思いついた。彼女は周囲に漏れないよう小声でそれを伝える。
「こちらの学校に通っている男性生徒で、ひとつ教えて頂きたいことがあるんですけど」
◇
テレビ局のスタッフが次々と学校から出発していく。
役者達も移動用のロケバスへと乗り込む。しかし、香稟だけは事務所の乗用車での移動だった。さすがは主人公役の人気アイドル、エキストラとは違ったVIP待遇とも言えるだろう。
マネージャーの新羅今日子と共に、彼女は乗用車の後部座席へと乗り込んだ。
「香稟、今日はお疲れさま。初日とはいえ、よくがんばったわね」
「ありがとう、今日子さん。三回もNG出しちゃったから、次の撮影はもっとがんばらなきゃ」
「フフ、いい心掛けよ。その意気で、明日からの撮影もがんばりましょう」
「はい」
運転手の早乙女がエンジンを掛ける。ゆっくりとアクセルが踏み込まれて、彼女達を乗せた乗用車は静かに発進した。
学校の校門付近には、授業を終えて放課後を迎えていた学生達が群がっていた。よく見てみると、香稟の名前が入った衣装をまとったファンの人も交じっているようだ。ファンたるもの、いつでもどこでも参上するものなのだろうか。
校門をくぐる乗用車に手を振っている学生達。乗用車が過ぎても、走って追いかけてくるファンもたくさんいた。香稟はそれを見ながら、感謝の気持ちを込めて小さく手を振っていた。
「自宅に戻った後だけど……。そうそう、夜に来週の歌番組の収録がひとつ入っていたわね。どこかで夕食を軽く済ませてしまいましょうか。その時にでも、ファンレターの返事についてお話しましょう」
新羅はシステム手帳をペラペラとめくって忙しそうだ。スーパーアイドルのスケジュールは過密だ。敏腕マネージャーたるもの、スケジュールは常にチェックしておかなければならない。
「あの、今日子さん」
香稟はそっと声を掛けた。それにマネージャーは笑顔で応える。
「あたし、最近とってもがんばってますよね? お仕事もひとつひとつ一生懸命にしっかりやってますよね!?」
唐突にそう問いかけられた新羅は一瞬唖然とした。いつにない香稟のハイテンションぶりに驚きを隠せない。
「え、ええ。がんばってるわ」
そう返答を聞いた瞬間、香稟は両手をパチンと叩き合わせる。これは間違いなく懇願のポーズだ。
「がんばっているご褒美に、ひとつだけ、あたしのワガママを聞いてくれませんか?」
「えっ――?」
新羅はドキッと鼓動が高鳴った。
もしかして、また自由が欲しいとか言い出すのではないか?と思ったのか、ゴクッと緊張の生唾をのみ込んで表情がみるみる青ざめていく。
「な、何? ワガママって……」
「実はですね。あたしが前に逃げ出した時に、お世話になった人がいるんです。その人にどうしてもお礼が言いたいの」
「そ、それで、どうしろというの?」
* ◇ *
「ただいまぁ~」
潤太は一日の勉学を終えて自宅へと辿り着いた。
「…………」
家の中から返事がない。しかし、リビングの方から明かりが漏れている。それは誰かがいる証拠だろうが、そこにいるのが住人とは限らない。泥棒の可能性も否定できないからだ。
玄関でそっと靴を脱ぎ、抜き足差し足忍び足で廊下を歩き、恐る恐るリビングのふすまを開けてみると、そこには、寝転がってマンガ本を読んでいる弟の拳太がいた。
「何だよ、いるんだったら返事ぐらいしろよ。泥棒かと思うだろ?」
「…………」
拳太はマンガ本に夢中になって返事をしない。これには温厚な潤太も頭に来たようだ。
「おい、拳太!」
「ヘン! 話し掛けんなよ、バカ兄貴!」
拳太はそう突っぱねるとそっぽを向いてしまった。口を尖らせているところをみると、潤太に対して何か思うことがあるのだろう。それはもちろん今朝の出来事、夢百合香稟に会うことを邪魔した兄貴に嫉妬心と嫌悪感を抱いていたからである。
「もしかして、まだ朝のことで怒ってるのか? いい加減大人になれよ」
「うるさい! オレはまだ子供だもんねっ!」
「開き直ってどーする!」
いつまでもふて腐れる弟を見ながら、潤太は呆れた表情を浮かべるしかなかった。
「くっそぉ~! いいよなぁ、兄貴はよ。香稟ちゃんをそのいかがわしい目で見たんだろ?」
「いかがわしい目ってひどいな。見たといってもほんの一瞬だよ。かなり遠くだったし、まるでわからなかった」
お昼休みに友人に連れ出されて観賞に行ったわけだが、あまりのギャラリーの多さと騒音の大きさに疲労ばかり溜まり、さらに昼食まで食べ切れなくてとんだ災難だった。それが潤太の今の心境であろう。
そうはいっても、アイドルを見られただけでも儲けものだ。拳太は悔しさのあまりマンガ本を投げ出すと、寝転がりながらジタバタと暴れ出した。
「どうして味気ない兄貴なんかが見れてさ、味わいのあるオレが見れないんだよぉ! この世の中、何かおかしいぞぉ!」
「もう過ぎたことだろ。見れた見れないなんてたいしたことじゃない。アイドルだってボク達と同じ普通の人間じゃないか。見れたからって、全然羨ましく思えないさ」
「そこが兄貴のマヌケなところなんだよ。相手は普通の女の子じゃないんだっ! 今世紀最後のスーパーアイドルなんだぞ。私生活も、着る服も、食う物も、寝る場所も、すべてが別格なんだってばぁ~」
「そんなものなのかな、アイドルって……」
弟から力説されても、潤太はアイドルの存在価値についていまいち納得感が得られなかった。それでもあのお祭り騒ぎを体験し、アイドルが特別で偉大な存在なのはわかった気がした。
人間にはそれぞれ価値観というものがある。絵画をこよなく愛する彼が、弟や友人から認めてもらえないのもそういう理由があるからであろう。
「あれ、そういえば」
リビングや流し台をぐるりと見回してみた潤太はある事に気付いた。もう夕方過ぎだというのに、母親の姿がないことに。
「なぁ、母さんは出掛けてんのか? もうすぐ夕食の時間じゃないか」
「今日は父さんとデートだってさ。だからオレ達はオレ達で食えって。テーブルの上にメモが乗ってるよ」
リビングのテーブルの上には一枚のメモ紙がある。潤太はそれにざっと目を通した。
「……今日は二人の結婚記念日だったのか。おまえ知ってた?」
「ぜーんぜん」
両親の結婚記念日、それを息子二人が知らないのは常識か非常識か迷うところ。この息子達にしてみたら、家族揃ってのお祝いはお誕生日ぐらいなので、両親の結婚記念日なんて知らなくて当然とも言うべきか。
それはさておき、夕食のご馳走はなんだろう。潤太は興味ありげに冷蔵庫の中を調べてみる。すると――。
「おい、冷蔵庫に食材しか入ってないぞ」
「ええ!? そんなわけないじゃんか!」
拳太は慌てて立ち上がり、潤太の側へと駆け寄った。
冷蔵庫で冷やされているものは確かに食材ばかり。後は飲み物のお茶やジュースの容器に、マヨネーズや練りワサビといった調味料の類しか入っていない。
「そ、そんなバカな! 母さん、もしかして作り忘れたのか!?」
「もしかして母さん、これを使ってボク達に作れと……?」
彼らの母親が残したメモ紙には、食事の支度をしましたとも温めて食べてとも何も書いていない。ただ一言、“食べたければ冷蔵庫にあるからよろしくね”と書いてあるだけ。
旦那様との久しぶりのデートでおしゃれに夢中になっていた彼女、そのせいで作っている時間がなくなりやむを得ずメモ紙だけ残して出掛けることになったのが、このたびの真相だったりする。
これは困ったことになった。育ち盛りの少年にとって夕食抜きはまさに一大事。お弁当を買いに行くも出前を頼むも、彼ら二人とも食事代を持ち合わせていないのである。
唐草兄弟は真っ青になって、流し台の前でジタバタと騒ぎ出した。
「ジョ~ダンじゃないぜっ! オレに料理なんか作れるわけないよ。兄貴が作ってよ」
「えっ、ボクが作るのかぁ?」
「だって、兄貴はよく母さんの手伝いしてるじゃないか!」
「手伝いったって、大根とか人参の皮剥きぐらいで、まともに料理やったことなんてないんだぞ」
彼らはしばらく口論を続けたが、最終的には兄である潤太が思いつくまままに料理をすることになった。思いつくもなにも、適当と言った方が正解だろうが。
「言っておくけど、拳太。見た目が悪くても味が悪くても文句言えないからな」
「わかってるよ、そんなこと。それより、何でもいいから早く作ってよ」
潤太は似合わないエプロンを身に付ける。そして、冷蔵庫から豚肉を数切れまな板の上に置くと、慣れない手つきで包丁を動かし始める。
『キンコーン――』
料理を始めた矢先、玄関のチャイムの音が鳴り響いた。父親と母親が帰ってくる可能性は低い。しかも、チャイムを鳴らすということは間違いなく来客であろう。
「お客さんが来たぞ。拳太、出てくれよ」
「へ~い」
拳太は読んでいたマンガ本を閉じると、面倒くさそうな足つきで玄関の方へと歩いていった。
一方の潤太は、そのまま料理を続ける。
「う~ん。豚肉を切ったのはいいけど、どういう料理にするか決めてなかったな……」
彼はどうやら、何を作るか決めずに料理を始めたようだ。素人がよくやる失敗というやつだ。
豚肉の生姜焼き――。いや、生姜がどこにあるかわからない。
ポークソテー――。いや、もう豚肉を細かく切ってしまっている。
あと、豚肉を使った料理は何があるだろう――?彼がいろいろな料理を頭に思い浮かべていた、まさにその時だった。
「わぁ、わぁあぁあぁ、わぁあぁあぁ、わぁあぁあぁぁ!!」
突然、意味不明な絶叫が家中にこだました。
「な、何だぁ!?」
潤太は驚きのあまり、手に持っていた包丁を投げ出してしまった。
この絶叫は紛れもなく拳太の声だった。彼にいったい何があったというのか。潤太は大急ぎでリビングを飛び出して玄関へと向かった。
彼の視線の先、玄関には尻もちをついて身震いしている拳太がいた。
「拳太! ど、どうしたんだ、おまえ?」
拳太の震える人差し指は、玄関先に立っている女性に向けられていた。
その来訪した女性に、潤太は視点を合わせる。
肩先まで伸びた黒髪、清楚で可憐な印象を与える高校生ぐらいの美少女。夕闇という薄暗い中でも、女神のように輝いている彼女はまさにアイドルと呼ぶにふさわしい。
「えっ――!」
「お久しぶり、潤太クン!」
そこに立っていたのは、もちろん忘れもしない、あの時の女の子だ。
「き、君は、信楽由里……サン?」
「あの時のお礼に来たの」
突然のことだけに頭の整理ができていないのだろう。潤太は口をポカンと開けたまま、彼女のことを呆然と見つめていた。
そんな彼よりも頭が混乱しているのは弟の拳太の方であった。まるで二人が知り合い同士のようにお話していることに愕然としていた。
「ど、どどど、どうして兄貴が~!」
拳太は立ち上がることもできず、兄と女の子を交互に指差しながら割れんばかりの大声を張り上げる。
「どうして兄貴が、ゆ、ゆゆゆ、夢百合香稟ちゃんとおしゃべりしてるんだよ~!?」
「へ?」
“夢百合香稟”――?
それはスーパーアイドルの名前だ。どういうことだ、目の前にいるのは信楽由里だったはず。この女の子はいったい誰なんだ!?
そんな疑問が脳裏を駆け巡り、潤太も頭の中がパニックになってしばらくその場から動くことができなかった。
とある日曜日に偶然に知り合った男女二人は、またこうして偶然に再会した。そう、運命の糸はほどけることはなかった――。
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