3.そこにある真実はひとつ

 唐草潤太の自宅のリビング、ここには彼と弟の拳太、そして突如やってきた一人の女の子がいる。

 不思議な出会いで知り合った彼女の名前、それは信楽由里。しかし、弟は彼女の名前をスーパーアイドルの夢百合香稟と呼んだ。

 この二つの名前が頭の中を飛び交い、潤太は疑問と混乱の渦中に巻き込まれていた。

 来訪者の彼女をリビングに招き入れた彼であったが、どう切り出したらよいのかわからず、しばらく長い沈黙の時間が続いた。

 一方の彼女はいたって落ち着いていた。四角いテーブルを挟んで彼と向かい合い、彼からの質問を待っている様子だった。

 この長い沈黙に我慢ができなかったのは拳太であった。彼は兄の横っ腹を指先で突いて早く話を進めるよう促してきた。

 このままでは事態が進展しないというわけで、潤太は深呼吸をひとつしてからようやく口を開いた。

「君は、あの時の、女の子だよね?」

「ええ」

「どうしてボクの家がわかったの?」

「あなたの学校の教頭先生に頼んで教えてもらったの」

「ど、どうしてボクの学校を知ってるの?」

「今日、あなたの学校に行ったからよ。ドラマの撮影のためにね」

「き、君はいったい――?」

 質問を繰り返してもやはり頭の整理ができない。信楽由里という人物と夢百合香稟という人物がどうしても結び付かないようだ。

 この辺りについては拳太の方が整理できていたらしく、冷静さを欠いている兄に理解を促そうと割って入ってきた。

「兄貴、さっきも言ったじゃんか。この女の子は、あの夢百合香稟ちゃんなんだってば。顔を見ればわかるじゃないか」

「う、うるさいな。おまえは黙ってろよ」

 顔を見ればわかると言われても、まじまじと彼女の顔を見れない照れ屋な潤太がそこにいる。しかも、アイドルの夢百合香稟の顔もほとんど知らないのだからそれを素直に信じられるはずもない。

「弟さんの言う通りよ。あたしはアイドルの夢百合香稟」

 ここまでやってきて偽ったりごまかしたりするつもりはない。彼女はすべての真相を告白すべく淡々と語り始める。

 ここへ辿り着けた理由、潤太が通う学校でドラマの撮影をしていた際に偶然に彼の下駄箱を発見したこと、それをきっかけに学校から住所を聞き出したことも正直に打ち明けた。

「ちょっと待ってよ。それならあの時、君が名乗った信楽由里って、いったい誰なのさ?」

「それもあたしの名前よ。信楽由里はあたしの本名。夢百合香稟は芸名なの」

「ほ、本名……」

 芸能人に芸名があることぐらい芸能音痴の彼でも知っていた。

 ここに来て二つの名前がようやくつながったが、それを信じる信じないは別として、彼にはどうしても納得できないことがある。

「そ、それならさ、どうしてそのことをハッキリと言わなかったの? ホントのこと、どうして隠したりしたんだい?」

「そ、それは……」

 彼女は表情を曇らせてうつむいてしまった。

 あの時――。新宿駅構内の改札口付近での別れ際、彼から名前を尋ねられた時の記憶がぼんやりと思い出されてくる。

「……もし、ホントのことを言ったら、あなたはきっと、あたしをアイドルの夢百合香稟として見てしまうと思ったから」

「それは、どういうこと?」

 彼女はゆっくりと頭をもたげると、彼と出会ったあの時の、事の発端から経緯のすべてを包み隠さず告白する。

「あの時ね、あたしはテレビ局へ向かう車から逃げ出した後だったの。今時の高校生みたいに自由気ままに遊んでみたかった。その願いが、あたしにそんな大胆な行動に走らせたわ。逃げ出したのはいいけど、わざわざ変装までしたのにあっさりバレちゃって。大勢の若い人達に追いかけられて、それはもう大変な目に遭ったわ」

 言葉に詰まることなく当時の様子を振り返る彼女、それに潤太と拳太の二人は黙ったまま耳を傾けている。

「あたしを探していたマネージャーから逃げるために、薄暗い路地へと逃げ込んだの。そこで潤太クン、あなたに出会ったのよ」

 潤太の脳裏にも、あの時の記憶が蘇ってきた。彼女と出会い頭にぶつかった時の衝撃と痛さ、そして怯え切って助けを求めてくる彼女の表情も一緒に。

「かくまってくれって言ってたのは、そういう理由だったというの?」

「うん」

 彼女はそのまま話を続ける。

「あなたは、あたしに気付かなかった。アイドルであるあたしに。この人だったら普通の女の子として接してくれる、そう思ったの」

 アイドルではなく普通の女の子として接してくれるなら好都合。貴重な自由時間のエスコート役としては最適だ。こうして彼が、香稟と一緒にデートのような体験をしたのは承知の通りである。

「名前を聞かれた時にね、周りの人に知られるのも怖かったんだけど、それよりも、潤太クンには知らないでもらいたかったんだ。……でも、もうバレちゃったけどね」

 彼女はそう告げると口元をほんのりと緩めた。

 できることなら、普通の女の子として触れ合った思い出のままでいてほしかった。しかし奇跡的にも再会を果たした今、偽り続けるよりも正直に打ち明けた方が気持ちも軽くなるはず。彼女の表情からそんな思いが見て取れた。

 こうして真相が明らかになったわけだが、一人だけ付いてこれないのは拳太だけ。蚊帳の外になっている悔しさからか、彼は恨めしそうな目で兄の顔を凝視している。

「おい、兄貴。香稟ちゃんみたいにかわいい子と出会ったのに、オレに何も話してくれなかったな!」

「話すわけないだろ。ボクにそんな報告義務なんてないじゃないか」

 拳太は後頭部に手を当てて後方へと仰け反った。羨ましさと悔しさのせいで、口から漏れる言葉はどれも愚痴ばかりだ。

「何で兄貴ばっかり、そういういい思いしてんだよ。オレもそんな出会いしてみてぇなぁ~」

 アイドルと偶然に出会うなんて滅多にあるものではない。その偶然を街中と学校と二回も体験した潤太はとんでもなく幸運な男の子であると言えよう。

「無理なお願いを聞いてくれてすごく感謝してるの。だから今日はどうしてもお礼を言いたくて」

 はにかみながら感謝の気持ちを伝える彼女、それをじっと見ていた拳太は落ち着きがなくそわそわしている。

 兄と彼女との間に何があったのだろうか。彼はそれが気になって気になって仕方がないようだ。じっとしてはおられず、興奮気味に兄の腕に掴みかかって問いただしてきた。さも尋問のごとく。

「ねぇねぇ兄貴。香稟ちゃんのお願いって何だったんだ?」

 食らいついたらなかなか離れない弟はまるでスッポンのようだ。小さい頃からそれを知る兄の潤太は、疎ましそうな顔をしながら正直に答える。

「彼女と一緒に遊んだだけさ。渋谷とか原宿とかで」

「なっ! 何だとぉ!?」

 拳太はショックのあまりおののき、座ったまま後ずさりしてしまった。

 “彼女と一緒に遊んだだけ”――。そのありふれた一言が、一人の少年のハートを脆くも打ち崩した。

「ぬおぉぉ~、兄貴と香稟ちゃんがデートだとぉ~! 許せない~~!」

 彼は握り拳に力を込めながら絶叫する。羨ましさと悔しさ、さらに怒りまでもが入り交じり、近所迷惑も考えずにその握り拳をドンドンと床に叩き付けた。

「静かにしろって! デートとかそんなんじゃないよっ」

 そう否定する潤太であるが、女の子と街中をぶらぶら散策するのは一般的にはデートになるのでは?と、顔を赤らめながら自問自答する自分もいた。

 アイドルとデート――。冷静になって考えてみると、それはあまりにも空想的で非現実的だ。まるで夢を見ているような感覚であろう。

 彼の心の中は戸惑いで埋め尽くされる。目の前にいる少女を信じたいが、やはりアイドルであるという真実を受け入れることができないから。

「申し訳ないけど、ボクはやっぱり信じられないよ。街中で偶然知り合った女の子が、実はアイドルだったなんて……」

 彼はうつむき加減でそうつぶやいた。その時の彼の表情は、夢のような事実を受け入れてしまう怖さみたいなものを感じているように見えなくもなかった。

 それを耳にした途端、拳太は叩き付けていた握り拳を止めて呆気に取られた顔で振り返った。彼女も驚いたのだろう、表情から微笑みが消えてしまっていた。

「顔はそっくりかも知れないけどさ、ほら、この世界には三人は自分にそっくりな人間がいるっていうしね」

 香稟を嘘付き呼ばわりするなんて断固として許さない。拳太が眉を吊り上げてすぐさま反論しようとした――が、それよりも数秒早く彼女の方が先に苛立ちをあらわにする。

「ちょっと待ってよ。それなら聞くけど、どうしてあたしがここへ来ることができたのか、それを考えてみて? あたしが夢百合香稟じゃなかったら、あたしはどうやってここの住所を知ることができたというの?」

「もしかしたら、学校にいるボクを見掛けて、生徒や先生に尋ねたのかも知れないし」

「そんなの不自然過ぎるわ。確かに、見掛けたとすれば尋ねたりできるだろうけど、生徒や先生がそんな易々とあなたの住所とかを教えてくれると思う?」

「で、でも不可能じゃないと思うし……」

「可能か不可能かの問題じゃなくて、自然か不自然かの問題よ!」

 真っ向から反論する彼女、早口で捲くし立てる語気そのものは女の子にしたらかなり強めだ。怒りっぽい性格だからやむを得ないのだが。

 それに圧倒された潤太は、男の子のくせにどんどん小さくなって口をつぐんでしまった。どう反論されても、やはり彼女のことを信用しようとはしなかった。

「もう! どうして信じてくれないのよっ」

 信じてくれない彼に腹が立ったのか、彼女はテーブルの上に両手を叩き落として怒声を張り上げてしまった。他人のお家にいることも忘れてすっかりヒートアップしてしまっている。

 これには拳太も面を食らったようだ。あのスーパーアイドルの夢百合香稟がこんなに怒りっぽい性格だったとは……と。とはいえ、このままではまずいということで、仲裁しようと思って二人の間に割って入ってきた。

「香稟ちゃん、落ち着いてよ。兄貴はさ、こういうのに融通がきかなくて、どうも頭が固くてダメなんだよね」

 拳太は両手のてのひらを返して、やれやれといった感じで呆れた表情をした。

 そんな弟の生意気な態度に、潤太は睨みを飛ばしてムッとした顔をする。しかし文句ひとつ言えないところを見ると、弟の言うことにも一理あると渋々ながら納得しているのかも知れない。

「そこでね、オレにいいアイデアがあるんだ」

「ア、アイデア……?」

 頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいる香稟と潤太の二人。事態の収束を図るべく、拳太が人差し指を一本突き立てて打ち出したアイデアとはいったい――?

「オレが香稟ちゃんにクイズを出すんだよ。香稟ちゃん本人しかわからない問題を出してさ、もしその問題を間違えちゃったら彼女は本物じゃないってことになる。いいアイデアだろ?」

 拳太の発案はナイスアイデアである。本人しかわからない問題で不正解ならば偽物ということになる。信じてほしいと思うなら、わざと間違えたりせずどうやっても正解しようとするはずだからだ。

 これには潤太も納得できたが、ただ一点気になることがある。

「ちょっと待てよ。本人しかわからない問題を、おまえがどうやって出題するんだ?」

 潤太の言う通りである。これには彼女もうんうんと頷いて同意見だった。

 するとどうだろう。拳太は問題ないと言わんばかりに、自慢げな含み笑いを浮かべながら声高らかに答える。

「フッフッフ! こう見えてもオレは香稟ちゃんの超スペシャル大ビッグファンなんだぜ。香稟ちゃんのこと何でも知ってるオレだからこそ、このアイデアが使えるのさ」

 夢百合香稟の根っからのファンだと豪語する拳太は、ファンクラブへの入会はもちろんのこと、出演番組は欠かさずチェックしており、楽曲のすべてをテープに録音するばかりかほとんど歌詞を見ずに歌えてしまうほどだ。

 彼のような熱烈なファンとこうして出会えて、彼女は照れくささと同時に喜びも表現していた。ファンあってのアイドルだと彼女自身も自覚しており、マネージャーからも常日頃からそう言われているからである。

 ただ、潤太は半信半疑なのか冷めた目線で弟のことを見つめている。

「おまえ、自慢するのはいいけど、超とスペシャルと大とビッグは同じ意味だぞ。本当に大丈夫なのか?」

「うるさいな、兄貴。オレを信じろって」

 弟を信じるかどうかよりも、彼女の正体がわからないままでは気持ちが悪いのもまた事実。潤太は怪訝そうな顔をしながらも弟のアイデアに賛成することにした。

 彼女も、本当に大丈夫なのかな?と不安になって首を捻ってみたが、他に案も思い付かず素直に応じるしかなかった。

「よーし。それじゃあ始めるよ。香稟ちゃん、準備はいいかい?」

「う、うん」

 彼女は異様な緊張感に包まれて鼓動が大きく高鳴っている。自分自身にまつわる問題なんて初めてのことだし、もし間違えてしまったら恥ずかしさでいっぱいだ。

「じゃあ、第一問――!」

 彼女はゴクッと生唾を飲み込んだ。

「香稟ちゃんの生年月日は?」

「一九八三年、九月十四日よ」

「ピンポ~ン、正解でーす!」

 ホッと胸を撫で下ろす彼女。自分自身の生年月日を忘れてしまう人はそういるものではないが、なぜか正答できて安堵する彼女であった。

「おい、そんな問題じゃ意味ないぞ」

 潤太は出題内容に苦言を呈した。彼の言う通り、生年月日は誰にでも入手できる情報に過ぎない。偽物であっても答えられる範囲であろう。

「ほんの小手調べだよ。そう焦るなって」

 拳太はにやにやと笑っている。自分で発案したこのクイズ大会が楽しくてたまらない様子だ。というわけで、次の問題へと進む。

「次の第二問いくよ。香稟ちゃんの出身地はどこでしょう?」

「神奈川県の藤沢市」

 本人だから当たり前だが、彼女は迷うことなく答える。ところが――。

「えっ!?」

 拳太はギョッと目を大きくした。まさか、間違っていると言うのか。

 一瞬、心臓が止まったかのような感覚。彼女は驚愕のあまり、取り乱しながら叫び声を上げる。

「嘘じゃないわ! 間違いないはずよ!」

 彼女は本人であることを必死に訴えた。その時、潤太の疑惑の眼差しが彼女一点に注がれていた。

 数秒間の沈黙の後、拳太はニヤリと意地悪っぽい笑みを浮かべた。

「へへへ、せいかーい! ビックリした?」

「ビックリするわよ、もう! 冗談は止めてっ」

 彼女はまたまたホッと胸を撫で下ろす。本人なら間違えるはずがないのに、他者から否定されたような態度をされるとなぜか確信が持てなくなる。人間というのは不思議なものだ。

 拳太は目尻を下げてクスクスと微笑している。アイドルらしからぬリアクションを見るのが楽しくてたまらないのだろう。本当にやんちゃで小憎らしい男の子である。

 それを見ていた潤太は険しい表情で弟のことを叱り付けた。おもしろ半分で茶化したりしてはいけない。いくらクイズとはいえ、これは遊びではないのだ。

「おい拳太。ふざけてないで真面目にやれよ」

「わかってるって。そんなマジな顔すんなよ。さーて、第三問といきますか!」

「さぁ、いらっしゃい」

 第三問目を前にして、なぜか彼女は気合を入れて身構えた。三問連続正解しようと意気込んでいる。正解して当たり前なのだが。

「ズバリ! 香稟ちゃんのスリーサイズを答えて下さーい」

「は、はぁ!?」

 第三問目はとんでもない問題であった。

 彼女は真っ赤な顔をして唖然としている。スリーサイズといったら、女性にとってとても恥ずかしい個人情報だからだ。

「え、え、え……。ちょ、ちょっと待って……」

 恥じらいながら口ごもってしまう彼女。焦りと戸惑いを隠し切れない中、一点だけある疑問が浮かんだ。

 それは、どうして拳太という少年がスリーサイズを知っているのか、ということだった。なぜかというと、彼女はタレント名鑑といったプロフィール上でスリーサイズを一切公表していなかったからである。

 しかしながら、彼は筋金入りのファンを自負している。もしかすると、何かの拍子にスリーサイズの情報が漏れてしまい、それがさまざまな媒体を介して彼の耳に届いてしまったのかも知れない。

「そ、それは……」

 彼女はもちろん答えがわかる。だが答えたくない。恥ずかしさと照れくささから、視線と一緒に赤らんだ顔を真下に落とした。

「そんな問題はやめるんだ! 彼女に失礼だろう!」

 さすがにこれは失礼極まりない、意地悪にも限度がある。優等生のように真面目な潤太は口を挟まずにはいられなかった。

 ところが、拳太は人差し指を自分の唇にあてがう。それは“静かにしてて”と言わんばかりのポーズだ。アイドルに赤裸々な告白をさせるなんて芸能レポーターより悪趣味なのではないか。

 静かにしていられるか!潤太はついにいきり立って、ここで兄弟二人の口げんかが勃発してしまった。クイズそのものには賛同したが、彼女を困惑させて苦しませることには賛同していない。それが彼の主張であった。

「二人ともやめて!」

 悲鳴にも似た大声を上げた彼女。

 それに驚いて、言い争いをやめる唐草兄弟。

 彼女は意を決したような、何かを覚悟したような表情をしている。

「答えるから、ちゃんと聞いて」

 そっと瞳を閉じると、彼女は鉄扉のように重かった口を開く。

「上から……」

(…………)

 拳太は期待と興奮に鼻息が荒くなる。両目を見開いて、両耳を傾けて、彼女の告白に一点集中した。

 潤太の心音がバクバクと高鳴る。唇がかすかに震えている。揺れ惑う心がひとりでに叫んでいる。このままでいいのか?いや、よくない、いいはずがないじゃないか、と――。

「八十……」

「もうやめてくれ!」

『ドキッ――』

 制止を促したのは潤太の純真な気持ちの表れ。香稟は反射的に、告白の途中で口をつぐんだ。

 答えの途中で水を差されたら、出題者の拳太は納得がいかないわけで。

「どうして止めたんだよ、兄貴!」

「おまえはいい加減にしろ!」

『ゴツ――ッ』

 兄のげんこつが弟の頭に直撃した。痛さのあまり、拳太は頭を抱えて床の上を転がり始める。

「もうクイズはおしまいだ。わかったな」

 いつもは頼りなさそうな兄だが、ここぞという時になると別人のごとく勇ましい迫力を示してくる。当然それを知っているからこそ、弟はやり返したり逆らったりしなかった。

 潤太の右手により首根っこを摘まれた拳太は、彼女の目の前まで引きずられるとその場で土下座させられた。興味本位とはいえさすがにやり過ぎたと思ったのだろう、彼は涙目になって謝罪の弁を口にした。

 しかも、スリーサイズのクイズも彼がファンの一人としてただ知りたいがためだけに出題したものだった。それを知った潤太は溜め息を零して呆れ返るしかなかった。

「調子に乗り過ぎたよ。ゴメンね、香稟ちゃん」

「ううん、気にしないで……」

 彼女は謝罪を素直に受け入れたものの、余程恥ずかしかったのか顔全体はいまだに真っ赤だ。

 弟の無礼は兄の責任でもある。まるで保護者のように律儀な潤太も額を床に押し付けて土下座した。

「ゴメン、ボクからも謝るよ。本当に申し訳ない。もしだったら弟をここから追い出すけど、どうしようか?」

「わぁ、もう変なこと言わないからさ。追い出すのだけは勘弁してくれ!」

 拳太はそれはもう泣きっ面で兄の腕にすがり付いてきた。大好きなアイドルと一緒に過ごせるなんて滅多にない機会。どうかここにいさせてくださいませと言わんばかりの振る舞いだ。

「そ、そこまでしなくても。それに、そんなに謝らないで。どうしていいのか、わからなくなっちゃう」

 ただただ困惑するしかない彼女、潤太のことを直視できず目を逸らすようにうつむいてしまった。

 彼女の許しを得てホッと安堵した拳太であったが、その後も兄から反省するよう厳しく叱られて、リビングの隅っこに追いやられて土の中のミミズのように小さくなっていた。

 リビングに沈黙の時間がやってきた。

 重苦しい雰囲気、息詰まるような空気が男女三人を包み込む。

 静かに口火を切ったのは、潤太の抑揚のない一言だった。

「もういいよ……」

 彼女は静かに顔をもたげる。そして上目遣いで潤太のことを見つめた。

「君が信楽由里だろうが、夢百合香稟だろうが、そんなことどうでもいいことだもん。今日はお礼に来てくれてありがとう」

「…………」

 彼女は何も言えなかった。居たたまれなさに伏し目がちになる。

 拳太も、もう余計な口出しはしまいと口にチャックを閉めたままだ。

 リビングにまたしても沈黙の時間がやってきた。

 言葉が見つからないのだろう、潤太と香稟はテーブルで向かい合ったまま押し黙っている。

 壁掛け時計の秒針の音だけが響く中、その沈黙を打ち破ったのはあまりにも意外な音だった。

『――グウゥゥゥゥ』

「わっ!?」

 潤太は反射的に自分のお腹を押さえた。この音の正体は空腹からくるお腹の虫、彼はまだ夕食前であった。

 隠そうと思う時ほど、腹の虫はこれ見よがしに騒ぎ出すものだ。真正面にいる彼女にも気付かれてしまうぐらいに。

「もしかして、お腹空いてる?」

 彼女はためらいがちに問いかける。

 もう隠しても仕方がないと、潤太は赤らんだ顔のまま小さく頷いた。

「ボク達まだご飯食べてなかったんだ。君が訪ねてきた時、丁度おかずをこしらえていたところだったから」

 彼女はチラッと、台所の方へと顔を向けた。

「潤太クンが料理するの?」

 潤太はブンブンと両手を振ってそれを否定する。

「ボクにそんな特技はないよ。今日はたまたま母さんがいなくてね、しょうがなくボクが作ることになっちゃったんだ」

「ふーん、そうなの」

 彼女は目線を天井に向けて、何かを思案しているような顔をする。

 いったいどうしたんだろう……?潤太と拳太の二人は不思議そうな顔を見合わせる。

「よし!」

 掛け声と共にいきなり立ち上がった彼女は、許可もなく台所に向かって歩き出した。

 いきなりのことだけに、潤太は唖然としながら彼女に声を掛ける。

「ど、どうしたの?」

 彼女は笑顔で振り向く。

「あたしが料理を作ってあげる。あの時のお礼を兼ねてね」

「えっ!?」

 潤太は思わず上擦った声を上げた。拳太もびっくり仰天して開いた口が塞がらないようだ。

「そんな! そこまでしてもらうなんてできないよ」

「いいから任せて。こう見えてもね、あたし結構料理は得意なんだよ。まずい料理は作らないから安心して」

 自信満々にそう告げると、彼女は腕まくりしながら台所へと入っていった。

 呆然としてしまっている潤太。夕食にありつけるラッキーな展開にも関わらず、思ってもみない展開だからか動揺を隠せない彼がそこにいる。

 その一方、拳太は感動のあまり目をうるうるさせている。そっとほっぺたをつねってみた。目がますますうるうるするぐらいに痛い。良かった、これは夢ではないのだ。

「嬉しい! あの香稟ちゃんの手料理が食べられるなんてっ! うぉ~、オレは何て幸せ者なんだぁ!」

 拳太は感動を全身で表しながら潤太の背中に抱き付いてきた。そう、精一杯の感謝の気持ちを込めて。

「お兄たま~! あなたはボクの素敵なお兄たまです~!」

「わっ、やめろバカ! 抱き付くんじゃないって」

 じゃれ合う唐草兄弟はテーブルの周りを駆けずり回っている。それをチラッと覗き見した彼女は一瞬驚いたものの、おかしさを堪え切れずに口元を緩めて顔を綻ばせた。

 微笑ましい兄弟愛を繰り広げている彼らのために、スーパーアイドルは手によりをかけて手料理を振る舞うのであった。


『コポコポ……』

 お鍋からゆらゆらと湯気が立ち上る。

『トントン、トントントン』

 巧みな包丁さばきにより、食材がおかずという姿に変わっていく。

 クマのアップリケをあしらったエプロンを身にまとい、台所に立つ一人の女の子。香稟は手慣れた手つきで手際よくクッキングをしている。

 黒髪をポニーテールに結い、袖を捲り上げて料理に勤しむ彼女の後ろ姿はとても魅力的だ。日頃から母親の後ろ姿ばかり眺めている男子二人にしたらとても刺激的であろう。

 その男子二人のうちの一人、唐草兄弟の兄である潤太はリビングのお片づけをしたりテーブルの上を丁寧に拭いている。そして、弟である拳太は台所に立つ彼女の料理を意欲的に手伝っている。

 料理のお手伝いだが、潤太は日課になっているが拳太にいたっては滅多にしない。テキパキと働く弟を見て、潤太は呆れた顔をしながら苦笑いを浮かべていた。

 調理が始まってから三十分は経過したであろうか。台所からリビングの方へおいしそうなにおいが漂ってきた。いよいよ、彼女ご自慢の手料理が完成したようだ。

「お待ちどうさま」

「わぉ、うまそー!」

 お皿に盛り付けられた料理を見て、拳太は感動のあまり目を輝かせながら嬉しそうに叫んだ。

 それは和食の王道ともいえる肉じゃがであった。細切れの豚肉と玉ねぎ、さらに主役のジャガイモが飴色に染まって食欲をそそる。肉じゃがのほかにも冷蔵庫にあった卵を使った卵焼き、キャベツやレタスを使ったサラダも綺麗にお皿に盛り付けられた。

 それらの料理が、潤太が待つテーブルへと飾られていく。すると、彼も思わず感動の声を漏らしてしまった。珍しいメニューではないものの、母親が作るものとはまた違った華やかさを感じさせてくれた。

「拳太クン、お手伝いありがとう。さぁ、座って」

「はーい!」

 電子ジャーで炊いてあったご飯も盛り付けられて、いよいよ待望のディナーの時間である。唐草兄弟は箸を握った両手で合掌した。

「いただきまーす!」

 彼ら二人ともかなりお腹が空いていたようで、まるで餓鬼のごとく目の前の料理を食い散らかした。

「お味の方はどうかな?」

 香稟は控え目に問いかける。それに彼ら二人は声を揃えて答える。

「うまい!」

「よかった! 作った甲斐があったわ」

 おいしい料理でお腹を満たし、すっかりご満悦の様子の彼ら二人。彼女もいいお礼ができたと安堵し、にっこりと微笑んだ。

 わずか三十分足らず、彼ら二人はあっという間に夕食を平らげてしまった。


 外はすっかり暗くなり、時刻はもう夜である。

 唐草家の玄関には香稟と唐草兄弟の二人がいる。楽しかった一時が終わり、いよいよお別れの時がやってきた。

 彼女の大ファンである拳太はやっぱり寂しそうな顔つきだ。とはいえ、ファンの一人としてアイドルを独占するわけにはいかず、ここは潔くお別れをしなければいけない。

「さようなら、香稟ちゃん」

「うん、さようなら拳太くん」

 拳太は手を振ると、一人だけリビングの方へ戻っていった。夢心地の余韻を噛み締めていた彼、いつまでもその夢から覚めてほしくない心境であっただろう。

 そして、潤太は玄関先まで彼女のことを見送る。

「今日はありがとう。あんなにおいしい料理をご馳走してくれて。おかげで助かったよ」

「ううん。喜んでくれただけで、あたしも嬉しかった。いいお礼ができたわ」

 玄関先のすぐ近くには、事前に電話で連絡をもらっていた彼女の事務所の乗用車がすでに待機していた。彼女はこの後、夜のお仕事が待っているのだ。

「あたし、そろそろ行くね」

「うん。さようなら……」

 会釈をしてお別れをする二人。言葉では表現していないが、お互いどこか名残惜しさを感じさせる。

 香稟は自分のことを信じてもらえなかった寂しさがあった。表情は穏やかでも、心は穏やかとは言えない。普通の女の子とアイドルという立場に心が揺れていた。

 潤太は彼女とのお別れを惜しんだ。表情にこそ表れていなくても、偶然に再会できた喜びは否定できない。もしかすると、もう会えないかも知れないのだから。

 お互いが視線を落として向き合うこと数秒間。それは短いようで長い時間に感じられた。だが、その時間の中でも、二人はそれ以上の会話を交わすことはなかった。

 彼の側から離れていく彼女。一歩、また一歩と夜の闇へと紛れていく。

 そんな彼女の小さな背中を、彼は口を閉ざしたまま見つめている。

 このままでいいのだろうか――。彼はそう思いながらもじっと黙ったままだった。本当にアイドル夢百合香稟なのか、それとも偽物なのか。彼女は彼女なんだから、もうどうでもいいのではないか。でも……。声を掛ける言葉が見つからない。

 このままでいいのだろうか――。彼女はそう思いながらも歩みを止めることはなかった。いや、止めてもどうしていいのかわからなかった。お礼もできたのだから、もう会うことが叶わなくても。でも……。やはり真実ぐらいは知ってほしい。

 彼女はいきなり立ち止まり、彼の方へと振り向いた。

「――潤太クン!」

 気づいた時には、無意識のうちに彼の名前を呼んでいた。

「な、何、どうしたの?」

 彼はビクッと全身を震わせる。名前を呼ばれただけなのに、鼓動がバクバクと高鳴り出し表情が赤らんでしまった。

「お願いがあるの。毎週日曜日に夜十時からね、JPS放送のラジオで夢百合香稟がパーソナリティーをしている番組があるの。次の日曜日、絶対にそれを聴いて」

 夢百合香稟がパーソナリティーを務めるラジオ番組。彼女がそれを聴いてほしいとお願いしてきた意味はどこにあるのか。当然ながら、彼はその答えを知る由などない。

 普段からテレビやラジオに関心はないが、この時ばかりは素直に応じる彼だった。なぜならば、そのラジオ番組に何かしらの答えがあるのではないかと思ったからだ。

「わかった、絶対に聴くよ」

「日曜日の夜十時だから。忘れないでね」

 彼女は念を押すようにそう告げると、足早にその場から走り去っていった。

 玄関先に一人だけとなった彼は、火照った顔を夜風に晒しながらしばらくの間そこに立ち尽くしていた。


* ◇ *

 次の日、潤太の学校では前日のドラマ撮影の話題で持ちきりだった。

 彼のクラス内でも、男子生徒も女子生徒も一緒になって騒がしくしている。一日経ってもまだ興奮冷めやらないといったところか。

 そんな騒がしい中、アイドル来訪をまるで他人事のように受け止めていた彼は、クラスメイトと会話することもなく椅子に座って窓の外を遠目に眺めていた。

(…………)

 夢百合香稟と名乗る少女の突然の来訪――。

 スーパーアイドルの手料理をご馳走になるなんて、冷静になって考えてみたらあり得る話ではない。だとしたら、いったい彼女は誰なのか。

 彼女からのお願いにあった、夢百合香稟のラジオ番組で真実が明らかにになるのだろうか。さまざまな疑問と憶測が頭の中で飛び交い、彼はまさに混迷を極めていた。

 じっと考え事をしてクラス内で孤立している彼。それに見兼ねてか、友達である色沼と浜柄の二人が彼の元へと近寄ってきた。

「よう潤太。相変わらずだなぁ、おまえは」

「おまえもさ、流行の話題とか、そういう会話に入ってこいよ」

 友人二人は呆れた表情ながらも、独りぼっちのままではよくないと潤太のことを気遣ってもいる。しかしそんな気遣いの言葉も、右耳から左耳を通り抜けてしまい心の奥までは届かなかったようだ。

「……別にいいよ、そんなの」

 のれんに腕押しとはまさにこのこと。潤太は素っ気ない態度でまるで無関心だ。そればかりではなく、アイドルなんかにうつつを抜かしてないで現実を見つめ直した方がいいと、反対に諭したりする始末であった。

「おっ、コイツ生意気言ってくれるじゃん!」

「絵ばかり描いてるやつに言われたくないよ!」

「悪かったね、絵ばかり描いててさ!」

 色沼と浜柄の二人は応戦し、潤太もまたそれに反撃する。憎まれ口を叩いたり叩かれたりしても、それをジョークとして受け流して遺恨を残さないのが彼らだ。これも友情と絆のおかげであろうか。それとも、ただの腐れ縁だからであろうか。

(あ、そうだ……)

 言い合いがひと段落ついた頃、潤太は心の中でそうつぶやいた。この機会に乗じて、友人二人に“夢百合香稟”についていろいろと聞いてみようと思ったのだ。

「なぁ、ちょっと聞いてもいいかな?」

「ん、何だよ?」

「あのさ、夢百合香稟のことを教えてほしんだけど」

 アイドルに興味なしの潤太がどうしていきなり――?色沼と浜柄の二人は唖然とした顔を見合わせると、その数秒後、にやにやとうすら笑いを浮かべる。

「おいおい潤太クンよ、どういう風の吹き回しだい?」

「はは~ん。さてはおまえ、彼女に惚れ込んじゃったな」

 そういうわけではないと、潤太は照れくさそうにそれを否定する。あくまでも興味本位なのだと強調しながら。

「クラス中で、こんなに騒いでるぐらいだからさ、少しぐらいは彼女のことを知っておこうと思ってさ」

 潤太もようやく人並みの男子の感覚を持ってくれたか。色沼と浜柄はそう思いながら、喜びのあまりうんうんと頷いて嬉し泣きまでして見せた。それなら親友のために一肌脱がねばなるまいと、彼ら二人は“夢百合香稟”について口滑らかに語り始める。

「本名は信楽由里。神奈川県藤沢市出身だ。地元の高校に通ってる時に、たまたま東京でスカウトされたんだ。今は芸能活動に専念するために高校は辞めちゃったけどな」

「ふ~ん」

「所属事務所は新羅プロダクション。あとね、身長は百六十二センチだったかな。生年月日は、昭和五十八年九月十四日のA型だよ」

「ふ~ん」

 潤太は真面目な表情で聞き入りながら、心の中でつぶやく。

(――本名も、出身地も、生年月日も彼女の言った通りだ)

 彼の記憶の中には、前日の夕方過ぎに来訪した彼女の答えが蘇っていた。とはいうものの、これぐらいならここにいる友人でも入手できる情報だ、だから彼女が本人であるとまだ断定はできない。

「そうそう、あとスリーサイズはね――」

「えっ――!?」

 ドキッと心臓が震えた潤太。次の瞬間、顔も耳も真っ赤に染まった。

 ここでまさか、またしてもスリーサイズの話題が出てくるなんて思いもしなかった。

「残念ながら彼女、スリーサイズを公表してないんだなぁ、これが」

「そ、そうか……」

 よかったのか、それとも悪かったのかはさておき、潤太はホッと胸を撫で下ろした。顔中の熱が汗と共に引いていく。

 それはそれとして、せっかくの機会だから彼はひとつだけ質問してみることにした。

「彼女さ、日曜日の夜にラジオのパーソナリティーをやってるんだって?」

「やってるよ……ってか、おまえ詳しいじゃないか! やっぱり彼女のこと好きなんだろ?」

「そうじゃないって! 弟から聞いたんだよ。でさ、どんな番組なのか教えてくれないか」

 ここでも色沼と浜柄の二人は親切丁寧に説明する。香稟のファンが一人増えるのは大歓迎といった感じだ。

「最初は彼女の歌なんだけど、最後の方でね、ちょっといい話っていうコーナーをやってるんだ。そのコーナーはおすすめだぞ。彼女のプライベートな話題も聴けるしね」

「そうか、どうもありがとう」

 聴くことを約束したラジオ番組。それも嘘偽りではなく実在するものであった。

 いろいろな情報を得ることができたが、結局彼女が本人なのか、それとも偽物なのかはいまだに不明だ。

 でも、彼女が嘘を付くように見えなかったのも事実だ。わざわざ自宅まで来訪して、自分がアイドルだと告白する偽物なんて果たしているであろうか。だが、考えても考えてもどうしても信じることができない。そんな夢みたいな話を。

(……やっぱり、あり得るわけないよな。スーパーアイドルがボクの家にやってきて、おまけに手料理まで振る舞うなんて。やっぱりあの子は、ボクを引っかけて笑うつもりなんだ。そうだ、そうに決まっている)

 彼はそう結論付けた、というよりもそう結論付けるしかなかった。そうでもしない限り、ずっと彼女のことを考えて思い悩んでしまうから。

「おい、どうかしたのか?」

 色沼と浜柄に声を掛けられて、潤太はハッと我に返った。

「いや、何でもないよ」

 そうこうしているうちに、始業のチャイムが鳴り学生達は着席して授業に入っていった。

 学校中を虜にした夢百合香稟の話題は、時間の流れと共に静かに小さくなっていく。さも、日常にあった出来事と同じかのごとく。

 しかし、一日が経過しても、また一日が経過しても、彼女のことが頭から離れない少年が一人だけいたのは言うまでもない。


* ◇ *

 そして日曜日の夜である。

 潤太は二階にある自分の部屋で、仕上がった風景画の細かい部分の色付けをしていた。ちなみにその絵は代々木公園の風景である。

 代々木公園を訪れたあの日、偶然に出会った少女から即席で風景画を描いてほしいとリクエストされた。あの時はラフスケッチだったが、それを少しばかり想像で描き足して下書きの完成となったのだ。

 彼はあの時の情景を思い浮かべながら、一筆一筆慎重に色を入れていた。しかし、なぜか思うように色がなじまない。

「ふぅ……。やっぱり想像だけではうまくいかないよな」

 パレットの上にあらゆる絵具を塗りたくるも、気に入る色はなかなか出てこない。しかも、筆を入れてもどうも滑らかに進んではくれなかった。

(…………)

 ふと、机の上に置いてある目覚まし時計に目を向ける。

 夜十時まであと数分。夢百合香稟がパーソナリティーを務めるラジオ番組の放送開始まであとわずかであった。

(……そろそろだな)

 彼女との約束を果たす時が来た。

 正直なところ、彼が色付けに没頭できなかったのは、これが背景にあったのは否めないだろう。

 彼は絵筆を片付けると、なぜか自分の部屋を出ていった。どこへ向かったのかというと――。

『コンコン』

 弟の拳太の部屋の前に立つ潤太。彼は数回繰り返しノックする。

 それから数秒後、パジャマ姿の拳太が苛立った様子で廊下へ顔を出した。

「何か用かい?」

「悪いな、夜遅くにさ」

 潤太はバツが悪そうな顔で小さく頭を下げた。

「お願いがあってさ。おまえのラジカセ、今夜一晩だけでいいから貸してくれないかな」

 実は潤太の部屋にはラジカセがなかった。なぜかというと、彼は音楽を聞いたりラジオを聴いたりする機会などまったくないのだ。そもそも絵を描いたり色を塗ったりするのに、音楽や音声は邪魔だというのが彼の言い分だったりする。

 ついでに余談だが、テレビは贅沢だからと彼ら兄弟の部屋には置いていない。唐草家のテレビはリビングにしかないのだ。

「どうしてさ?」

 拳太からそう問われた潤太は、頭をポリポリと掻きながら照れくさそうに笑った。

「今日さ、夢百合香稟のラジオがあるんだろ。ちょっと聴いてみたいと思ったんだ」

 潤太は彼女との約束について拳太に話してはいない。だから、あくまでも興味本位で聴いてみたい、という言い方しかできなかった。

 弟なら快く貸してくれるだろう。そう思っていた兄だったが、弟の態度はまるで正反対であった。

「嫌だよ。オレも香稟ちゃんのラジオ聴くんだもん」

 よくよく考えてみたら、香稟の大ファンである拳太が彼女のラジオを聴き逃すはずがなかった。彼はしっかりとラジカセを枕元に置いて、すでにスタンバイオーケーという感じだった。

 それに気付いても、もう時すでに遅し。潤太は呆然としながらその場に立ち尽くした。

 とはいえ、ここで諦めるわけにもいかない。何としてでも香稟のラジオ番組を聴かなければ。それが彼女との約束なのだから。

「頼むよ、拳太! 今夜だけでいいんだ」

「冗談じゃないよ! 一晩でも聴き逃したらファン失格だもんね」

 必死になって懇願する兄、それをとことん突っぱねる弟。時刻が夜十時に刻一刻と迫る中、兄弟二人の攻防戦は続く。

「そもそもさ、香稟ちゃんにぜんぜん興味がなかった兄貴がさ、どうしていきなり聴きたいなんて言うんだよ!?」

「そ、それはその……。学校の友達がさ、どうしても聴けってうるさかったからさ……」

「そんな理由で貸せるもんかっ!」

 潤太がどんなに頭を下げても、やはり説得力に乏しく拳太を説き伏せることはできなかった。

 こうなったら正直に言うべきか。香稟と名乗る彼女から、ラジオをどうしても聴いてほしいとお願いされた。だから、貸してほしいと――。しかしそれを説明したとしても、やはり拳太を納得させるだけの材料とは言えない。それに話を余計にややこしくしてしまうだろう。

「そろそろ始まるから。おやすみ~」

 まもなく夜十時を迎える。拳太は香稟のラジオ番組を一人占めしようと部屋のドアを締め切ろうとする。

 このまま閉め出されたらおしまいだ。彼女との約束を果たせなくなってしまう。潤太に残された道はもう最後の手段しかなかった。

(――もう、こうなったら!)

 何と、潤太はドアに右手を引っ掛けて無理やりドアをこじ開けた。すると、その勢いのままに弟の部屋へと突入したのだ。

 最後の手段、それはいわゆる強行突破。彼は拳太のベッドの上に置いてあるラジカセを奪い取った。ここまで来ると執念そのものである。

「わぁ、何するんだよ、兄貴!」

「許してくれ、弟よ!」

 まるでラグビーボールのようにラジカセを抱きかかえた潤太は、拳太のディフェンスを掻い潜って部屋を出ていこうとする。だが、この強奪作戦はそううまくはいかなかった。

 ラグビー未経験のはずの拳太だったが、香稟のラジオを聴き逃すまいと兄に向かって猛烈なタックルをお見舞いしたのだ。

 ――このラグビーごっこがこの後、彼ら兄弟をどん底に突き落とすことになる――。

「いったぁ!?」

 タックルを受けて滑り込むように倒れてしまう潤太。その勢いにより、彼の手からラジカセが飛び出してしまった。

 ラジカセが宙を舞う。わずかな浮遊時間、当然ながら彼ら兄弟はそれを見つめることしかできずキャッチまではできなかった。

『ガツン――!』

 衝撃音と共に、ラジカセはフローリングの床の上に叩き付けられた。ラグビーボールのように弾んだりすることもなく……。

「うわぁ、大丈夫かぁ!?」

 拳太は大慌てでラジカセを持ち上げた。返事したりすることもないのに、何度も何度も壊れていないかと呼び掛けた。しかし……。ラジカセは落下したショックにより、アンテナが折れ曲がって変形していた。

 彼はすぐさま電源を入れてラジオモードに切り替える。周波数は香稟のラジオ番組、JPS放送局にぴったりと合っている。だが、聞こえてくるのはかすかなノイズ音と、聞き取ることのできない意味不明な声だけだ。

 ダイヤルを小刻みに動かしてみても、やはりノイズ音ばかりが耳に入ってきて香稟のかわいらしい声などこれっぽっちも聞こえてこない。どうやら故障してしまったようだ。

「ちくしょ~! どうしてくれるんだよ~!」

 拳太は悔しさいっぱいに泣きわめいた。憎き兄と、憧れの香稟の名前を交互に叫びながら。

 元はといえば、タックルしてきた拳太が悪い……なんてここで言えるわけがない。潤太は反省しきりにただ謝るしかなかった。謝ったところでラジカセが直るわけでもないが、ここは許してもらうまで謝ることしかできないだろう。

「ちゃんと弁償しろよな! 最新機能搭載のラジカセを買ってもらうからな」

「わかってる。本当に悪かったよ、ごめんな……」

 どうにか許してもらい、潤太は沈んだ顔つきのまま拳太の部屋を出た。

 途方に暮れる彼は、自分の部屋に戻ることもなく廊下に呆然と立ち尽くしていた。というよりも、戻る気分になれなかった。

(……どうしよう、約束したのに)

 彼はおもむろに天井を仰いだ。そして、頭に浮かんでくる彼女に向かって詫びた。

 こんなことなら、今年のお年玉で絵具セットではなくラジカセを買っておけばよかった。後悔先に立たずとはまさにこのことで、彼は廊下に腰を下ろして嘆くばかりであった。

(…………)

 彼はうずくまりながら考えていた。もう諦めるしかないのだろうか、と。

(さすがに、あいつらの家まで行けないよな。それに間に合わないし)

 色沼や浜柄といった友人に頼るのは不可能だ。それならばご近所さんならと思っても、夜十時過ぎになってラジオを借りにいく勇気など持ち合わせていない。

 ひたすら考え込む。ラジオを聴く方法がないか頭をフル回転して模索する。

 ラジオが聴ける場所――。

 ラジオが聴ける場所――?

 ラジオが聴ける場所――!

 その時、彼の視界に一瞬光が差し込んだ。

「そうだっ! あそこがあったんだ!」

 彼は立ち上がるなり一目散に階段を駆け下りていく。

『ドタドタドタ!』

 脇目も振らずに廊下をさっそうと駆け抜ける。彼が向かった先はリビングであった。

 丁度リビングには、連続ドラマを視聴しながらおせんべいを食べている彼の母親がいた。彼女にとって毎週日曜日の夜に放送しているこのドラマは、お気に入りの俳優が主演しているともあって楽しみのひとつだった。

 それを騒音を立てて邪魔してくる我が息子。これには小言のひとつも言わなければ気が済まないだろう。

「潤太、やかましいわね! もう夜中なんだから早く寝なさい」

 しかめっ面で口を尖らせる母親。しかし、それをまるで無視してリビングの戸棚の引き出しをまさぐっている息子。血相を変えて何かに取りつかれたかのように探し物をしているところを見て、彼女は目を丸くして驚きを隠せない様子だ。

「ちょっとあんた。何を探してるんだい?」

「カギだよっ!」

「カギって何の?」

「父さんの車のカギ!」

 そうである。ラジオが聴ける場所として潤太が思い付いたのは、父親の乗用車の中、つまりカーラジオであった。そこなら誰にも気遣う必要はないし、目と鼻の先だから十分に間に合う。

 事情があることなど露知らず、母親は息子の不審な行動が理解できずに不安げな表情を浮かべていた。こんな夜更けに車のカギなんてどうするのか、と。

「父さんの車に乗るのはいいけど、壁とかにぶつけないでよ。母さん、この前車庫出る時に前の方を擦っちゃったのよね。あ、これは父さんには内緒よ」

「乗らないよっ! そもそもボクは免許持ってないし」

 息子を心配するというよりも、乗用車の方を心配する母親であった。

「それならどうしてカギがいるの?」

「ラジオを聴くためだよ」

 母親と押し問答している余裕はない、時刻は夜十時を優に過ぎている。とにかくラジオを聴くためだけだと主張し、彼女から了承を得ることができたのだが、戸棚の引き出しを探しても肝心の乗用車のカギが見つからない。

 普段から、乗用車のカギはこの戸棚に片付けているはず。乗用車が車庫にあるにも関わらず、どうしてカギだけがここにないのだろうか。

「あっ、思い出したわ」

 母親は両手をパチンと叩いた。カギのありかを思い出したようだ。

「そういえば少し前に、車から荷物を出した時にカギを玄関の下駄箱に置きっ放しにしていたわ。いやね~、忘れっぽくて困っちゃう」

 物忘れがひどくなったことを嘆きながら、けらけらと高笑いしてカギのしまい忘れをごまかす母親、だが、それに呆れている場合ではない。

「カギは下駄箱だね!」

 潤太は大急ぎでリビングを出ていく。母親から、車を擦ったことを父親に内緒にするよう強く念を押されながら。

 彼は玄関に向かって廊下をひたすら走る。時刻は夜十時十五分に到達しようとしていた。

「あった!」

 玄関の下駄箱の上から、銀色に輝く乗用車のカギを入手した。彼はすぐさま外へと飛び出して庭先の車庫へと向かう。

 父親の乗用車は、いわゆる普通車と呼ばれるクラスの五人乗りの乗用車だ。高給取りでもないサラリーマンにとって手頃な価格のものだが、実際に購入した時は新車ではなく中古車だった。

 車庫へ入ると、入手した銀色のカギで乗用車のドアを開ける。そして運転席に乗り込んだ彼は、カギ穴にカギを差し込んでエンジンを掛けた。

「えっと、これか」

 暗い車内、手探りでラジオの電源スイッチを押してバンドボタンで周波数を合わせてみた。すると、かすかに女の子の声がスピーカーから流れてくる。

「――そういう――で、よろしく――。それでは一旦CMです」

 途切れ途切れに聞こえたその声は、夢百合香稟であろうかわいらしい女性の声であった。

「よかったぁ……」

 彼はホッと胸を撫で下ろす。車内のデジタル時計を見ると、時刻はすでに夜十時二十分を表示していた。このラジオ番組は三十分放送なので残り十分しかない。でも間に合ってよかった。

 一分間のCMも終わり、軽快な音楽をバックに彼女の声がスピーカー越しに聞こえてきた。

「はーい。それでは本日最後のコーナーです。題して、香稟のちょっといい話、の時間です」

「参ったな、もう最後のコーナーじゃないか……」

 これが最後のコーナーと知って、彼は落胆して両手を後頭部に当てながら運転席にもたれかかった。

 放送は残り十分少々。答えを知ることができるかどうかはわからないが、今は最後のコーナーに望みを託すしかない。彼女の一言一句を聴き漏らさないよう両耳を澄ます。

 彼だけではなく全国の香稟ファンが耳を澄ましている中、彼女の語りかける声がスピーカーから流れてくる。

 スピーカーから聞こえてくる香稟の声、そして偶然に出会った彼女の声は同じといっていいほどよく似ている。とはいえ、声だけ似ているからといって本人かどうかは判別できない。

「えっとですね。今夜は、ついこの前知り合ったあたしのお友達についてお話しますね」

(…………)

 彼は目を閉じて運転席にもたれかかっている。

「そのお友達はですね、とっても綺麗な風景画を描く人なんです」

(――――!)

 彼はびっくりして目を見開き、運転席から飛び起きるなり前のめりになる。

「北海道へ旅行に行った時に、プロの画家さんに出会ったらしいんですね。そこで自作の絵を評価してもらったら、風景はよかったけど人物画だけは合格点をもらえなかったんです」

(ちょっと待ってよ。それってまさか――)

 彼は激しく動揺した。手にも背中にも汗がにじむほど、心が激しく揺さぶられていた。

「そのお友達には人物画でも合格点がもらえるよう、これからもがんばってほしいって応援したいですね。でも、いいですよね。趣味とか特技があるって。あたしも絵画を勉強してみたいな……なんてね」

 彼女はラジオ番組の最後のコーナーをそう締めくくった。全国津々浦々のリスナーに向けてというよりも、特定の人物に伝えるかのような語り口調で。

(これって……ぼくのことじゃないか!)

 彼は衝撃のあまり呆然としていた。たったひとつの真実を知り、たったひとつの結論に辿り着いたからだ。

 ――あの時、街角の片隅で偶然に出会ったあの女の子。

 ――怒りっぽいけどあどけなくて笑顔が愛らしいあの女の子。

 ――お礼するために自宅までやってきたあの女の子。

 ――自慢の手料理まで振る舞ってくれたあの女の子。

 たった今、あの時の彼女がスーパーアイドルの夢百合香稟本人であることを知った。それが夢ではなく真実であり、結論であることを――。

(これを聴いてほしいって言っていたのは、この話をするためだったのか……)

 彼は彼女との約束を果たした。それと同時に、彼女を最後まで信じることができず、疑い続けた自分への自責の念が襲い掛かってきた。

 後悔という波に自我を抑え切れず、無意識のままに乗用車のハンドルに頭を打ち付けた。ゴツン、ゴツンと何度も。しかし、どうしてか痛みを感じることができなかった。

「ごめんなさい……。ごめんなさい……。ごめん、なさい……」

 彼は打ちひしがれながら大粒の涙を零した。嗚咽を漏らしながら繰り返し謝罪した。本名に信楽由里という名を持つ、スーパーアイドル夢百合香稟に対して。


* ◇ *

 数日が過ぎたある日の夕方のこと。

 夢百合香稟とマネージャーの新羅今日子は、CM撮影のロケを終えて事務所へと戻ってきた。

 控え室代わりの休憩室へ向かう彼女たち二人に、事務所の事務員がニコニコしながら声を掛けてきた。その事務員は大きな段ボール箱を両手いっぱいに抱えている。

「これって、もしかして?」

 香稟がそう尋ねてみると、事務員は苦笑しながらその通りだといった表情で返事する。

「はい、毎月恒例のファンレターですよ。今月もいっぱい来てます」

 さすがは、新羅プロダクション在籍で一番の人気を誇るスーパーアイドル。彼女にとってファンレターは人気のバロメーターと言えるだろう。

 彼女はその大きな段ボールを抱えて休憩室までやってきた。それをテーブルの上に置いてチラッと中身を覗いてみる。ざっと数百、いや数千通はあるのではないだろうか。

「本当にいっぱいあるわね。丁度次の仕事まで時間があるから、その間に軽く目を通したら?」

「そうですね。読まないわけにもいかないですし」

「これも嬉しい悲鳴というやつね。よろしくね」

 新羅が打ち合わせのために事務所へ向かうと、休憩室に一人残った香稟はテーブルの側の椅子へと腰を下ろした。

「さてと」

 彼女は箱の中からファンレターをひと掴みするとテーブルの上にそれを並べた。よくある真っ白い手紙や、ピンク色したかわいらしい便せん、定型内の小さいものから定型外の大きなものまで、さまざまなファンレターがたくさんある。

「う~ん、これを全部読むのは大変だなぁ」

 これは骨が折れそうだ。マネージャーが言う通り、それこそ嬉しい悲鳴を上げながら彼女は一通一通ファンレターに目を通した。

(――あれ?)

 その途中、彼女の目に止まった一通の封筒。

「これ、やけに厚いわ。何が入ってるんだろう?」

 彼女が手にした封筒は、他の手紙と比べても大きいサイズでとても目立つ。触り心地から察するに、封筒の中に厚紙らしきものが入っているようだ。

 その封筒を裏返してみると、そこには差出人の名前が記載されていた。

「えっ!」

 差出人の名前を見て、彼女は思わず声を漏らして唖然とした。なぜかというと意外な人物だったからだ。

(潤太クンからだ……)

 まさか、あの潤太からファンレターだなんて。彼女はそう思いながら、慌てて封筒の封を切って中身を取り出した。

 封筒の中に入っていたもの、それは四つ折りにたたまれた厚紙と一枚の手紙であった。

 彼女はまず、厚紙の方を丁寧に広げていく。

(これって……)

 厚紙には風景画が描かれていた。グレーに染まった高層ビル、それを打ち消さんばかりの色鮮やかな木々の緑色、鉛筆のタッチと絵筆のしなやかさ、これは紛れもなく潤太が描いたものだろう。

(……代々木公園だよね。あの時に描いたものだわ)

 偶然に出会ったあの日の記憶が蘇る。

 街中を歩き回って休憩で訪れた代々木公園。彼女はその時、彼が持つスケッチブックにしまってあった美しい絵画を見た。

 自分勝手なわがままで代々木公園の景色を描いてもらった。まさかその時の絵が、色まで塗ってあってこうして送られてくるなんて想像もできなかった。

 彼女は代々木公園の絵画を見入りながら、色褪せることのないあの時のシーンを思い出しながら口元を緩めた。

「ありがとう、潤太クン」

 そして、もうひとつ同封されていた手紙を広げてみた彼女。

 彼が送ってきた手紙には、次のようなことが書かれていた。

「あなたのラジオ番組を拝聴させてもらいました。それを聴いてボクが間違いだったと気付き、あなたを傷付けてしまったことを今でも深く反省しています」

 それは硬い文章で綴られた、彼なりの謝罪文であった。

「スーパーアイドルが、ボクみたいな一般人なんかと一緒に遊んだりするわけがない。自宅にやってくるわけがないと、ボクはそんな先入観だけで判断していました」

 彼の謝罪を、彼の気持ちをしっかり受け止めながら彼女は文面を読んでいた。

「最後になりますが、もし許してもらえるなら、あなたがラジオで言っていた通り、ボクと友達でいてほしいです。身勝手なお願いかも知れないけど。いいお返事を待っています。これからの活躍を祈っています。さようなら」

 彼の謝罪文は、彼の心境をそのまま映すように結ばれていた。

 彼女はその手紙を折り曲げると、そっとポケットの中へとしまい込んだ。

(先入観か……)

 彼女は椅子から立ち上がり、休憩室の窓際へゆっくりと歩を進める。

 窓の外には都内を象徴する雑居ビル群、そこに落日を告げる夕陽が落ちていこうとしている。それはあまりにも幻想的な黄昏時だ。

 階下を見下ろせば、車道はたくさんの乗用車が行き交っている。歩道だってたくさんの人が歩いていた。そこにはありふれた日常の夕方の風景があった。

(……アイドルだってね、潤太クンとお友達になれるんだよ。だって、あたしだって、あなたのように遊び、学び、この街で生きている普通の女の子なんだもん)

 彼女はしばらくの間、窓の外の夕焼け空を眺めていた。

 ここからは遠くて望むことができない代々木公園。しかし、彼女の視線の先には、代々木公園の色鮮やかな景色が映っていた。一人の少年が描いた風景画に、まるで引き寄せられるかのように。

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