8.忘れかけていた夢

 タカラビルの屋上での告白――。

 それは唐草潤太と夢百合香稟、いや信楽由里の二人にとって忘れることのできない思い出となった。

 それから数日が経過したが、彼女のオフの日にはお忍びのデートをしたり夜遅くまで長電話したりと、時間が過ぎるたびにお互いの距離を縮めていった。

 スーパーアイドルと普通の高校生との純愛。そんな夢物語のような幸せな時間が緩やかに流れていく最中、彼女の事務所の新羅プロダクションではある重大な決断を迫られていた。

「……というわけなんだ」

「…………」

 ここは重苦しい空気が漂う事務所内の社長室。社長と新羅今日子が深刻な表情を突き合わせていた。

「おまえもわかってるだろうが、我が社は今、経営がかなり傾いている。あのスキャンダル騒動のせいで、香稟の仕事が減ってしまったんだからな」

 連章琢巳とのスキャンダル報道によって、夢百合香稟の仕事はピーク時に比べて減りつつあった。これもピュアでクリーンなイメージを持つ人気アイドルの悲しい宿命というやつであろうか。

 彼女を起用していたスポンサー六社のうち、すでに四社が契約解除を申し入れていた。またテレビでも週四本のレギュラー番組のうち、次の番組編成期までに二本降板が決まっていた。

 さらにそればかりではなく、九埼まりみの事務所移転報道も重なって事務所の信頼も悪化の一途を辿っていた。社長が苦渋の顔つきで頭を抱えるのも無理はない。

「それはわかってます。だけど、いきなり香稟にその話をしたら彼女はきっと……」

「背に腹は代えられない。もうやむを得んのだ。そもそも事の発端は香稟でもあるんだ。それなりに覚悟を決めてもらう必要がある」

「……承知しました」

 新羅今日子は無念をにじませながら静かに頭を下げた。

 ある重大な決断、それは清純派アイドルで売り出している香稟にとって認めがたいものだった。

 この会社を、いやアイドルとしての彼女を救う手だてはこれしかない。彼女のマネージャーである新羅今日子は、やり切れない気持ちを胸にしまったまま社長室を後にした。


* ◇ *

 それから数時間後。

某テレビ局では、香稟がバラエティー番組の収録を行っていた。

 彼女は仕事が減ったことに気落ちしたりせず、持ち前の愛らしい笑顔を振りまいて目の前にある仕事に励んでいた。

 もちろん、その背景にはいつも応援してくれるたくさんのファン、共演者やスタッフの存在があるからだろう。そして、テレビカメラの向こうで想いを届けてくれる男の子がいることも――。

 夜九時を過ぎ、収録を終えた香稟は控え室でメイクを落としていた。

「香稟ちゃん。最近何かあったんですか?」

「え? 何かって?」

「だって、前よりとても元気なんですもの。何かいいことでもあったのかなと思って」

「別に何でもないですよぉ。フフフ」

 メイク係の女性からの問いかけに、香稟は頬を赤く染めながらそうはぐらかした。照れ笑いしている彼女の頭の中には、想いを寄せてくれる男の子の顔が浮かんでいたのだろうか。

「香稟」

「あ、今日子さん」

 控え室に入ってきたのは新羅今日子。鏡を通して映る彼女の表情はいつもと変わらず冷静沈着だが、今夜は少しばかり落ち着きがない素振りを見せていた。

「今日はこれでお仕事終わりだから、これから食事に行きましょうか」

「いいですね。誘ってくれるってことは、もしかして、おごりですか?」

「いいわ」

「やったぁ!」

 仕事で多忙な頃はなかなか外食もできない日々が続いた。自宅で深夜に一人きりで食事なんてごく当たり前だった。こうして誰かと一緒に食事ができるなんてこんな嬉しいことはない。

 無邪気に振る舞う香稟に暖かい眼差しを送る新羅だったが、伝えなければいけない重大な決断が胸につかえているせいか、その微笑の裏側には複雑な心境も覗かせていた。

 メイクを綺麗に洗い落としてもらった香稟を連れて、新羅はここからすぐ近くにある欧風レストランへと向かった。


 某テレビ局から徒歩で数分ほどの距離にある欧風レストランは、観葉植物が所どころに飾ってあり、木材やレンガをふんだんに使って気取った感じのしないシックな色合いのお店であった。

 場所が場所だけに、いわゆる業界人も多数来店するこのお店は一般客との接触を避けるために芸能人専用のビップルームを常設していた。新羅と香稟は当然ながらここへ案内されていた。

 モダンなテーブルの上に豪華な料理が並んだ。会話も弾んで楽しい食事タイムになるはずだが、どうしてか彼女達二人は静かなままだった。

「どうしたんですか、今日子さん? お料理に手を付けてないですよ」

「え、ええ。そうね……」

「?」

 新羅はナイフとフォークを手にして料理に口を付ける。しかし、おいしいもおいしくないも感想はなく、考え事をしているかのようにうつむき加減で黙ったままだ。

 いつもとは明らかに様子が違うのは明白だ。香稟は不審に思ってその真相を問いただそうとした。

「何かあったんですか? 今日の今日子さん、何だか様子がおかしいですよ。具合でも悪いんですか」

「…………」

 新羅はナイフとフォークをそっとテーブルの上に戻した。そして、意を決して重たい口を開く。

「香稟。あなたにね、新しいお仕事をお願いしたいのよ」

「新しいお仕事……ですか?」

 改まってそう言われると意味ありげに聞こえてしまう。いつもの新羅なら、新しい仕事ともなれば顔色も声色も明るくしながら申し出てくるはず。香稟はそれに不安を感じて少しばかり表情を曇らせる。

「そのお仕事はね、写真集なの」

「あれ、写真集なら前にもやりましたよ? 別に新しい仕事なんかじゃないですよ」

 香稟は一年ほど前に写真集の第一弾を発行していた。十代のアイドルらしくセーラー服姿や清楚なワンピース姿など、ファンにとっては購入せずにはいられない魅力いっぱいの内容で、発行部数も歴代の女性アイドルを凌ぐ記録的なものであった。

 というわけで、写真集の仕事は彼女にとって初めてではないのだが。これが新しい仕事であることが、新羅の口から今まさに明らかにされる。

「――水着写真集なのよ」

「み、水着……!?」

 それを聞いて、香稟は言葉を失い愕然とした。思ってもみない答えだったからだ。

「待ってください、今日子さん。水着って、それはどういうことですか? あたしはグラビア路線には行かないという話でしたよね?」

 香稟はご承知の通り、ファンも認める清純派アイドルだ。水着といった素肌を露出する映像や写真は基本的にタブーというのが業界での常識であった。

 マネージャーの新羅なら当然それを知っているはず。香稟はわけがわからなくなり、動揺してしまい表情を引きつらせた。

「ええ、それは百も承知よ」

「そ、それじゃあどうして――?」

 新羅はこのたびの経緯をすべて打ち明ける。苦渋な決断に迫られて、やり切れなさをその表情に浮かべながら。

「香稟、落ち着いて聞いて。事務所の資金繰りが行き詰まっているの。例のスキャンダルのせいであなたのレギュラーが減ってしまって、それに九埼まりみの移籍も騒動の火種になってね」

「…………」

 それはもう忘れてしまいたい、思い出したくない辛い過去。香稟は押し黙るなり新羅から目を逸らしてしまった。

「このままだと、数千万円の赤字を計上して破産する恐れもあるの。だけどね、香稟、あなたならその窮地を救えるわ。事務所の屋台骨、稼ぎ頭であるあなたが、これまでのイメージを壊してさらなる飛躍を試みるしか手は残されていないの」

「そんな! さらなる飛躍だなんて、いきなり言われても困ります」

 いくら事務所の事情とはいえ、香稟は困惑するばかりでそれを素直に受け止めることができない。

 そんな彼女の気持ちが痛いほどよくわかるが、従業員や他の所属タレントを路頭に迷わせるわけにもいかず、新羅も必死になって説得を試みる。それこそ、事務所が倒産したら仕事を選ぶどころではないと付け加えながら。

「ねぇ聞いて。あなたも気付いていると思うけど、芸能界という世界は決して甘いものじゃないわ。一度失った信頼を取り戻すことは思ったよりも簡単にはいかないのよ」

 アイドルだった過去を持つ新羅、彼女も香稟と同じで、男性関係で過ちを犯して苦しみから解放されていない女性の一人だ。だから、彼女の言葉には説得力があった。

「あなたは清潔感や爽快感を売りにしていたアイドルなのよ。そのあなたがあんな黒い噂を流されてしまって、これまでのイメージを完全に壊されてしまった。だから、これからも同じ路線で行こうとしても、いつかは見放されてしまうわ」

 誤報だったとはいえ、女性アイドルが男性タレントのマンションで夜の密会をスクープされてしまった以上、その汚れたイメージを払拭することが難しいのは香稟にも十分理解できる。

 だからといって、自らだけが犠牲にならなければいけないのだろうか。彼女の唇は悔しそうに真一文字に塞がれていた。文句を言える立場でないことが心底恨めしい。

「安心して。そんなにきわどいものじゃないから。水着を着て、カメラに向かってポーズを取る。ただそれだけなのよ。ねぇ、香稟。お願い、この話を快く受け入れて」

 香稟は沈痛の面持ちでうつむいたままだ。いくら親身になって接してくれるマネージャーからのお願いでも、水着姿を衆人環視の目に晒すなんて快く受け入れられるわけがない。

 スキャンダル騒動がひと段落し、ようやく心の傷が癒えてきた矢先、まさかこんな展開になるとは想像もしていなかった。悲しみと悔しさが胸に込み上げてきて口から溢れてしまいそうだ。

 彼女はそっと顔を上げる。そして、正直な気持ちをそのまま声に乗せる。

「……あたしはアイドルです。だけど、一人の十七歳の女の子でもあります。あたしにだって譲れないことがあります」

「でもね、アイドルだからこそやるべきこともあるわ。芸能界に足を一歩踏み入れた時、それぐらいは覚悟できていたはずよ」

 芸能界の先輩として、また人生の先輩として新羅がそう諭すも、むしろそれが逆効果となり、香稟はますます感情的になって声を荒げてしまう。

「アイドルはすべて言うことに従わなくちゃいけないんですか? あたしの気持ちはどうなるんですか? あたしは、今日子さんの操り人形じゃないんです!」

 怒りに震えながら、香稟は勢いに任せて席を立った。

「か、香稟――!」

「今日子さん。あたし、こんなの納得できません。だから、この話も快く受け入れることはできません。ごめんなさい」

 断りのお辞儀をしながらそう告げると、香稟はレストランのビップルームから一人出ていってしまった。薄っすらと悔し涙をにじませながら。

「香稟、待ちなさい!」

 新羅の制止の声など、香稟の耳にも、そして心にも届かなかった。

 香稟の気持ちは痛いほどわかっている、だがこれも事務所の社長からの業務命令なのだ。香稟の思い通りにさせたいが、業務命令に逆らうことも許されない。

 冷めた料理が並んだテーブル。静けさに包まれたビップルームで、葛藤に苦しむ新羅は落胆しながらそこに立ち尽くすしかなかった。


 翌日のこと。時刻は夜七時過ぎ、ここは唐草潤太の自宅である。

 夕食を済ませた彼は、自室でラジオを聴きながら趣味の絵画に没頭していた。流れているラジオ番組は言うまでもなく夢百合香稟がパーソナリティを務めている番組だ。

「フフフ~ン」

 彼は軽やかな気分で、鼻歌交じりでスケッチブックと向き合っている。

 すると、突然ドアをノックする音が聞こえてきた。

『コンコン』

「開いてるよ」

 部屋に入ってきたのは、彼の弟の拳太であった。

 彼は部屋へ入るなり、なぜか兄の背中を険しい目つきで睨みつけていた。いったい何事であろうか。

「どうした、拳太。何か用か?」

 潤太が不思議そうな顔でそう問いかけると、拳太は目つきをより険しくしながら語り出す。

「……最近さ。兄貴、香稟ちゃんと随分仲良くなってないか?」

「えっ――」

 唐突なその問いかけに、潤太はドキッと鼓動が高鳴った。

 ご存知の通り、拳太は根っからの香稟の大ファンである。ファンクラブに所属しているぐらい彼女に首ったけだ。

 拳太の鋭い視線はまさに疑惑の眼差し。潤太があまりにも彼女と仲良くしていたら気分がいいとは言えないだろう。

「そ、そうかな? 今までと変わらないと思うけど……」

「いや、それは違う! 昔だったら、オレが香稟ちゃんからの電話を受けるとちょっとした世間話をしてくれたのに、今だとまともに会話もしてくれないで、すぐに兄貴に代わってくれって」

 夢百合香稟とのちょっとした世間話も、拳太にとってはこの上なく嬉しくてとても貴重な時間だ。まさに天にも昇る気持ちというやつだ。

 だからこそ、それがなくなってしまったことへのショックは大きい。その原因が兄の潤太にあるとすれば、真実を突き止めるべく徹底的に追及する必要がある。

「どうなんだよ? 正直に言えよ!」

 語気を強める拳太。感情が高ぶっているせいか、両目からポロポロと涙が溢れている。

 いきなり泣き出してしまった弟、こうなると兄は慌ててなだめるしかないわけで。

「おいおい、泣くなって。それは、おまえの気のせいだからさ」

「うるさーい、このクソ兄貴め。オレの香稟ちゃんと勝手に仲良くしやがってー!」

「オレの香稟ちゃんって、いつからおまえのものになったんだよ」

 香稟のこととなると拳太は目の色を変えて必死になる。苛立ちと悔しさが爆発し、ついには潤太の側まで駆け寄り胸倉に掴みかかって怒鳴り声を上げた。

「やかましい! どう考えても香稟ちゃんの態度はおかしいじゃないか? 

兄貴が何かしたとしか思えないんだよぉ!」

「け、拳太、お、おお、落ち着いてくれ――」

 拳太は小さく身震いしながら頭を垂らした。そして、潤太から両手を離すとその場でひざを落として崩れていく。

「なぁ、兄貴。正直に言ってくれよ。オレ達さ、二人きりの兄弟だろ? ホントのこと言ってくれよぉ……」

 拳太の声は弱々しくて、はるか遠くへ消えていってしまいそうだ。

 すっかり落ち込んでしまっている弟、それを見て、兄である潤太は苦渋の顔つきで押し黙っていた。真実を隠し通すべきであろうか、と自問自答しながら。

 よくよく考えたら、このまま黙り通して生活できるものでもない。しかも、隠し事をしながら生活する方がむしろ苦痛ではないだろうか。彼は心の中でそう思い立ち、この場で正直に打ち明ける決心を固めた。

「……ボク達はお付き合いしてる。二週間ぐらい前からな」

 ついに、堅く閉ざされていた口が開かれた。

 心臓がバクバクと大きく振動した。汗がにじむほどの緊張感があったが、心が開放されたような爽快感もあった。

 拳太の反応が気になる、どんな反応が返ってくるのか怖い。潤太はゴクッと生唾を呑み込んだ。

「……付き合ってる? こ、恋人同士ってことか?」

「う、うん……。世間的にはそうなるかも知れない」

 大ファンである弟の過剰な反応を意識してか、あくまでも清い交際であることを強く強調した。十代同士の恋愛なんてそれが常識なのだろうと信じたいが。

 怒り狂うだろうか、殴られてしまうだろうか。潤太は拳太の凶行を恐れるあまり目を閉じて身構えた。ところが、拳太の反応はちょっと意外なものであった。

「すげぇ! 兄貴が香稟ちゃんの彼氏だなんて、やってくれるじゃねーか」

 拳太は驚愕していたものの、ハイテンションを示すかのように表情はとても明るかった。怒りや憎しみという感じはなく、むしろ誇らしさを感じてか尊敬の眼差しを送っていた。

 これには潤太もすっかり拍子抜けしてしまった。肩の力が一気に抜けて、まるで穴が空いた風船のように萎んでいた。

「拳太、おまえ怒ってないのか?」

「別に。そりゃムッとはするけどさ、あのスーパーアイドルの彼氏を兄に持つなんて珍しいじゃん。仲間に自慢できるよ」

「お、おい、仲間には言うなっ! ここだけの秘密にしてくれ」

 いくら珍しいとはいえ、調子に乗って学校で暴露されたらそれこそ天と地がひっくり返るほどの大騒ぎになるだろう。今夜の話は兄弟二人だけの秘密、両親にも内緒だと、そう釘を指した潤太であった。

「でも信じられないな。香稟ちゃん、どうしてこんな冴えない男なんかに惚れたんだろ。まぁ、世の中って、不思議なことがたくさんあるからな」

「うるさい。悪かったな、冴えない男で」

 唐草兄弟はクスクスと苦笑し合った。

 潤太は心から安堵していた。香稟の大ファンである拳太が交際を容認してくれたことに。悪口のような嫌味ひとつにしても、彼なりの祝福の気持ちなのであろうとそう受け止めることができた。

 拳太は拳太で、兄に対して羨ましさからくる嫉妬心がなかったとは言えない。ただ単純な性格なので、夢百合香稟が自宅へ来てくれる機会が増えるだけでも十分満足だとそう判断したのかも知れない。

『コンコン』

 ドアをノックする音が聞こえた。潤太はすぐさまそれに応答する。

「あ、なーに?」

「潤太、香稟ちゃんが来たわよ」

「え? こ、こんな時間に!?」

 夢百合香稟の突然の来訪――。

 夜もすでに七時を過ぎている。しかも、事前に連絡もなく訪問するなんて初めてのことだ。何か緊急事態でも起こったのであろうか。

 予想外の出来事に、潤太と拳太の二人は呆気に取られた顔を見合わせて首を傾げた。


 潤太は香稟に誘われるがまま、近所の公園までやってきた。

 付近にはマンションや住宅が軒を連ねており、昼時にもなれば乳児を連れたママ達で賑わうこの公園だが、この時間ともなると誰ひとりいなくてひっそりと静まり返っている。

 そんな人の気配のない公園のブランコに腰掛ける男女二人。

「由里ちゃん、いったいどうしたの?」

 交際が始まってからは、潤太は香稟のことを本名で呼んでいる。

「うん、ちょっと聞いてほしいことがあってね」

 香稟はうつむきながらそうつぶやいた。薄暗い景色の中にいても、元気がないのが彼女の表情からはっきりとわかる。

「あのね、昨日のことなんだけど、マネージャーに言われたの、新しいお仕事の話」

「新しいお仕事? へぇ、よかったじゃない」

 新しい仕事となれば、アイドルとしてさらなる飛躍が期待できる。これはおめでたいとばかりに、潤太は交際相手としてそれを素直に喜んだ。

 ――ところが、香稟は喜ぶどころか彼のことをギロッと睨みつける。

「それがよくないの! ぜーんぜん、よくないのよ!」

 彼女はいきなり声を荒げてしまった。人っ子ひとりいない公園内に、少女の甲高い叫び声がこだました。

 近所迷惑になるからと、彼は慌てて彼女のことをなだめてみたものの、もともと怒りっぽい性格が災いしてか興奮がなかなか収まりそうにない。

 地団駄を踏んで苛立ちを全身から放出しまくる彼女。それから三十秒ほど経ってからやっと落ち着きを取り戻した。

「あたしもう、どうしていいのかわかんないよぉ……」

 怒ったと思ったら、今度はガクッと肩を落として落ち込んでしまった。この急激な感情の変化を目の当たりにした彼は、わけがさっぱりわからず唖然として戸惑うばかりである。

「何なの、その新しい仕事って?」

「……水着写真集の撮影よ」

「水着写真集?」

 潤太は呆気に取られた顔をした。それもそのはずで、水着写真集はアイドルにはよくある仕事だろうと思っていたからだ。

 彼女が怒っている理由が思い当たらない。彼がその辺りを問い返してみると、ようやくその真相が見えてきた。

「あたしね、アイドルでデビューする時、水着とか肌を露出したグラビア路線で活動しないことを事務所にお願いしてもらっていたの」

「どうしてそんなお願いを?」

「あたし、肌にちょっとだけコンプレックスがあってね。それが恥ずかしくて、人前で水着になるのは絶対イヤなの」

 誰にだって人前に晒したくないコンプレックスはあるだろう。彼女の言い分がわからなくもない潤太だったが、それと同時に腑に落ちない気持ちも抱いていた。アイドルが水着を拒んでいたら、それはただのわがままなのではないか、と……。

「でもさ、アイドルだったら、水着とかは仕方がないんじゃない?」

「仕方なくないもん!」

 香稟は真っ赤な顔をして頬を膨らませる。

 彼の考え方はただの一般論であり、絶対ではない。それが彼女の主張であった。

「水着が嫌ならさ、海やプールで遊んだりできないんじゃない?」

「海は水着じゃなくても遊べるもん。プールは行かなきゃいいだけの話だし」

 彼女の水着に対する抵抗感はかなりのものだ。

 具体的なところを語れば、彼女は小学校時代はまだ水着で海辺を駆けずり回っていたそうだが、中学校に進学してからは人前でほとんど肌を露出していないという。

 水着への抵抗感からか、彼女は夏という季節があまり好きではないらしい。ステージ衣装で露出度の高いノースリーブのドレスを着たりするのも抵抗があるそうだ。

「それはいいとしてさ、どうしてこんなことになっちゃったの?」

 香稟にとって水着はタブーなのになぜ――?彼女は自身が巻き込まれた厳しい現実を口にする。

「あたしの事務所ね、経営が悪化してるらしいの。このままじゃ破産しちゃうかも知れないって……」

「ホ、ホントなの、それ?」

「……うん。だから、その窮地を脱する秘策として、このあたしが水着写真集を出すことになったというわけ」

 スマイルを売りにした清純派アイドルから、スタイルを売りにしたセクシーアイドルへの転身。それは、青少年よりも年齢層の高いファンを獲得できるチャンスでもある。

 事務所としては、この写真集を起爆剤として経営を立て直すことが目的となるわけだが、そのために一人の少女が人柱にならなければいけないのだろうか。

 芸能界といえど、ひとつの企業であることに違いはない。所属アイドルはひとりの社員だ。経営のために自らが犠牲となって一肌脱ぐのは間違ったことではないだろう。

 社会の仕組みというのは、それほどまでに窮屈で息苦しいものなのか。まだ学生である潤太はちょっぴり将来に不安を感じていた。

「そうだったのか。大変な目に遭ってるんだね」

「うん」

 香稟が片足で大地を蹴り出すと、ブランコが小さく動き始めた。

 ブランコはゆっくりと揺れている。ギコギコと、金具同士が接触する軋む音を響かせながら。

 彼女はブランコに揺られながら星空を仰いだ。澄んだ空の上で、キラキラと満天の星が輝いていた。

「潤太クン、あたし、どうしたらいいのかな?」

 いきなり無理難題を振られてしまった潤太。当然ながら、彼にその答えなどあるはずもなく。

「えっ? え、え~とぉ……。そうだなぁ。う~んとね~」

 彼は頭をポリポリと掻きながら口ごもってしまった。

 だが、一人の男の子として、いや彼氏として何かしら答えを出すべきではないだろうか。彼が思いつくままに口にしたメッセージとは。

「……例えば、アイドルを辞めるとか?」

「え――?」

「あっ、いや、例えばの話だよ、もちろん!」

 とんでもないことを口走ってしまった。あまりにも無責任な発言に、彼は冷や汗をにじませながら大慌てで釈明した。

 確かにアイドルを辞めたら呪縛から解放される、しかし、それでは彼女の生きる価値も失われてしまうだろう。結局のところ、どうすべきかだなんて彼に気安く答えられるはずもなかった。

「ゴメンね、変な質問して。あたしが自分で決めなきゃだもんね」

「そ、そうかも知れないね」

 彼女は両足でブランコを止めると、勢いよく立ち上がった。

「あたし、もう少し考えてみるね。そして、ちゃんと答えを出すよ。アイドルにとっても、自分にとっても後悔しない答えを」

 香稟は力強くそう誓うと、愛らしくも輝かしい微笑みを見せた。それは夜空の星をも隠してしまうような、まさにスーパーアイドルの微笑みだった。

 その笑顔こそが彼女なのだ。潤太はホッと胸を撫で下ろした。そして、彼女のためならどんな相談にも乗ってあげようと心に誓った。

「どんな答えだろうと、ボクはキミを応援するから。いつでも、どんな時でもね」

「ありがとう、潤太クン。よかった、あなたと話せて。何だか気持ちが楽になったわ」

「いつでも相談してよ。ボクにできることなら、何でもするからさ」

 香稟と潤太の二人はしっかりと手を握り合って、静けさに包まれた公園を後にした。


 時刻は夜九時少し前。電車は新宿駅を出発した。

 電車内はやや混雑気味。吊り革に掴まって立つ乗客も少なからずいる。その中の一人が、寂しそうな目で車窓から夜の景色を眺めている香稟であった。

 彼女はアイドルなのがバレないよう、帽子や伊達メガネ、そしてマスクをして変装していた。そのおかげか、他の乗客からは疑いの目で見られることはなかった。

 外出時はいつも変装しなければいけない彼女、スーパーアイドルである限りそれが宿命なのかも知れないが、それに嫌気がさし、疲れていたこともまた事実であった。

(…………)

 彼女は頭の中で、アイドルとしてデビューしてから積み重ねてきたさまざまな記憶を思い起こしていた。楽しかったことや、悲しかったことなど――。

 これから向かうべき未来に戸惑い、心が締め付けられる。アイドルのままで幸せになれるのだろうか、このまま芸能人を続けることが正しいのだろうか、と。

(もう、そろそろ……なのかな)

 彼女は心の中でそうつぶやいた。この時、ひとつの大きな結論に辿り着いた。


* ◇ *

 それから数日後の夕刻。

 潤太は学校帰りの放課後、腐れ縁の友人である色沼と浜柄と共に暇つぶしがてら市街地をぶらぶらと歩いていた。

 特段用事があるわけではない男子三人。ただ学生にとってこの寄り道は学業から解放されたちょっとしたストレス解消、いわゆるリフレッシュできる一時でもあった。

「おい、浜柄。あれ見ろよ」

「ん、何だよ?」

 色沼が何かを発見し、浜柄の腕を掴んだ。

「おお、いいじゃん、いいじゃん!」

「な、いいだろう?」

 発見した何かを目にし、浜柄は興奮した様子でにんまりと笑った。

 男子二人の視線の先には、彼らの学校とは違う制服を着た数人の女子高生がいた。彼女達もまた、彼らと同様にストレス解消の寄り道と洒落込んでいたのだろうか。

「中でもさ、あの真ん中の子がいいと思わないか?」

「そうか? オレは向かって右側の子がいいと思うけどなぁ」

 相変わらず女の子には目がないようだ。こうしてかわいい女子高生を見つけては胸をときめかせることが、彼らにとってのストレス解消というやつなのかも知れない。

 そんな友人達を横目で見ながら、潤太は呆れた顔をして溜め息を漏らした。今の彼にしたら、他校の女子高生どころか夢百合香稟以外の女の子などまるで興味がなかった。

「おまえら、いい加減にしたら? もう少しさ、将来とかこれからの人生とか考え直した方がいいんじゃないの?」

 こういう時の潤太の口癖はどこか説教じみている。大人っぽくない性格のくせに物言いだけは一人前である。

 コイツにだけは言われたくないとばかりに、色沼と浜柄の二人は冷ややかな目をしてすぐさま反論する。

「うるさいな、おまえはちょっとジジくさいんだよ」

「その歳で、絵ばっかり描いてるおまえに言われたくないぜ」

 これには潤太もカチンと来た。彼は口を尖らせながら言い返す。

「その歳って、ボクの絵は幼稚なものじゃないぞ!」

 潤太にしたら、趣味である絵画を愚弄されるのだけは許せないといったところだろう。しかし、友人二人にそれが伝わるわけもなく。

「おまえはね、はっきり言って暗いのよ。俺達みたいにさ、もっともっと青春を謳歌しなくちゃダメだぞ」

「そうそう。おまえは机に向かって絵ばっかり描いてるから、いつまでたっても女が寄りつかないんだぞ」

 友人達は悪気もなく言いたい放題だ。ここまでバカにされたら、さすがの潤太も冷静ではいられなかった。

「そ、そんなことないさ! だってボクにはあのスーパーアイドルの――あっ!」

 つい勢いあまって、香稟の名前を口に出してしまいそうだった。潤太は慌てて口を両手で塞いだ。

「ん? 何だよ、スーパーアイドルって?」

「スーパーアイドルって香稟ちゃんのことか?」

 しつこく詮索されまいと、潤太は必死になってごまかそうとする。

「い、いやあの、ぼくには、か、香稟ちゃんをテレビで見れたらそれで満足というか、何と言うか……」

「おいおい、おまえ、いつから香稟ちゃんファンになったんだ?」

「なるほどな。おまえもいよいよまともな男子になったようだな」

 色沼と浜柄はほっこり顔で潤太の肩を叩いて喜んだ。きっと、香稟のファンという共通の仲間ができて嬉しかったのだろう。

 その一方で、潤太は無事にごまかせて安堵の表情を浮かべた。香稟とお付き合いしているなんて彼らは信じないだろうが、いろいろとしつこく詮索してくるのは目に見えているからだ。

 そんなやり取りがありながらも、男子学生三人はその後もしばらく歩き続けて市街地でも賑やかな駅周辺まで足を運んだ。

 彼らは駅周辺にあるゲームセンターに立ち寄ってスコアを競い合うつもりでいた。こうして若者達は、なけなしのお小遣いを無駄遣いしてしまうのである。

「あれ?」

 ゲームセンターへ向かう途中、潤太はある一点を見て立ち止まった。

「どうかしたか?」

「あそこ、ほら。人だかりが」

 潤太が指し示した方角、そこにはさまざまな年代の人が群れをなして集まっていた。駅周辺では大道芸や歌手のイベントなどがよく開催されるが、そういった類のものであろうか。

「お、ホントだ。行ってみようぜ」

 彼ら三人はゲームセンターへ行く予定を変更し、群がっている人混みの中へ行ってみることにした。

 遠目ながらよく観察してみると、人混みから出てきた人々は誰しもが一枚の紙切れを手にしていた。

「号外で~す、さぁ、どうぞ、号外で~す」

 どうやらそこでは、新聞社が号外を配っていたようだ。号外ということは、巷を賑わす大きなニュースでもあったのだろうか。

 三人を代表して、色沼が配られている号外の紙切れを受け取った。

「えーと、何だろう……?」

 号外を覗き込んだ色沼と浜柄、そして潤太。

「――――!!」

 男子三人に衝撃が走った。

 それは、彼らにとって驚くべき大ニュースであった。

「夢百合香稟、引退表明だとぉぉ!?」

「お、おい、マジかよっ!?」

「…………!」

 潤太は唖然としたまま言葉を失っていた。

 頭が真っ白になり、現実からかけ離れた夢の中を彷徨っているかのような感覚だ。

 数日前、香稟は新しい写真集の仕事について悩みを打ち明けていた。それを聞いた彼は、軽い気持ちで彼女に告げた。“例えば、アイドルを辞めるとか”と――。

 まさか、その時の自分の言葉が原因なのではないか?そう感じた直後、彼の全身がぶるぶると震え出した。

(……由里ちゃん、これ本気なの?)

 それにしても、さすがは国民的スーパーアイドルである。引退表明ひとつで号外が出るぐらいなのだから。きっと夕方の全国ニュースでもこれをトップで放送するのであろう。

 号外を受け取った一般の人達も皆、予想していなかったのか驚きや戸惑いの表情を見せていた。

 どこからともなく聞こえてくる、このたびの引退表明に関する感想。それは、良くも悪くも決して聞こえのいい言葉ばかりではなかった。

「しかし、どうなってんだ? 恋愛騒動の次は引退表明とは。最近の彼女、どうかしちゃったんじゃないか?」

「芸能人とはいっても、まだ十代そこらの子供でしょう。アイドル活動を部活動とかお遊びのつもりでやってたんじゃないの?」

「まぁな。そうかも知れないな」

 また、違うところからはこんな言葉も……。

「これさ、よくあるアレじゃないか?」

「アレ? 何だよアレって?」

「恋に焦がれて何とやらってやつさ。もしかすると、香稟は引退後結婚する気なんじゃないか」

「おいおい、香稟はまだ十七歳だぞ。相手はまさか、あの連章琢巳だっていうのか?」

「そこまではわからないけどさ、可能性はあるってことだよ」

 大衆の声が聞こえてくるたびに、潤太は心が締め付けられる感じがして気持ちが逸るばかりだ。彼女の辛い心情を知る者として、このままじっとしてはいられない心境だった。

「ゴメン。ボク、用事思い出したからもう帰るよ!」

「え、お、おい!?」

 潤太は人だかりを掻き分けて、脇目も振らずにその場から走り去った。自宅の方向ではない、どこに辿り着くかもわからない見知らぬ行き先に向かって――。


* ◇ *

「どうなっとるんだぁ!?」

「申し訳ありません!」

 その日の夜、新羅プロダクションの社長室では部屋の窓を壊さんばかりの怒声がこだました。声の主は無論、事務所の社長である。

 そして怒鳴り声を張り上げている彼の前で、夢百合香稟のマネージャーの新羅今日子は小さくなって繰り返し頭を下げていた。

 夢百合香稟の突然の引退表明。どうやらここにいる二人は寝耳に水だったらしく、芸能レポーターからの電話でこの事実を知った。

 香稟は事務所にいっさい相談もなく、テレビ番組の収録中に引退の意向を口にしたそうだ。それが共演者を通じてすぐさま芸能レポーターに伝わってしまったという。

 事務所側にしたら、彼女の引退表明の真相がまるでわからない。彼ら二人も頭を抱えて困惑するしかなかった。

「事務所の前にマスコミが駆けつけとるんだぞっ!」

「ただいま、社員達が追い返してるところです」

 社長室の窓から階下を覗いてみると、テレビカメラを抱えた報道陣の姿が至るところで見られた。

 スーパーアイドルの引退報道とあって、マスコミ各社はここぞとばかりに事務所前を陣取っているようだ。翌日の朝刊のトップを飾る絶好のスクープになることは間違いない。

「それよりも、肝心の香稟はどこにいる!? 今日はどういうスケジュールなんだ」

「明日の午前までオフです。先程、家に電話を掛けたら留守番電話でした」

 真相を突き止めたくても、本人と連絡がつかなければ話にならない。社長はうなだれて苦悶に満ちた声を上げる。

「テレビでいきなり引退したいなどと抜かしおって。やっと例の一件が落ち着いてきたところだったのに~!」

「本当に申し訳ありません。すべてわたしの責任です」

 うかつであった。香稟が引退を口にした時、新羅はたまたま仕事の関係でスポンサーと電話をしていたため収録現場から席を外していたのだ。もしかすると、香稟はこの隙を狙って引退表明という大胆不敵な行動を起こしたのかも知れない。

「おまえが謝っても仕方がないだろ。おまえがすることはただひとつ。香稟をここまで連れてくることだっ!」

「かしこまりました。至急、彼女のマンションへ行ってみます」

 新羅はそう告げると、大急ぎで社長室を出ていく。

 事務所の駐車場に止めていた乗用車へ乗り込むと、彼女は一目散に香稟がいるはずのマンションへと向かった。

「しかし大変なことになりましたねぇ。あの香稟ちゃんが引退したいだなんて言うんだもんなぁ」

 運転手である早乙女がそうつぶやいた。日頃から香稟と接する機会が多い彼も、まさかというべきこの事実に戸惑いを隠せなかったようだ。

 彼以上に戸惑っているのは、後部座席にもたれかかっている新羅だ。青ざめた顔つきからも精神的な疲労困憊が窺い知れる。

「参ったわ……。新しい仕事の話をした時に不安がよぎったけど、まさか、引退まで考えていたなんてね」

「何ですか、その新しい仕事って?」

「水着写真集よ。彼女の今までのイメージをガラッと変えて、新しいファン層を開拓しようとした社長の考案だったのよ」

 実際のところ、香稟が引退を決意したきっかけが水着写真集かどうかは現段階では定かではない。だが、それが引き金になっていると考えるのは妥当であろう。

 それを耳にした早乙女が不思議そうな顔で問い返してくる。

「あれ? 香稟ちゃんは水着はいっさいやらない方針って言ってましたよね。それなのにどうして?」

「…………」

 その答えに言及できず、新羅は押し黙ってしまった。

 事務所が資金繰りにあえいでいる。従業員の一人でもある早乙女がそれを知ったらショックのはず。それを考えると、正直に打ち明けることができない彼女の気持ちもわからなくはない。

「……とにかく、彼女のマンションまで急いでくれる」

「わかりました」

 彼女達二人を乗せた乗用車は、夜の帳が下りた東京の街を駆け抜けていった。


 ここは、東京都内屈指の高級住宅地の一角。

 都心方面へ乗り入れる電車やバス路線など交通の便がよく、近所には高級スーパーやホームセンターなどお買い物にも困らず、緑豊かな公園もあって住みやすさランキングの上位に食い込むほどの人気エリアだ。そういう理由からも、芸能人や著名人といった裕福層の多くが居を構えている。

 スーパーアイドルの香稟も、この住宅地にある十二階建ての高層マンションに住んでいる。彼女は未成年ということもあり、部屋の名義人は事務所の社長となっている。

 マンションまで到着した新羅と早乙女の二人。見上げてみると、香稟の部屋の明かりは消えている。留守なのであろうか、それとも就寝しているのであろうか。

 それでも引き返すわけにもいかず、彼女達二人は逸る思いで玄関のロックを解除してエレベーターへと乗り込む。

 エレベーターは“八”の表示のところで停止した。マンションの八階、八二六号室が香稟の部屋だ。

『ピンポーン――』

 呼び出しボタンを押してみた。

 しかし、ドアの向こうから反応はない。

『ピンポン、ピンポン、ピンポーン――』

 呼び出しボタンを連打してみる。

 やはり、ドアの向こうから反応はなかった。

 新羅はドアに耳を宛がってみた。聞き耳を立ててみるも、室内から物音や声は聞こえてこない。

「新羅さん、香稟ちゃんいないみたいですよ?」

「いいえ、彼女は必ずここにいるわ」

 実家から離れてひとり暮らし。また、自宅に招き入れてくれるような親しい知人もいない。香稟がいるとしたらここ自宅以外に思いつかない。それが新羅の確信めいた見解だった。

「香稟、お願い出てきて」

 彼女は囁きかけるような小声で呼びかけた。夜半という時間帯でもあり、近所迷惑にならないよう配慮しているのだろう。

 それから数秒間が経過した。しかし、やはり香稟から応答はなかった。

『ドンドン――!』

 ついに新羅はドアを叩き始めた。

「香稟! いるのはわかっているのよ。ここを開けなさい!」

 こう着状態に痺れを切らし、新羅はとうとう声まで荒げてしまった。彼女の顔色から憤りと焦りが見て取れる。

「ねぇ、どうして!? どうして何の相談もなく引退したいなんて言ったの? 新しい仕事が嫌だったから? ねぇ、お願い、お話させてちょうだい!」

 彼女は訴えるように叫んだ。ドアを何度も何度も叩きながら。

 香稟がドアを開けてくれるまでそれを繰り返そうとする。それもそのはずだ。彼女は今も、そしてこれからも香稟のマネージャーを務めるつもりなのだから。

 それから数秒後のことだった。

『カチャ――』

「――――!」

 カギを下ろす音が、静かな廊下に鳴り響いた。

 そして、静かにドアが開かれた。

「……香稟」

 そこには確かに香稟がいた。テレビの前で見せることのない、メイクも髪の毛もセットしていないプライベートを過ごす素顔のままの彼女が。

「大声や物音はやめてください。ご近所に迷惑ですから」

「ごめんなさい……。どうしても、あなたとお話がしたくて」

 香稟と対面できた。それにホッと胸を撫で下ろし、新羅の表情に安堵の色が戻った。しかし、香稟の表情にはゆとりや安らぎといった明るい色は見られない。本心では、最後までドアを開けたくなかったのではないか。

「ねぇ、もし良かったら、中へ入れてくれないかな?」

「…………」

 香稟はうつむきながら押し黙った。

 事務所の了解なく表明した引退の二文字。その背信行為に負い目を感じて、香稟はマネージャーの新羅のことを直視できなかった。複雑な気持ちが喉の奥に引っ掛かって、どう返事したらよいのかわからない。

 できることならそっとしておいてほしかったが、この状況になってはもう追い返すわけにもいかない。このまま逃げ続けられないのなら、いっそここできちんと話し合って決着をつける必要があるだろう。

 数秒間の沈黙の後、彼女は新羅を招き入れる覚悟を決めた。

「……どうぞ。散らかってますけど」

「ありがとう」

 新羅はハイヒールを脱いで室内へ入っていく。それに続くように、早乙女も革靴を脱ごうとするが。

「早乙女クン。あなたはここで待ってなさい」

「へっ? 何でですか?」

「……気を遣いなさい。ね?」

「はいはい、了解です」

 早乙女が渋々と玄関から出ていくのを見届けると、新羅はリビングへと足を踏み入れた。

 香稟が暮らす部屋は2LDK。リビングが八畳、寝室が四畳と、女の子が一人で暮らすには広すぎる間取りであった。これもスーパーアイドルだからこその贅沢なのであろう。

 リビングにはテレビとステレオと書棚、それに三人が座れるほどのソファーベッドが置かれている。フローリングの床には雑誌がいくつか散乱しているが、掃除や片付けが行き届いていないという印象はなかった。

「ふ~ん、思っていたよりもシンプルでおしゃれな部屋ね」

 新羅は部屋を見回しながらそうつぶやいた。実を言うと、彼女が香稟の部屋に入ったのはこれが初めてだった。

 それに応答することもなく、香稟はうつむき加減でソファーベッドに腰を下ろした。

「話って何ですか?」

「わかってるはずよ。わたしに、ちゃんと説明してくれる?」

 新羅は香稟から了解を得てソファーベッドに腰を下ろした。

「あたしはもう決めました。あたしの意志は変わりません」

 香稟の決意は固かった。いつになく真剣な眼差しがそれを証明している。

「わたしは納得できないわ」

「納得してもらえるとは思っていません」

 香稟は淡々とした口調を繰り返している。まるで、マネージャーである新羅へ反抗するかのごとく。

「あなたはとんでもないことをしたのよ。それをわかっているの?」

「わかってます。あたしだって、中途半端な気持ちであんなこと言ってませんから。今日子さんや事務所にも大変な迷惑を掛けたのもわかってます。ごめんなさい」

 このたびの引退表明により事務所はマスコミの対応に追われている。それに応援してくれるファンへも衝撃を与えたのも事実だ。冗談では済まされないのは百も承知、香稟はそれを反省して謝罪を口にしたものの、自分自身の決断、つまり引退そのものを覆すつもりはなかった。

「ねぇ、答えて。どうして引退したいの?」

 その質問に、香稟はうつむいたまま淀みなく打ち明ける。

「もううんざりなんです。アイドルでいることに疲れたんです。みんな、表面こそ愛想よくしていても、その本心では裏切りや嫉妬ばかり。あたしはそんな芸能界の中で、好き勝手に振り回される人形になりたくないんです」

 彼女が語る真意には、事務所やマネージャーの新羅の対応も含まれていたに違いない。資金繰りが厳しい事務所を救うために、恥を捨てて水着姿を世間に晒さなければならないのか、自分だけが犠牲にならなければならないのか。

 さらにこの決断の背景には、連章琢巳や九埼まりみの影も潜んでいたであろう。誰を信じたらいいのか、誰に頼ったらいいのか。ただひとつの救いである事務所からも裏切られてしまったら、もう居場所すら失ってしまうのではないか。

「アイドルはプライベートを楽しむ時間もない。いつも変装しなければ外出もできない。いつも偽りの姿しか表現できない。本物のあたしはどこにあるんですか?」

 香稟はこの時、本名である信楽由里として語っていたのかも知れない。本当の姿を明かせない不自由さ、交友や自由恋愛すら許されない儚さが彼女の言葉に見え隠れてしていた。

 彼女はいつの間にか、瞳から小さな涙の滴を零していた。激白していくうちに、悲しみや苦しみといった負の感情が込み上げてきたのだろう。

 それを黙ったまま聞き入っていた新羅。過去には芸能人として活動していた身、香稟の悲痛な気持ちがわからなくもない。だが、今の彼女は事務所を支えるマネジメントをする身、心では香稟を守りたくても厳しい現実を口にするしかなかった。

「若いあなたには、芸能界の裏側はとても受け入れがたいでしょう。それでも、あなたは自分を魅せるためにこの世界へ飛び込んだんじゃなかったの? テレビの向こうのファンのために歌を歌い、華やかなステージに立つ。あなたはそれを望んでいたんじゃなかったの?」

「そう……。あたしは、小さい頃から歌ったり踊ったりするのが好きだった。だから、アイドルになれた時は本当に嬉しかった。でも……。こんな表裏のある世界だなんて思ってもみなかった――」

 夢にまで見たアイドル。その夢が叶って、華やかな舞台に立って歌ったり踊ったりすることができた。だが、理想と現実とのギャップはあまりにも大きかった。

 苦しい胸のうちを吐き出した香稟は、感情がますます高ぶり閉じた瞳から悔し涙が無数にも溢れ出てくる。

「――やっぱりあたしは普通の高校生でいればよかった。そうすればきっと、あたしはこんな辛い思いをしなくて済んだ」

 十七歳の少女は自らの選択を後悔していた。今から高校生には戻れないだろうが、高校生のような青春を取り戻したい。変装などせず、堂々と街中を歩いてみたい。もちろん、恋愛だって――。

 そんな香稟の心情を、新羅は反論したり否定したりせず黙ったまま静かに聞いていた。新羅だって芸能界の厳しさは十分わかる。アイドルの苦悩を知っているからこそ、香稟の訴えは痛いほど理解できた。

 ただ、芸能人ではなくても一般の社会の中では嫉妬や裏切り、強制や強要はどこにでも起こり得る。大人になれば誰もが少なからず体験し、それを受け入れなければ生きていけないのが現実だ。

 しかし、嗚咽を漏らして塞ぎこんでいる香稟にそんな説得の言葉は無駄であろう。今の彼女には冷静になる時間が必要だ。そう判断するしかなかった。

「……わかったわ」

 新羅は溜め息交じりでそうつぶやいた。

「もうこれ以上、あなたを束縛しないわ。あなたの人生だものね。もうわたしは何も言わない」

「今日子さん」

「あなたのような若い人に、事務所の存続を委ねることそのものがひどい話だものね。これからは、あなたの好きな道を進めばいいと思う」

 新羅はそう告げると、ゆっくりと腰を上げて一人だけリビングを出ていこうとする。

「…………」

 香稟は黙ったまま、去りゆく新羅の背中を見つめていた。

 すると、新羅はおもむろに立ち止まる。そして、横顔だけを香稟の方へ向けた。

「香稟。マネージャーとして、また人生の先輩として。いいえ、一人の大人としてあなたに伝えておくわ」

 伝えておきたいメッセージ、それは人生の先輩というよりも、母親らしく暖かくも厳しい忠告であった。

「人それぞれの人生には、乗り越えなければならない壁がある。その壁は、人それぞれの気持ちによって高くもなり、低くもなる。たとえそれが芸能人であろうとも、普通の一般人であろうともね」

 新羅は表情を変えないままメッセージを続ける。

「いろいろな人生において、困難や試練、後悔や挫折を繰り返してみんな大人になっていく。あなたはそれをすでに経験したでしょう。これからの人生でも、それがきっと役に立つわ。それだけは忘れないで」

 そう言い残し、新羅は小さな足音を響かせながらリビングを出ていった。

『カチャ……バタン……』

 玄関のドアが開き、続いて閉じる音がこだました。それに気付いた早乙女が新羅の側へと駆け寄っていく。

「新羅さん、どうでした?」

 その問いかけに、新羅はうつろな瞳で天を仰ぎながらつぶやく。

「――今世紀最後のスーパーアイドルは、もう二度とわたし達の前で輝くことはないでしょう。行きましょう」

「えっ、えっ!? ちょっと待ってくださいよ、今日子さん!」

 こうして、夢百合香稟のアイドル伝説は人気絶頂のままで幕が下りた。それをマネージャーの新羅は認めざるを得なかった。

 彼女は後ろ髪を引かれる思いながらも、その場から立ち去っていくしかなかった。


『プルルル――、プルルル――』

 電話機のコール音が鳴り響く。香稟が住むマンションの部屋の中で。

 照明を落とした薄暗い室内でひざを抱えたままソファーに座っている彼女、コール音が鳴り続いても電話に出ようとはしない。誰とも話したくはない、そんな気分なのであろう。

『プルルル――、ピッ――』

 しばらくすると、自動的に留守番メッセージが流れる。

『はい、信楽です。ただいま留守にしています。ご用の方は発信音の後にメッセージをお願いします……ピー……』

 その数秒後、静かな部屋の中に男の子の声が流れてきた。

「……由里ちゃん。ぼく潤太です」

「――――!」

 香稟はびっくりして顔を上げると、電話機を目指してドタドタと駆け出した。そして、受話器を取り上げる。

「もしもし? あたし由里よ!」

「あ、いたんだね。よかった」

 電話を掛けてきたのは、彼女の身辺が心配になって気が気でなかった潤太であった。電話がつながってまずは一安心。彼の声色からもそんな安堵感が伝わってくる。

「どうしちゃったの、いきなり引退だなんてさ? 夕方に号外を見て、ボクびっくりしちゃって」

「驚かせてゴメンなさい。でもこれは、あたしにとっても、潤太クンにとっても正しい決断だと思ってる」

「どういう意味、それ?」

「だって、あたしがアイドルをやめれば、あたし達は人目も気にしないで付き合えるじゃない? 潤太クンだってその方がいいと思うでしょ?」

「うん。確かに、それは否定できないけど……」

 香稟の言う通り、アイドルという肩書がなくなれば自由に街中を歩けるし、デートをしてもマスコミに騒がれることもない。彼女達のような若いカップルには好都合と言えるだろう。

 彼女の気持ちはとても嬉しい。心から喜びたいが、素直に喜べない潤太がそこにいた。

「あたしね、辛い出来事を経験してまで、こんな肩身の狭い芸能界になんかいたくない、ただそれだけなの」

 男性タレントとのスキャンダル騒動、同じ事務所の女優の裏切り行為、そして水着写真集の強要。それらはすべて、彼女にとって辛くて窮屈さを感じさせる事件と言うべきものだ。

 潤太はこの時はっきりとわかった。彼女の心を苦しめて傷付けてきたこれらの災難が、芸能界引退という大胆な決断に追い込んでしまったに違いないと。

「本当にいいの? 引退しても」

「うん。後悔するぐらいなら、あんなこと、テレビの前で口にしたりしないよ」

「でも、由里ちゃん。ボクに言ってたじゃないか? 自分は人前で歌を歌ったり、演技したりすることが一番好きなんだって」

「確かにそう言ったわ。だけど、もうやっていけないの。このまま続けたら憎しみや妬みに埋め尽くされて、あたし自身が潰れてしまいそうなの。もう、限界なの……」

 彼女は声を詰まらせた。悲しさでむせび泣く声だけが、電話の向こうにいる潤太の心まで届いた。

 どんな言葉を投げ掛けたらいいのだろうか。どんな励ましや慰めができるのだろうか。むしろ、放っておいた方がいいのだろうか。彼は黙り込んだまま、その答えに迷い続けた。

 それから十数秒後、彼は迷いに迷って行き着いた答えを打ち明ける。

「ボクは一番好きなことをしてる時が一番輝けると思うんだ。だからボクは風景画を描き続けてるんだと思う。友達に暗いヤツだとか、情けないとかバカにされたりするけど、ボクは絵を描き続けるよ。だって絵を描くことが大好きなんだもん」

「…………」

 彼女からの応答はない。彼は思いつくままに話を続ける。

「みんなさ、大好きなことをやってる時が一番楽しいんじゃないかな? ボクにとって風景画が生き甲斐と言えるのと同じで、キミにとっても歌ったりお芝居したりすることが生き甲斐なんじゃないのかな?」

「……そんなの、言われなくたってわかってる。だから苦しんでるのに」

 彼に理解してもらえないもどかしさと悔しさ。彼女の口調から少しばかり苛立っていることがわかる。

「ボクだって苦しい時はあるよ。いつも楽しいことばかりじゃないし、泣きたくなる時だってあるもん。みんな、そういう困難を乗り越えて大人になっていくものなんじゃないかな」

「潤太クンまでそんなこと言うのね。もういいわ!」

 マネージャーの新羅どころか恋人の潤太からも諭されてしまったら、どこに心の拠りどころを求めたらよいのかわからなくなる。彼女は苛立ちをあらわにして一方的に受話器を置こうとした。

「切るのは待って!」

 彼は受話器に向かって叫んだ。

 このまま言い続けたら彼女に嫌われてしまうかも知れない。しかし、彼はどうしても最後まで言い切りたかった。たとえ嫌われようとも、心のこもった応援メッセージを送り届けたかったのだ。

「ボクは輝いているキミの姿が好きなんだ。楽しく過ごしている瞬間、生き生きとしている瞬間、そのスターの輝きにボクは惹かれたんだ」

「……潤太くん」

「由里ちゃん。今だからできること、今しかできないことを捨ててほしくない。キミには、どんな困難にも負けてほしくない。ボクはずっとキミを応援したいんだ。スーパーアイドル夢百合香稟のことを。だからさ、夢と希望を絶対に捨ててほしくないんだ」

 彼は応援メッセージをすべて言い切ることができた。これまでに経験がないほどの勇気を振り絞ったせいか、受話器を握る手は汗で濡れており、それに背中もびっしょりで全身の震えも止まらなかった。

 ――しばしの沈黙の後、彼女からの反応は。

「……あなたの気持ちはとても嬉しいわ。だけど、だけど――」

『ガチャ! ツー、ツー、ツー――』

 彼女の涙ながらにかすれた声は、受話器を置いた音と共に途絶えてしまった。

 彼の切なる願いは、果たして彼女の心の奥まで届いたのだろうか?

 その答えは、一ケ月後に開催される彼女のビッグイベントによって明らかになる。

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