7.限りない愛の決意
「どういうつもりだ? あの声明のFAXをマスコミに流したのおまえだろ?」
「――そうよ。どうしてわかったの?」
「そりゃわかるさ。あんなことができるのは、あの事務所でおまえ以外にはいないだろうからな」
「フフフ……。もしかして、迷惑だったかしら?」
「迷惑に決まってるだろう。あのスーパーアイドルを振り回しちまったんだ。これじゃあ、オレはとんだ厄介者だもんな」
ここは、都内の歓楽街にひっそりと佇むラブホテルだ。
薄明るいピンク色のシャンデリアの下、二人の男女が丸い形のベッドの上で肌を寄せ合っている。
「おまえ、これが事務所にバレたら、それこそクビになりかねないぜ」
「クビでしょうね。まぁ、それならそれでも構わないけど。どうせ居心地が悪かったし。クビになったら、あなたの事務所に移れば済むことだし」
女は色香を漂わし、ベッドに横たわる男の耳元で囁く。
「ねぇ、本気であたしと結婚してくれるんでしょう?」
「…………」
男は無言のままベッドから起き上がり、一人きりでシャワールームへと向かう。
「ちょっと、琢巳! どうなのよ?」
「それはおまえ次第だな。オレの本当の女になりたいなら、もっと名前を売ることだ。どんな卑劣なやり方をしてもな」
「――――!」
男は口元を緩めて、意味ありげにニヤリと笑った。
そして女は艶っぽい唇を真一文字に閉ざして、あからさまに悔しそうな顔をした。
『シャアアアァァ――』
その男、連章琢巳は熱いシャワーで全身の汗を洗い落としている。
「まりみのヤツ、余計なことをしやがって」
世間を騒がせたあのニュース速報、夢百合香稟との交際を認めたという報道に彼は少しばかり困惑していた。この報道の裏には、彼女と同じ事務所の九埼まりみが一役噛んでいるようだ。
売れなかった下積み時代を持ち前のずる賢さで勝ち上がってきた彼だけに、このスキャンダルを逆に利用できるとも考えていた。いくら世間を敵に回す結果になろうとも。
(これでさらに、オレの知名度が上がったってもんさ。釈明するにしても、まずは向こうさんの釈明会見を見てからの方がよさそうだな)
見据える先はタレントとしての頂点。その野望を目論んでいる彼は、不敵な笑みを浮かべて目をギラギラと光らせていた。
* ◇ *
同日の夜、別の場所では押し寄せてきたマスコミの対応に追われていた。そう、ここは夢百合香稟が所属している「新羅プロダクション」。
スーパーアイドルの熱愛発覚ということで、大手スポーツ新聞各社やテレビ局のカメラに芸能レポーターがこぞって集まっている。翌日の新聞や情報番組でトップを飾るのは間違いなさそうだ。
事務所の社長室には、この一連の報道に対して猛烈に激怒している新羅今日子と、この一連の報道に対して頭を抱えて当惑している社長の姿があった。
「お父さん、どういうこと!? 香稟はあの男とはまったく交際の事実はないはずよ。どうしてあんなFAXがマスコミに流れたの!?」
「お、落ち着け、今日子! わしもあのFAXの件は寝耳に水だったんだ!気付いた時には、例のニュースがテレビで取り上げられていてな。誰かが勝手にしでかしたことなんだ」
「い、いったい誰がこんなことを――!?」
今日子は愕然とし声を震わせる。
同じ事務所内に、香稟を陥れようとする人物がいるというのか?信じられなくて認めたくもない疑惑が彼女の脳裏をよぎっていた。
「この事務所から送信されたのは間違いない。送信時刻から推測すると朝九時頃、その時間にはわしもおまえも、それに香稟も事務所にはいなかったはずだ。あの日の朝、この事務所にいた誰かがしでかしたと考えて間違いないだろう」
「その日の朝、誰がここに?」
「スケジュール表でしか判断できないが、受付の女性社員が一人、それに経理係が二人。あとは九埼まりみのマネージャーの薙沢の計四人だ」
「…………」
今日子は眉をひそめて、悔しそうに唇を強く噛んだ。
実行犯が誰なのかを突き止めるのは重要だが、今はマスコミへの釈明が最優先であろう。彼女は今後の対応について社長と話し合った。
「わしはこれからマスコミを追い返す。おまえと香稟は、その間に裏口から出るんだ。早乙女に車を用意させるからな」
「わかりました。お願いします」
社長室を後にした今日子は、その足のまま休憩室へと向かった。そこには、本日の仕事を終えて帰宅の時を待っている香稟がいるからだ。
「香稟」
「あ、今日子さん。社長とのお話は終わりました?」
「ええ。行きましょう」
「……はい」
香稟はすっかり憔悴しきっている。事実無根のスキャンダルが報じられて、まさかの事態にショックを隠し切れないといった様子だ。
彼女達二人は正体が知られないよう帽子やマスクで顔を隠し、事務所のビルの裏口から夜の屋外へと出ていく。事務所から数メートル先の車道脇には送迎用の乗用車が待機していた。
「早乙女クン、お願いね」
香稟と新羅を乗せた乗用車は、香稟の住むマンションを目指して都内の市街地を突き進む。
夜景が織りなす眩い明かりが車窓越しに飛び込んでくる。いつもなら気にならないところだが、今夜ばかりはそれをより眩しく感じてしまう。マスコミに囲まれて、カメラのフラッシュを浴びているイメージが蘇ってくるからであろうか。
彼女達二人はまったく顔を合わせることもなく、ただ押し黙ったままだった。車内を埋め尽くす重苦しい空気が、世間話や仕事の話をする雰囲気すらかき消してしまっているのか。
市街地を走行すること数十分、乗用車は香稟の自宅マンションへと辿り着いた。
『カチャ――』
静かにドアを開けて、香稟はゆっくりと車外へと出た。
「香稟、おやすみなさい」
「おやすみなさい、今日子さん」
香稟はうつむいたまま小さな歩幅で歩き出す。歩く姿勢に力が感じられず、横から押されたら倒れてしまいそうだ。
そんな彼女の心身を案じてか、新羅は励ましの言葉を投げ掛ける。
「香稟、そんなに気に病まないで。この件に関しては、わたしと社長で何とか解決するから」
「……はい。すいません」
香稟は振り向かずに応答した。それでも、その声色から安堵の思いだけは伝わった。
新羅の暖かい眼差しに見送られながら、彼女は暗がりの中に佇むマンションへと消えていった。
* ◇ *
次の日の夜のこと。
唐草潤太は夕食を済ませた後、自宅の自室にこもりっきりだった。
学習机の上にあるスケッチブック。そこには、下書きだけが終わった風景画が描かれていた。
「くそっ――!」
彼はいきなり絵筆を床に投げつけた。
プラスチック製の白いパレットには、色鮮やかな数種類の絵の具が塗られている。しかし、そのパレットに絵筆が付けられた痕跡はない。
絵画制作が思ったように進まない。スケッチブックの風景画に色付けができない彼は激しく苛立っていた。
(…………)
それからも、スケッチブックに向き合うこと一時間あまり。それでも、スケッチブックの風景はモノトーンのままだった。
彼はすっかりやる気を失ってしまい、ベッドの上へとなだれ込んだ。
「参ったなぁ。これじゃあ、絵に集中できやしないよ……」
瞳をそっと閉じて考えてみた。どうして集中できないのか、どうして意欲が沸かないのかを――。
――あれだけ大好きな絵画。三度の飯よりも大好きな絵画。それなのに、どうして絵筆が握れないのだろうか。どうして絵筆を投げ捨ててしまったというのか。
――もちろん、その答えは自分にもわかっていた。ただ、彼自身がそれを言葉にしたくなかっただけなのだ。
「ふぅ……」
“夢百合香稟の交際事実肯定”――。その事実が繰り返し繰り返し頭の中に浮かんできては溜め息ばかり漏らしてしまう。彼は行き場のないやり切れなさに苛まれていた。
(もう、ボクには関係ないんだ。彼女には、彼女にふさわしい相手がいるんだ。ボクにとっては、少しでも楽しい思い出ができただけでも……)
新宿で偶然出会い、わけもわからぬまま一緒に街歩きした。横浜の八景島シーパラダイスでお忍びのデートもした。楽しくて嬉しかったその時の思い出が走馬灯のごとく蘇ってくる。
思い出せば思い出すほど込み上げてくるものがある。胸が熱くなり、目尻から小さく涙が零れてきた。それは悲しみの涙なのか、それとも悔し涙なのだろうか。
そういった楽しくて嬉しかった思い出を、一緒に過ごした彼女の笑顔を、彼は頭の中からすべて消し去ろうとする。もう、彼女のことを忘れるしかなかったのだ。
「潤太、電話よぉ~」
自宅の一階から、母親の呼び掛ける声が聞こえてきた。
「あ、はーい」
潤太は両目を擦って涙を拭うと、重たい足取りで一階へと下りていく。
一階までやってくると、電話機の受話器を持ちながら母親がニコニコしながら手招きして急かしている。そして、彼女の口からまさかの言葉が飛び出した。
「ほら、あの女の子よ。よかったわね~」
「――え?」
彼の歩く動作がピタリと止まった。嬉しいはずの電話なのに、その時は嬉しさよりも空しさのようなものが沸き上がった。
そんな複雑な思いも知らぬままに、母親は冷やかしながら彼の体に肘鉄を食らわしてくる。それに対して照れたり恥ずかしがったりもせず、苛立った表情で彼は受話器を受け取った。
「もしもし……」
「潤太クン。ゴメンね、こんな夜遅くに」
「……いいよ、それより何か用かな?」
「あ、うん……。あ、あのね、その……」
香稟の声は震えていて元気がない。しかも、会話の途中で言い淀んでしまった。言いたいことがあるのに言えないもどかしさが受話器を通じて伝わってくる。
それに痺れを切らし、苛立ちを覚えてしまう潤太がそこにいた。
「ボクさ、ちょっと取り込んでるんだ。もしだったら、またにしてくれないかな?」
彼は冷めた口調でそう言い放つ。まるで、すぐにも受話器を置いてしまいたいと言わんばかりに。
「も、もう少しだけ待って。あのね、今週のどこかで会ってくれないかな?」
「…………」
否定も肯定も返答がない。
そして数秒間の沈黙の後、彼が出した答えとは――。
「……会ってどうするの?」
「え?」
彼女は唖然として言葉を失った。ショックのあまり二の句が継げない。
「この前の報道のことを弁解する気なのかな? あのさ、もういいよ」
「待って! あ、あれは、あたしがしたことじゃないの! 事務所の誰かがあたしを陥れようとして――」
「もういいよっ!」
彼は怒鳴り声でそう叫んだ。その時、これまでの自分とは思えないほど感情が高ぶっていた。
「もう、キミのことで振り回されたくないんだ! もう、辛い思いはしたくないんだ! だから、だからもう……もう何も言わなくてもいいよ」
「潤太クン……」
香稟は何も言えなかった。話を聞いてほしい、弁解させてほしいと願っても、それもすべて言い訳にしか伝わらないだろう。彼女は口をつぐむしかなかった。
「ボクのこと、しばらく放っておいてくれないか。もっと冷静になって考えたいんだ。ゴメン……」
『カチャン――』
潤太は一方的に電話を切ってしまった。
受話器を置いてからも、彼はその場から離れず呆然と立ち尽くしていた。全身をわずかに震わせて、抑え切れない悔し涙を両目いっぱいに溜めながら。
そして、電話を一方的に切られてしまった香稟はというと、信じてもらえるどころか事の真相すら語らせてもらえず、受話器を握り締めたまま放心状態となっていた。
(あたし、どうしたらいいの? どうしたら、信じてもらえるの? どうしたら、許してもらえるの……?)
そう自問自答しても答えなどどこにもない。誰に聞いても答えてはくれない。きっと、答えなどどこにもないのだから。
悲しさと切なさ、空しさと寂しさ。ありとあらゆる負の感情が入り交じり、彼女は嗚咽を漏らして泣き崩れてしまった。流した涙は止まることなく、独りぼっちの部屋をひっそりと静かに濡らしていった。
* ◇ *
翌日、潤太との関係でショックを引きずりながらも、香稟はその日の仕事を予定通りにこなしていた。
時刻は夜八時過ぎ。彼女とマネージャーの新羅今日子は、ラジオ番組の収録を終えるなり乗用車で事務所へ戻る途中だった。
「参りましたね。あのマスコミのしつこさは」
「仕方がないわ。あれが、あの人達の仕事だもの。ほとぼりが冷めるまでは、わたし達から動かない方が無難よ」
運転手である早乙女が困った顔でつぶやくと、新羅は苦虫を噛み潰したような顔でそれに応答した。
ニュース速報が入った当日の夜、根も葉もない事実だと事務所の社長がマスコミ相手に釈明をしたが、それでもどのマスコミも半信半疑、香稟の仕事場に張り込んでインタビューの機会を狙っていた。
また、熱愛の相手と取りざたされている連章琢巳は今日まで否定も肯定もせず無言を貫いたままだった。新羅プロダクションの動きを静観しているといって間違いないだろう。
「それにしても、いったい誰なんですかね。例のFAXをマスコミに流したのって。だって、事務所の人間なのは間違いないんでしょ?」
「ええ……」
二人の会話を、香稟はうつむいたまま黙って聞いている。
彼女にしてみれば、同じ事務所の関係者が実行犯だと思いたくはなかったはずだ。こんな悪質な嫌がらせをした張本人が、仲間と慕っている誰かともなれば責めるに責め切れない。
「……でも、誰なのか見当はついているわ」
「えっ!?」
新羅の衝撃的な一言に、早乙女はびっくりして大声を張り上げた。香稟もそれを初めて聞かされたのか驚きの表情で顔を持ち上げた。
「新羅さん、それマジっすか?」
「ええ。この後、その真相を問いただすつもりよ」
「――――!」
香稟の心は激しく揺さぶられた。知りたい気持ちと知りたくない気持ちが交錯し、戸惑いの顔色を浮かべている。
その人物とはいったい誰なのか――?
その目的とはいったい何なのだろうか――?
彼女達を乗せた乗用車は、その真実を明らかにするべく事務所を目指して突っ走った。
◇
『コンコン――』
「はい、どうぞ」
ここは新羅プロダクションのミーティングルーム。雑居ビルのひとつのフロアを借りている同事務所では、来客や打ち合わせの他にも、事務所の関係者や所属タレントの休憩や雑用スペースとしてもここを利用している。
「あ、新羅さん」
「ちょっといいかしら? 圭子」
「え、ええ。どうぞ」
ミーティングルームにやってきたのは新羅と香稟の二人、そしてそこにいたのは、女優の九埼まりみのマネージャーを務める薙沢圭子であった。
薙沢は香稟よりも少し年上の二十二歳。肩先で三つ編みに束ねた黒いストレートヘア、薄化粧と薄紅色のリップ、それに茶色を基調にした衣装が業界人の割には地味な印象を与える。とはいえ、マネージャーであれば特に目立つ必要もないのでそれも不思議ではないのかも知れない。
彼女は大きなテーブルに張り付いて、手のひらサイズのシステム手帳に何やら書き込みをしている最中だった。そこには、九埼まりみのスケジュールが乱雑に書かれていた。
そんな彼女の側に、新羅と香稟の二人が歩み寄っていく。
「どうしたんですか? 新羅さんに香稟ちゃん」
「あなたにね、ちょっと聞きたいことがあるの」
「聞きたいことですか? はい、何でしょう?」
新羅と香稟のいつもと違った真剣な顔つき。ミーティングルームに漂う緊張感。それにただならぬ事態を察知し、薙沢はボールペンを机の上に置いて聞く姿勢を取った。
これからが本題。新羅は眉をひそめながら単刀直入に質問する。
「正直に答えて。香稟の交際を認めるあのFAXだけど、マスコミ各社に流したの。あれ、あなたでしょ?」
「はぁ!?」
思ってもみない質問が飛び出した。薙沢は唖然として、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔だ。
「とぼけても無駄よ。あなた以外に、あのFAXを送付できた人物はいないのよ」
新羅はまるで確信を持ったような口振りだが、薙沢はまるで何の話だと言わんばかりに否定する。
「ちょっと待ってくださいよ。どうして、わたしがそんなことを? 第一、わたしにそんなことをして何のメリットがあるっていうんです?」
薙沢が否定する通り、彼女にしたら香稟を貶めるメリットはない。むしろ、マネージャーの立場にある者が所属アイドルの名前に傷を付ける行為をしてもデメリットがあるだけだ。
「確かに、あなたにはメリットはないでしょうね。……だけど、まりみにはあったんじゃなくて?」
「――――!」
突如、薙沢の表情が一変した。
顔を背けてうつむいてしまった彼女、新羅はそれを見ながらさらに追求していく。
「まりみにとって、香稟の存在は邪魔に他ならなかった。以前から彼女、香稟に厳しく当たってたしね。自分の方が先輩なのに、年下の香稟の方が人気があることに嫉妬していた。わたしがそれに気付いていなかったとでも?」
「…………」
薙沢はうつむいたまま押し黙っていた。
すっかり探偵気取りの新羅は、このたびの事件の真相を明らかにしようとする。
「まりみは、スキャンダルをきっかけに香稟を徹底的に陥れる作戦を思いついた。彼女はワープロで作成した文章をあなたに手渡し、それをマスコミ各社へ送信しろと命令した。あなたは逆らうことができず、引き受けるしかなかった。どう? ここまでの推理は間違ってるかしら?」
実行犯はここにいる薙沢なのだろうか。九埼まりみから命令されて、香稟を貶める行為に及んでしまったというのか。
香稟は動揺を隠せないでいた。それが本当なら信じたくはないから。マネージャーの薙沢とはデビュー当時から仲良くしている間柄、だからこそ余計に信じたくはなかった。
それからほんの数秒間の沈黙の後、薙沢はどういうわけか小さく口元を緩めて微笑んだ。
「……新羅さん、勝手に推理するのは構いませんけど。それって、あくまでも憶測ですよね。わたしが送ったという物的証拠はあるんですか?」
薙沢は犯行を認めようとはしなかった。彼女の言う通り、新羅の推理はあくまでも想像でしかなく犯行を裏付けるだけの物的証拠がないのだ。
だが、新羅だって確信がなければこんな大胆な発言はしない。物的証拠になりうるアイテムをしっかり準備していたのだ。彼女はハンドバッグの中からしわしわになった紙切れを取り出した。
「何ですか、これ?」
「よく見てみて。この紙の柄って、あなたが手にしているそのシステム手帳と同じ柄じゃない?」
「……そ、そうですけど。それが何か?」
「この紙切れね、FAXが送信された日の朝、このミーティングルームのゴミ箱の近くに落ちていたの」
『ドキッ――』
その瞬間、薙沢は顔面蒼白と化した。反射的にシステム手帳を手で覆い隠した。何か思い当たる節があるようだ。
「そう。これはそのシステム手帳、つまりまりみの手帳の切れ端よ。彼女は、あなたにFAXを送る命令をそれを使って行ったようね。電話や、口答でのやり取りだと誰かに気付かれる可能性があると思ったんでしょう。だから彼女は、いつもの連絡手段を利用したわけね」
「…………」
またしても押し黙ってしまう薙沢。視点があちこちに飛んで定まらず、新羅と目を合わせることができない。
新羅はさらに謎解きを続ける。
「あなた達は、そのシステム手帳を使ってお互いのスケジュールの確認をしていたのよね。FAXを送る内容を確認したあなたは、その証拠を隠滅しようと、システム手帳のその部分だけを細かくちぎって破り捨てた。それをそこのゴミ箱に捨てた時、これだけが入らなかったみたいね」
どんな人間でも、悪い行為をしたら後ろめたさと不安から心理的に焦りが生じる。ただでさえ無理強いさせられたであろう薙沢のことだ、証拠を隠滅する際、かなり焦っていたに違いない。切れ端のひとつがゴミ箱に入らなかったことに気付く余裕がなかったのだろう。
名探偵新羅今日子の推理は見事的中か。と思いきや――。
「……待ってください」
薙沢は震えた声を絞り出した。ここまで追い詰められてもまだ言い分があるらしい。
「この紙切れが、このシステム手帳のものだとしましょう。だからといって、わたしがFAXを送ったという証拠にはなりませんよね?」
そうなのだ。いくら紙切れとシステム手帳が結びついても、紙切れがFAXを送信したという証拠とは結びつかないのだ。新羅はその二つを結びつける根拠を持っているのだろうか――?
――それがあるからこそ、彼女は意を決してここへやってきたのである。
「運が悪かったわね、圭子。この紙切れにはね、はっきりと書いてあったのよ。あなたが送ったという証拠がね」
「えっ!?」
新羅は紙切れのしわをゆっくりと伸ばしていく。すると、そこには黒い文字が記されていた。
“FAX → 東京中央出版社 → サンテレビ”
「――――!」
「これ、FAXを送る順番を記したキーワードでしょう。かなり慌てていたのね、細かくちぎったつもりでも、こんな風に証拠が残ってしまったのよ」
「…………」
「あとね、FAXの送信履歴も辿ったわ。これに書いてある通りの順番でFAXが送られていた。つまり、これが実行できるのは、そのシステム手帳を管理できるまりみ本人か、マネージャーであるあなた以外には考えられない、というわけよ」
「…………」
ここまでの物的証拠を突きつけられたら、薙沢はもう観念するしかなかった。否定したり反論したりせずただ口を閉ざしていた。
「どうやら、わたしの推理は間違ってないみたいね。やっぱり、犯人はまりみなのね」
なぜか、薙沢は犯行を肯定せず黙秘権を行使した。目を閉じたまま小刻みに震えてずっと黙り込んでいる。マネージャーの一人として九埼まりみをかばっているのだろうか。
(まさか、まりみさんが……)
香稟は心の中でそう囁いた。
九埼に嫌われていたのは薄々感じていた。それでも、アイドルの地位を揺るがすような卑劣な嫌がらせまでされるとは思ってもみなかった。もし、これがすべて真実だとしたらそのショックは計り知れない。
「ねぇ、圭子。黙っていたって何にもならないわ。お願い、正直に答えて。まりみに命令されてやったことなんでしょう?」
新羅が執拗に迫っても、薙沢は頑なに供述を拒んだ。ここまでして九埼をかばう理由でもあるのだろうか。しかしどんなに拒んでも、ここまで証拠が揃っていてはもう犯行を認めざるを得ないだろう。
『カチャ!』
突然、ノックもなしにミーティングルームのドアが開かれた。
そのドアの側に立っていたのは、犯行をそそのかしたと思われる渦中の九埼まりみ本人だった。
彼女の表情から凍てつくような冷気が漂い、暖かみがまったく感じられない。新羅と香稟の二人にただならぬ緊張感が走る。
「ま、まりみ……!」
「新羅さん、あなたのご推測通りよ。あのFAXを圭子に送るよう指示したのは、紛れもなくこのあたしよ」
「そ、そんな――!」
香稟は衝撃のあまり愕然とし、怯えるように全身がガクガクと震え出した。
九埼は卑しく口角を吊り上げて、冷めきった目つきで香稟を見据えた。
「あら、意外そうな顔してるわね。あなたには、すぐ悟られると思ってたのに」
九埼は憮然とした態度でズカズカと室内に入ってきた。そして、開き直ったかのように事の真相をすべて明らかにする。
「理由は単純明快よ。あたしにとって香稟は邪魔者なだけ。この子がいなければ、あたしが事務所で一番の売れっ子になるはずだったんだからね」
ナンバーワンになりたいがための嫉妬、裏切り――。芸能界とはライバルばかりではなく、同じ事務所にいる仲間を蹴落としてまでのし上がる醜い世界なのであろうか。
「だけどさ、ドイツもコイツも、香稟、香稟ってはしゃいじゃってさ。ハッキリ言ってしゃくに触ったわよっ!」
憤怒をあらわにした九埼の顔つきに、香稟の怯えはさらに強くなった。
新羅は顔を紅潮させて怒りを爆発させる。いくら嫉妬とはいえ、同じ事務所のアイドルの名誉棄損は言語道断だ。
「まりみ! たとえ理由がどうであろうと、あなたのしでかしたことは許されないわ!」
声を荒げる新羅のことを、九埼はギロッと鋭い目つきで睨み返した。
「フン、調子のいいこと言わないでよ。あんたに言われる筋合いはないわ。あんたがアイドルだった頃のスキャンダル、みんな知ってんのよ」
アイドルだった頃のスキャンダル――。その一言に、新羅の顔色が瞬時に青ざめた。
「……そ、それ、どういう意味よ?」
「あたしね、連章琢巳と付き合ってるのよ。一年ぐらい前からね」
「何ですって――!?」
新羅がアイドル時代に犯した過ち、たった一度きりの連章との情事。九埼はそれをすべて知っているというのか。
それに戦慄が走り、新羅は身が凍りついたように硬直した。そして、新羅と連章の忌まわしい過去を知っていた香稟も震え上がって血の気が引いていく感覚を覚えた。
「FAXのこと、真相を公表しても構わないわよ。だけど、それをどれだけの人が信用するかしらね?」
九埼は憎たらしいほどにせせら笑う。それは、目的達成のためなら手段を選ばない悪質で陰湿な微笑みだ。
これには新羅も我を忘れて怒り心頭。悔しそうに奥歯をぎりぎりと噛み締める。今にも手が出てしまいそうな衝動を抑え込み、あくまでも冷静に対処しようとする。
「……まりみ。あなた、ここまでやったのなら、それなりの覚悟はできているんでしょうね?」
「ええ。あんたの父上にでも報告したら? あたしの処分はどうぞお好きなように」
そう捨て台詞を吐き捨てると、九埼はほくそ笑みながらミーティングルームを出ていった。
どんなに糾弾されようが、どんな処分を下されようが構わない。彼女にしたら、憎きスーパーアイドルのイメージダウンの目的を果たせただけで十分満足なのだろう。
彼女が去った後、ミーティングルームには三人の女性がそれぞれの思いのままそこに残っている。
新羅はショックを隠し切れなかった。事務所を敵に回して覚悟の上で実行した、九埼の計算尽くめの策略。さらに、あの連章琢巳とも裏でつながっていたことに。
薙沢はテーブルに突っ伏して大泣きしていた。マネージャーとして、また事務所の社員として最悪の事態を招いてしまった。その罪の重さに耐え切れるのだろうか。
香稟は口をつぐんだまま呆然と立ち尽くしていた。先輩である九埼からの嫉妬と憎悪、その結果がこのような裏切り行為となり人間不信に陥ってしまいそうだ。
(……アイドルって何なの? あたしはどうしたらいいの?)
所詮、芸能界は強い者が生き残り弱い者は淘汰される厳しい世界。売れたら天にも昇れるし、売れなければ奈落の底が待つだけだ。
人を騙し、蹴落とし、裏切ってまで天を目指す者こそが正義なのだろうか。人に騙されて、蹴落とされて、裏切られて地面に這いつくばる者は不義ということなのか。
スーパーアイドルに君臨する香稟はその立場を呪い、戸惑うしかなかった。信じられない、信じたくない現実が、彼女の心をえぐり傷跡となって焼き付いた。
* ◇ *
それから数日後、あるニュース報道が巷を賑わせた。
“夢百合香稟、連章琢巳との交際は誤報!”
“事務所内のいざこざが原因か!?”
具体的なところは明らかにされなかったものの、芸能界を震撼とさせたスキャンダル事件はこうして一様の決着をみた。
しかし、その影響の大きさから事態が収束するまではしばらく時間がかかるだろう。そして、一人のスーパーアイドルのイメージ回復もしばらく時間がかかるだろう。
夢百合香稟は濡れ衣を着せられただけだった。それをテレビのニュースで知った潤太だったが、なぜか気持ちは曇り空のまま晴れることはなかった。
彼はその日、のどかな昼下がりの学校の教室にいた。
彼のクラスメイト達も、この一連の報道をネタにしてやんややんやの大騒ぎであった。夢百合香稟のファンに復帰する者、連章琢巳をより一層毛嫌いする者とその反応はさまざまであった。
そんな騒ぎなど目もくれず、彼は呆けた顔で窓の外を眺めている。そこへ友人二人がやってきた。
「よう、相変わらずボケっとしてるな。いい加減にその雰囲気やめにしようぜ」
「そうだぞ。ますます存在感がなくなって、その内欠席扱いにされちゃうぞ」
潤太に声を掛けてきたのは、いつものコンビ色沼と浜柄であった。
「放っておいてくれ」
いつになく反応が薄い潤太。しかも返事から気力が感じられない。この調子では色沼と浜柄も呆れる一方である。
「そんなんだから、この前の日曜日も女の子から逃げられるんだぞ」
「彼女さ、めちゃめちゃ怒ってたぞ。確か、ルミちゃんだったかな」
「あ、そう……」
潤太はまるで抜け殻のようだ。生気すら感じられず、無気力を絵に描いたような姿だった。
「それはそうとさ、香稟ちゃんの交際の誤報のことどう思う? もう知ってるよな?」
「知ってるよ。朝のワイドショーでやってたから。どう思うと聞かれても、どうとも言えないよ」
いくら抜け殻の潤太でも、香稟に関するニュースに無関心とまではいかなかった。朝のワイドショーから流れる情報により、彼は誤報の真相を知ることとなった。
報道についてどう思うと聞かれても、傷が癒えていない胸の内を語るつもりなど当然なかった。正直なところ、誰かとおしゃべりする気分ではないと言った方が正しいだろう。
ここで自慢とばかりに、芸能通の色沼と浜柄が芸能レポーターのような解説を語り始める。
「何でも、同じ事務所にいた九埼まりみの仕業らしいな。オレの見た雑誌によると、九埼ってのはどうも事務所と確執があったみたいなんだ。まぁ、今回の事件はさ、彼女にとっては事務所を出ていくきっかけ作りだったんじゃないかな」
「この報道と一緒にさ、九埼まりみの事務所移籍報道もやってたよ。でも香稟ちゃんかわいそうだよな。九埼の裏切り行為の標的にされちゃったんだからさ」
各社スポーツ新聞の芸能トップとは別に、かなり小さい枠ではあったが、九埼まりみが大手芸能事務所のレンショウ・カンパニーへ電撃移籍する記事も掲載されていた。
人気で格差のある夢百合香稟と九埼まりみの二人、スポーツ新聞の紙面の大きさでも格差があることを証明した皮肉なひとコマであろう。
「ふ~ん。芸能界って複雑なんだね……」
この時、潤太は芸能界、つまり香稟がいる世界が遠くて果てしない場所なのだと改めて強く感じていた。
たとえ、彼女の交際報道が誤報だったとしても、今更彼女とどう接したらいいのかわからない。もう彼女との距離を縮めることはできないし、どんなに手を伸ばしても届かないのだから。
心の中のもやもやが晴れることはなく、彼はその日も途方に暮れる時間を過ごすだけだった。
* ◇ *
その日の夜である。
「さてと、それじゃあ行ってくるか」
潤太は夜にも関わらず、スケッチブックを抱えて静まり返った屋外へと出掛けていく。いったいどこへ行こうというのか。
ここ数日間、彼は絵画制作において絶不調によるスランプに陥っていた。自宅の自室で絵筆を握っても、なぜか集中力が続かず途中で挫折してしまう日々が続いていた。
それを少しでも解消しようと考えた彼は、これから気分転換のために外へ出て目新しい景色を観賞しようとしていた。そこで発見した新しい色で、描きかけの風景画を完成させるつもりだったのだ。
夜七時過ぎ、一人の少年が夜闇へと紛れていった。
* ◇ *
『キンコーン――』
潤太が外出してから十数分、唐草家に来訪者がやってきた。
居間でくつろいでいた彼の母親は、面倒くさそうな足つきで玄関へと向かう。いったい誰だろうかと、不思議そうな表情を浮かべながら。
玄関先の電灯のスイッチを入れて、ドアを静かに開けてみる。すると、シルエットに映るその来訪者は、長い黒髪を垂らして深くお辞儀している一人の女の子であった。
「どうも、こんばんは」
「あらぁ! あなたは確か、えっと、そうそう、アイドルの!」
「ご無沙汰してます、夢百合香稟です。こんな夜にすみません」
来訪者はスーパーアイドルの夢百合香稟だった。夜の外出ということもあってか、彼女の変装は別人というほどの身なりではなかった。
来訪者が潤太のお友達ということもあり、母親は香稟に暖かく接して気さくにもてなした。
「何を言ってるの。そんなこと気にしなくていいわよぉ。そうそう、それよりも、テレビ見たわよ。大変だったわねぇ」
母親も香稟の一連の報道は当然ながら知っていた。アイドルにさっぱり関心がない人でも記憶に残ってしまうぐらい、スーパーアイドルのスキャンダルは連日に渡って繰り返し報じられていたのだ。
そんな心温まる気遣いに、香稟は丁重に頭を下げて感謝の意を伝えた。このたびの一件で人間不信に陥るほど心に傷を負った彼女、本当の母親のようなその暖かさに涙が溢れてしまいそうだった。
「あの……。潤太クンは?」
香稟が控え目にそう尋ねると、母親は眉根を寄せて困り顔で返答する。
「あの子ね。さっき出掛けちゃったのよぉ。何でも、描きかけの絵の色がどうのこうのって言ってたわね」
「……そうですか。この時間ならいると思ったんですけど」
香稟はガックリと肩を落とした。
先日、電話を途中で切られてしまい内心ショックを抱いていた彼女、電話ではなく直接訪問して話し合いの場を作ろうとした。
芸能活動という忙しい身ながら、弁明の機会を得ようと思ってやってきたわけだが、どうやら無駄足に終わってしまったようだ。
「ゴメンなさいねぇ。あなたが来るとわかってたら、無理やりにでも止めたんだけど」
「いえ、事前に連絡しなかったあたしが悪いんです。今日は帰りますね」
香稟はきびすを返し唐草家を後にしようとする。残念な気持ちと寂しさを背中に映しながら。
次の瞬間、母親はその背中に向かって声を発した。
「あ、待って」
香稟は咄嗟に振り返る。
「あの子なら、そんな遠くには行ってないはずよ。えーっとねぇ……」
母親は腕組みしながら、潤太の行き先を思い起こそうとした。
そして数秒後、その答えはしっかりと香稟の耳へと伝わった。
「そうそう! 駅前のタカラビルの屋上って言ってたわ」
* ◇ *
「わぁ……。今夜は一段と夜景が綺麗だ。これなら、いい色を見つけることができそうだ」
時刻は夜の八時五分前。北寄りの夜風が少しばかり冷たい。
潤太がやってきたのは、駅前にあるタカラビルの屋上。ここは地上十五階建てで、商業とオフィスを兼用したこの街で一番高層のテナントビルである。
このビルは一階から三階までが商用、四階より上層はオフィス用となっている。高層ビルということもあり、ここでは毎晩十一時までは夜景を楽しむ一般人向けに屋上を開放するという気の利いたサービスを行っているのだ。
そういうわけで、屋上には夜景を楽しむ一般人が少なからず見受けられる。そのほとんどが男女二人のカップルのようだ。
そんなカップルなど気にも留めずに、彼は手すりに掴まって銀色に瞬く夜景という名のイルミネーションに目を奪われていた。
こういう時ほど、いろいろな方角を眺めてみたくなるものだ。自宅がある方角、東京都心の方角、そして東京の奥多摩にある山の方角まで。彼はワクワクしながら屋上の隅々を歩き回った。
そのいろいろな夜景には、当然ながらいろいろな色があった。彼はとある方角で立ち止まると、おもむろにスケッチブックを広げる。描いてみたい色が見つかったのだろうか。
ここは照明が設置されているため手すりの周辺は明るい。スケッチブックに描かれた風景画もはっきりと見えるぐらいに。
「よし、描いてみよう」
彼はスケッチブックの上に、下書き用の色鉛筆を当て始めた。ここではあくまでも下書きで、この後、家に帰ってから絵筆で仕上げるつもりなのであろう。
スケッチブックの絵画はまだ白黒で殺風景だ。そこにまず、ひとつの明るい色が彩られた。……しかし。
「待てよ、ここはこういう色がいいかも」
気に入らなかったのか、別の色鉛筆に持ち替えて塗り直してみる。今度はどうだろう?
「……うーん、ちょっと違うような」
またしても、お気に入りの色ではなかったようだ。また別の色鉛筆に持ち替えて塗り直してみる。スケッチブックに色が入ったのはいいが、複数の色が交ざり合い色彩が微妙になってきた。
お気に召さなければ、繰り返し繰り返し、何度も何度も色を塗り足していく。そうすればするほど、風景画の色合いはどんどんぐちゃぐちゃになってしまう。
「…………」
彼はふと、走らせていた手を止めた。
(……どうしてだろう? なぜ、いい色にならない? どうしてなんだ)
彼は頭を垂らして心の中でそうつぶやいた。自宅の自室でも、この綺麗な夜景の中にも、彼が求める色は見つからなかった。
心の中を覆っている灰色のフィルター、それがいつまでも前向きになろうという思考を邪魔してくる。そのフィルターの正体とはもちろん――。
「くそっ!」
歯がゆさのあまり、彼は右手の拳を手すりに叩き落とした。衝動的になってスケッチブックを夜景の下へ投げ出してしまいそうになったが、すぐに我に返って何とかそれだけは回避した。
スランプから脱出するきっかけはどこにもないのか。悔しさが胸の奥からこみ上げてきて目頭がじわりと熱くなってきた。今にも涙の滴が零れてきそうだ。
――それから数秒後のことだった。
(…………?)
彼は背後に人の気配を感じた。夜風に乗って、優しくて懐かしい香りが漂ってくる。
その香りを乗せて吹いてくる風は、なぜか不思議なほど心地よくてほのかに温かい。
「わぁ、綺麗だね、ここの夜景」
背後から聞こえてきた声は、明らかに聞き覚えのある女の子の声、そうだ、彼女の声だった。
「――――!」
潤太は勢いよく振り向く。
彼の後ろに立っていたのは、記憶の中からも、そして心の中からも忘れ去ろうとしていた人物、だけど忘れ去ることができなかったスーパーアイドルの夢百合香稟であった。
「香稟ちゃん……!」
驚きのあまり思わず大声を上げそうになったが、周りにいる一般人に気付かれたらマズイと思って声の調子をグッと押し殺した。
「お家を訪ねたらね、潤太クンのお母さんがここにいるって教えてくれたの」
「そ、そう……」
彼は気まずそうにうつむいてしまった。嬉しいのか、嬉しくないのか、この状況に戸惑っていたのは間違いない。
彼女は彼のすぐ隣の手すりまで歩み寄ると、星のようにキラキラと煌めく夜景へと視線を送った。
「こんな素敵な場所があったなんてびっくり。ここによく来るの?」
「う、うん。気が向いたらね」
潤太はうつむき加減のまま、横目でチラッと香稟を見つめる。
彼女の横顔は夜景に負けんばかりに輝いていた。夜空を明るくするほど肌が透き通っていてとても美しかった。
彼の鼓動がバクバクと音を立てる。忘れたくても忘れ切れなかったはかない想いが、彼女をより美しく鮮やかに見せていたのかも知れない。
そんな美しい横顔を持つ彼女だが、そこには笑顔のような明るい色はなく悲しげで儚げな色ばかりが映っていた。
「――もう会えないと思ってた。この先ずっと、もう会えないと思ってた」
「ゴメンね。ボクの自分勝手な都合で」
「ううん。あなたは何も悪くないわ。悪いのは、みんなあたしの方だから」
「悪いのはキミじゃないよ! 同じ事務所にいた、えっと、あれ、誰だったかな……」
この二人の間に溝を作ったのはたったひとつのスキャンダルがきっかけだが、その溝をより深くしたのは、嫉妬と裏切りといった誰もが隠し持つ醜い人間性であろう。
スキャンダル事件の真相も明らかになり、事態も少なからず収束に向かっている。しかし、心に傷を負った二人の間の溝はそう簡単に埋まるものではない。
「もとをただせば、あたしがいけないの。あたしにアイドルなんて肩書きさえなければ……」
やり切れない気持ち、それを彼女は悲しげな表情で表現した。
芸能界という舞台でアイドルとして華やいでいる彼女、その一方で、世間の目に晒されてプライベートすら許されない、しかも複雑な人間関係に巻き込まれて悲痛な思いも経験した。
彼女は今、アイドルという立場の自分が悔しかった。後悔したところで、何も変わらないとわかっていても……。
「放っておいてくれと言われたのに、勝手に会いに来ちゃってゴメンなさい。正直言って迷惑だったでしょ?」
「いや、そんな、迷惑なんかじゃないよ」
潤太のそんな心遣いに、香稟はホッと安堵の表情を浮かべた。
彼女は夜景から目を逸らし、すぐ隣にいる彼の方へ顔を向ける。
「あたしね。もう、あなたに会えないなら、最後に言っておきたいことがあったんだ」
「え?」
彼女はほのかに口元を緩める。
「あたし達が初めて出会った日のこと覚えてる? 偶然としか思えない不思議な出会いだったよね」
「うん。今思えば、あんなことが現実にあったのかと思うぐらい不思議な体験だったよ」
「あたしのわがままを無理やり聞いてもらっちゃって。あの時、すごく楽しかった。今思い出しても、素敵な思い出になったわ」
「ボクもすごく楽しかった。あんな風に女の子と遊んだことがなかったから尚更だったよ」
「一緒に横浜の八景島にも行ったよね? あの時、潤太クンといっぱいおしゃべりしたよね。おもしろかったわ」
「うん、そうだね。落下するヤツで具合が悪くなったり、観覧車でいろいろお話したね。そうだ、代々木公園で絵の先生もしたんだった」
「そう、たくさんの思い出がある……。みんな、あたしにとって絶対に忘れることのできない、最高の思い出」
「それは、ボクも一緒だよ」
二人はいくつもの思い出を振り返る。忘れられない、いや、忘れてはいけない二人にとってかけがえのない大切な思い出を。
「……いつからなのかな。いつからかわからないけどね、あたし、気付いたことがあるの」
「何を?」
「一緒にいたいという気持ち」
「え……?」
香稟は潤みがちの瞳で潤太のことを見つめる。
彼女の瞳には、ドキッとした顔の彼が映っていた。
「あなたと一緒にいたいという気持ち。それをね、これからもずっと感じていたかった」
彼の鼓動がますます早くなる。
彼の顔がみるみる紅潮していく。
「始めはお友達という感覚だったの。あたしは実家を離れて一人暮らしだったし、誰かお話し相手が欲しかったという思いもあった。でもね、今は違うの」
香稟はそっと頭を横に傾ける。そこには潤太の肩があった。
「か、香稟ちゃん――!?」
夜風になびいた彼女の長い髪が、彼の真っ赤な頬を優しく撫でている。
寄り添い合っている彼ら二人。思いも寄らぬ展開に彼の全身はカチンコチンに硬直した。それもそのはずだ。自分の肩の上には、あのスーパーアイドルの頭が乗っているのだ。
ドックン、ドックンと、彼の鼓動はどんどん激しくなって今にも爆発しそうだった。
「あたしね、あなたの絵を初めて見た時、今までに感じたことのない衝撃を受けたの。それは絵の上手さにびっくりしたんじゃなくて、何て言っていいのかわからないけど、胸がね、すごく熱くなった気がしたの」
潤太の肩にもたれかかったまま、香稟は胸のうちを語り続ける。
「あなたの描く風景に人物は描かれていないけど、その風景を見ている人がいるわ。あたしに送ってくれた代々木公園の絵画、あたしだけじゃなくて、あなたも一緒に見ているあの絵の中にある思い出の景色を今でも大事にしてるよ」
彼女はゆっくりと、彼の肩から離れた。
「……潤太クン。今まで本当にありがとう。素敵な思い出をくれて」
彼女の瞳から、宝石のようにキラキラと輝く涙が零れた。
「さようなら――」
彼女は別れを告げた。胸の内をすべて打ち明けたことで、すべてを忘れる決意を固めたのだろう。
そして彼女は、彼の側から一歩、また一歩と離れていく。まるで夜闇に紛れて消えていくかのように。
このままお別れでいいのか。もう彼女と会えなくなってもいいのか。彼は硬直したまま、必死になってその答えを見つけようとした。
――が、その答えを見つける前に彼女が遠くはるかかなた、スターが瞬く星空の上に去っていってしまう。答えなんて後から見つければいい、彼は勇気を振り絞って大声を張り上げた。
「香稟ちゃん! 待ってよ!」
彼女の足がピタリと止まった。
「ずるいよっ! 自分のことばかり告げて行っちゃうなんてさ。ボクの気持ちはどうなるんだよ」
「潤太クン……」
彼女は戸惑いの表情で振り返った。すると、彼の目からポロポロと涙が零れていた。
「……この絵を見てよ」
「え?」
潤太はスケッチブックを広げて見せた。そこには、いつになっても色付けがうまくいかない未完成の風景画があった。
「その絵がどうかしたの?」
「今日、どうしてここに来たのか。それは、この絵を仕上げるために新しい色を見つけるためだったんだ」
「でも潤太クンは、色を考えたり、色付けしたりするのは自宅でするはずでしょ? どうして今日に限って」
新しい色を見つけようと、夜景が美しいタカラビルの屋上までわざわざ足を運んだ彼だったが、スケッチブックにはさまざまな色が混じり合った複雑な色が塗られていた。彼の揺れ動く心の色を映し出すかのごとく。
苛立たしさともどかしさ。そういった感情が胸に込み上げてきて、スケッチブックを握り締める彼の両手がぶるぶると震え出した。
「できなかったんだ。いい色が見つからないんだよ。こんなこと、絵を描き始めてから初めてなんだ。どうしたらいいのか、どうしてこんなことになったのか。自分でもその答えがわからなかった」
「…………」
香稟は黙ったまま、潤太のやるせない心情に耳を傾ける。
「でも、やっとわかったんだ。ボクは、絵を手で描いていたんじゃなくて、心で描いていたってことに……」
「……心で?」
「心が、ボクの心が絵を描こうとしなければ絵は完成しない。絵を描きたい、描かなきゃいけないと、心がそう感じれば絵は完成するんだ」
「それじゃあ、潤太クンの今の心は、絵を描こうとしていないっていうの?」
彼女がそう問いかけると、彼は小さくうなずいた。
「……ボクの心は今、キミを見ているんだ。ボクがどんなに綺麗な景色を見つけても、ボクの心はキミを追っている。ボクが美しい絵を描いても、ボクの心はキミの姿を描いている」
「潤太クン……」
潤太は潤んだ瞳で香稟の瞳をじっと見つめる。そして、高ぶる衝動のままに告白する。
「素直な気持ちを伝えるよ。ボクはキミのことが好きだ」
一人の少年からの告白――。香稟は胸が熱くなるのを感じた。
彼ら二人はお互いに見つめ合い、好意を寄せるお互いの気持ちが一緒だったことを確信した。
「だけど、ボクにはそれを伝える勇気がなかった。伝えてしまったら、ボクはきっと辛い思いをすることになる。そう思ったんだ」
「どうして?」
どうして辛い思いをしてしまうのか。彼女が促すように問いかけると、彼はためらうように伏し目がちになる。
「キミがアイドルだから。芸能人だからだよ。所詮、ボクとキミは住む世界が違う。ボクはただの普通の高校生。でもキミは日本中から騒がれるスーパーアイドル。どう見ても釣り合わないから好きになっちゃいけない人だ。そう思ったら、ボク何も言えなくなっちゃってさ……」
「そんなの違う――!」
彼女は頭を激しく左右に振って髪の毛を振り乱した。大粒の涙を流し、人目をはばからず大声で叫んだ。
「あたしは何も違わない! あなたと何も変わらないわ。あなたと同じように遊んで、楽しんで、そして生きてる……。あたしは、あなたと同じ十七歳のごく普通の女の子よ!」
夢百合香稟というスーパーアイドルも、そのベールを脱ぎ捨てたら普通の少女。ブラウン管越しではなく真正面に向き合うここにいる少女は、お友達と遊んだり、一緒に出掛けたり、そして少年と恋をしたりするごく普通の少女なのだ。
泣きながら駆け出していく彼女、その勢いのままに彼の胸の中へ飛び込んだ。
「か、香稟ちゃん――」
「香稟じゃない。あたしは由里よ。今のあたしは信楽由里よ。お願い、アイドルじゃないあたしを見て。香稟じゃなく、由里のあたしを……」
香稟、いや信楽由里と潤太の二人は、しばらくの間そのまま抱き合っていた。自らの立場に悩み、苦しみ、傷ついた心を緩やかに癒していくかのように。
周りにいた他のカップル達は横目でチラチラ二人のことを見ていたが、薄暗かったせいか、まさかこの女の子があのスーパーアイドルだとは誰も気付くことはなかった。彼女の正体を知っていたのは、上空のはるかかなたで光り輝く星達だけであった。
「もう帰ろうか」
「うん」
お互いの気持ちを通わせた彼ら二人は、夜景の美しいここタカラビルの屋上に別れを告げた。
◇
潤太と香稟の二人は、腕を組みながら夜の市街地を歩いていた。
時折お互いの微笑みを見せ合っては、はにかんだり照れくさかったり。ぎこちなさを感じるも、一緒にいることの喜びを実感していた。
そして新宿駅へとやってきた。ここは、彼ら二人にとって一時の別れの場所でもあった。
「ありがとう。ここまで送ってくれて」
「ううん。できる限り一緒にいたかったんだ」
「嬉しい」
彼ら二人の会話は恋人同士そのものだった。
つながれた二つの手は、少しでも離れたくない思いを伝わせている。しかし、無情にもお別れの時はやってきてしまう。
「じゃあ、行くね」
「ボクから電話するよ」
「うん、待ってる」
彼女は大きく手を振って、駅構内の人混みの中へと消えていった。
そんな彼女を見送りながら、彼は心の中で決意をあらわにした。
(ボクはもう迷わないよ。どんなことがあっても、ボクは好きな人を信じ続ける。今も、そして、これからもずっと……)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます