1.男と女の出会う街角
アイドル――。皆さんは、どんなイメージを抱くだろうか。
煌めくスポットライトの下、マイクを握り締めてステージの上で華麗に舞うスーパースター。
若年層のファンからの声援を受けてテレビ界、映画界といった世界を席巻するトップスター。
幼少時代に誰でも一度は憧れるだろうが、たとえ望んだとしてもスターと呼ばれるアイドルになれるのはほんの一握り、夜空に輝く星のごとく果てしなくて遠い存在だ。
この物語は、そんな雲の上にいるアイドルと地上で暮らすごく普通の高校生との甘酸っぱくてほろ苦いラブストーリーである。
* ◇ *
「いやぁ、やっぱりかわいいよなぁ、香稟ちゃんは!」
「ん、カリン? カリンって果物のことか?」
「何言ってんのさ! ほら、テレビに映ってる女の子だよ!」
ここには、テレビの話題で会話するごく普通の少年二人がいる。
その内の一人は関心がないのか、きょとんとした表情でブラウン管に目を向ける。もう一方の少年はそれを見て呆れた顔をした。
「なるほど、この子がカリンなのか」
「夢百合香稟! 今世紀最後のスーパーアイドルだよ!」
「ふ~ん」
興味なさそうな表情でテレビから視線を逸らした少年。彼の名は唐草潤太という。眉の下まで伸びたさらさらな髪の毛と、白くて血色のいい顔立ちはいかにもインドア派といった感じ。現在、高校三年生の十七歳である。
そして、彼のすぐ隣にいるもう一人の少年は弟の唐草拳太。スポーツ刈りに近い短髪、肌は少しばかり色黒でアウトドア派といった印象だ。現在十四歳、中学生である。
この少年二人、見た目通りまったく正反対の性格だったりする。兄は控え目でおとなしい性格、冷静沈着で感情を表に出すタイプではない。一方の弟はというと活発で落ち着きがない。好奇心旺盛で、後先を考えずに行動してしまうタイプだ。
そんな兄弟二人は、自宅のリビングにてそれぞれの時間を過ごしていた。
兄の潤太は床にうつ伏せて、風景写真が載った分厚い本を広げて眺めている。もう一方の拳太は、テレビの人気歌番組を食い入るように眺めている。ここでは、ごく一般的でごく普通のくつろぎが繰り広げられていた。
ブラウン管越しに流れる人気スーパーアイドルの曲、声、それらがはるか彼方からしか聞こえないと思うのが普通であろう。
ところが、この普通の日常を覆すとんでもない事件が訪れることを今の二人は知る由もなかったのである――。
* ◇ *
某テレビ局――。
ここでは、高視聴率を誇る人気歌番組の生放送が行われていた。
この歌番組はゴールデンタイムに放映されており、出演する歌手のジャンルも年代もさまざま、そのおかげで老若男女が視聴する国民的な人気番組でもあった。生放送さながらの緊張感も番組をより盛り上げていた。司会者と歌手とのトークにも定評があり、出場した新人歌手は売れるなんていうジンクスもあるぐらいだ。
夜も十時を過ぎて放映時間が終わると、一人の女子アイドルが周りのスタッフに声を掛けられながら早足で控え室へと向かう。
黒目がちのパッチリとした二重瞼の瞳、肩先まで伸びたしなやかな黒髪、清楚なイメージが売りのアイドルらしくナチュラルメイクでお姫様のような顔立ち。ラメの入ったステージ衣装もとてもチャーミングだ。
「お疲れさまでした」
彼女が控え室へ戻るなり、待機していた専属のメイク係の女性が満面の笑みで声を掛けた。
控え室には彼女と専属メイク係の女性二人しかいない。トップクラスのアイドルにもなると、他の出演者と共用ではない専用の控え室を手配してもらえる。テレビ局側もそれ相応の配慮をしているのだ。
室内には衣装が収納できるクローゼットや、打ち合わせができるようテーブルを挟んで向かい合ったソファーが四脚、また化粧台の正面には室内が見渡せるほどの大きな鏡がある。一人専用の控え室には一通りのものが揃っているといった印象だ。
専属メイク係の女性は、化粧台の椅子に腰掛けた人気アイドルの髪の毛を手慣れた手つきでとかし始める。
「今日の曲は新曲なんですってね。いい曲でしたよ」
「――ありがとうございます」
つい先ほど歌唱した新曲は有名作曲家から提供されたもの。賞賛の声をもらったのに人気アイドルの声は少しばかり元気がなかった。彼女はおもむろに、鏡に映る備え付けのテレビ映像を眺めていた。
そのテレビ番組はある特集をしていた。それは、今時の女子高生を相手にした街頭インタビューであった。
「最近よく遊んでるスポットを教えて下さい」
「え~っとねぇ、やっぱ渋谷かなぁ。あと原宿の表参道もいいよねぇ」
「そうそう。そんな感じぃ~ってとこかなぁ」
真っ黒に日焼けした女子高生達は微笑ましくインタビューに答えている。いろいろなテーマでインタビューが続き、そのたびに彼女達のエネルギッシュで生き生きとした表情がテレビから流れてきた。
それを人気アイドルは無言のまま見つめていたが、それから数秒後、深い溜め息を漏らしながら。
「いいですね。あの高校生達……」
「え、何か言いました?」
「ううん、何でもないです」
何気ない一言をポツリと囁いて視線を逸らしてしまったのは、今世紀最後のスーパーアイドル夢百合香稟であった。女子高生を羨ましがった彼女の心の中に何が浮かんでいたのだろうか。
◇
「お疲れさま、香稟。今日はこれでお仕事終わりよ。明日のスケジュールだけ伝えておくわね」
テレビ局から一台の黒光りした乗用車が滑り出した。その車内には、夢百合香稟と一緒に彼女の専属マネージャーも同乗している。事務的な口振りとクールに澄ました表情のマネージャー、その名を新羅今日子という。
インテリっぽく銀縁のメガネを掛けており、ワンレングスの髪の毛はやや茶色に染まっている。まつ毛の長い瞳と真っ赤なリップは艶っぽくて、マネージャーでありながらも女優のような美貌の持ち主だ。
「明日は朝八時から週刊誌の表紙の撮影、その後、朝日出版と写真雑誌の打ち合わせ。それが終わったら、サンテレビで特番の収録があるわ。あ、そうそう、その間にあけぼのドリンクスのCM撮影の打ち合わせもあるんだったわ」
さすがはスーパーアイドル。出るわ出るわと香稟の一日のスケジュールは多忙そのものだ。彼女は浮かない顔をしながら、夜の街の明かりをぼんやりと眺めていた。
ここ東京の夜景は煌びやかで眩い。高層ビルの照明、自動車のヘッドライト、街灯や信号機の点灯。アイドルとして活躍している彼女に、この宝石のような光はどう映っていたであろうか。
「どうかしたの? 今日はいつもより元気ないじゃない」
「…………」
香稟は車窓から視線を落として塞ぎ込んでしまった。聞き取りにくいぐらいの小声でやり切れない胸の内を明かす。
「あたし、明日もお休みないんですね。きっと、明後日もそうなんですね」
「えっ、それどういう意味よ?」
新羅は香稟の言葉が理解できていないようだ。呆気に取られたせいもあってか、彼女の問い返した語気は少しばかり上擦っていた。
「あたしは、学校に行っていれば高校三年生です。高校生だったら友達と街へ出掛けて、いろいろなところで楽しく遊んでるはずですよね。それなのにあたしは……。来る日も来る日もお仕事ばかりで、まともにお休みも取れない」
香稟の年齢は十七歳。高校一年生の時、街で歩いていたところを今の芸能プロダクションにスカウトされた。人前で歌ったり踊ったりすることが好きだった彼女、勧誘されるがまま芸能の世界へと飛び込んだ。
歌手としてデビューしてからは順風満帆。新曲を出すたびにヒットチャートにランクインする勢いで、テレビ出演や雑誌の撮影などアイドル活動は忙しくなるばかり。芸能プロダクションと両親とで相談した結果、仕事優先のため高校を中退したのである。
彼女のそんな悲愴な心境を聞かされても、マネージャーの新羅は呆気に取られるばかりだ。まさかマネジメントしているアイドルから後ろ向きな発言が飛び出すとは思ってもみなかったからだ。
「何を言ってるの。あなたは業界きってのスーパーアイドルなのよ。他の高校生と一緒の生活なんてする女の子じゃないわ。それにヒマがないほど忙しいのは人気がある証拠じゃない。この芸能界にはね、あなたと違っていつまでも芽の出ないアイドルだってたくさんいるんだから。ふざけたこと言っちゃダメじゃない!」
そう叱責を受けるや否や、香稟は瞳に涙を浮かべて訴える。
「それじゃあ、あたしは周りにいる高校生とは違う人種なんですか? その子達と同じように、楽しく遊んだり、どこか出掛けたりしちゃいけないんですか? そんなのおかしい。あたしだって、みんなと同じように生まれてきたはずなのに――」
香稟は堪え切れずに泣き叫んだ。高校生のように青春を謳歌し、友達と騒いだり恋愛だってしたい。それはアイドルに限らず人間として生まれてきた者の権利というものだ。
これには新羅も困惑めいた表情をするしかない。悲しみに暮れる香稟を宥めて落ち着かせようとするしか手立てがなかった。
「いったいどうしたって言うの? いきなり今日になってそんなこと言うなんて。芸能生活が楽しいって、あなた自身あんなに喜んでいたじゃない」
香稟はうつむいていた顔を静かに持ち上げる。涙のせいで潤んだ視線は虚空に飛んでいた。
「最初は楽しかったんです。だけど、人気が上がるたびに自由がなくなってしまって。アイドルと呼ばれることの意味って何なんだろうって。所詮は人を楽しませるだけの道化師、肝心のあたしの楽しみはどうなるんだろうって」
「あなたはそれを覚悟の上で芸能界に飛び込んだんでしょう? 芸能界で生きる者はみんなそういう運命なの。決してあなただけじゃないわ」
芸能人はいわゆるエンターテイナー。テレビやスクリーンの前にいる大衆を楽しませたり喜ばせたりするのが商売だ。夢や希望を実現できたり、富を得たりもできる、これは一般人では味わうことができない優越感というやつだ。
それは香稟も当然わかっていた。人前で好きなだけ歌を歌えたらどんなに素敵だろう、幼い頃からそう思っていたからこそ芸能界という厳しい世界に飛び込んだのだから。
うら若き少女は、芸能人という自分の立場を悔いている。しかし、スーパーアイドルとなった今ではそれもただのわがまま、自分勝手な主張でしかなかった。
新羅はそれを容認できるはずもなく苛立ちを抑え切れなくなっていた。口調が明らかに今までよりも荒くなっている。
「香稟。今後、そういう話はしないでくれる? あなたには、わたしのなし得なかった夢がかかっているのよ。お願いだから、もうそんな言葉は口にしないでちょうだい」
香稟はマネージャーの説教に対して口を閉ざしたままうなずいた。いくらわがままを押し通したところで、現実に世界が変わるはずもないのだから。
彼女達二人を乗せた乗用車は、夜のネオンが煌めく市街地を走り抜けていった。
* ◇ *
とある日曜日のこと。
ここは、東京都杉並区某所にある“唐草”と書かれた表札を掲げる家である。
「あれ、母さんは?」
「さっき出掛けたよ。何でも近所のスーパー大安売りなんだってさ」
「ふ~ん」
リビングで寝転がっている弟に声を掛けたのは兄の唐草潤太だ。青色のトレーナーと空色のジーパンといういでたち。スケッチブックを腕に挟ませてリュックサックを背負っているが、彼はこれからどこへ外出するつもりなのだろうか。
ちなみに余談だが、彼らの母親はバーゲンセールに目がない。近所のスーパーはもちろんのこと、ひと駅もふた駅も先にあるスーパーであってもチラシ広告を握り締めて駆け出していくほどだ。
「ボク出掛けてくるから。母さんに伝えておいてくれよ」
拳太はチラッと兄を一瞥すると、眉間にしわを寄せて呆れたような声を上げた。
「兄貴ぃ~、その格好だとまたアレかよぉ」
「うるさいな。おまえには関係ないだろ」
アレと表現されたものとはいったい何か?
どうやら拳太には潤太の外出の目的がわかっているようだ。スケッチブックを手にしているということは、おのずと想像はついてしまいそうだが。
弟の冷たい視線に見送られながら、潤太はお気に入りのスニーカーを履いて自宅を後にした。
◇
日曜日の午前中、お天気はまずまずといったところ。
自宅の最寄りの駅から電車へと乗り込んだ潤太は、ゴミゴミとした都内を離れていく。彼の目指す場所とは、東京都内から少し離れた自然に囲まれたすがすがしい場所だった。
電車を降りてから徒歩三十分ほど、その目的地が彼の視界に飛び込んだ。
「はぁ、やっと着いたぁ」
そこは、緩やかな丘を登ったところにある都営公園であった。
休日ともあって公園内にはいろいろな人がいる。杖をついて歩く老夫婦、ベビーカーを押して歩く若いママ、人の目も気にせずに騒がしく走る子供達。穏やかなお天気の下で、みんながみんなにこやかな表情をしている。
彼は園内に到着するなり、周囲をキョロキョロと見渡し始めた。
「あ、ここだここだ」
そこには赤や黄色といったカラフルな色で彩った花壇がある。彼は花壇のすぐ側のベンチへ腰掛けるとスケッチブックを広げた。
「よし、今日はこの天気のおかげで、ボクのイメージ通りの絵が描けそうだな」
そうである。彼がここへやってきたのは趣味である風景画を描くためであった。
高校二年生の時、ある絵画展へ風景画を出展し何と佳作をもらった経験があるほどの腕前なのだ。学校では勉強や運動は冴えない彼だが、これまた美術とあらばずば抜けた才能を発揮する少年なのである。ちなみに美術はほぼ好成績をキープしている。
彼の紹介をしている間にも、ものすごい勢いで風景を描写し続ける。彼のスケッチブックには、雄大にそびえる木々と慎ましく佇む花壇が描かれていた。
絵を描き始めると、周りに泣き叫ぶ子供がいようが、イチャつくカップルがいようが、人に向かって吠えまくる犬がいようが、あまつさえ首を振って群れる鳩の集団がいようとも、彼の絵筆を持つ手が決して止まることはない。それはまさに、絵画の世界に没頭しているといっても過言ではないだろう。
――ところが、そんな彼の手を止めさせる集団が現れてしまった。
(あっ)
それは、彼のモチーフである花壇の中で遊び始めた幼い子供達だった。
いくら絵画に熱中できる彼でも、モチーフの中に邪魔者が入ると絵を描くことを止めてしまうのだ。それがどうも、彼自身のポリシーというかこだわりのようである。
(参ったなぁ。これじゃあ、花壇の絵が完成しないよ。あんな子供相手に出ていけなんて言えないしな)
彼は頭を抱えて苦悩する。
その後も、幼い子供達はかわいいお花と戯れ続けた。
五分――。
十分――。
そして十五分――と時間が経過していく。
結局、その後も事態は何も変わらずモチーフの花壇は子供達に占領されてしまったのである。
ガクッと肩を落としてスケッチブックを畳んだ彼は、このまま本日のスケッチを終えることになってしまった。
「仕方がないな、今日は。あ、そうだそうだ、帰るついでに新宿に行って絵具でも買って帰ろうっと」
* ◇ *
その頃、遮光フィルムを貼ったウインドウに覆われた乗用車が一台、東京都内の激しい渋滞の中でノロノロ運転を続けていた。
東京都内の車道はいつでもどこでも混雑している。平日であれば営業車にトラック、休日になれば自家用車がどこからともなく集まってくる。大げさかも知れないが、スイスイ快適に走行できる時なんて深夜や早朝、あと盆と正月ぐらいではないだろうか。
その乗用車には、これからテレビの収録に向かうアイドルの夢百合香稟とマネージャーである新羅今日子が乗車していた。赤信号でストップするたびに車内の雰囲気はどんどん険悪になる。
「もう! 今日はやけに混んでるわね。早乙女クン、もう少し近道はないの? このままだと収録時間に遅れちゃうわ」
「いやぁ、この街道はほとんど抜け道がなくって、ははは」
「笑い事じゃないでしょ。収録に遅れたらプロデューサーさんに悪い印象を与え兼ねないわ。とにかく何とかしなさい」
「無茶言わないで下さいよ、新羅さ~ん。そもそも、この街道に抜け道があったらこんなに混むわけないじゃないですかぁ」
運転手の早乙女とマネージャーの新羅の押し問答は続く。怒りや苛立ちをあらわにしたところでスピードが上がるわけでもなく、ましてやテレビ局がこちらに来てくれるわけでもない。
走っては止まり、また走っては止まりを繰り返す。このままではいっこうにテレビ局まで辿り着けない。新羅は深い溜め息を漏らして後部座席のシートにもたれかかってしまった。
「さっきのCMの打ち合わせが思ったより延びちゃったからなぁ。どうしようかしら、もう」
落胆の色を表情に浮かべているマネージャー、ところが、香稟はというと焦るどころか冷めた面持ちで街の景色を見つめている。というよりも、関心がないぐらいうわの空だった。
「…………」
彼女の視界に入ったもの。
流行のファッションに身を包んだ少女達――。
群がっておしゃべりしながら歩いている少年達――。
微笑ましく腕を組んで寄り添い合っているカップル達――。
今日は日曜日、それぞれがそれぞれの楽しみや思い出作りのために街を闊歩している。そのすべてが、今の彼女にとって羨ましく思える光景であろう。
しかし、人気アイドルに街を闊歩する余裕などない。今日も明日も、この先もずっと自由のない窮屈な日課だけが待っている。
これでは乗用車という名のかごの中の鳥。彼女は芸能界という限定された世界の囚われの身であった。
「…………」
彼女の心は激しく揺れ動いていた。
自由を手に入れたい、でも自由を手にしてはいけない。その葛藤は苦しみと痛みの感情を伴っていた。
彼女は幾度となく心と対話し、そして質問する。
本当にこのままでいいのか?自由を捨て去り、かごの中の鳥のままで生きていくのかを。
(……あたしだって楽しく生きたい。あの子達みたいに!)
彼女はついに心の中で決心した。
誰にも気付かれないようにドアのロックを外す。それこそが、大胆不敵で衝撃的な行動を予言していた。
「また赤信号じゃないの! このままだと間に合わないから無視しちゃいなさい!」
「ダメですよっ、こればっかりは無視できません」
赤い点灯により乗用車は停止を余儀なくされた。新羅のイライラはまさに頂点、それでも早乙女は安全運転が第一だとマイペース。この二人の間にますます険悪な空気が流れていた。
(よし!)
ついにその時がやってきた!
香稟は勢いよくドアをこじ開けると、そのまま街の外へと飛び出してしまったのだ。
「え――!?」
頭の中が真っ白になった新羅。開いた口が塞がらず呆然としている。早乙女も事態が飲み込めないのか目を丸くしたまま硬直していた。
香稟は振り向きざま、許しを請うように両手を合わせた。
「今日子さん、ゴメンなさい! 今日だけ、今日一日だけ、あたしに自由をください! お願い、あたしのわがままを許して」
「ちょ、ちょっと、待ちなさい、香稟!」
思いっきり手を伸ばした新羅だったが、時すでに遅し。その手は空しく空気を掴んだ。
乗用車からまんまと逃げることに成功した香稟は、車道と歩道を仕切る柵を飛び越えて人混みの中へと姿を消していった。
「何してるの、早乙女! 香稟を見つけなさ~い!」
「は、はい、了解しました~!」
鬼の形相で怒声を上げた新羅に指示されるがまま、早乙女は青信号に変わると同時にフルアクセルで発進した――が。それから数秒後、乗用車は数メートル手前に進んだだけで停止するのであった。それはなぜかというと?
「この渋滞ではどうしようもなかったわね。こうなったら、わたしが捜すしかないじゃないのよ」
新羅は乗用車から勢いよく飛び出すと、逃走した人気アイドルの捜索へと走り出していった。
◇
都内新宿である。
自由の世界へ舞い降りた香稟は、周囲の目を気にしながら歩道沿いの雑貨屋へと駆け込んだ。売れっ子アイドルだけに気付かれたらどうなるか知れたものではない。彼女は変装するための帽子とサングラスをポケットマネーで購入した。
ピンク色のワイシャツにフリルのロングスカート、その普段着の上に素早く変装してから混雑する歩道へと躍り出た彼女、窮屈な世界とはまた違った世界がそこにある。視界に映る街の景色も吹き抜ける風も新鮮そのものであった。
行き交う人々とすれ違いながら、彼女は新鮮さいっぱいの新宿の賑わった街並みを散策する。
(信じられないな。数年前までは普通に歩いていたはずなのに。何だか体が宙を浮いてるみたい、不思議)
学生時代を思い起こしてみる。普通の女の子として過ごした記憶が走馬灯のように頭に蘇ってきた。ファーストフード店で寄り道したり、ファッション専門店でウインドウショッピングしたり。数年前の懐かしい思い出に浸りながらちょっぴりはにかむ彼女だった。
一日に何千人といった人でごった返す新宿駅付近。百貨店や家電量販店が林立し、居酒屋やスナックが軒を連ねる歓楽街もあって昼夜問わず賑わっている都内でも屈指の集客エリアだ。
新宿駅東口の近くまでやってきた彼女は、とあるビルの大型映像モニターへ目を向ける。すると――。
(あ、あたしが映ってる)
そこには、香稟が映っているコマーシャルが偶然放映されていた。
映っている本人だというのに、彼女は自分自身の姿をまるで他人であるかのように眺めていた。それが自分自身ではないという感覚、テレビの向こう側ではなく、こちら側の世界にいることをより実感できる瞬間でもあった。
丁度その時、彼女の近くで若い男の子二人組がコマーシャルの映像を見つめながら何やら会話をしていた。
「やっぱり夢百合香稟ってかわいいよな」
「そうかなぁ、オレは末広竜子の方がいいけどな」
「スエヒロ? いや、カリンだよやっぱり。おまえの目腐ってんじゃないのか?」
「いやいや、おまえの方がおかしいって。絶対にスエヒロだ」
そんな言い争いをする彼らの正面を香稟はクスクスと微笑しながら横切っていく。彼らもまさか、会話のネタとなっている本人が目の前を通り過ぎていったなんて想像もできなかったであろう。
彼女はそれからしばらく、学生時代に戻った気分でぶらぶらと市街地を歩き回った。深々とかぶる帽子と瞳を隠したサングラス、この変装により完璧にカモフラージュしていたかに見えたが、やはり彼女は伊達にスーパーアイドルと呼ばれてはいなかった。
正体がバレないようにと、うつむき加減で歩き続ける。しかし若者達とすれ違うたびに、彼女の名前らしきキーワードがかすかに後ろから追いかけてくる。
まずい、このままでは気付かれる!そう察知した彼女の両足は一歩、また一歩と速くなり、すでに小走り気味であった。
(――――!)
彼女は背後からとてつもない圧力を感じ取った。
不安、緊張、恐怖、悪寒といった感情が全身を駆け巡り、彼女の背中がにわかに汗ばむ。
両足がすくんで立ち止まってしまった彼女、ドキドキと心拍数を上げながら静かに顔を後ろへ向けてみると……。
「――――!!」
何と背後には、数十人はいるかも知れないほどの若者達が列をなして群がっていたのだ。その若者達は皆、彼女がスーパーアイドルの夢百合香稟ではないか?と疑っているようだ。
彼女はその状況に圧倒されて呆然と立ち尽くしている。
「やっぱり香稟ちゃんだっ!」
その集団の中の一人が大声で叫んだ。すると、それに触発された他の若者達がドーッと彼女に向かって押し寄せてきたのだ。そう、まるで津波のように。
サインを要求する者、握手を要求する者、おまけに体に触れようとする者までいる。このままでは、芸能ニュースどころか警察沙汰となって夜のトップニュースに報道されるほどの大事件が起きてしまう。
(逃げなくちゃ――!)
身の危険を感じた香稟は、猛ダッシュでその場から走り出した。
それに反応した若者達は必死になって追いかける。彼女と触れ合えるという、この絶好のチャンスを逃すまいと。
市街地を舞台にした、女の子一人と男の子の集団との追走劇。ホラー映画の“ゾンビ”を彷彿とさせるその異様な光景に、街行く人達は皆釘付けとなっていた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
息を切らせて逃げ続けても、いずれはやってくる体力の限界。このままでは若者達に捕まってもみくちゃにされてしまう。
意識すら遠のいてしまいそうになった次の瞬間、彼女にとって窮地を脱するかどうかの転機が訪れる。車通りが多い道路を横切る横断歩道の信号は青色の点滅。彼女はそれを見逃さなかった。
横断歩道の信号は青の点滅から赤へと変わった。ところが、彼女は止まることなく横断歩道へ突入してしまったのだ。
これは明らかな信号無視、乗用車のクラクションの音がけたたましく鳴り響いた。しかし、彼女は無事に向こう側まで辿り着くことができた。つまり、逃げ切ることに成功したのだ。
「わー、待ってよ、香稟ちゃ~ん!」
若者達の落胆の叫び声が交差点に鳴り響く中、彼女は人通りを避けるように薄暗くて細い路地へと逃げ込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ。助かったぁ……」
ビルの外壁に手をついて激しい息継ぎをする彼女。そして、崩れるようにその場にひざを落とした。
「参ったな。まさかバレちゃうとは」
お化粧もしていなければステージ衣装も着ていない。帽子とサングラスで変装してもやはりバレてしまうものなのか。スーパーアイドルという肩書きの恐ろしさに戸惑いを隠せないと同時に、どこにいても自由を奪われる現実に直面して嫌気が差してしまう彼女であった。
五分ほど休憩して呼吸を整えた彼女は、細い路地からまた人通りの多い歩道へと戻っていく。チラチラと周囲を警戒しながら、恐る恐る人混みの中へと紛れていった。
(ここには、さっきの人達はいないみたい)
彼女は安堵から胸を撫で下ろした。とはいえ、びくびくしながら歩いている姿は警察官に追われる犯罪者のように見えなくもない。
せっかくの機会だからもう少し散策を楽しもう。彼女は帽子を深くかぶって、うつむき加減になりながら歩道を歩き続けた。
すると――。
(あ、今日子さんだ!)
香稟の進行方向の先、距離にして十メートルほど、そこには彼女の行方を血眼になって捜しているマネージャーの新羅の姿があった。かなり捜し回ったのだろう、美形が崩れてしまうぐらい彼女の顔は汗でびっしょりだ。
新羅に迷惑を掛けたくはないが、まだこの世界で自由を満喫し切れていない。この追撃をやり過ごそうと、香稟は隠れられそうな場所を目で追った。
しかし、相手がまずかった。隠れる場所を見つける前に、どうやら新羅は変装している香稟に気付いたようだ。さすがはデビュー当時からマネージャーをしているだけのことはある。
(どうしよう!)
心の中でそう叫んだ香稟は、隠れられる場所を横目で探しながらゆっくりと後ずさりしていく。
新羅は視線をまっすぐに見据えて駆け足で近付いてくる。その表情は数メートル先からでも憤怒に満ちているとわかる。
これは捕まったら大目玉を食らうだけでは済まなそうだ。香稟は追い込まれてしまい焦りと不安と恐怖に怯える。
(あっ――)
その直後だった。建物と建物とのわずかな隙間にある路地を発見するなり、つま先を蹴ってそこへと駆け込んだ。
『タタタタッ――』
日の光があまり届かない暗がりの路地。建物の勝手口用の通路らしく路面は黒ずんで汚れており、ごみ容器や飲み物のケースが乱雑に並べられていた。
この路地の先に明るい光が待っているかどうかわからない、それでも逃げ続けるしかない。香稟は後ろを振り返ることなく無我夢中になって駆けていく。
――この時、彼女にとって思いがけない出会いが待っていた――。
『ドッタ~~ン!』
「キャッ!」
「うわっ?」
突然の強い衝撃に、彼女は跳ね返されるように吹き飛んだ。
地面に尻餅をついた彼女、暗がりの中かすかな視界に入ったものとは、自分と同じように地面に倒れ込んでいる一人の少年であった。
「いたたた……」
その少年は痛みを堪えながら、ゆっくりとその場に起き上がる。
「だ、大丈夫ですか?」
心配そうに声を掛ける少年。彼女は大丈夫と返答しながらゆっくりと腰を持ち上げた。
「大変、急がなきゃっ!」
「え、何を?」
事態がまったく把握できず、彼は一人で唖然としていた。
追っ手である新羅から逃れようと大慌ての彼女だったが、どうやらお尻を強打していたらしく思うように足を踏み出すことができなかった。
「う、痛い……」
「大丈夫?」
彼は不安げな表情でそう問いかけた。相手がいくら見ず知らずの他人とはいえ、衝突して転倒させてしまった以上、何事もなかったかのように立ち去っていくわけにはいかない。
彼女は痛みと焦りで苦悶の表情を浮かべている。
このままでは捕まってしまう。しかし路地は一本道だし、建物内に逃げ込むことも難しい。八方塞がりのこの状況、もう諦めて投降するしか道はないのか。
いや、まだ諦めるのは早い。彼女はチラッと横目で少年のことを見つめる。こうなったら藁にもすがる思いで、ここにいる彼に救いを求めるしかなかった。
「お願い! あたしをかくまって」
「えっ」
「あたし、追われてるの! どうかお願い!」
追われている一人の少女との出会い――。何やら不穏な気配が漂うが、彼女はいったい何者なのだろうか。少年は戸惑いの表情を浮かべる。
普通ならここで、面倒事に巻き込まれたくはないと考えて断るところ。だが、追いつめられて怯え切った彼女の顔を見てしまったら放ってなどおけるはずもない。
この女の子を守らなければ――!彼は生涯最初で最後かも知れない勇気を振り絞って行動を起こした。
「わ、わかった。それなら、ここに隠れて!」
◇
「はぁ、はぁ、はぁ」
眉を吊り上げて、鼻息を荒くして、牙を剥き出して、まるで鬼のような顔をしたマネージャーの新羅は、香稟が逃げ込んだ路地へと突入した。
もし、香稟の身に何かあったらそれこそ一大事。アイドルとしてのイメージダウンを招くばかりか、監督責任を問われて事務所から厳しく罰せられる。彼女の心情は焦りと苛立ちでいっぱいだ。
そんな心情とは裏腹に、目の前にはスーパーアイドルの姿はどこにもない。その代わりに、一人のごく普通の少年が何をするでもなくぽつんと佇んでいるだけ。
この少年ならきっと何かを知っているはず。彼女は襲いかからんばかりに彼に飛び掛かっていった。
「ちょっとあなた! この道を高校生ぐらいの女の子が通り過ぎていったでしょ? 正直に答えなさい!」
鬼の襲来にびっくり仰天。食い殺さんばかりの威圧感に、彼はたじろいで委縮してしまった。
どうなの、どうなの?と強引に詰め寄られて恐ろしさに震える中、やっとの思いで言葉を絞り出した。この路地のさらなる奥の方を指差しながら。
「は、はい。い、行きましたよ。向こうですぅ……」
「そう、どうもありがとう!」
お礼の一言も途切れるぐらいの素早さで、新羅は薄暗い路地を華麗なフォームで駆け抜けていった。学生時代に陸上選手でもやっていたのだろうか。
「こ、怖かったぁ~」
安心感からすっかり気が抜けてしまった少年は、ひざまずくようにその場に腰を下ろした。
鬼の脅威は去ったものの、まだすべてが解決したわけではない。女の子の正体は?なぜ追われているのか?冷静になろうとしても、そんな疑問が浮かぶばかりでとても冷静にはなれなかった。
『ガポ~~ン!』
突如、無造作に置いてあった業務用のゴミ箱のふたが開いた。
何とその中から、香稟がムッとした表情のまま飛び出してきたのだ。
「ちょっと! かくまってもらって言うのもなんだけど、ゴミ箱に隠れろなんてひどいんじゃない? あたしだって、れっきとしたレディなんだからね!」
「そんなこと言われてもさ。こんなところで、かくまう場所なんて他にないでしょ?」
「それは、そうだけどぉ!」
少年の言う通りである。こんな一本道の路地で隠れるなんてそもそも無謀だし、かくれんぼしてもすぐに見つかる。的を射ている言い分ではあるが、どうにも釈然としない香稟であった。
さて、彼女のことを救ったこの少年。もうお気付きだと思うが、先ほどまで風景画に没頭していたあの唐草潤太である。絵具を購入しようと、ここ新宿まではるばるやってきたその途中であった。
何はともあれ拘束という難からは逃れた。彼女はゴミ箱から抜け出すと、衣服についた汚れやほこりを払い落した。
「とりあえず助かったわ、どうもありがとう」
目の前には、日本中を揺るがす話題沸騰のスーパーアイドルが立っている。ところが、芸能音痴の潤太はそれに気付かなかった。街中でよく見かける普通の女子高生、彼の目にはそう映っていたようだ。
そんな普通の女子高生に対し、彼は疑惑の眼差しを向けている。
「あのさ、追われていたみたいだけど。君ってもしかして……脱獄犯?」
「あのねぇ、こんなかわいい脱獄犯がどこにいるのよ? そんなわけないでしょう!」
彼女の言う通り、かわいい脱獄犯にはできることならお目にかかりたくはない。
「それなら、どうして逃げ回ってるの? 何か悪さしたんじゃないの?」
「悪さといえば悪さかな。強いて言うなら、ちょっとしたイタズラかしらね」
「ふ~ん」
香稟はこの時、ある不思議なことに気付いた。それはスーパーアイドルである自分を目の前にしても、彼は驚かないばかりか平然としているからだ。
「ひとつ聞いてもいい?」
「何?」
「あなた、あたしのこと……もちろん知ってるよね?」
「えっ、初めて会うと思うけど」
「うそっ! ホントに知らない?」
香稟は目を見開いておののく。
それは無理もない。潤太ぐらいの年齢、つまり高校生で夢百合香稟を知らない者はいないと彼女自身そう思っていたからだ。少しばかり自意識過剰というべきところだが。
「うん。ボクと、どこかで会ったことある?」
「いや、ごめんなさい。知らないならそれでいいんだけど」
「?」
アイドルだとバレていないのなら、むしろ好都合ではないか。彼女はちょっぴり複雑な心境ながらもホッとした心境でもあった。
その一方、不思議そうな顔をしている潤太。彼女の思わせぶりな表現がさっぱりわからず、ただただ首を傾げるしかなかった。
「それじゃあ、ボクもう行くから」
彼はこれからお買い物という用事がある。突然出会った不審――いや、不思議な少女と別れを告げてここから離れようとする。
すると、彼の背中を香稟は大声で呼び止める。
「ちょっと待って。もうひとつお願いしてもいいかな?」
「え? ま、まだあるの?」
彼は眉根を寄せながら振り向く。厄介事はもう勘弁してほしいと訴えている顔つきだ。
「な、何よ? そんなに迷惑そうな顔しなくてもいいじゃないの」
「だってさ、君って何だか怪しいんだもの」
「ア・ヤ・シ・クない! あたしは、ごくフツ~の女の子だもん!」
失礼ね!と言わんばかりに、彼女は頬を膨らませて口を尖らせた。その子供っぽい仕草は、スーパーアイドルではなくごく普通の高校生そのものである。
潤太は男の子の中でも臆病な性格だ。言葉ではなく表情で断ろうとしたものの、彼女の強引さと語気の強さにどんどん気圧されていく。
そして――。臆病な彼はもう断る勇気もなくなり、渋々というよりも嫌々だが、目の前にいるお姫様の仰せのままに従うしかなかった。
「わかったよぉ。お願いっていうのは?」
香稟は満面の笑みを浮かべると、人差し指を自分自身の顔に向けた。
「あのね、このあたしに渋谷、原宿界隈を案内してくれない?」
「へ――?」
いきなり何を言い出すんだろう?潤太は動揺を隠せない。
「あまり遊んだことないのよ、渋谷とか原宿。だから、これからあたしを案内してほしいの」
「案内って言われても無理だよ。ボクだって、そんなによく知ってるわけじゃないし」
彼はご承知の通り、東京都杉並区在住。お買い物で新宿までやってくることはあっても、若者の街と謳われる渋谷、原宿界隈はほとんど皆無。遊んだ経験など一度もなかった。静かな場所を好む彼だからこそ、賑やかな街を散策したりウインドウショッピングをしたりしないのだろう。
「そこは気にしないで。ただ一緒に付き合ってくれればそれでいいから」
「ど、どういうこと?」
またまた思わせぶりな表現に、彼はまたしても首を捻った。
彼女はこの時、この少年をうまく利用しようと企んでいた。彼と一緒に行動することで世間の若者達が自分の正体に気付きにくくなる。それに、一人で行動するよりは明らかに安全なのも計算してのことだった。
「一緒に付き合ってよ。ね?」
お姫様のような女の子は無邪気に笑う。愛らしく、また悪びれることなく誘惑してくる。こういうシチュエーションが初めてのせいか、潤太の心音はバクバクと激しく高鳴り、頬は真っ赤に染まっている。
「あ、あの、それって……。もしかして、逆ナンパ?」
「違うわよっ! あなた本気でぶつわよ、もう!」
「わわっ、ゴメンなさい!」
衝動的に右腕を振りかざす香稟であったが、彼女も本気で平手打ちなんてするつもりはないだろう。それでも感情的で怒りっぽい性格なのは間違いないようだ。
こうして意味もわからぬままに、彼は予定をキャンセルして彼女の二つ目のお願いを聞いてあげる羽目になってしまった。
◇
若者の街、渋谷――。
充足感を満たすために、今を楽しく生きる人々が今日も所狭しと集まっている。
一日に最大五十万人が通行すると言われるスクランブル交差点。ランドマークとして有名な“SHIBUYA109”。待ち合わせ場所でお馴染みの忠犬ハチ公の銅像など、渋谷は全国的にも名の知れた見どころ満載の街でもある。
そんな賑やかな街へとやってきたスーパーアイドルの香稟とその付き人役の潤太。彼女達二人は隣り合って歩いている。
傍目で見たら、この二人はまるでカップル、恋人同士に見えなくもない。しかしながら彼女達の関係はあくまでも他人同士、つい今しがた出会ったばかりの異色のコンビなのだ。
ちなみに、彼は一度も女の子と交際したことはない、デートというものも未経験だ。どちらかと言えば、女の子が苦手な方だったりする。
「へぇ~、いろいろなお店があるんだね」
「うん、ホントだ」
「あ、あそこ入ってみよう!」
「えっ! ちょっと待ってよ」
もうすっかり彼女のペースである。手を引っ張らんばかりの身の振る舞いに、彼は振り回されっぱなしで追いかけるのが精一杯だった。
これも水を得た魚というやつか。彼女にしたら、渋谷という街はさも大海原と言えるかも知れない。あらゆる人種という魚と一緒に自由を満喫しながら泳いでいる、そんな心も体も浮ついた感覚を味わっていたようだ。
彼女達二人はその後も、おしゃれな雑貨店やオープンカフェなどを回って有意義な時間を過ごした。
アイスクリームショップに立ち寄り、三段重ねのアイスクリームをおいしそうに口にしている彼女。そのすぐ隣で、彼女のことを黙ったままじっと見つめる彼。
「何? あたしの顔に何か付いてる?」
「えっ、な、何もないよっ」
彼は恥ずかしさから慌てて目を逸らした。
きっかけはどうあれ、男女がこうして一緒にいたらこれはれっきとしたデートではないだろうか。デート未経験の彼にしたら衝撃的で刺激的な一時というやつだ。
しかも、すぐ隣にいる女の子は素性も知らない赤の他人。彼は現実味を感じることができず、夢でも見ているような錯覚を覚えていた。
◇
香稟と潤太の二人は渋谷を後にすると、原宿をぶらりと散策してから代々木公園まで足を運んだ。
代々木公園は都内の都立公園の中で五番目に広く、陸上競技場や野外ステージを備えた多目的施設でもある。園内にはたくさんの木々が生い茂り、春にはお花見、秋には紅葉も楽しめる風光明媚な場所だ。
さすがは日曜日。園内には老若男女いろいろな人々が集まってさまざまなライフスタイルを楽しんでいた。気温も丁度よく、お散歩日和と言ってもおかしくない。
街中を回って歩き疲れた彼女達二人は、休憩しようと空いているベンチへと腰掛けた。
「う~ん、今日は気持ちいい天気だね」
香稟は両手を上空にかざして目一杯全身を伸ばした。
「そうだね」
潤太も彼女に釣られるように大きく伸びる。
心地よいさわやかな風が頬を掠めた。人の流れが速い雑踏から離れて、時間が止まったかのようなゆったりとしたひと時だ。あまりの心地よさにうとうとして、目をつむったら夢の中に落ちてしまいそうだ。
「そういえば、ちょっと気になったんだけど」
彼女は何かを思いついたのか、彼が脇に抱えているあるものを指差した。
「これ、スケッチブックだよね。何でこんなの持ってるの?」
彼が抱えていたもの、それはスケッチブック。彼はもともと絵画制作のために外出していたのだ。
「何で持ってるって絵を描くからに決まってるでしょ。まさか、うちわ代わりにでもすると思ったの?」
「そんなわけないでしょ! そんな大きいうちわ、まともに仰げないじゃない!」
――何とも下らない会話である。
「意外ねぇ、あなたが絵を描くなんて。ハッキリ言って似合わないなぁ」
絵を描くのに似合う似合わないの基準はあるのだろうか。それはさておき、彼女は思いついたことを悪気もなく遠慮せずにはっきりと口にする性格のようだ。
一方、似合わないとはっきり言われてしまった彼は少しばかり憮然としたご様子。お気に入りの趣味を似合わないと言われたのだからそれも仕方がない。
「ムッ、悪かったね。どうせボクは絵を描くより恥をかく方が似合うって言いたいんだろう?」
「あははは。あなた、その表現うまいわね。おもしろい」
「……笑うだけで、フォローとかしないんだね」
ふて腐れる彼をよそに、彼女はお腹を抱えて笑っている。
こんな風に笑ったのはいつぐらいぶりだろうか。アイドルの微笑みはあくまでも商売上のもの、演技ではない正真正銘の笑顔なんて本当に久しぶりではないだろうか。
同年代の男の子とおしゃべりするのも久しぶりだし、高校生の頃に戻っているような感覚なのであろう。この触れ合いが、かごの中の鳥だった彼女に生きている実感を与えたのは間違いない。
「ねぇ、ちょっと中身を見せてよ。あなたがどんな絵を描くのか知りたいな」
絵画といった芸術にそれほど関心があるわけでもないが、彼女はそのスケッチブックにちょっぴり興味が湧いたようだ。
「ヤダよ。ボクのこと笑ったくせに。絶対見せてやんないよ~だ」
「もう笑わないから、お願いよ。――あ、もしかして、あなた女の裸体とか描いてるんじゃないでしょうね?」
「か、描いてないよっ! ボクは、そんな絵なんか――」
「それなら、どうしてそこまでして隠すの? あ~やしぃなぁ~」
慌てたり疑ったり照れたり冷やかしたり、男女二人は表情を豊かにしてまるで小学生のような会話を繰り広げる。
「見せてよ~」
「嫌だよっ」
スケッチブックを奪い取ろうとする彼女、それをムキになって守ろうとする彼。じゃれ合う攻防戦はしばらく続いた。
「あれ、あんなところにお巡りさんがっ!」
「えっ!」
彼女は真顔になっていきなり大声を上げた。
それにびっくりし、彼は条件反射的に周囲を見回した。――それが、スケッチブックを奪うための彼女の策だとも気付かずに。
「スキありっ」
「わっ!?」
一瞬のスキをつかれてスケッチブックを奪われてしまった。術中にまんまとはまってしまった彼だが、何も悪いことをしていないのにお巡りさんで反応してしまう自分が何とも哀れで情けない。
「さ~て、どんな絵を描いてんのかな?」
ワクワクドキドキ――。彼女は期待と興奮を声で表現しながら、留め具のボタンを外してスケッチブックの一ページ目を広げる。
(――――)
それを見た瞬間、彼女の表情が一変した。無言になり笑顔が消えてしまっている。
そんな状況など露知らず、彼は悔しさと恥ずかしさのあまり頭を抱えていた。スケッチブックを覗き見されてしまったら心穏やかとは言えないだろう。
それから数秒間、沈黙の時間が流れた。むしろそれが苦痛となり、彼は気が気でない様子だ。
「……な、何で黙ってんのさ? さては笑いを堪えてるな?」
彼はびくびくしながらそう問いかけた。彼女の意地悪っぽい冷ややかな笑みが目に飛び込んでくるのかと思うと怖くてたまらない。ところが、彼女の口から漏れる一言は思いもしない言葉であった。
「上手だね」
「――へ?」
彼は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「綺麗に描けてるじゃない。はっきりいって、これはすごいよ!」
「そ、そうかな」
貶されるどころか、まさか褒められるなんて。彼は声を上擦らせて照れ笑いを浮かべている。
スケッチブックに表現されているもの、それは今日の午前中に都営公園で描写した風景だった。青い空と白い雲、緑の木々と色鮮やかな草花。臨場感溢れるその描写に彼女は圧倒されていたようだ。
さらにスケッチブックのページをめくってみる。秀逸で繊細な絵画が視界に入ってくるたびに、すごいすごいと感心と感激の声を上げていた。
「あなた、絵描きさんになれるんじゃないの?」
「そんなことないよ。絵描きで生きていくには、こんな中途半端な絵じゃやっていけないよ。ボクの絵なんてまだまだ子供だましだもん」
彼は照れながらも、画家という職業の難しさを語った。
彼のような高校生だったら、もっと自分自身の才能や実力に誇りを持ってほしいものだが謙虚な態度を取るのも無理はないのだ。一人前の画家として生計を立てるのは決して楽な道のりではない。
芸能界と同じで、画家という世界でもプロとして有名になれるのはごく一部。個展を開いて認知度を上げるためにもそれなりの人脈と資金がかかる。売れるためには並々ならぬ努力と運も必要なのである。
「そうなんだぁ」
彼女は感心しながら頷いていた。芸能界でアイドルのトップに君臨するまで苦労らしい苦労をしなかっただけに、彼が語る画家という職業の難しさや奥深さに強く惹かれるものがあったようだ。
彼女はますます、絵画を趣味にしている潤太という男の子に興味が沸いてきた。
「ねぇ、ねぇ。ほんのちょっとでいいから、ここの風景を描いてみて」
「えっ、い、今から?」
スケッチブックを彼に返すなり、次はここ代々木公園の風景を描いてほしいとリクエスト。彼女は悪びれる様子もなく期待の眼差しを向けてきた。
ひらめきで絵を描くタイプなので、頼まれて絵を描くなんて簡単なことではない。乗り気ではないのだろう、彼は眉根を寄せて嫌そうな表情を浮かべている。しかし、女の子から熱い眼差しを向けられるとどうしても断り切れない彼もここにいる。
ラフなタッチという条件付きで、彼は小さく首を縦に振った。そしてスケッチブックの白紙のページを広げると、モチーフとなる代々木公園ののどかな景色に目を向ける。
モチーフとスケッチブックを交互に見ながら、愛用の鉛筆ですらすらと作画を始める。先ほどまでとはまるで違う凛々しい顔つき、絵画の世界に没頭している証であろう。
「…………」
そのすぐ隣で、彼女は口を閉じたまま彼の横顔をじっと見つめている。絵そのものに興味があるのか、それとも彼そのものに興味があるのか、その真意はよくわからない。
ここ代々木公園に、二人だけの、二人きりの、穏やかで静かな時が流れていく。周囲の人々も一切邪魔しない、スケッチブックの中の絵画に見入る二人だけの世界だ。
出来上がったのだろうか、彼は鉛筆をスケッチブックから下ろした。
「こんな感じだけど」
「できたの? 見せて、見せてっ」
スケッチブック上にある風景は、紛れもなくここ代々木公園の景色だった。わずかな時間だったとはいえ、その描写は繊細で上品、鉛筆ならではのしなやかさがよりリアル感を引き出している。絶賛に値するほど、見る者の心を魅了する素晴らしい出来栄えだ。
「わぁ、すっごく雰囲気出てるね。ホントに絵描きさんになりなよ」
「ありがとう。がんばってみるよ」
彼を誉め称える彼女だが、この時、ある疑問が浮かんだ。先程スケッチブックを眺めていた時にも気付いた素朴な疑問だった。
「どうして風景しか描かないの? 例えば人物画とか、そういったのは描かないの?」
スケッチブックのすべてのページには、人物らしきものは描かれていない。人間どころか、鳥や犬といった動物すらも――。
その真相について、彼は包み隠さず告白する。
「ボクさ、小学校の時から絵を描いていたんだ。その時は絵画というよりもイラストに近かったんだけど。中学生の時、家族旅行で北海道に行ったんだけどね、そこで、綺麗な風景画を描いてる絵描きさんに出会ったんだ」
彼は中学校時代の頃を懐かしむように振り返る。彼女はその話を真面目な顔で聞いている。
「自慢じゃないけど、絵には自信があったんだ。だから、その絵描きさんに見てもらったんだよ。ボクの描いた絵を」
家族や友人といった素人ではなく、専門家の目で一度評価してもらいたい。押し付けがましいと思いつつも、たまたま出会った名も知らぬ画家の前でご自慢の絵をお披露目した。学校の美術の時間で使っているスケッチブック、そこには、風景だけではなく人物もしっかりと描かれていた。
果たして、その画家が口にした評価とは――?
「君には才能があるよ、ってそう言われたんだ。すごく嬉しかったよ。自信はあったけどさ、まさか褒められるなんて思ってもみなかったから」
絵画を生業にしている人からのお褒めの言葉。プロを目指していないにしても、才能があると褒められたら嬉しくなるのは当然だ。
頬を赤らめて照れ笑いを浮かべる潤太を見て、香稟もうんうんと相槌を打って同感している。彼女だって彼の絵画を認めている者の一人だからだ。
「だけどさ……」
なぜか、彼の表情がにわかに曇っていく。
「人物のタッチは減点だね……ってそう言われたんだ。よく描写してるけど、感情とか躍動が感じられないってね」
感情や躍動――。それは絵画において専門的で抽象的な表現であろう。
潤太はその時、それがどうにも理解できなかった。正直なところ、高校生になった今でも理解できているといったら嘘になる。
「減点って言われたからショックだったよ。その後の旅行中も、そのことばかり気になって楽しめなかった気がするんだよね」
しばらく悩んだ挙句、彼が出したたったひとつの結論、それは、減点となり得る人物をキャンパスに描かなければいい。そうすれば、プロからも一目置かれる絵画を描ける。
「弱点を見せたくないというのかな。だからボクは風景画しか描かなくなったんだよ」
「へぇ~、そうだったんだ。風景画だけは一人前ってわけね」
「何か引っ掛かる言い方だけど、まぁ、そうなっちゃうね」
年頃の男女二人は大きな公園の片隅で充実した一時を過ごした。
彼女にとってはお忍びの市街地散策。彼も予期せぬ女の子と初めてのデート体験。ただ、絵具のお買い物は残念ながらできなかったが。
楽しい時間はあっという間に過ぎていくもの。たった数時間とはいえ、たくさんの楽しい思い出を作った二人にお別れの時刻が訪れた。
◇
代々木公園を後にした二人は、夕焼け空の下、黄昏色に包まれる新宿駅までやってきた。
平日の夕刻時ならスーツ姿のサラリーマンやオフィスレディで混雑しているが、今日は日曜日ともあって幾分か人の流れは少ない。それでも、世界屈指の乗降客を誇る新宿駅はたくさんの人々で賑わっていた。
そして、辿り着いた先は新宿駅西口改札の前。今日初めて出会った若い男女二人が笑顔で向き合っている。
「今日は本当にありがとう、わがままを聞いてくれて。すごく感謝してるよ」
「こちらこそありがとう。新宿で遊んだりしないから、今日はすごく楽しかったよ」
香稟は被っていた帽子を外して深々頭を下げた。潤太もそれに合わせるように腰を曲げて丁寧なお辞儀をした。
切符を駅員に渡して改札を抜けていく彼女。愛らしい笑顔を振り向かせると、大きく両手を振った、さようならと。
この時、離れてしまう寂しさが彼の心の中に浮かび上がった。ここでさようならしたら、もうお別れなのだろうか。もう二度と会うことはできないのだろうかと。
そうだ、何かきっかけを作らなければ。駅の雑踏の中へ消えてしまいそうな彼女に向かって、彼は無意識のうちに大声で叫んでいた。
「ねぇ、ちょっと待って!」
「――――!」
彼女は瞬時にクルッと振り向く。
「あ、あのさ、ボク達、お互い自己紹介してないよね? できたらでいいんだけど、名前を教えてくれないかな?」
実はこの二人、自己紹介どころか名前すらも明かしてはおらず、“あなた”や“君”といった呼び方でこれまでの時間を過ごしてきた。正式なデートではないので、それも不自然ではないのかも知れないが。
彼女は一瞬だけ唖然としたが、その数秒後には口元を緩めて改札付近まで戻ってきた。せっかく出会ったのだから、自己紹介ぐらいは礼儀のひとつであろうと。
まず紳士っぽく男の子の彼から名前を打ち明ける。
「ボクは、唐草潤太。高校三年生の十七歳」
「へぇ、偶然だね。あたしと同じ歳だなんて」
潤太と香稟は同級生であった。だからといって、まったく同じ境遇ではない。
彼女の方は今は高校生ではない。アイドル活動に専念するために高校を中退しているから私生活はまるっきり異なっている。
そういう境遇の違いがありながらも、初めて出会った男女二人がこんなにもフィーリングが合ったのは不思議だ。同年代ならではの価値観がマッチしていたからなのであろうか。
さて、次は彼女が名前を名乗る番だ。
「あたしは――」
名乗ろうとした途端、彼女は一瞬言葉に詰まった。そして、その数秒後。
「――あたしは、信楽……信楽由里よ」
彼女は誰もが知っている“夢百合香稟”の名前を伏せた。そもそも“夢百合香稟”は芸名であり、“信楽由里”こそが本名なのである。
なぜ芸名ではなく本名を名乗ったのか?周囲の人々にアイドルであることを気付かれまいと思ったのか、それとも、目の前の少年にだけはアイドルとしてではなく普通の女の子として見てほしかったのだろうか。
「もし、また出会えたら一緒に遊ぼうか」
「うん、そうだね。また一緒に遊ぼう」
彼女は改めてお別れの挨拶をすると、駅構内の人混みの中へと消えていった。それは、スーパーアイドル夢百合香稟にとってお忍びの冒険の終わりを告げるものであった。
彼女が芸能人とは露知らず、一人の少女の後ろ姿を目で追い続ける彼。とんだ偶然で知り合い、散々振り回されながらも、彼女と一緒に遊んだ今日の思い出はきっと忘れることはできないだろう。
もう一度、こうやって会うことが出来るのかな?
夢のような不思議な体験にちょっとだけ笑みを零し、彼は夕闇迫る家路へと向かっていった。
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