9.そして二人は永遠に
唐草潤太の自宅に一通の封書が届いた。
その封書の中には、一枚のコンサートチケットと三行ほどの文字が綴られた便箋が同封されていた。
彼は同封されていたコンサートチケットを確認してみる。
“夢百合香稟 スーパーライブ 会場――東京ドーム 開演日時――×月×日 十八時三十分”
そのチケットは、夢百合香稟のコンサートの入場チケットであった。
彼女はデビューしてからこれまでコンサートを開催したことがなかった。
人前で曲を披露する機会はファンイベントで一度だけあったものの、大きな会場で大々的なコンサートとなると初めてのことだ。
しかも、その会場となるのが五万人を収容できるあの東京ドーム。たくさんのファンを持つスーパーアイドル、まさに彼女にふさわしい場所と言えるだろう。
彼はチケットと一緒に同封されていた便箋も読んでみた。
「お久しぶりです。あたしのファーストコンサートのチケットを贈ります。都合がよければ、ぜひとも会場に来てください。その時、あたしの将来についてファンのみんなの前で告白するつもりです。それでは、期待して待っています。由里より」
歯切れの悪かったあの電話以降、潤太と香稟はまったくの音信不通の状態だった。
何の前触れもなく突然に届いた封書。彼は複雑な心境のまま、手にしたコンサートチケットを見つめていた。
◇
芸能界を騒然とさせた夢百合香稟の引退表明。
あの衝撃的な告白から数日経ったが、この一連の報道に大きな進展はなかった。
引退を覆すこともなく、また芸能界から姿を消したわけでもない。
誰の記憶の中からも引退の文字が薄らぎ始めていた矢先に、初コンサート開催の発表が行われた。果たしてこの真意とはいったい――?
* ◇ *
夢百合香稟のコンサート開催発表から数日後。
ここは夢百合香稟が所属する新羅プロダクションの社長室である。
社長はそわそわと落ち着きのない様子で、机の上を指でトントンと何度も叩いている。そんな彼のすぐ側には、冷静沈着な面持ちの新羅今日子がいた。
彼ら二人は囁くような小さい声で何やら会話をしている。
「……で、香稟のヤツはどこにいる?」
「自宅のマンションにいます。今、早乙女クンが部屋の前で監視してますから、どこかへ逃げ出すことはないかと」
「そうか。で、例の件の状況はどうなんだ?」
「今のところ好調です。彼女の初めてのコンサートですからね、評判はかなり上々みたいで」
それを聞くなり、社長は不機嫌そうに鼻息を荒くして怒鳴った。
「フン、何が初めてのコンサートだっ! マスコミはな、アイツの最初で最後のライブだとほざいとる」
「それは仕方がありません。こちら側からは、引退についても撤回についてもまだ正式に発表していませんから」
「ここで下手に動いたら、ますます香稟を追い込むことになる。とにかく穏便に事を進めるんだ。チケットもはけてるとあれば、香稟のヤツもホイホイとボイコットなんぞできんだろうしな」
夢百合香稟のファーストコンサート、実はこれにはからくりがあった。
このコンサート開催についてだが、彼女はこれをテレビの芸能ニュースで初めて知った。つまり、本人に無断で事務所側が一方的に発表してしまったのだ。
マスコミを通じて大きく公表することで、香稟本人を無理やりステージの上に引っ張り出そうという狙いである。ファンを大切にしている彼女なら、ボイコットをしてコンサート会場に集まるファンを裏切ったりしないだろうと。
「…………」
今日子はうつむき加減で唇を噛んだ。表情もいつになく冴えない。
ファーストコンサートを成功させたい気持ちはある、だが彼女にしてみたら、こういう手段で香稟をステージの上に引っ張り出すという行為に賛成とは言えない心情であった。
「どうした? 何か問題でもあるのか?」
「いいえ。ただ……」
「ただ、何だ?」
「……もう少し、彼女の気持ちを理解できていたらと思うと。わたしがもっと、香稟のことをわかってあげていれば、こんな事態にはならなかったと」
事務所側の方針とはいえ、一人のアイドルを引退という選択に追い込んでしまった。これではマネージャーとして失格ではないか。今日子はそれに責任を感じて猛省するしかなかった。まるで娘のように親身になって育ててきただけに、この現状を悔やんでも悔やみきれない。
香稟を思いやる今日子だが、社長はというと顔を真っ赤にしながら厳しい口調で捲くし立てる。
「今更何を言ってる! こんなことになったのは、おまえがアイツのワガママを何でもかんでも許してきたからだろうがっ!」
「申し訳ありません」
「だいたいな、香稟のヤツは芸能界を舐めきっとる。あんなスキャンダルを起こしておきながら仕事を選ぶなんて生意気なことをしおって。冗談では済まされんぞ、まったく!」
社長の厳しい指摘に従うしかない立場の今日子であるが、彼女にも彼女なりのアイドルのマネジメント論というものがある。時には厳しく、また時には優しく。そして気持ちを受け止めて、守ってあげることが何よりも大切なのだと。
いつもなら反論せずに押し黙るところだが、今日の今日子は黙ったままではいられなかった。
「あの子は一生懸命にやってきました。右も左もわからないこの世界で、多くの仕事を必死になって成し遂げてきました。今までいろいろな困難にぶつかったでしょう。だけどあの子は、逃げ出したりせずにここまでやってきたんです。だから、少しはあの子の気持ちもわかってあげてください」
そんなマネージャーの言い分など聞く耳持たず。香稟を労うどころか、社長はさらに目くじらを立てて激高する。
「気持ちをわかってあげろだと? そんな甘い考え方でいたならな、芸能界ではやっていけないんだ。スポンサーや番組プロデューサーといったお偉いさんに好感を持ってもらえなければ、この業界で生きていくことはできん。そのためにもな、香稟は言われた仕事だけをやっていればそれでよかったんだ!」
それを聞いた途端、今日子の表情が見る見るうちに紅潮していく。
「いい加減にして、父さん!!」
ついに堪忍袋の緒が切れた。今日子は身震いしながら、目の前にいる父親に向かって激しく怒鳴りつけた。
「昔から父さんはいつもそうだった。わたしがアイドルだった頃から、いつもこの世界でやっていけないとか、生きていけないとか……。もうそんなの聞き飽きたわ!」
「お、おまえ、社長のわしにたてつく気か!?」
「黙って聞きなさい!!」
アイドル時代だった過去の苦悩を思い起こし、今日子は理性を失うほど感情を高ぶらせる。そのあまりの語気の強さに父親である社長は思わず縮こまってしまった。
「わたしも、香稟と同じような思いを抱いたことがあるわ。自分の名を売るために、わたしは父さんに言われた通りに何でもやってきた。だけど、得られたものは、空しくて、切なくて、悲しい現実ばかりだった。事務所を救うために、いや父さんを助けるために、わたしは自分の手までも汚したのよ!」
「ぐっ……」
今日子から目を逸らして、社長は何も言い返せなくなった。
目の前にいる実の娘には、犯罪行為を犯してしまうという忌まわしい過去があった。それを強制したわけではないが、結果的にはそれを強制する形となったのは紛れもない事実だった。
「ねぇ、父さん。香稟も、わたしと同じ目に遭わせる気なの? あの子はまだ十七歳なのよ? 確かに、芸能人としての自覚が足りないのはわかるけど。だけど、これ以上あの子に辛い思いをさせたくないわっ!」
今日子の嘆きは、香稟の今の気持ちをそのまま代弁したようだ。香稟だけは救いたい、傷ものにだけはしたくないという母親のような強い訴えでもあった。
娘からの悲痛な叫び声が胸に突き刺さる。社長は頭を抱えて机の上に突っ伏してしまった。そして、弱々しい蚊の泣くような声を漏らす。
「……どうすればいいんだ? 我が社はどうなるんだ?」
今日子は机の前からゆっくり歩き出すと、社長室の窓を開け放ち遠くの景色を見据えた。その視線の先には、コンサート会場である東京ドームがある。
「待ちましょう。彼女がアイドルとして戻ってくることを。もし、このコンサートが彼女にとって引退コンサートになったとしても、もう彼女を止めたりしない。これからの彼女の人生は、わたし達ではなく、彼女自身で決めてもらいましょうよ」
今は信じるしかない。香稟がステージに立ってスポットライトを浴びるその時を待つしかない。そして、彼女がこのまま引退したとしても暖かく送り出してあげる。それが彼女なりのマネジメント論なのだ。
「……わかった。わしはもう何も言わん。アイツのことはすべておまえに任せた。好きにしろ」
「ありがとうございます」
窓の外からすがすがしい風が吹いてくる。それが、火照った今日子の顔を緩やかに冷ましていく。
遠景を見つめながら、彼女は心の中で祈った。
(香稟、お願い。夢をこのまま終わらせないで)
* ◇ *
「おい、取れたか? 夢百合香稟のコンサートチケット!」
「いや、残念ながらダメだった。もう完売だってさ」
「ちくしょ~、せっかく彼女のコンサートなのによぉ。行きてぇよなぁ」
潤太の通う学校のクラス内での一コマだが、ここでも夢百合香稟の初コンサートの話題で盛り上がっていた。
さすがはプレミアムチケットということで、発売開始から一週間も経たないうちに完売、現在はキャンセル待ちでしか入手できないという反響ぶりであった。
そんな話題でクラス内が沸き立つ中、彼はそれに興味を示すこともなく、机に肘を付きながら絵画になりそうな外の景色を眺めていた。
「よっ!」
潤太に話しかけたのは、毎度お馴染み彼の友人である色沼であった。
「ここ最近、元気ないじゃないか? やっぱり、隣にカワイコちゃんがいないからじゃないのかな?」
「……そんなんじゃないよ」
「おまえなー、今からボーっとしてると、一気に老けこんじゃうぞ」
「……放っておいてよ」
ジョークにも悪口にもまったく関心なし。のれんに腕押しとはまさにこのことで、潤太からは無気力な返事ばかりが返ってくる。
『ドタドタドタ――!』
突如、彼ら二人に近づいてくるやかましい足音。それに気付いて顔を向けてみると。
「あれ、浜柄のヤツじゃん」
その足音の主はもう一人の友人の浜柄だった。彼は息を切らせて、潤太と色沼二人の側へとやってくる。
「はぁ、はぁ……」
「どうした浜柄? 何か事件でもあったか?」
「ちょ、ちょっと付き合えよ、二人とも」
「何だよ、藪から棒に」
「とにかくさ、黙って付いてこいって!」
「??」
色沼と潤太の二人はわけがわからないまま、半ば強引に教室から連れ出された。
◇
それから数分後、男子三人がやってきた場所は屋上であった。休み時間とはいえ、彼ら以外の生徒はどこにも見当たらない。
「で、何だよ? こんなとこまで連れてきてさ」
何も知らされぬまま、屋上へと連れ出された色沼と潤太はあからさまに不機嫌そうな顔をしている。
「クックック……」
いきなり怪しげな含み笑いを浮かべる浜柄。それを見た瞬間、色沼と潤太は思わず仰け反ってしまった。
「ジャジャーン、これを見よ!」
「?」
浜柄が握り締めているのは一枚の紙きれだ。色沼と潤太の二人はそれに視線を合わせてみる。すると――。
「――おい、これってまさか!」
「わっはっは、その通りさ! これこそスーパーゴールデンプレミアムチケット! あの夢百合香稟のコンサートチケットだぁ! どうだぁ、頭が高ーい、控えろぉ!」
「へへぇぇ~!」
それはまさに、光り輝くスーパーゴールデンプレミアムチケット。
色沼はその眩しさと恐れ多さにひれ伏した。これではまるで、ドラマ水戸黄門のクライマックスシーンのようである。
「だ、だけどおまえ、それをどうやって手に入れたんだ? 今ではどうやっても入手できないチケットなんだぞ」
色沼が驚きと焦りの表情でそう問いかけると、浜柄は誇らしげにチケット入手までのいきさつを話してくれた。
「いやぁ、オレって運がいいよ。実はさ、オレの親戚に東京ドームの関係者がいてさ、主催者を通じてチケットを数枚ほど回してもらったらしいんだ。親戚は興味ないからって、オレに譲ってくれたというわけさ」
労せず手に入れるなんてこれこそ幸運。棚からぼた餅というやつだ。
だからこそ、色沼の悔しさと羨ましさときたらそれはもう半端なかった。彼は軽蔑の眼差しで浜柄を睨みつけた。
「ちくしょ~、これを見せびらかせるためにここに連れてきたのかよ。おまえって最悪なやろうだなっ」
「おいおい色沼クン、話は最後まで聞いてくれ。ほれ、これを見てみな!」
「ん――!?」
浜柄はもう一方の手からもチケットを取り出した。なんとチケットは一枚ではなかったのだ。
「ま、まさか二枚あるのか?」
「ピンポ~ン!」
それを知るや否や、色沼は襲い掛かるように浜柄の体にしがみついた。
「くれぇ、くれぇ、くれよぉ~!」
「うわっ! 抱きつくんじゃねぇ、気持ち悪いだろうが!」
「なぁ、頼むよぉ。二枚あるならいいじゃんかよ~」
「うっとうしい! とにかく離れろ!」
浜柄は無理やり色沼を引き剥がした。
この二枚のプレミアムチケット、ただ見せびらかすためにお披露目したわけではないようだが、果たして浜柄の思惑とはいったい?
「何のために潤太も連れてきたと思ってんだ? もう一枚はオークションにかける!」
「オークション――!?」
「そう! つまり、おまえらが順番に購入金額を上乗せしていくんだ。最終的に高い金額を提示した者が落札となる。どうだ、わかりやすいルールだろ?」
それを聞いた途端、色沼は冷ややかな視線を飛ばす。
「おまえ、めちゃくちゃセコイぞ。譲ってもらったものをオークションにかけるなんて」
「うるせぇ! こんなとっておきの小遣い稼ぎをオレが見逃すと思ってんのか? まずは定価の六千八百円からスタートだ」
とある学校の屋上にて、夢百合香稟のコンサートチケットをかけた姑息なオークションが始まった。
まず口火を切ったのは色沼だった。彼は興奮しながら人差し指を上空に突き立てた。
「よし、オレは六千八百一円だっ!」
「……たった一円上乗せかよ。おまえの方こそセコイじゃねぇか」
セコさはさておき、色沼はやる気も勝つ気も満々である。
その一方で、潤太からはやる気も勝つ気もまったく感じられない。彼は落札価格を提示しないどころか、澄ました顔で友人二人のやり取りを眺めているだけだった。
「おい、どうした潤太? おまえはいくらだ?」
「……ボクはいらないよ。じゃあね」
潤太はそう言い残すと、てくてくと友人二人の側から離れていく。それもそのはずで、自宅の机の引き出しの中には一枚のプレミアムチケットが静かに眠っているのだから。
「おい、潤太待ってくれ! それじゃあオークションの意味がないじゃないか!」
「よっしゃあぁ! 六千八百一円で落札だぁぁ!」
「ちくしょ~! 上乗せ額がたった一円とは。とほほ……」
嬉しがって舞い上がる友人と悔しがって落胆する友人、そんな二人など気に留めることもなく、潤太はたった一人で教室へと戻っていった。
* ◇ *
その日の放課後、潤太は一人きりで寄り道をしていた。
夕暮れ迫る黄昏時、彼はいつもと変わらない通学路からいつもと変わらない市街地へとやってきた。
行き交う人々、追いつき追い越していく人々、そのすべてがいつも通りだ。
いつも通りに飽きたのだろうか、彼は思いつくままに駅から電車へと乗り込み、自分自身にとって思い入れのある場所まで足を運んだ。
そこは、雄大な樹木が生い茂る緑が豊かな代々木公園であった。
「…………」
彼はふと立ち止まり、目の前に映る公園の景色を見つめている。
「こんな色、初めてだ」
何気なく漏らした独り言。彼は今、過去にないぐらい感激していた。
落日が織りなす真っ赤な陽射し。
赤と緑が混じり合って黄色に帯びた樹木。
木の葉を優しく揺らす穏やかな風。
そして、その景色に動きを添える人の影。
そういったさまざまな情景が、彼の絵心をかきたてる。
「スケッチブック持っていればなぁ……」
学校帰りの寄り道ということもあり、今日は自慢のスケッチブックは持参していない。それが残念で悔しくてたまらない。それぐらいこの公園の風景は美しくて幻想的だった。
彼は休憩がてら、空いているベンチの上に腰を下ろした。
赤らんできた上空を仰ぎ、静かに瞳を閉じる。
額を掠めていく風がとても心地よい。心の中にあるもやもやを消してくれるかのように。
(…………)
絵画で頭がいっぱいの彼でも、やはり脳裏に浮かんでくるのは、ここ代々木公園で楽しい思い出をくれた遠くにいる彼女のことだ。
(……由里ちゃんは、今、どんな景色を見ているんだろう)
彼女はコンサートで何を語るのだろうか。引退を決意し、新しい人生をスタートさせるつもりなのだろうか。
彼女とどう接したらいいのだろうか。どう付き合っていくべきなのだろうか。その答えがまったく見つからず、頭の中であらゆる思考がぐるぐると駆け巡るばかりであった。
彼はしばらくの間、夕暮れ色の代々木公園のベンチで物思いにふけっていた。
――香稟の初コンサートまで残り一週間を切っていた。
◇
時刻は夜七時となり、潤太が帰宅した頃にはすでに夕食の準備が整っていた。
帰宅が少しばかり遅くなったせいか、母親が愚痴混じりの小言を零してきた。さっさと食事を済ませるよう促してきたので、彼は部屋に戻らず学生服のままで夕食を済ませた。
自室へ戻ると、学生服を脱いでから部屋着に着替えた。そして、何をするでもなく机に向かうなり引き出しにしまっておいたコンサートチケットを取り出した。
(…………)
彼はまじまじとそのチケットを見つめる。
現時点で、このチケットの使い道は決まってはいない。彼はコンサートに行くべきかどうか迷っていた。
『コンコン』
部屋のドアをノックする音だ。その数秒後、部屋に入ってきたのは彼の弟の拳太であった。
「それって、香稟ちゃんのコンサートチケットだよな」
「ああ、そうだよ」
潤太はコンサートチケットを拳太に差し出した。
「これは貴重なチケットだぞ。もう売れ切れちゃったんだからな」
拳太は物珍しそうにチケットを見回していた。
ちなみに、夢百合香稟のファンクラブに加入している彼はコンサートチケットの抽選に参加はできたものの、残念ながら獲得ならず手に入れることは叶わなかった。
そういう意味でも、彼にとってこのチケットは喉から手が出るぐらい欲しいはず。羨ましがっている表情からもそれが窺い知れた。
「彼女にとって、これが最初で最後のコンサートになるかも知れないんだもんな。いいなぁ、兄貴は……」
肩を落としてがっかりしている弟を見て、潤太はとんでもない発言を口にする。
「拳太、それ、おまえにあげるよ」
「はぁ!? な、何言ってるんだよ。冗談で言ってるのか?」
「冗談じゃないよ、おまえ行きたいんだろ?」
「そ、そりゃ行きたいけどさ……」
譲ってもらえたら、それはそれで嬉しいに決まっている。だが、こんな形で譲ってもらっても心から喜べない拳太がそこにいた。
「なぁ、兄貴。まさか、コンサートに行かないつもりなのか?」
そう問いかけられると、潤太は肯定も否定もせずに黙り込んでしまった。 拳太から目線を逸らして戸惑いの表情を浮かべる。
行くのか、行かないのか。まだ気持ちの整理ができていない。長い沈黙が続き、張り詰めた空気が辺りに充満し始める。
すると、それは突然に起きた。
潤太は乱暴に拳太からチケットを奪い取ると、何を思ったのか、そのチケットを破り捨てようとしたのだ。
「おい兄貴! 何をする気だぁ!?」
拳太はそれを止めようとして潤太の腕に掴みかかった。
「やめろって! 破っちゃったら後悔することになるぞ!」
「もういいんだ! 後悔しようがしまいが、もうボクにはどうでもいいんだ!」
潤太は涙を浮かべながら拳太の腕を振りほどこうとする。
「どうでもいいわけないだろ! 香稟ちゃんがどういう気持ちでこれを送ってきたのか考えたのかよ!? 兄貴は香稟ちゃんが本気で好きだったんじゃなかったのかよ!」
「――――!」
ピタリと動きが止まった。潤太は振りほどこうとしていた力をゆっくりと緩めていく。そして、激しい脱力感に襲われて崩れるようにひざを落とした。
「なぁ、兄貴。行ってこいよ、コンサート。行けばさ、これからどうすればいいのか、きっとハッキリすると思う。香稟ちゃんが引退してもしなくても兄貴の気持ちは変わらないんだろ? だったらさ、彼女の最後のパフォーマンスをしっかりと目に焼き付けてこいよ。今になって逃げるなんて情けないぞ!」
説得というよりも説教のようだが。拳太からそう諭されても、潤太は口を閉ざして泣き顔を下に向けたままだ。
コンサートに行きたい気持ちと行きたくない気持ち、それが交互に巡ってきて葛藤に苦しんでしまう自分がいる。そんな歯がゆさとみじめさで涙が止まらない。
「――なぁ、兄貴。昔さ、オレがいじめられた時に励ましてくれたこと、覚えてるか?」
「…………」
「あの時、オレにこう言ったよな? 逃げて帰ってくるなんて情けないぞ、たとえ負けてもいいから、相手にぶつかって根性だけでも見せつけてやれってさ」
当時の出来事を思い出したのだろうか、潤太はゆっくりと顔を持ち上げた。
それは拳太が小学校低学年の頃、同じクラスの友人から些細なことがきっかけでいじめられた出来事だ。兄からの励ましの後、拳太はそのクラスメイトに正面からぶつかって仲直りができたのだという。
「絵ばかり描いてる兄貴のくせに生意気言いやがって……ってその時は思ったけど。兄貴のことを見直したんだぜ。ほんのちょっぴりだけどな」
拳太は照れくさそうな顔をして苦笑した。それにつられるように、潤太も涙を腕で拭いながらクスッとはにかんだ。
「……ほんのちょっぴりなんだな」
今回は反対に弟から励まされた。日頃からケンカばかりだけど、これこそが兄弟というものだ。兄は不思議と気持ちが軽くなった。不安は拭えないが、一歩前へ進んでみようという勇気が湧いてきた。
「わかった。コンサートに行ってくるよ。おまえが言う通り、彼女のステージをこの目に焼き付けてくる」
「オレの分まで聴いて来いよ。彼女の生の歌声をさ」
「このプレミアムチケット、おまえのためにも大切に使わせてもらうよ」
しわくちゃになったチケットを、潤太は両手で丁寧に伸ばした。
香稟の歌声を、そして彼女の将来をしっかり見届けよう。彼はそのチケットを見つめながらそう心に誓った。もちろん、彼女への想いが変わらないことも確かめながら。
* ◇ *
夢百合香稟のコンサート前日。ここは彼女が暮らしているマンションだ。
ここには彼女とマネージャーの新羅今日子の二人がいる。その目的はもちろん、明日のコンサートの事前打ち合わせである。
ファーストコンサート前日ともなれば、本来なら意気揚々として心が弾んでいるはずだろう。しかし、当人の香稟は浮かない表情で声のトーンもいつもより低かった。
本人の了承なしに事務所の一存で開催が決まったコンサート。ファンの気持ちに応えるために了承せざるを得なかった彼女にしたら、心は穏やかとは言えないはずだ。
「明日、午前中から会場で最後のリハーサルがあるから、朝のうちに早乙女くんが迎えに来るわ。あと、楽曲はそのリストの通りになるからよくチェックしておいてね」
新羅はいつも通り事務的なやり取りをする。一方の香稟は小さくうなずいて了解の意志を示した。彼女達二人の間に緊張感はあっても、期待感のような弾んだ雰囲気はなかった。
「そろそろ事務所へ戻るわ。今夜はぐっすりお休みなさい」
そう言ってソファーから立ち上がると、新羅は玄関に向かって歩き出す。
「今日子さん」
呼び止める香稟の声、それに応じるように新羅は後ろへ振り返る。
「……あたしのコンサート、事務所が経営で苦しいからですよね。これが失敗に終わったら、事務所は倒産しちゃうんですよね」
「…………」
新羅はすぐに答えを出せなかった。数秒間の沈黙の後、表情を緩めながら話し始める。
「それは、あなたが心配することじゃないわ。あなたはコンサートという初舞台で、あなたらしく振る舞うだけでいいの」
事務所の経営が危機的状況なのは事実だが、その存亡を香稟一人に託すというのはあまりにも酷というものだ。新羅は余計なプレッシャーを与えまいと思ってそう答弁したのだろう。
それを聞いた香稟は、浮かない表情のまま口を開く。
「……もし、あたしがコンサートをボイコットしたらどうします?」
「え――?」
新羅の表情が瞬時に強張った。薄っすらと背中に汗がにじんだ。
それは最も恐れていた言葉だ。彼女の脳裏に、コンサート中止による損害賠償請求という最悪のシナリオが浮かんだ。
お願い、それだけは勘弁して――!そう返答しようとした瞬間、香稟はペロッと舌を出してはにかんだ。
「フフ、冗談です。明日はちゃんと会場へ行きますよ。あたしにとっても、そしてファンにとっても貴重なイベントですもんね。絶対に成功させてみせます」
新羅は緊張の糸が切れて、萎んだ風船のように小さくなってひざをついてしまった。
「香稟! 意地悪しないで」
「ごめんなさい。あたしに内緒でコンサート開催を決定したことへの仕返しですよっ」
安堵の吐息をつく新羅、そして茶目っ気たっぷりに微笑する香稟。そんな彼女達二人を和やかな空気が包み込んだ。久しぶりに笑顔を向け合えた瞬間でもあった。
この時、香稟はある決意を明確にしていた。アイドルとしての道を続けるのか、それとも普通の女の子に戻るのかを。
――彼女の運命を決めるコンサートはもうすぐだ。
* ◇ *
今日は日曜日。澄み渡るほどの快晴だ。
行楽日和のこの日、ファンにとって待望の夢百合香稟のファーストコンサート当日でもあった。
午後四時過ぎ、唐草潤太は身支度を整えるなりコンサート会場である東京ドームへと向かう。
自宅を出てから徒歩二十分、彼は最寄りの駅から電車へと乗り込む。都心へ向かう日曜日夕方の電車内は、老若男女さまざまな人達で思いのほか混雑していた。
新宿駅で中央線に乗り換えて、東京ドームの白い屋根を臨む水道橋駅へと辿り着いた。すると、駅周辺は夢百合香稟のファンと思われる人達で賑わっていた。
このコンサートが最初で最後になるかも知れない。ここに集まったファンの人達それぞれの心境は複雑であろう。彼女の華麗な雄姿をひと目見ようと、遠方よりはるばる足を運んだ人もたくさんいるはずだ。
そんな雑踏の中に紛れながら、彼は急かされるように歩を進めた。
一歩、また一歩と東京ドームに近づくにつれ、本日のビッグイベントの全貌が明らかになっていく。
“夢百合香稟ファーストコンサート――ドリーム・フォー・エバー”
そう告知された看板を見上げながら、彼は立ち止まることなく入場ゲートを目指して歩いていった。
入場ゲート周辺も、彼女のイメージカラーである明るいオレンジ色のはっぴを着た若者達でごった返していた。その誰もが、そわそわしながら入場開始時刻を今か今かと心待ちにしている。どうやら興奮を抑えきれない様子だ。
潤太にとっては今日がコンサート初体験。すべてが初めての光景ばかりで、コンサート会場の独特の雰囲気に飲まれて思わずたじろいでしまう。
一人でやってきているので入場までの時間潰しも容易ではない。というわけで、何をしてみようもなくキョロキョロと右往左往していると――。
「――――!」
彼の目に、この会場で会ってはならない人物の姿が映った。彼は反射的に近くにある柱に身を隠した。
オレンジ色に染まるファン達と一体化しているその人物の正体とは?
「あと十分ぐらいだな」
「そうだな。そろそろ入場ゲート前で待機するか?」
「おう」
足早に入場ゲートへ向かう男子二人組。彼らこそ、潤太の友人である色沼と浜柄のコンビであった。
棚からぼた餅でチケットを入手した浜柄と、チケットのオークションをほぼ定価で勝ち取った色沼。ラッキーボーイの彼ら二人がここにいるのは当然だ。
だが、オークションに参加しなかった潤太がここにいると知られたら、それこそ何てツッコまれるかわかったものではない。彼は柱の陰に身を潜めながら友人二人をやり過ごすしかなかった。
(はぁ、びっくりした……)
色沼と浜柄に見つからずに済んで、潤太はホッと安堵の吐息をつく。
それから十分後、東京ドーム施設内のスピーカーから会場への入場開始のアナウンスが流れ始めた。すると、群衆がこぞって動き出して入場ゲート前に行列ができ始めた。
潤太は周囲を警戒しつつも、その行列の中に紛れていった。
◇
東京ドーム内にある控え室では、本日の主役となる夢百合香稟とマネージャーの新羅今日子が最終打ち合わせをしていた。
午前中のリハーサルも滞りなく終了し、ステージ衣装もすべて会場に届いて準備は万端、あとは開演時刻の十八時三十分を待つばかりだ。
彼女達二人は楽曲の順番を入念に話し合っていた。ここでは香稟の希望により当初のリストから若干の変更があったものの、終演時刻にも影響がなかったためそのまま採用された。
いよいよ本番間近。香稟の表情から緊張と興奮が見て取れる。今日はテレビカメラの前で歌うのとは違い、大歓声を送るたくさんのファンの前で歌声を披露する。それだけにその緊張と興奮は計り知れないだろう。
そんな彼女の表情を目の当たりにし、新羅も緊張と興奮を抑え切れない様子だ。これほどの大々的なイベントをマネジメントするのは生涯で始めてのことだった。
打ち合わせも終わり、会場の状況を確認するために控え室を出ていこうとする新羅、すると香稟は小さな声で話しかける。
「今日子さん」
「どうしたの、香稟?」
香稟は真剣な眼差しで新羅のことを見つめる。
「あたし、最後の曲の前に、会場に来てくれたみんなにきちんと報告します。あたしのこれから進むべき道を」
その怯むことのない視線はとても力強かった。それは、アイドルではなく一人の女性としての新たな旅立ちを物語っていた。
「…………」
新羅は黙り込んだまま微笑を浮かべる。
ここで彼女は余計な口を挟もうとはしなかった。もう香稟の思いのままにさせてあげよう、最後の演出ぐらいは香稟の望むままに最高の締めくくりをさせてあげようと。
「わかったわ。社長にはわたしから伝えておく。来てくれたファンのためにも、そこはハッキリさせなきゃだものね」
「はい」
「それじゃあ会場を見てくるから。ここで待っててくれる?」
「はい、行ってらっしゃい」
新羅はそう伝えると、警備しているガードマンに声を掛けてから会場の方へと歩いていった。
静かになった控え室に一人残された香稟。お気に入りのバッグから一枚の紙切れを取り出し、それをじっと見つめた。
その紙切れには、代々木公園の美しい風景が描かれている。そうだ、これは潤太がプレゼントしてくれたあの風景画だ。
「……あたし決めたよ。もう自分で決めたことだもん。絶対に後悔なんてしない。だから、ちゃんと受け止めてね」
◇
五万人もの観客を収容できる“ビッグエッグ”こと東京ドーム。
入場開始一時間が経過し、スタジアム内は溢れんばかりの観客で埋め尽くされていた。本日はコンサートということもあり、プロ野球の試合とは少しばかり様相が違う独特な盛り上がりを見せていた。
こういった大混雑の場に不慣れな潤太は、行き交う人々に揉まれながら道に迷った迷子のようにあたふたとしている。それでもチケットに書かれた座席番号を頼りに少しずつ前進していく。
彼の座席はアリーナ席のファースト側だ。ここは高校生ではなかなか手に入れることができない貴重な座席であった。香稟本人からの招待チケットの恩恵というべきだろう。
彼は人混みから逃れてそこまで足を運ぶと、チケットと座席を交互に見ては座席番号と照合する。
(あ、ここだ)
入場してから十分ほど、彼はようやく自分の座席を発見した。
座席から一望できる大きなステージでは、関係者が忙しなく開演準備に追われている。外野スタンドに設置されている電光スコアボードには、コンサートにまつわる注意喚起のメッセージが繰り返し流れている。
見上げてみると、一階席も二階席もたくさんの観客が詰めかけていた。さすがは数万人という人数だ、声や足音がドーム内に反響してあたかも騒音のようだ。
この開場にいる誰もが、夢百合香稟が光り輝くステージに立つその瞬間を待ち望んでいる。それはもちろん、潤太も同じであった。彼は興奮冷めやらぬまま座席へと腰を下ろした。
(由里ちゃん、ぼくはここで見届けるよ。だから、がんばってね)
やがて、東京ドーム内に開演に関するアナウンスが流れ始めた。
いよいよだ。いよいよ、あのスーパーアイドルのコンサートの幕開けである。
◇
香稟がキラキラと眩いステージ衣装を着て控え室から出てきた。その姿はまるで、宝石をあしらったドレスを身にまとうお姫様のようだ。
彼女が目指す先にあるものは、何万人ものファンが取り囲んでいる大きなステージである。初めてのコンサート、それを実感しながら一歩、また一歩と長い通路を歩いていく。
彼女のすぐ隣には、彼女を暖かく見守るマネージャーの新羅がいた。
「香稟、いよいよね。緊張してない?」
「緊張してます。だけど、すっごく楽しみでもあります」
香稟の表情は充実感に満ち溢れていた。十七歳の少女ならここで臆してしまうのが普通だろうが彼女は違う。やはり、天性の素質を持ったアイドルの中のアイドルなのであろう。
それを知って新羅もホッと胸を撫で下ろした。今の彼女にできるのは、香稟が舞台の上で歌唱し、そして華麗なダンスを舞うのを舞台袖で応援することしかできないのだから。
「よし、気合い入れてがんばってね!」
「はい!」
香稟と新羅は満面の笑みでハイタッチを交わした。
薄暗かったステージにスポットライトが照らされた。それと同時に、コンサート一曲目のイントロダクションが流れ出した。
スタッフ一人ひとりに見送られながら、香稟はいよいよ初めてのコンサートの第一歩を踏み出した。
◇
『ワァァァァァ――!!』
東京ドームを揺るがすようなどよめきと歓声が沸き起こる。
ここにいる誰もが、スポットライトに映し出されたスーパーアイドルに釘付けとなった。
潤太は座ったまま呆然としている。なぜなら、周囲にいる観客すべてが一斉に立ち上がったからだ。
それに戸惑ってしまう彼だったが、この場で座ってなんていられないとばかりにファン達と一緒になって立ち上がった。
一曲目は彼女の新曲だった。リズムに合わせて手拍子をするファンもいれば、両手を拡声器のようにして応援の大声を張り上げるファンもいる。潤太はというと、コンサート初体験ということもあってか手拍子と応援はどこかぎこちなかった。
新曲のメロディーに合わせて、彼女の透き通るような美声が会場内に鳴り響く。
これまでテレビのブラウン管越しでしか聴けなかった彼女の歌声、そして見れなかった彼女の姿。コンサートならではの臨場感が彼のみならず熱狂する観客すべてを魅了した。
◇
一曲、また一曲と、彼女の楽曲が披露されていく。
ステージの演出も、楽曲によってさまざまな形に変わっていく。
そのたびに、彼女の衣装もカラフルに変わっていく。
アップテンポの曲になれば華麗なダンスを舞い踊り、バラード調の曲になればスタンドマイクでしっとりと歌い上げる。
楽曲が進むに連れて、ファン達の応援はますますヒートアップしていった。その雰囲気に飲まれてしまったのか、潤太もいつの間にか両手を叩いて自分の歌声を彼女の歌声にハーモニーさせていた。
ここにいるファン達を虜にする彼女は、言い換えるなら魅惑の女神、地上に舞い降りたヴィーナスそのものであった。
◇
時は瞬く間に流れた――。
怒涛の大歓声に包まれていた東京ドームは、コンサート終盤を迎えて緩やかにヒートダウンしていく。
楽曲は残り一曲。香稟は衣装チェンジのために舞台袖へ消えていた。
コンサート開演から約二時間が経過したが、熱狂したファン達はまさに疲れ知らず、彼女がいない間もステージに向かって声援と拍手を送り続けていた。
その一方で、潤太はインドアで運動が苦手な芸術志向の少年。長時間の応援はさすがにきつかったらしく、ただいま椅子に座って休憩中という感じだった。とはいうものの、彼女と一緒に過ごせたこの貴重な時間を心から喜び、その余韻に浸っているようでもあった。
それから数分後、彼女が舞台袖からステージへ戻ってきた。
ステージの中央、銀色のスポットライトに照らされた彼女を見て、多くの観客達がどよめいた。それはどうしてか?
彼女が袖を通しているのは、煌びやかなドレスではなく白を基調にした丈の長いワンピース。まるで、ごく普通の女の子のような衣装だ。
電光スコアボードに彼女の顔がアップで映し出された。ハンドマイクを両手でしっかりと握り、思いつめたような神妙な面持ちで真正面を見据えていた。
どういうわけか、彼女は声を発しないまま瞳を閉じてうつむいた。
そんな彼女を見つめるファンの誰もが、いったいどうしたのかと気になり応援を止めて静かになった。
静けさに包まれる東京ドーム。コンサートとはまるで異なる緊張感が会場内に漂う。
潤太はこの瞬間、ピンと来た。そして心の中で囁く。
(ついにこの時が来たんだ。彼女のこれからがハッキリするんだ……)
彼女が送ってくれた便箋に書かれていた、将来についてファンのみんなに告白するつもり――という言葉。
彼は固唾をのみ込んで鼓動を激しく高鳴らせる。
観客はもちろん、裏側で待機しているスタッフも、このただならぬ雰囲気を察して彼女が立つステージに注目した。
彼女は閉じていた瞳をそっと開き、握り締めていたマイクに声を伝わせる。
「……皆さん。今日は本当にありがとうございました。こんなあたしのために、東京ドームへ足を運んでくださった皆さんに心から感謝します」
マイクを通してスピーカーから流れてくる彼女の声。何曲も歌った後にも関わらず、声の張りはかすれてもおらずまったく衰えていない。
観客は声援と拍手を送りながら、彼女の感謝のメッセージに耳を傾けている。無論、ステージから数十メートル先にいる潤太もその中の一人だ。
「このコンサートは、あたしにとって初めてのコンサートでした。だから、皆さんに楽しんでもらえなかった箇所もあったと思うけど……」
彼女にとって、五万人もの大勢のファンの前で歌ったのは今日が初めてのこと。リハーサル通りではなく、振付のミスや歌い間違いも少なからずあったはずだ。
それでも、ファン達はそれをすべて受け止めながら励ましの声を張り上げた。最高のコンサートをありがとうと感謝の気持ちを込めて。
そんなファン達の暖かい心遣いを耳にして、彼女は嬉しさのあまりニコッと天使のような微笑みでそれに応えた。
「ありがとうございます。あたしは精一杯がんばりました。皆さん、応援してくれて、本当に、本当にありがとうございましたっ!」
会場内は割れんばかりの拍手の渦に包まれた。
その拍手は数十秒間鳴り止むことはなかった。それは、本日のコンサートの成功を物語っているといっても過言ではないだろう。
拍手の音が止まるタイミングを見計らい、彼女はいよいよ本題を切り出そうとする。
「皆さんもご存じだと思いますが、あたしは、あるテレビ番組の中で……」
彼女はそこで言葉に詰まり、沈黙の時間がやってきた。
その続きが気になるあまり、ここにいる観客一同はゴクッと生唾をのみ込んだ。
「……あたしは、引退を表明しました」
“引退”――。それは、ファンの誰もが耳にしたくない言葉。
ファン達は一斉に嘆きの声を轟かせた。東京ドームが揺れてしまうぐらいの大声で、“やめるなー!”、“やめないでー!”といった悲痛の叫びが会場内にこだました。
そんなファン達の叫び声の中にいる潤太は、真剣な眼差しでステージに立つアイドルを見つめ続ける。
あまりの反響の大きさに負い目を感じているのだろう。彼女は申し訳なさそうに、うつむき加減で小刻みに体を震わせていた。
しかし、ファンのためにも、また自分自身のためにも、ここはしっかりと報告しなければならない。彼女は震えながら小声をハンドマイクに乗せる。
「芸能界というのは、皆さんが思っているほど華々しくて夢のある世界ではありませんでした。……憎しみや妬み、噂に嘘、そして疑惑。あたしが小さい頃に憧れていた舞台など、この世界には存在しませんでした」
大勢の人前で歌うことが大好きだった少女は、アイドルを夢見て芸能界へ飛び込んだ。輝くステージの上で好きなだけ歌うことは叶ったが、その裏側ではさまざまな人間模様の葛藤にも苛まれた。
男性とのスキャンダル騒動、事務所からの仕事の強要、そういった嫉妬や裏切りが一人の少女の心を深く傷つけた。それが芸能界の常識なのだとしても、十七歳の彼女にはあまりにも残酷だった。
「……だから、あたしはこんな世界から逃げたい、ごく普通の女の子に戻りたい、そう思ったんです」
アイドルの涙ながらの告白に、会場内の観客達は戸惑いながらも耳を傾けている。それは、ステージの舞台袖で控えていたスタッフ達も同じだった。
彼女をデビューの頃から支えてきたマネージャーの新羅も、口を閉ざしたまま真剣な表情で聞き入っている。まるで、母親が娘の一大決心を見守るかのような穏やかな目をして。
すると、通路の奥からドタドタと大きな足音を響かせて一人の男性がやってきた。何を隠そう、その人物とは事務所の社長であった。
「お、おい、何をやっている! 一刻も早く、香稟をステージから引きずり下ろすんだ!」
香稟をこのまま引退させるわけにはいかない。ここで稼ぎ頭を失ったら事務所にとっては死活問題だ。彼は冷や汗をかきながら必死の形相でわめき散らした。
しかし、動揺しているのかスタッフの誰もが動き出そうとはしない。このコンサートの責任者は新羅であるがゆえ、いくら相手が事務所の社長とはいえそう簡単に従えないのだ。
これに痺れを切らした社長は、自らが乗り込んでやると息巻いてステージ目指して突進していく。
「お待ちください――」
社長の前に立ちはだかったのは、コンサートの現場指揮を一任されている新羅であった。
「今日子、そこをどけっ!」
「いいえ、どきません。香稟のことは、わたしにお任せしてくれたはずですよね」
「それとこれとは話が違う! いいからどくんだ!」
「どかないと言ってるでしょっ!!」
通路内に響き渡る女性の怒号。これには、スタッフ達も社長も驚きのあまり硬直してしまう。
「社長……いえ、父さん。もうあの子を止めても無駄ですわ。彼女は今、精一杯の勇気を振り絞って打ち明けているんです。……本当の気持ちを」
新羅が振り返りながら見つめる先、そのステージの上では、スポットライトに映し出された一人の少女の姿があった。
静けさと騒がしさが交互する異様な雰囲気に包まれた東京ドーム。香稟はさらに思いの丈を語り続ける。
「だけど、それが芸能界の現実だとしたら。それが生きていくためのルールなのだとしたら……。あたしは、ただのわがままを言ってるだけなのかも知れません」
彼女は高校を中退してアイドルになった。学業も中途半端、一般常識も中途半端だったのかも知れないが、現実を受け入れられなかった自分自身の拙さをつい咎めてしまう日もあった。
「あたしは、いっぱい泣きました。涙が枯れてしまうぐらい、いっぱいいっぱい泣きました」
会場内の至るところから、彼女への励ましのメッセージがこだました。
彼女はそれに応えるように、無理やり笑顔を作って感謝の気持ちを示した。
「そんな苦しかった時、あたしは、かけがえのない友達、いいえ、それ以上の男の子に相談しました」
その瞬間、潤太の全身がビクッと震えた。
「彼はあたしに言いました。一番好きなことをしている時、それが一番楽しい時だって。どんなに辛くても、自分の抱いた希望、そして夢を決して捨ててほしくないと」
会場全体が騒がしくざわつき始めた。彼女にとって、“かけがえのない友達以上の男の子”とはいったい何者なのだ?と。
騒然とするアリーナ席、その中で一人の男の子が呆然としながら座席から立ち上がった。ステージに立つ女の子を見つめて、そして、聞いている。
「あたしにとって、小さい頃からの夢……。それは、こうしてたくさんの人達の前で歌ったり踊ったりすること。それを続けるべきなのか、それとも普通の女の子に戻るのか、すごく悩みました……」
彼女はそう告げると、うつむきながら押し黙った。
――数秒間の沈黙の後、彼女は囁くように口を開く。
「……あたしは、決めました」
アイドルを引退するのか、しないのか!? ファン達の誰もが固唾をのんで彼女の次の告白を待った。
スタッフ達の面々も極度の緊張に包まれた。事務所の社長は狼狽していたが、新羅は口を閉ざして最後の最後まで冷静沈着を貫こうとした。
そして、彼女を陰ながら支えてきた男の子、その人物である潤太も鼓動を激しく高鳴らせて彼女の決意に耳を澄ませた。
「あたしは、アイドルという夢を捨てません!」
潤太は心の中で叫んだ。
(ま、まさか由里ちゃん――!)
アイドル夢百合香稟は最高級のスマイルを振りまいた。潤太を含めて、この会場に来てくれたすべての観客達に向けて。
「だから、あたしは引退しません!!」
次の瞬間、彼女はワンピースを勢いよく脱ぎ捨てた。すると、その下にはキラキラと眩しい真っ赤なドレスをまとっていた。普通の女の子ではなく、光り輝くアイドルらしい華やかな姿であった。
それを見た瞬間、東京ドームが興奮の坩堝と化して壊れんばかりに沸き上がった。ファン達は抱き合ったり、握手し合ったり。狂ったように踊る者もいれば、握り拳を振り上げて絶叫する者もいた。
ステージの舞台袖にいたスタッフ達も手を叩いて歓喜をあらわにしていた。事務所の社長もホッと胸を撫で下ろして廊下の上に座り込んでしまった。
マネージャーの新羅も安堵したであろう。態度にこそ示さなかったものの、口元が緩んで表情には明るい色が現れていた。
そして潤太も、嬉しさと喜びのあまり我も忘れて大声で叫んでいた。
「由里ちゃん、ありがとう。これからも、スーパーアイドル夢百合香稟でいてくれるんだね!」
もちろん、彼の叫び声はファン達の声援の大きさにかき消されてしまっただろうが、それでも彼女のハートにはしっかり届いたであろう。
沸きに沸く会場内、まだ興奮が冷めやらぬ中、香稟はマイク越しでスピーチを続ける。
「今日のコンサートは、あたしにとって最高のコンサートです。あたしを勇気づけてくれたファンの皆さんと、そして、あたしの大切な人のために、最後の曲を歌います!」
会場内は大歓声と大きな拍手に包まれる。
「この曲の歌詞は、あたしが心を込めて作りました。聴いてください。タイトルは“夢を諦めないで”」
彼女はファーストコンサート最後の曲を歌い始める。
軽快なステップをしながら、ハンドマイク片手に可憐に踊り続ける。
会場内のファン達すべてが、ステージで華麗に舞うスーパーアイドルの彼女に大きな声援を送っている。
潤太も周りのファンに負けないよう、精一杯の大声で応援していた。
そして――。その楽曲をもって彼女のファーストコンサートは閉幕した。
◇
東京ドームに静かな夜が帰ってきた。
まるで嵐が過ぎ去った後のように、異様なほどの静けさであった。
コンサートもハッピーエンドで閉幕し、観客達にとってはまさに最高の夜となり、きっと満足げな表情で家路へと向かっていったであろう。
そんな閑散としている東京ドーム周辺だが、なぜか潤太は一人きりでそこに残っていた。自宅に戻ろうとせずに、関係者が出入りしている入場口周辺でうろうろとしている。
入場口から人が出てくるたびに、彼は目を凝らしてそこへ注目した。傍目で見たら、いかにも怪しい素振りである。
時間にして二時間ほどこれを繰り返しているが、辛抱強くここに留まっているその理由とはいったい?
「――――!」
彼の視線がピタリと止まった。
彼が見つめる先にいるのは、本日のコンサートを大成功に収めたスーパーアイドル夢百合香稟であった。
彼女の隣にはマネージャーの新羅今日子もいる。そして、彼女達を取り囲んでいるのは大柄の男性警備員が二人。
ファーストコンサートを無事に終えた香稟は、達成感や充実感に満たされてとてもご満悦な表情をしていた。それは夜の暗がりの中でも一際目立って明るい。
「気持ちよかったぁ。コンサートがこんなに楽しいものだなんて。これって、やってみないとわからない感覚なんだなぁ」
心地よさを素直なまでに表現した香稟。長時間歌ったり踊ったりした後にも関わらず、疲れた様子はまるでないようだ。
そんな彼女を暖かい目で見つめる新羅。肩をポンと軽く叩いて労いの言葉を投げ掛けた。
「本当にお疲れさま。今夜は最高だったわよ。この勢いで二回、三回とがんばって行きましょう」
「はい!」
香稟はガッツポーズでやる気を示した。さらに、ステージ衣装選びや演出にも積極的に参加させてほしいとまで申し出た。この調子なら、次回のコンサートもきっと大成功を収めるに違いない。
もう引退の心配はなくなった。新羅はそれを確信して安心していたが、それでもひとつだけ気になることがあった。
「ねぇ、香稟。ひとつだけ聞いてもいいかな?」
「何ですか?」
「引退を撤回する決め手は何だったの? あなた、あんなに引退するって聞かなかったのに。それに、ステージで話していたかけがえのない人って?」
香稟は満面の笑みでそれに答える。
「あたしは、夢を実現したいからアイドルになりました。せっかくそれが叶ったのに、諦めたり捨てたりしたらもったいないですから。かけがえのない人については、ヒ・ミ・ツということで」
「なーに、それ? フフフ、まぁいいわ。とにかく、ありがとう、香稟。これからもよろしくね」
「こちらこそ、今日子さん」
微笑ましく会話をしていた彼女達二人、すると突然、警備員二人が彼女達を包囲するような体勢を取った。何か異変でもあったのだろうか。
「どうしたの?」
「出入口付近に不審人物を発見しました」
「え――!?」
不審人物はアイドルにとって危険な存在だ。香稟は以前、新宿の市街地で熱狂的なファン数十人に街中で追いかけられた恐怖を体験している。
彼女は緊張のあまり身構える。警備員二人の隙間から、その不審人物を凝視してみると――。
(あれ――?)
香稟が何かに気付いたその直後、警備員二人は警護という目的から猛ダッシュで不審人物目掛けて突進した。
それは一瞬の出来事だった。警備員二人は鍛え抜かれた肉体を武器にして、不審人物に飛び掛かって一気に押さえつけてしまった。
「いたい、いたい!!」
不審人物の悲鳴が周囲にこだました。それを耳にした香稟は驚愕した。
そうだ、その声は彼女をいつも勇気づけてくれた、かけがえのない男の子の声だったからだ。
「潤太クン!」
香稟は慌ててその場から走り出した。
「ま、待って! やめてっ! その人はあたしの知り合いよ!!」
暗闇を切り裂くような彼女の怒鳴り声。
警備員達はそれに従い、すぐさま強靭な腕を振りほどいた。
彼女は長い髪を振り乱して近寄っていく。地べたでうつ伏せている彼のもとへ。
「潤太クン!」
「ゆ、由里ちゃん……。コンサート、楽しませてもらったよ……」
「来てくれたんだね。ありがとう。どうもありがとう」
香稟の潤んだ瞳はまさにかけがえのない人物、好意を寄せる人物へ向ける熱い眼差しであった。
寄り添い合う男女二人、それは親密な距離感であった。香稟を本名で呼んでいることからも、この男の子がただの知り合いではないと悟った新羅は、大声を上げて警備員二人に指示を出した。
「あなた達、その子達をすぐにこちらへ連れてきて! マスコミに見られたら大変だわ!」
香稟と潤太の二人は、警備員に連れられて関係者の駐車場へ向かった。 そして、駐車場で待機していた事務所の乗用車へと乗り込んだ。
「早乙女クン、車を出して」
乗用車はタイヤの音を響かせながら、夜の帳が下りた東京の市街地へと走り出した。
◇
乗用車は夜の市街地を走行し、とある公園へと辿り着いた。
そこは、香稟と潤太にとって思い出の地とも言うべき代々木公園であった。
ここに来たのは彼女の希望だった。潤太と二人きりでお話がしたい、それに新羅が理解を示してくれたというわけだ。
香稟と潤太の二人は乗用車のドアを開けて外へ出る。
「香稟、申し訳ないけどあまり時間がないわ。十分よ。十分経ったら戻って来てね」
「はい」
新羅とそう約束してから、香稟は潤太を連れて公園内へと入っていく。
水銀灯の明かりに照らされた公園内はひっそりとしていた。夜も更けているからそれも当然であろうが。
彼女達二人はしばらく歩いてからベンチへと腰掛けた。
「どうしてここへ?」
潤太にそう問いかけられると、香稟はおもむろに上空を見上げる。そこには綺麗な星空が広がっていた。
「どうしてかな。何となくかな……。ただね、あたしにとって、ここには何かがあると思うの」
「何かが? 霊的なこと?」
「そういう意味じゃないわよっ」
彼女はパチンと彼の腕を平手打ちした。
クスッとはにかんだ彼女達二人。こんな風に冗談を言い合ったりするのは、本当に久しぶりだった。
「ねぇ、これを見て」
彼女はそう言いながら、バッグの中から一枚の紙きれを取り出す。そして、それを彼に手渡すように差し出した。
「これ、ボクが描いた……」
「そう。あなたが、あたしに贈ってくれた風景画よ」
「まだ持っててくれたのかぁ」
「当たり前よ。あたしにとっては、大切な宝物だよ。あなたからの最高のプレゼントだもん」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
自作を最高の贈り物と思ってもらえるのは光栄だろう。彼は謙遜しながら照れくさそうに頬を赤らめた。
「潤太クン。この絵には何かがあると思わない?」
「えっ、まさか心霊とか!?」
「だーかーらーっ」
本気なのか冗談なのか。彼はまたしても腕に平手打ちを食らった。
それはそれとして、彼は自作の風景画を明かりを頼りにしてじっくりと眺めてみた。
「う~ん、何だろう……?」
いったい何があるというのだろう。何も思いつかず、彼は唸り声を上げながら首を捻るしかなかった。
「あたし達が初めて出会った日、あと最初にデートした日。そして今夜。あたし達ってさ、気付くとここにいるような気がしない?」
「言われてみるとそうだね。ボク達、気付いたらここに来てるんだ」
彼女達が言う通り、ここへ何回も足を運んだ。まるで導かれるかのように、無意識の内にここへやってきていた。
それをきっかけに、彼女達はお互いの気持ちを通わせることができた。ここ代々木公園には、お互いの心を引き合わせる魔力のようなものがあったのだろうか。
「あたしね。あなたとの電話を切った後、自分なりにいろいろ考えた。これからの将来やお仕事のこと。もちろん、あなたのことも……」
知らず知らずのうちに、彼女の温かい手が彼の手に触れる。彼はそれに応えるように、彼女の温かい手をぎゅっと握り締めた。
「そして、この絵を眺めてみたの。そうしたら、不思議と心が和んできたわ。この絵の景色の中に、なぜか描かれていないあたし達がいるような気がしたの」
彼女の想いが、つながれた手を通して彼の心へと伝わる。彼女も、そして彼も、鼓動が少しずつ大きくなっていくのを感じた。
「あなたが人を励ます絵を描くように、このあたしもファンの人達を励ます歌を歌うことが、本当のあたしのこれからなんじゃないかって」
彼女のつぶらな瞳が、いつしか彼の瞳を真っすぐに捉えていた。
「だから、あたしはもう迷わないよ。あなたが一緒にいてくれたら。あなたがあたしを応援してくれる限り、あたしは夢や希望を捨てたりしない。絶対に引退なんてしないわ」
その揺るがない決意を聞き、彼は心から喜んだ。自作の絵画が一人の人生を大きく飛躍させることができたのだから。その時、彼もひとつだけ大きく飛躍する決意を固めた。
「ボクさ、次の風景画に人物を描いてみようと思うんだ。人の心を動かすだけの力があるんだったら、今度こそ、プロの画家も唸らせるような絵画が描けそうな気がするから」
「うんうん、潤太クンならきっとできるよ。あたしが応援してあげる」
「ありがとう、由里ちゃん」
見つめ合い、触れ合い、恋心を感じ合う彼ら二人、これからも共に歩んでいくことを心の中で誓い合った。
そして――。一人のアイドルは、一人の恋する少女として彼の胸の中へともたれかかった。
「……お願い。これからは“ちゃん”付けじゃなく由里って呼んで」
◇
その頃、乗用車の側には香稟が戻ってくるのを待つ新羅と早乙女の二人がいた。
香稟がこのまま逃走したらどうしよう。早乙女は不安そうな顔でそわそわと落ち着きがなかったが、一方の新羅は澄ました顔でのんびりと構えていた。香稟が戻ってくると確信しているのだろう。
「新羅さーん、誰なんですかね、あの少年は? どうも香稟ちゃんの友達みたいだけど」
「野暮なこと言わないの。若い二人なんだもの。わたし達がいちいち口を出すことじゃないでしょ」
「ふ~ん、そうなんですかねぇ。でも、これがきっかけで、彼女にまた変な噂が流れたらどうするんです?」
スキャンダルはもうこりごり。しつこいマスコミの追求もうんざり。早乙女はそれを危惧して困惑の表情だ。
それは、マネージャーの新羅にとっても心配事のひとつに変わりはない。だが、彼女はそんな不安を振り払うかのように晴れやかに微笑んだ。
「その心配はないわ。マスコミに知られたとしても、それが真実だとしたら、あの子も素直にそれを認めるでしょうね。嘘偽りのない真実をね」
彼女は心の中でつぶやく。
(これからの人生、すべてはあなたのものよ。仕事を愛して、そして人を愛して。あなたはわたしと違った道を歩んでいく。それもすべてはこれから。がんばってね、香稟。……わたしに素敵な夢を見せてくれて本当にありがとう)
* ◇ *
あれから十年の歳月が過ぎた。
ここは、とある高層マンションの一室。
今日は日曜日、行楽日和とばかりにマンションの窓の先にはすがすがしい青空が広がっている。
明るくて優しい朝日が窓から差し込む室内、パジャマ姿の一人の男性がソファーベッドで横たわっていた。寝ぼけ眼に無精ひげ、まだ朝の洗顔前であろうか。
彼はテーブルの上にあるお菓子をつまみながら、三十五型のテレビを眺めている。丁度そのテレビでは、新世紀屈指のアイドルと謳われる美少女のコマーシャルが放映されていた。
「へぇ、この子かわいいじゃないか」
ニヤニヤしている彼の側に、一人の女性がやや不機嫌そうな顔つきでやってきた。長い黒髪をポニーテールで結い、エプロン姿で長袖を捲り上げているところを見ると、何か家事でもしている最中だろうか。
「もう、だらしない格好ね! ほら、キチンと座りなさいよ」
「おいおい、足を掴むなって」
彼の両足を払いのけると、彼女は空いたソファーベッドにちょこんと腰を下ろした。
「何を見てたの? 鼻の下伸ばしちゃって」
「いやね。今売り出し中のアイドルがテレビに映っていたんだ」
「ふ~ん。で、かわいかったの?」
「まぁね。ボクの気に入った子は、きっと芸能界で活躍していけるよ」
彼女はクスッと微笑んで、男性の頬をツンと突いた。
「それって、実例があるからって言いたいの?」
「もちろん。キミはまだまだ活躍中じゃないか。結婚して数ケ月経っても毎日忙しい忙しいってさ、仕事がぜんぜん尽きないんだもんな。もう少し主婦業に専念してもらいたいのに」
「ごめ~ん。だってさ、今日子さんが躍起になって仕事取ってくるんだもん。さすがは事務所でナンバーワンの敏腕マネージャーよね」
苦笑いを浮かべながらそう愚痴を零した彼女、とはいえ、気持ちはとても穏やかで満足そうな表情だ。
「でも、昔よりはいいでしょ? 今はアイドルというよりも女優だもん。これでも仕事減らしてるんだからね」
「わかってる。キミは納得できるまでこの世界でやっていくんだもんな。ボクだって、無理を承知でまだ画家を目指してるわけだし……」
「お互い、少しの妥協は仕方がないってところかしら?」
「そーいうこと。ははは」
「フフフ」
和やかで幸福感いっぱいの雰囲気の中、テレビからイベント告知のコマーシャルが流れる。
「あら、風景画の奇才、飛龍影の絵画展だって。ここの近くみたいよ」
「ボク知ってるぞ、この飛龍影っていう画家。結構いい絵描くんだよな」
ほんの少しの沈黙の後、彼女達二人はクルっと顔を向き合わせて声を揃える。
「見に行こうか!」
彼ら二人は身支度を整えると、仲睦ましく寄り添い合って青空の下へと飛び出していった。
アイドルから女優へ転身し、さらなる夢を実現しようとする彼女、そして、画家という夢を諦めず、風景画を描き続ける彼。そんな二人の人生はまだまだ始まったばかりだ。
夢と希望を結ぶ果てしない道のりを一歩、また一歩と歩いていく。眩しいぐらいに明るく降り注ぐ日差しは、まるでこれからの未来を祝福する道しるべのようでもあった。
彼女はボクのアイドル ひりゅうまさ @masa-KY
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