5.知られざる過去と秘密

 芸能事務所「レンショウ・カンパニー」。

 歌手やタレント、それにお笑い芸人までもが在籍している大手芸能プロダクションである。

 ある日、この事務所の社長室には一人の男性タレントの姿があった。某テレビ局から出演依頼があり、具体的な内容や詳細について社長と二人きりで打ち合わせをしていた。

 その番組はゴールデンタイムの二時間枠で、有名作家が書いたミステリー小説をドラマ化したものらしい。彼の役どころだが、主人公の女子高生と共に活躍するちょっとキザだけど推理力に優れた私立探偵、ということだった。

「どうだ琢巳。おまえにとって悪い話ではないだろう?」

「面倒くさいな。オレにミステリードラマを頼むなんて、そのテレビ局は何を考えてんのかねぇ」

 その男性タレントはやれやれといった感じで素っ気ない顔つきだ。

 彼の名前は連章琢巳。ここ最近、バラエティー番組を中心に若者から注目を集めている将来有望の二十六歳で独身。この事務所の看板タレントであり、事務所社長の息子でもある。

 バラエティー番組で活躍するタレントはそれこそ浮き沈みが激しい。レギュラー番組があっても、他のタレント達との生存競争に巻き込まれていつその座を奪われるかわからない。つまり、どんな年齢層の視聴者からも支持されるほどのバイタリティーやトークの技術が求められる。

 そんな出入りの激しいジャンルの中で、才能を開花させて頭角を現したタレントの一人である彼は、今やテレビやCMでも引っ張りだこの人気ぶりであった。

「そう愚痴を言うな。バラエティーばかりでは長くは続かないぞ。おまえの違ったイメージを見せておくチャンスだと思うが」

「まぁね。父さんの言うこともわからなくもない。だけどさ、何かこう、やる気が出るきっかけってやつが欲しいんだよね」

「きっかけだと? 仕事はあくまでも仕事だぞ。そんなわがまま言うんじゃない」

「へいへい。わかってるよ……」

 連章琢巳は天井を見上げながら溜め息をひとつ零した。まだまだ若輩者のくせに、仕事を選ぶようになるとはずいぶんと生意気なものだ。人気が出てくるとわがままになるのは芸能人だからであろうか、はたまた性格だからであろうか。

「それより父さん。そのドラマの相手役って誰なんだい?」

 彼のパートナーになる役者はいったい誰なのか。テレビ局から渡された企画書に目を通してみると。

「この子は確か、新羅プロの……」

 相手役の役者は新羅プロダクション在籍だった。それを聞いた連章琢巳はすぐさま反応した。

「新羅プロって言ったら、あの小規模事務所の新羅プロダクションかよ。誰だよ、いったい?」

「夢百合香稟だ。おまえも知ってるだろ? あのスーパーアイドルの」

「知ってるよ。彼女を知らないやつなんて、日本中を探してもそうそういるもんじゃないからね」

 主人公役はあの夢百合香稟であった。正直なところ、新羅プロダクションに在籍していて主人公に抜擢されるのは彼女ぐらいのものだ。

 ドラマのパートナーが彼女だと知って、連章琢巳はニヤっと不敵な笑みを浮かべた。

「へぇ~、彼女が相手役ねぇ」

 最初こそ渋っていたが、相手が香稟となれば話は別だ。何か目論見があるのかどうかは定かではないが、彼はドラマ出演を了承することにした。

「父さん、この話乗るよ」

「さては、おまえ。夢百合香稟が相手だからか? 言っておくが、あまり過激な行動はするなよ。相手は人気絶頂の売れっ子アイドルなんだからな」

「心配ないって。何も取って食おうなんて考えちゃいないんだからさ。ただ、かる~く唾ぐらいはつけちゃうかもね」

「まったく……。おまえというやつは、本当に凝りん男だな」

 父親である社長が懸念を示しながら小言を漏らしている理由、それは息子の女性に対するだらしなさである。

 この連章琢巳には、売れる前から悪い噂ばかりがマスコミに流出している。そのほとんどが女性関係のゴシップで、恋人発覚のスクープが報道されたかと思えば、その数ヶ月後には、また違う女性との噂が報道されたりする、という具合なのだ。

 きりっと整った眉毛に切れ長の目、端正な顔立ちの二枚目タレントを売りにしている彼だから女性にもてるのは当然だろう。しかも本人が女遊びが好きなものだからますます始末が悪い。こういった悪評が知名度を押し上げているのもまた事実なのであった。

 彼は打ち合わせを終えて一人で社長室を出ていく。そして、ドラマの企画書を眺めながらにやけた笑みを零した。

(夢百合香稟か……。これはおもしろくなってきたな)


* ◇ *

 ある晴れた日曜日の夕刻、ここは唐草潤太の自宅である。

 驚くことに、今日はスーパーアイドル夢百合香稟がお忍びで来訪していたのだ。それはどういう経緯なのかというと――。

「――そんなわけなんだけど、ど、どうかな?」

「うん、遊びにいきたい! とっても楽しみだなぁ」

 この会話のやり取りは数日前に遡る。

 潤太と香稟の二人は時々、雑談をしたり近況の報告をしたりして親交を深めていた。

 たまたま電話で会話をしていた彼ら二人。その時に潤太から持ち出した話題とは、彼の母親の何気ない一言がきっかけだった。

「あなたの女の子のお友達を夕食パーティーに招待なさい」

 まさかあの潤太に女の子の友達ができるなんて。母親は相手の女の子にそれはもう興味津々。一度でいいからお目にかかりたいと、自宅へお招きするよう毎日のように催促していたのだ。

 そうはいっても、相手は芸能界屈指のスーパーアイドル、そう簡単に遊びに来てくれるものでもない。しかしあまりにもしつこいものだから、断られるのも覚悟の上でやんわりと誘ってみたというわけだ。そして、香稟の返答は先程の通りである。

「こんにちは。お招きいただいてありがとうございます」

 潤太のガールフレンド、夢百合香稟は満面の笑顔で挨拶を交わした。しなやかな黒髪とナチュラルなメイク、フリルをあしらったセミロングのワンピースがキュートで愛らしい。

 彼女があまりにもかわいいものだから、半信半疑だった母親は呆気に取られて開いた口が塞がらなかった。さらに、彼女の大ファンである弟の拳太は感激のあまり涙をぼろぼろ零して大喜び。

 楽しい楽しい夕食パーティー開催までまだ時間がある。母親が腕によりをかけて手料理をこしらえている間、香稟は潤太の部屋で時間を潰すことになった。ちなみにこれは、彼の部屋を見てみたいという彼女の要望でもあった。

 女の子を部屋に招き入れるなんて初めてのこと。彼は慌てて部屋の中の片付けを迫られた。床の上に散らかっている雑誌や本を本棚へしまい、ベッドの上の布団を丁寧に折りたたむ。

 整理整頓すること数分。ようやく彼が部屋から出てきた。

「き、汚い部屋だけど、どうぞ」

「お片づけなんてよかったのに。潤太クンのいつもの部屋が見てみたかったなぁ」

 彼の許しを得て、彼女は部屋の中へと足を踏み入れる。

「わぁ……」

 彼女は部屋をぐるりと見回した。

 高校生の部屋らしく、隅っこには木目調の学習机がある。それにフローリングの床の上にはアンティーク調のベッド、そして、多種多様の本が敷き詰められた本棚。年頃の男子にしては珍しく、派手さがなくて落ち着いている印象だ。

 この部屋で何よりも特徴的なのは、白い壁にいくつも飾ってある風景画だ。もちろん、彼の自作のものであろう。

 綺麗な額縁に入っているもの、スケッチブックから抜き取っただけのもの、メモ用紙にイタズラ書きしたようなもの、そのすべてが彼の展覧会のごとく飾られていた。

「潤太クンの部屋って感じだね」

「絵ばかり描いてるのがバレちゃう部屋だよね」

 部屋には趣味の絵画ばかり。それに引き換え、学習机には教科書どころか勉強道具のひとつすら置いていない。これには潤太もばつが悪そうに苦笑いするしかなかった。

「あれ? あの額縁、リボンが付いてるけど」

 香稟はそう言うと、豪華な額縁で飾られた風景画の近くに歩み寄ってみる。その額縁に付いている赤と白二色のリボンには、“第三十七回中学生風景画コンテスト佳作”と記されていた。

「この絵、賞を取ったの!? すご~い」

「そんなにすごい賞じゃないよ。全国規模のコンテストじゃないしね。それに、何とか佳作に食い込んだって感じだし」

「でも、賞は賞よ。すごいじゃない」

 いつにもまして彼の絵画を絶賛する彼女。褒められて嫌な思いをする人はいないということで、彼は照れ笑いを浮かべて嬉しさを表現していた。

「それにしても……」

 彼女はもう一度、彼の部屋をぐるりと見回した。

「……この部屋、あたしが思っていた同世代の男の子の部屋と違ってるな」

「え? どう思っていたの?」

「何て言うのかな。もう少し男臭いというか、狭苦しいというか」

「ふ~ん。ボクの部屋には、そういう雰囲気はないのかな」

 飾ってある絵画は別として、彼の部屋は男子高校生にしてはすっきり整理されていて殺風景と言えよう。期待外れだったのだろうか、彼女は少しばかり残念がっているようだ。

 そんな彼女はふらふらとベッドへと歩み寄っていく。

 そして、彼女はおもむろにベッドの脇でしゃがみ込んだ。すると、何をするかと思いきや、ベッドの周囲をいきなり物色し始めたではないか。

「か、香稟ちゃん! 何してんの!?」

 突然のことに潤太もびっくり仰天。目を見開いて大きな声で叫んだ。

 この不可解な行動にはどんな意味が――?香稟はニッコリ顔で振り向く。

「探してるのよ、ほら、ア・レ!」

「ア・レ……?」

 意味ありげにそう言われても、何を探しているのかまるで不明だ。彼の頭の上に疑問符が浮かんでいる。

 不思議そうに首を捻っている彼に向かって、彼女が探している“アレ”の正体を明かしてくれた。

「ほら、男の子ってみんな、枕元とかベッドの下にエッチな本とか隠すじゃない? だからぁ、潤太クンもそうじゃないかと思ってね」

「なっ! なな、何言ってんのさ! そんなものあるわけがないって!」

 彼は真っ赤な顔をして慌てふためく。まさか、“アレ”を探しているなんて夢にも思ってみなかったからだ。

 その一方で、彼女は目を細めてクスクスと意地悪っぽく微笑む。

「え~? ホントかなぁ。でも、探してみればわかるもんね」

 香稟はワクワクしながら、ベッドの中をまさぐって調査し始めた。

「わ、わ、ダメだってぇ!」

 潤太は必死になって彼女を止めようとする。

 ちなみに、純情な彼のことだから枕元やベッドの下にそういったものは隠したりはしていないだろう。とはいえ、ベッドを調べられるというのはとても恥ずかしいもの。彼が必死になって止めようとするのは当然だ。

「わわっ――!?」

 その時、彼は焦っていたばかりにフローリングの床に足を滑らせてしまい、勢いよくベッドの上へと倒れ込んでしまった。しかも、ベッドの側にいた彼女を巻き添えにしながら。

「キャッ!?」

「――あっ!」

 気付いた時、潤太は香稟に覆い被さっていた。

 ベッドの上には、向き合った姿勢の彼ら二人がいる。

 すぐにも離れなければいけない。彼は心でそう思っていても、どういうわけか全身が硬直して動くことができない。

「…………」

「…………」

 彼ら二人は見つめ合ったまま口を閉ざしている。

 お互いの瞳に、お互いの赤らんだ顔が映っている。

 部屋にある時計が静かな音で秒針を刻み、窓の外からは子供達の笑い声が聞こえてくる。

 そんな音や声は、二人だけの世界にいる彼らには届かない。

 彼女の瞳がそっと閉ざされていく……。それは期待なのか、それとも覚悟なのか。

『ゴク――』

 彼は大きな息をのみ込んだ。心音が破裂するほど高鳴っている。

 こんな状況は初めてのこと、だからどうしたらいいのかわからない。でも一人の思春期の多感な男子として、自然の成り行きのままにその身をゆだねていく……。

『コンコン!』

 突然、部屋のドアがノックされた。

 彼ら二人は現実の世界に引き戻されて、大慌てでベッドから逃げるように飛び跳ねる。

「兄貴、香稟ちゃん! 晩ごはんできたってさぁ」

 ドアの向こうから届いたのは拳太の声だった。どうやら、夕食の支度が整ったことを知らせにきてくれたようだ。

『カチャ!』

 兄の了解を得ぬまま、拳太はすぐさまドアを開けた。

「香稟ちゃん! 夕食だよっ」

「お、おい、勝手に開けるなよっ」

「ちゃんとノックしたじゃん。いつも通りじゃないか」

「い、いや、それはそうだけどさ……」

 これがいつも通りなら潤太も文句の言いようがない。それはそれとして、あと数秒ベッドから逃げるのが遅かったら、弟からどんな厳しい追及があったかと思うと内心ホッとしてしまう兄であった。

 そんな冷や汗かきまくりの兄など目もくれず、拳太は大ファンの香稟に向かってにんまりとした笑顔を振りまく。

「香稟ちゃん、早く行くよ! ほらほら」

「あっ、ちょっと待って、拳太クン」

 拳太は部屋へ突入するなり、香稟の背中を押して強引に連れ出した。そのままの勢いで、彼ら二人はパーティー会場であるリビングへと向かう。

「ふぅ……」

 部屋に独りぼっちになった潤太。静けさの中で安堵の吐息をつくと、真っ赤な顔を冷まして心を落ち着かせてから部屋を出ていった。


 今夜の唐草家の夕食は、いつもよりも豪勢であった。

 メインディッシュの牛肉のソテー、サイドメニューのコンソメスープにフレンチサラダ。食卓を飾り立てる料理すべてが、この家で滅多にお目にかかることのできないものばかりだ。

 日頃から母親のこしらえる料理は和食が中心。テーブルに並んでいる洋風チックな料理を見て、潤太と拳太の二人は目を丸くして唖然とするばかりであった。

 テーブルの周りを囲んでいるのは、本日のゲストである香稟、そして彼ら二人とその母親。日曜日ということもあり、仕事がお休みだった父親も加えて総勢五名のホームパーティーの幕開けだ。

「さぁどうぞ。遠慮しないでどんどん召し上がって」

「はい、ありがとうございます」

 母親の暖かいおもてなしに、香稟は丁寧なお辞儀をして感謝を伝えた。

 礼儀正しくて姿勢も慎ましやか。しかも、乙女のように可憐で愛らしい。まさかこんな女の子を連れてくるとは想像していなかっただけに両親もさぞ驚いたであろう。

 何よりも、息子に待望のガールフレンドができたのはおめでたい。息子の成長を目の当たりにした父親は頬を緩めてとても誇らしげだ。

 ちなみに彼は中小企業に勤めるサラリーマン、ただいま出世街道の途中で足踏みしている係長止まりの中間管理職。性格は生真面目で曲がったことが大嫌い、仕事にひたむきに取り組む姿勢は部下からの信頼も厚いが、家族からは少しばかり呆れられていたりする。

 彼は晴れの日に喜びを噛み締めながら、目を三日月のようにしておおらかに笑った。

「いやぁ、まさか潤太がこんなかわいいギャルを連れてくるなんてな。本当にビックリだよ。なぁ、母さん」

「あらあら、お父さん、ギャグだなんて。この子はお笑い芸人じゃないのよ」

「おいおい、母さん、ギャグじゃなくてギャル。オレが言ってるのはギャルだよ。はっはっは」

 いつになく明るく振る舞っているご夫婦。今日という日が嬉しくてたまらないといった感じだ。

 その一方で、引きつった苦笑いを浮かべる唐草兄弟。調子が狂うような下らないジョークについていけず対処に困ってしまう。

「それよりもさ。早く食べないと冷めちゃうよ」

 ここで話題を切り替えようと横やりを入れたのは潤太だった。

 照れ屋の彼にしたら、香稟についてあれこれと詮索されたり冷やかされたりするのはできれば避けたいところ。

 しかも、彼女はガールフレンドとはいっても恋人のような親密な間柄ではない。できることなら、あまりおおげさにしてほしくないし触れないでほしい気持ちがあったのだろう。高校生ぐらいの年頃ならよくある心情ではないだろうか。

 彼の言う通り、せっかくのパーティーメニューが冷めたら台無しだ。というわけで五人全員が合掌し、楽しいディナータイムとなった。

 香稟はもてなされた料理ひとつひとつに舌鼓を打つ。味付けもピッタリだったらしく、満面の笑顔を浮かべておいしさを表現していた。

「どれも、とってもおいしいです」

「まぁ、どうもありがとう」

 手間暇かけて作った甲斐があったと、母親は口元を緩めて喜んだ。

 仕事のオフなど暇な時に料理をする香稟だが、ここまで手間暇をかけた手料理はさすがに作ったことがない。親元を離れて暮らしている彼女にしたら、今夜のご馳走はまさに久しぶりの母の味と言うべきか。

「牛肉がすごく柔らかい。圧縮鍋とか使ってるんですか?」

「うちにいいお鍋なんてないわよ。じっくり二晩かけて煮込んだのよ」

 女性二人は声を弾ませながら料理談義に花を咲かせた。

 料理のレパートリーを増やしたいと思ったようで、香稟は目を輝かせながら調理方法や味付けなどを母親に尋ねては教えてもらっていた。傍目で見たら本当の親子のように仲睦まじい。

 その一方、料理の話題に入れない男性陣は口数が少ない。普段味わえない豪華な料理をただ食べるだけで、さほど盛り上がる会話もなくちょっぴり寂しそうだ。

 そこで場の空気を盛り上げようと思い、拳太がテレビの電源を投入した。すると――。

「あ、香稟ちゃんだ!」

 突然、拳太が大きな声で叫んだ。それに驚いて、他の面々はビクッと全身を震わせる。

 拳太が凝視しているのは、すぐ近くにいる香稟本人ではなくテレビの画面だった。よく見てみると、彼女が登場するコマーシャルが放映されていた。

「何だ、テレビのことか。びっくりさせるなよ」

 潤太はホッと胸を撫で下ろし、ブラウン管越しの香稟を見つめる。

 彼女が演じていたのはスポーツ飲料のコマーシャルだ。素足になってセーラー服姿で海辺を走る。眩しい太陽の下で汗を光らせる彼女がスポーツ飲料を口に含んでいるシーンは、喉が渇いている視聴者を惹きつけるぐらい刺激的で魅力的だ。

 一人のアイドルとして大人っぽく活動する彼女、そして一人の女の子としてあどけなく振る舞う彼女。その両方を知っている潤太は唖然とするばかりだ。まるで別人ではないだろうかと疑ってしまうほどに。

 テレビ画面に釘付けになっている唐草一家。その中の家長である父親が目を丸くしながら、実物の香稟とテレビ画面の香稟を交互に見つめて呆気に取られていた。

「おいおい! このテレビの女の子、彼女にそっくりじゃないか」

 父親の思いも寄らぬ一言に、思わずずっこける唐草兄弟。どうやら、食卓にいるこの女の子が人気絶頂のアイドルであることをきちんと説明していなかったようだ。

「父さん、何言ってんだよぉ。テレビの女の子は、ここにいる香稟ちゃんと同一人物なんだって~」

「な、何だとっ!? テレビの中で動いているのに、どうしてここにいるんだ? 同じ女の子が二人いるわけないだろうが!」

 拳太から呆れた口振りでそう説明されても、父親は納得できないのか語気を強めて反論した。テレビに映っていた彼女と目の前にいる彼女が同じ顔なものだから頭が混乱するばかりだ。

 テレビの世界にまったく無知な父親。そんな大ボケを見るに見かねた潤太が事情を説明しようとする。とはいえ、彼もテレビ業界に詳しいわけではないのだが。

「あのね、父さん。テレビに映ってる彼女はVTRっていって、いわゆるビデオに映った彼女なんだよ。つまり、テレビの中の彼女はここにいる彼女の少し前の彼女というわけなんだ」

「彼女彼女って、おまえ、もう少しわかりやすく説明せんかっ!」

 わかりやすく説明したつもりなのに……。理解してもらえるどころか文句を言われてしまう始末で、潤太もどうわかりやすく説明したらいいのかわからず戸惑うしかなかった。

 潤太も拳太も困惑の表情を浮かべる中、たった一人柔和な表情を浮かべていたのは母親であった。

「そんなことどっちでもいいじゃないの。それより早くご飯食べて下さいな、お父さん」

「いやいや、そうはいかないぞ、母さん! この謎を解き明かさん限りは、メシなんぞ喉を通らんからな!」

 父親は頑固オヤジのごとく腕組みしたまま踏ん反り返った。これには母親も呆れてしまうものの、旦那の性格がわかるのか、ぶしつけに反論したり表情を崩したりしなかった。さすがは内助の功、これも夫婦円満の秘訣というものであろうか。

 さて、それはそれとして母親でも説得できなかった。このままでは会話もなくなってしまい空気が重たくなる一方だ。こうなったら自分の出番だと発言を買って出たのが、話題の中心になっている香稟本人だった。

「潤太クンのお父さん、あたしから説明させてください」

 お客様からそう言われては、父親も頑なに拒んで踏ん反り返ったままではいられない。ここはおとなしく耳を傾けるしかないわけで。

「さっき潤太クンが言った通り、テレビに映っていたのはビデオテープの中に映っていたあたしなんです。ほら、最近のお父さんやお母さんって、お子さんをビデオに収めることが多いじゃないですか。それと同じなんです。つまり本人を目の前にしながら、ビデオでもその人を見るといった感じで」

 香稟の例題を交えた説明により、父親は納得できたらしくウンウンとわかったように頷いた。

「おお、なるほどなっ! そういうことだったのか。いやぁ、キミはテレビに出ているせいか、とても優秀なんだね。さすがはゲイノージンだ。わっはっはっは!」

「芸能人だからという理由はちょっと違うと思いますけど……。わかっていただけてよかったです」

 父親は腕組みしながら高笑いしている。それにしても、ビデオ収録ぐらいはこの年代なら知っていてほしい知識なのだが。

 香稟のことはべた褒めしても、我が息子には甘い顔を見せたりしないのが父親というものだ。高笑いしていたのも束の間、彼は眉を吊り上げて潤太に向かって説教を始めてしまった。

「おい潤太! おまえも、彼女みたいにちゃんとわかりやすく説明できるよう勉強せんかっ! うちの息子どもは、どうも口下手でいかんなぁ」

 笑ったり怒ったり嘆いたり。どうやら父親は感情の起伏が激しい性格の持ち主らしい。

 矛先にいる潤太はというと、一方的に叱られるなんて釈然としないと思っても、口下手なのは紛れもなく事実であり、うまく説明できなかったのも事実なのでそれを認めて反省するしかない――。

 ――と思ったが、心の中ではやっぱり愚痴を漏らしてしまうのであった。

(……説明そのものは間違えてなかったのになぁ)

 ちょっとおかしくて、ちょっと和やかな会話で盛り上がる中、唐草家の夕食会はそれからも楽しく続くのであった。


 どっぷりと暗闇に包まれた夜九時過ぎ。

 楽しい夕食会も終わり、香稟が唐草家を後にする時間となった。

「今夜は本当にご馳走さまでした」

 彼女は黒髪を垂らしながら、潤太の両親に対して丁寧なお礼をした。最高のおもてなしに感謝の気持ちでいっぱいだ。

「いえいえ、またいつでもいらっしゃい。潤太が留守でも構わないからね」

「はい、潤太クンがいない時にお邪魔させてください」

 茶目っ気たっぷりに微笑を浮かべる母親と香稟。もうすっかりお友達同士のようである。ジョークなのであろうが、これには潤太もどう反応したらよいかわからず苦笑いを浮かべるしかなかった。

 玄関から外へと出ていく香稟、そして彼女を駅まで送るために一緒に出ていく潤太、そこへ、彼女達の後ろ姿を追いかけていこうとする拳太。

「あ、待ってくれ! オレも送るよぉ」

 大ファンの香稟とのお別れが名残惜しいのだろう。少しでも一緒にいたいという思いが焦りの表情から伝わってくる。

 だが、そんな弟をすぐさま制止したのは兄の潤太だった。

「ダメだ! おまえは今日、晩御飯の後片づけをする当番じゃないか」

「そ、そんなぁ~。今日ぐらいはサボってもいいじゃんかぁ」

 兄の言いつけを無視した拳太は、引き返すどころか香稟の横にくっついていこうとする。興奮気味ににんまりとする弟であったが、そうは問屋がおろさない。

 そのすぐ直後、いつの間にか背後にいた母親から首根っこを摘まれて自宅まで引き戻されてしまう哀れな弟の姿があった。

「うわぁ~! 母さん、勘弁してくれぇ」

 拳太はわんわん泣きながら、母親と共に自宅へと消えていった。

 こうしてお邪魔虫がいなくなったので、潤太と香稟の二人は薄暗い電灯の下、駅を目指して歩き始める。

「今日はとっても楽しかったわ。誘ってくれてホントにありがとう」

「こちらこそどうもありがとう。母さんも喜んでくれたみたいだし、おかげさまで、久しぶりに豪勢な夕食も食べることができたしね」

「フフフ、いつもは質素な夕食ばかりって言いたいのね。お母様に言いつけちゃうわよ?」

「わぁ、それだけは勘弁して。知られたら、首根っこ摘まれて何をされるかわかったもんじゃないよ」

 彼ら二人は肩が触れるか触れないかぐらいの距離まで接近して歩いている。それは出会った頃とは明らかに違っていた。

 違っているのは距離だけではなく、お互いへの気持ちもそうだろう。お互いが、お互いのことをそれなりに意識しているのはその雰囲気からも感じ取れる。

 駅までの道のりは長いようで短い。隣り合って歩く彼ら二人は、それぞれこの道のりをどのように感じていたであろうか。

「あ、そうだ!」

 歩いている途中、香稟は何かを思い出したようだ。それを伝えようとして、嬉しそうな顔を潤太の方へ向ける。

「あたしね、二時間ドラマの主役をやることになったの。明日から撮影開始なんだ」

「へぇ、そうなんだ。どんな役なんだい?」

「あたしが演じる高校生が通う学校で殺人事件が起こるの。そこで、その高校生がね、もう一人の主人公の私立探偵と一緒になって犯人を突き止めていくっていう物語なの」

 彼女は二時間ドラマのあらすじを熱く語った。演じることが楽しみなのか、期待と興奮がその表情から窺い知れる。

 彼女のようなアイドルが演じるなら青春ストーリーが定番であろう。ところが今回のドラマはサスペンス。彼女にとっては別の路線への挑戦という初めての試みでもあった。

「ちょっとかっこいい役なんだね。がんばってね」

「うん、がんばるよ!」

 潤太は心から応援したかった。充実感に満ち溢れた彼女の屈託のない笑顔が自分を元気付けてくれる。だからこそ、素直なままに心から彼女の活躍を願っているのだ。

「そのドラマはいつ放映されるの?」

「二週間後の金曜日、夜九時からの金曜サスペンス劇場だから。絶対に見てよね」

「了解!」

 彼女の姿勢から仕事に対する前向きさが伝わってくる。新しいジャンルへの挑戦は、まさに未知なる希望への光。その希望の先で待っているのは、ひとつ上に成長した“夢百合香稟”との出会いでもある。

 一度は芸能界に嫌気が差し、芸能人である自分の宿命を呪って普通の女の子に戻りたくて逃げ出したこともあった。そんな彼女だが、あの時よりも大人になりアイドルとしての自分に張り合いが持てるようになっていたようだ。

 喜びを体いっぱいで表現している彼女、まさにアイドルの一人として眩しいほど光輝く彼女を横に見て、彼は自分の立場をちょっぴり誇らしく思えた。


* ◇ *

 翌日、某テレビ局のDスタジオである。

 これよりここで、金曜サスペンス劇場の撮影が行われる。

 金曜サスペンス劇場はゴールデンタイムの夜九時に放映されており、主婦層を中心に人気を博しているこのテレビ局の看板番組でもあった。

 しかし、主婦層をターゲットにしているだけにここ最近の視聴率はあまり芳しくない。そこで年齢層の幅を広げようとてこ入れをした結果が、このたびの学園を舞台にしたドラマ、そのタイトルも“さすらい探偵、女子学園殺人事件簿”へとつながったというわけだ。

 人気絶頂の女性アイドルや、相手役に人気男性タレントを起用したのはそういう狙いもあってのこと。ここで視聴率が上がればシリーズ化、さらには映画化の可能性も十分にあるのだ。

 慌ただしいスタジオ内に撮影スタッフがぞろぞろと集まっていた。舞台セットの風景からして、本日の収録は探偵事務所でのシーンのようだ。

 しばらくすると、主人公を務める夢百合香稟がスタジオへとやってきた。すると、撮影スタッフの面々が元気よく挨拶をしてくる。その一人ひとりに彼女も笑顔で応えていた。

 そしてもう一人、共演者である男性タレントが彼女を待っていたかのように声を掛けてくる。

「やぁ、香稟ちゃん。初めまして……かな?」

「どうも初めまして。夢百合香稟です。連章琢巳さん……ですよね?」

 香稟はやや緊張気味に自己紹介をした。そんな彼女の目の前に立っているのは、クールな表情でキザな口振り、二枚目タレントを売りにしている連章琢巳であった。彼はこのドラマで彼女の相手役を演じることになっている。

「そうだよ。今日からの撮影、よろしくたのむよ」

「はい、よろしくお願いします!」

 彼女は大きな声を上げて、元気いっぱいに挨拶を交わした。


「よーし、それでは本番行ってみようかぁ!」

 本番前のリハーサルも終わり、撮影監督の大きな声がスタジオ中に鳴り響く。その声に反応して、撮影スタッフがそれぞれの持ち場に散らばるなり準備を始めた。

 ドラマの主演に抜擢された香稟は、緊張な面もちでスタートの瞬間を待っている。高校生役ということで、黒と白の二色のセーラー服を着こなして髪型は清楚っぽく三つ編みだ。

 そして、相手役の連章は台本を片手に自分の台詞の最終確認をしている。探偵役ということで、真っ黒いスーツ姿に真っ赤なネクタイを首からぶら下げている。いかにもキザな役どころといった感じだ。

「よーい、スタート!」

 撮影監督のその一言により、スタジオ内はサスペンスドラマの舞台へと変わった。

 これから撮影されるシーンについて簡単に触れておくと、とある学園で起きた不可解な殺人事件の真相を解き明かすため、主人公の女子高生が知人から紹介された私立探偵事務所を訪ねにくるといった設定である。

『ピンポーン』

 女子高生が事務所のインターフォンを鳴らした。

 その数秒後、事務所のドアが静かに開き、室内からひょっこり姿を現したのは一人の男性であった。

「あの、あたしは霞丘麗子といいます……。あなたが、探偵の雲野内さんですか?」

 女子高生は緊張しながら自己紹介し、そして彼が私立探偵かどうか尋ねた。すると、彼は面倒くさそうな表情をしながらコクンと頷く。

「そうだけど? オレに何か用かい、お嬢さん」

「じ、実はですね、あたしの通う学校で殺人事件が起こっちゃったんです……。それで、私立探偵の雲野内さんに協力してもらいたくて……」

「はぁ? 殺人事件だって? おいおい、お嬢さん、そういうのは警察に通報するもんだろ。お門違いもいいところだぜ」

 冗談に付き合うヒマはなし。私立探偵は女子高生を門前払いしようとした。実をいうと、彼は大金が手に入るような依頼しか受けようとしない傲慢な性格でもあるのだ。

 ところが、女子高生は真剣な目で繰り返し訴える。どうしても私立探偵の協力が必要なのだと強調しながら。

「警察には通報してます。ただ……。警察は、他殺ではなく自殺で処理しようとしているみたいで……」

 学園で突如死亡したのはクラスメイト、その名は“真理”。女子高生はその真理の大親友であった。彼女が自殺なんてするはずがない、きっと何か秘密があるに違いない、と思っている。

 女子高生の必死の嘆願にも私立探偵は仏頂面をしたままだ。面倒くさい仕事はやらない主義の彼だが、大金が入るとなれば話は別ということで――。

「お嬢さん、依頼料は持ってるの?」

「そ、それについてですが、アルバイトをしてどうにか準備します。だから引き受けていただけませんか?」

 ――こんな調子で、香稟と連章のツーショットの演技が続く。

 彼女達二人は台詞を噛んだりせず、ドラマ上の役柄を台本通りにきちんと演じ切っていた。ただ俳優が本業ではないだけに、多少なりとも台詞に感情がこもってなかったり表情に硬さが見られたのは否めない。

 それでも、カメラは止まることなく彼女達を撮影し続けた。このドラマに必要なのは、俳優としての演技力ではなくあくまでも人気スターの競演だったからである。

「よしオッケー! 二人ともお疲れさん」

 このシーンだが、最終的には数回のNGがあったものの、わずか二時間というスピードで撮影が終わった。

 短かったとはいえ、演者にしたら二時間は長丁場であろう。長い撮影から解放された香稟は、緊張の糸がほぐれたのか大きな吐息をつきながら胸を撫で下ろしていた。

 初日ということもあり、本日の撮影はこれにて終了。お疲れの彼女を労ってあげようと、彼女の側へやってきたのはマネージャーの新羅今日子であった。

「ご苦労さま、香稟。いい演技だったわ、上出来よ」

「ありがとうございます、今日子さん」

 新羅は嬉しそうに口元を緩めていた。演技が上手であることよりも、ドラマでも歌でも前向きに取り組んでくれていることが何よりも嬉しい。彼女の表情からはそんな気持ちが垣間見れた。

 褒められた香稟もにっこりとかわいらしく微笑んだ。マネージャーからの賞賛の言葉は何よりも励みになる。たとえ疲れていてもやる気が出るというものだ。

 そんな彼女達の背後にふらりとやってきた男性が一人。

「いやぁ、素晴らしかった。さすがはスーパーアイドル夢百合香稟だ。その名を汚さない迫真の演技だったよ」

 パチパチと手を叩きながら現れたその男性、にやけた顔がいかにも小賢しげな連章琢巳である。サラサラとした髪の毛をかき分けて、香稟のすぐ近くまで歩み寄ってきた。

 共演者でもあり相手役でもある彼からの絶賛の声。お世辞と思いつつも、香稟は謙遜しながら感謝の言葉を伝える。

「ありがとうございます。明日からも引き続きよろしくお願いします」

「もちろんだよ。キミのような魅力的な女性の相手役なんて、こんな光栄なことはないからね。オレの方こそ、よろしくお願いするよ」

 連章は紳士のごとく気取ってそう返答した。その口調はまるで口説き文句のようだ。プレイボーイの悪名を持つだけに、香稟を見つめる目つきに軽薄さを感じさせる。

 その直後だった。彼のいやらしい目線は香稟のすぐ横にいるマネージャーに向けられた。

「これはこれは新羅さんじゃないですか。随分とご無沙汰でしたねぇ。お元気そうで何より」

 彼の何気ないありふれた挨拶が、どうしてか新羅の顔つきを瞬時に急変させた。

「……あなたも元気そうじゃなくて? 連章クン」

「まぁ、オレは相変わらずってやつですよ。今回はお世話になりますよ、新羅さん。そうそう、社長さんにもよろしく伝えておいてくださいよ。今後ともよろしくってね」

 新羅の目つきが鋭くなり、表情がみるみる凍りついていく。言葉にこそ表れていないが、彼女は何か苛立ちのような感情をこらえているようだ。それを証拠に、全身がぶるぶると小刻みに震えている。

 すぐ横にいる香稟は唖然とした。女優顔負けの美貌の持ち主である新羅がまるで魔女のように豹変しているからだ。無論、彼女に何があったのか知る由もない。

「それじゃあ、また」

 連章は不敵に笑ってウインクをひとつすると、軽やかな足取りでスタジオを出ていった。

(…………)

(…………)

 スタジオ内の片隅で黙り込んだまま立ち尽くす女性二人。どことなく不穏な空気が漂っている。

「……どうかしたんですか? 今日子さん」

「……何でもないわ。さぁ、わたし達も行きましょうか」

 香稟からそう問われても、新羅は何も答えを出さなかった。必要以上に語ることもなく、何もなかったかのように平静を装って明るさを取り戻していた。

 連章との間に何か深い事情でもあるのだろうか。そんな疑問が頭に浮かぶ香稟だったが、むやみやたらに詮索するのはよくないと思ったらしく、それ以上は何も質問したりしなかった。

 彼女達二人は後片付けをしているスタッフに見送られながら、スタジオから姿を消していった。


* ◇ *

 それから数日経過したある日の朝、ここは潤太の通う学校だ。

「よぉ、潤太クン! おっはよう!」

 彼の名前を呼んだのは、いつものあの友人二人組だった。

 頬杖をついてうたた寝をしていた彼、目を覚ますなり、眠たそうな目を擦りながら大きなあくびをした。

「おはよう、ふあぁ……」

「何だよ、おまえ。こんなすがすがしい朝なのに、そんなアホみたいなあくびしおってからに」

 色沼と浜柄の二人は呆れた顔で潤太を見つめている。いい若いもんが!といった感じで説教していたが、そういう態度を示す彼らの方が少しばかり年寄りくさい。

「いやね、昨日の夜、仕掛かってた絵があったもんだから」

「またそれかいっ! おまえは絵の他にやることがないのか?」

「うん」

 はっきりとそう断言する潤太は潔くてちょっとかっこいい。

 それはそれとして、“絵”というキーワードを皮切りに色沼と浜柄の二人は例の話題を持ち出す。今から数日前、代々木公園で出会ったあの女の子のことだ。

「そういえばさ、彼女は元気か? ほら、夢野香ちゃん!」

「今も、二人で楽しくお絵かきしてんのか?」

 ここで登場した夢野香こそ、夢百合香稟の仮名である。

 正直なところ、彼女と一緒に絵を描いたりもするが頻繁というわけではない。彼女はスーパーアイドルだからそれほど時間に余裕はないのだ。

 しつこく冷やかされるのはまっぴら御免ということで、潤太は片手を左右に振って適当にごまかすことにした。

「いや、会ってないよ。だってボクと彼女は付き合っているわけじゃないしさ。ちょうどあの時から、彼女とは会ってないよ」

 それを聞いた色沼と浜柄はなぜかにんまりと笑った。

「ほう。そうか、そうか。それはよかったな」

「な、何でよかったのさ? それにどうして笑うの?」

 色沼と浜柄の二人は目つきを鋭くして、潤太の顔に人差し指を突きつけてきた。

「あたりめーだろぉ? おまえみたいな根暗なやつが、あんな香稟ちゃん似の女の子と仲良くなるなんて、たとえお天道様が許しても、このオレ達が許さねぇぜ」

「そうだそうだ! おまえに彼女なんてもったいないからな! 悪いことは言わん、彼女のことはもう忘れろ」

 ひがみ根性丸出しで毒づく友人二人。潤太一人だけが幸せになるのが気に入らないといったところか。これには彼も呆れてしまい空いた口が塞がらなかった。

「……それでも仲間かよ。ひどい言われようだ」

 香稟は彼女ではなく友達だ、友達同士で十分楽しいし幸せな気分だからそれで満足している。だからこそ、面と向かってもったいないとか忘れろとか言われたら悔しいし切ない気持ちになる。潤太の不服そうな表情にそんな感情が映っていた。

「つまり、夢野香ちゃんはフリーってわけだ」

 そうとわかればチャンスあり。色沼と浜柄の二人はいきなり色めき立つと、机を押し倒さんばかりに潤太に向かって急接近した。

「おい潤太、とりあえず彼女の電話番号を教えろ!」

「はぁ!? とりあえずって何だよ? それに電話番号なんて知らないよ!」

「知らないだと!? それじゃあ、住所なら知ってるだろ?」

「住所も知らないよ!」

「住所も知らないだと!? それじゃあ、よく遊んでる場所ぐらいは聞いてるだろ?」

「だから知らないんだよ! そういったプライベートな話はしてないんだから」

「何だとぉ!? そ、そそ、それじゃあ、趣味とか特技ぐらいは――」

 ――ここでピタッと会話が途切れた。三人の男子達の間に何とも言えない白けた空気が流れていく。

 わずかな沈黙の後、色沼と浜柄はお互いに顔を見合わせる。

「おいおい、趣味と特技を知ったところで、オレ達に何か得ってあるかな?」

「う~ん、ないかな……」

 電話番号に住所、さらによく遊んでいる場所すらわからないのでは、彼女に出会う手段がまるでないのと同じだ。正直なところ、潤太は香稟の電話番号も住所も知らない。相手がスーパーアイドルだからそれも当然なのだが。

 ガクッと肩を落とした男子二人は、空しい風に吹かれて少しばかり寒そうだ。

 尋問から解放されてホッとしていた潤太、そんな矢先だった。

「――――!」

 いきなり潤太の耳に、夢百合香稟の名前が飛び込んだ。ドキッと鼓動が高鳴る。

 よく耳を澄ましてみると、教室内にいるクラスメイト達が何やら彼女のネタで盛り上がっているようだ。

 いったい何の話題だろうか。以前なら芸能人にまったく関心がなかった彼だが、この時ばかりはそわそわしながら落ち着かない様子で聞き耳を立てていた。

 色沼と浜柄は香稟の話題に詳しいとあってか、クラスメイト達の会話をすぐさま理解した。

「そういえば、香稟ちゃんは今度二時間ドラマやるんだったな」

「例の金曜サスペンスだろ? 確か二週間後の放送だったよな」

 目の前にいる友人二人の情報の早さはさすがである。これには潤太も驚きのあまり脱帽してしまう。というよりも、彼が香稟というアイドルに関して疎いだけなのかも知れない。

「でもよ、相手役がちょっと気になるよなぁ」

「ああ、アイツな。確かに嬉しくない相手役だな」

 ”相手役が気になる”――?

 ”嬉しくない相手役”――?

 友人からのその発言に、潤太は素朴な疑問を抱いた。

「ねぇ、何が気になるの?」

 芸能ネタならお得意とばかりに、色沼と浜柄の二人はその根拠を詳しく説明してくれた。

「相手役っていうのがな、連章琢巳っていうタレントなんだ。こいつがさ、いわゆる芸能界のスケコマシって感じでな。昔はろくに売れないタレントだったんだけど、ある有名女優と不倫疑惑が持ち上がった途端、あっという間にスターの仲間入りしちゃったんだ」

「連章ってさ、悔しいけど二枚目でけっこうモテるタイプなんだ。そういう理由もあってか、今でも性懲りもなく女絡みの噂が絶えない男なんだよ、またこれが」

「ふ~ん……」

 潤太はわかったように頷いた。ところが、次の一言はというと……。

「で、何が気になるの?」

 思わずズッコける色沼と浜柄の二人。どうやら、潤太は彼らの言わんとしている内容を理解できていなかったようだ。

 彼ら二人は呆れながらも、女性関係に鈍いおとぼけた友人に理解してもらえるようわかりやすく噛み砕いた言葉で説明してくれた。

「いいか、耳の穴をかっぽじってよく聞けよ。連章が相手ってことはな、香稟ちゃんがやつに目を付けられる可能性があるってことだよ!」

「つまり、ゲイノースキャンダル! 夢百合香稟、連章琢巳と熱愛発覚かぁ、とかいうニュース速報が飛び込んでくるかもってことだ!」

「えっ! そ、そんな、まさか――」

 潤太はその衝撃に愕然とし、そして絶句した。

 彼でも芸能スキャンダルの意味ぐらいはわかっている。アイドルにとってスキャンダルがイメージダウンにつながることも含めて。

 スキャンダルなんてあってはならない、いや、香稟が熱愛だなんて考えたくはないといった方が正解か。この時、彼の心の中に焦燥感のようなものがくすぶっていた。それは、女の子に恋をしたことがなかった彼にとって初めての感覚だ。

「まさか、彼女に限って――」

「おいおい、何だよ、その言い方は? まるで、香稟ちゃんを自分の彼女みたいに言いやがって」

「え? い、いや。そういうつもりじゃないんだけど。ははは……」

 無意識のうちに口から漏れてしまった本音。潤太は乾いた笑いでこの場をやり過ごすしかなかった。

「まぁ、清純派アイドルの香稟ちゃんなら大丈夫じゃないか」

「そうだな。連章も手が出せないぐらい人気アイドルだしな」

 色沼と浜柄はそう言いながら心配無用だろうとお互いに納得し合っていた。そもそも共演者同士がいちいちスキャンダルを起こしていたら、芸能スクープ雑誌の編集者もさぞありがた迷惑な話であろう。

 しかし、一人だけ心を落ち着かせることができない少年がここにいる。

 心ここにあらず――。潤太はそれからというもの、彼ら二人の会話などまるで頭に入ることはなかった。もちろん、授業中の教師の話ですらも。

 なぜなら、彼の今の気持ちは、ただならぬ焦りと不安に支配されていたからである。


* ◇ *

 それから一週間が過ぎた。

 次週放映される金曜サスペンスドラマの撮影は、完成度百二十パーセントの素晴らしい出来で無事終了した。

 そして今夜、出演者を含めたこのドラマの関係者が集まる打ち上げパーティーが、都内の某高級ホテルのラウンジで開催されていた。

 テレビ局のプロデューサー、それに番組枠のスポンサーのお偉いさんの堅い挨拶が終わると、会場に集まった関係者達がテーブルの上に飾られたオードブルに舌鼓を打つ。

「いやぁ、今回は非常にいいね。大変結構、結構!」

「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」

 スポンサーのお偉いさんはすっかり上機嫌で、テレビ局のプロデューサーはさらにご機嫌を取ろうと、プライドもかなぐり捨てて平身低頭にごますりをしていた。

 撮影監督やディレクター達もがそこに参加し、次の作品に向けてのコンセプトなどを恐縮しながら聞いていた。スポンサーあっての民放局、ひとつのドラマの打ち上げとはこういうしがないものなのである。

 その頃、主人公を演じた香稟はというと、女性のスタッフや共演者達と撮影時の苦労話に華を咲かせていた。

 このたびのドラマは放映時間が事前に決まっていたこともあり、かなりハードスケジュールでの撮影となった。ただでさえ忙しい香稟だけに、スタジオ内の撮影はほとんどが深夜に行われた。

 そのため、撮影に参加したスタッフも気苦労が絶えなかった。途中で病欠する者もいれば、体調不良を押してまで参加した者もいる。そういう意味でも、出演者もスタッフも話題に事欠かなかったようだ。

 いろいろな話で盛り上がる中、そこへふらりと現れたのは彼女の相手役を演じたあの連章琢巳である。パーティーという場にも関わらず、ストライプ柄のジャケット一枚をはおりノーネクタイというラフな格好だ。

「やぁ、香稟ちゃん。今回はお疲れさま」

「あ、連章さん。どうもお疲れさまでした」

 楽しい会話を中断させられてしまった女性スタッフと関係者達。連章という人物に気を遣っているのか、それともただ苦手なのか、ろくに挨拶もせずさりげなくその場から離れていった。

 連章はほくそ笑みながらドレスアップした香稟を見つめた。今夜はパーティーということもあり、彼女はレースの刺繍が入った赤のパーティードレスを着こなし、黒い髪の毛も後ろで束ねてアップしている。

「ほう。いつも素敵だけど、今夜は一段と綺麗だね。改めてキミの美しさを知ったな」

「そ、そんなことないです……」

 歯の浮くような連章の台詞に、香稟は謙遜しながら恥ずかしそうにうつむいた。だが内心は嬉しいはず。美しさを褒められて嬉しくない女の子はいないだろう。

「おや、ジュースなんか飲んでるのかい? せっかくのパーティーなんだからワインでもどうかな?」

「ワインだなんて……。あたしはまだ未成年ですし、それにお酒なんて、まともに飲んだことないですから」

「それじゃあ、なおさら飲まなくちゃ。今夜ぐらいは少し羽目を外してさ、みんなと一緒に楽しもうよ。大人になるためにも、少しぐらいはお酒をたしなむことも大事だと思うけどな」

 そう言うと、連章はウエイターからワイングラスを受け取る。そして、琥珀色に輝くそのグラスを香稟にそっと差し出した。

「このワインはね、ボジョレー・ルマンといって成功を祝うワインなんだ。今日という日にピッタリだと思わないかい?」

「そ、そうですけど……」

 彼女はまだためらっている。今一歩、未成年という常識の壁を越えることができない。もちろん、お酒という未知なるものへの恐怖心もあるのだろう。

「さぁ、乾杯しようよ。オレとキミの出会いを祝してさ」

「え、え……」

 戸惑っている彼女の手に、連章は無理やりワイングラスを持たせた。

「乾杯」

 彼ら二人がワイングラスを重ね合わせると、小さなガラス音が賑やかな会場内に高らかに鳴り響く。

 連章は手にしていたグラスをグイッと飲み干した。ワインを口に含んでたしなむその仕草はキザそのものである。

「さぁ、香稟ちゃん。キミも飲みなよ。記念すべきお祝いの美酒をね」

 彼の巧みなまでの語りかけ、心を惑わせるような甘い誘いかけ。

 ワイングラスを見つめる香稟の心は不思議なぐらい解放感に満たされていく。サスペンスドラマの主人公を見事なまでに演じ切った。そうだ、今夜はそれを祝したパーティーなのだ、そう自分に言い聞かせながら。

 ほんの少しぐらいなら……。彼女はついに、常識の壁を越えて神秘のグラスにゆっくり口を付けた。

「どう、おいしいでしょ?」

 香稟はやや呆気にとられた表情で素直な感想を口にした。

「ホントだ、ちょっぴり苦いけど、すごく飲みやすくておいしい。ワインって、こういう味なんですね」

「このワインは高級なんだよ。その辺のスーパーで安売りしているワインとは別格だからね」

「そうかぁ。これは滅多に飲めないワインなんですね?」

「そういうことさ」

 おいしさと珍しさのあまり、もう一口――。ほろ苦さと酸味のきいたワインの味は、香稟の舌にぴったりマッチしたようだ。

 新鮮さも相まってさらにちびりともう一口――。ボジョレー・ルマンは彼女をどんどん緊張感から解放し、心を和らげていった。ワインというお酒は女性を大胆にしてしまう媚薬なのであろうか。

 それをすぐ側で眺めていた連章はニヤリと笑った。それは卑しいまでに不敵な笑みだった。

(このワインなら、どんな女もイチコロさ)

 彼は裏側に隠していた欲望を剥き出した。

 ガードが甘くなった女性ほどあっけないものはない。彼は幾度となく女性を口説いているからか、そういった心理や性質をよく理解しているのだろう。

「どう、もう一杯いかないかい?」

「え……。そ、それじゃあ、もう一杯だけ……」

 彼女はお酒と雰囲気に酔いしれてしまい、目の前にいる男性にすっかり心を許している。未成年の少女、ましてやスーパーアイドルにとってあってはならない事態だ。

 強引とも言うべきお酒の誘惑に、彼女の理性がどんどん失われていく。そして、自らが招いた後悔の渦へと飲み込まれていくのだった――。


* ◇ *

「う、うう……ん……」

 香稟はゆっくり目を開ける。

 彼女の瞳に映るもの、それは、豪華な装飾をあしらったシャンデリア。

 その見慣れない天井を見て彼女は放心状態となる。背中に伝わる柔らかい感覚から、ベッドの上に横たわっていたことに気付いた。

「ようやく目覚めたかい?」

 聞き覚えのある男性の声が耳に届く。

 激しい頭痛に襲われながら、彼女はゆっくりとその身を起こした。

「……ここは?」

 彼女は朦朧とした意識の中、周囲を見渡す。

 まったく見たことのない戸棚、洋服ダンス、机、ソファーベッド、そして――。

「れ、連章さん!?」

「ぐっすり眠っていたようだな。まぁ、あれだけワインを飲んだら、それも無理はないがね」

 視界の先には、ソファーベッドに腰掛けている連章琢巳の姿があった。彼はクスクスと微笑しながらブランデーグラスを口に付けている。

 香稟はまるで状況を把握できていないようだ。パーティー会場にいた時までは覚えているが、それ以降の記憶がまったくない。彼女の表情に不安と動揺の色が浮かび上がる。

「ここはどこですか!?」

「オレの家さ。というか、オレがプライベートで借りてるマンションの一室だけどな」

 いつの間に彼のプライベートマンションにやってきたのだろうか。思い出したくても思い出せない。思い出そうとしても、ズキズキと頭が痛くなるばかりだ。

「どうして……? それより、今日子さんはどうしたんですか!?」

「心配することはない。彼女にはオレから言っておいたからさ」

「え……?」

 連章はブランデーグラスをテーブルに置くと、野獣のようなギラギラとした目で彼女のことを睨みつけた。

「今夜、オレの家でかわいがってやるから、さっさと帰りなってな」

「――――!!」

 香稟は恐怖のあまり、瞬時に表情が青ざめた。

 このシチュエーションともなれば、さすがに純情な彼女でも今置かれている状況がどういうことなのかハッキリとわかった。飢えた狼を前にして、狙われたウサギのように全身を震わせて身構える。

「安心しなよ。別に悪いようにはしないからさ」

 連章はワイシャツのボタンをひとつずつ外し、じわりじわりと彼女の側へと歩み寄っていく。

 ここから逃げなければ――!しかしお酒の後遺症のせいか、彼女はふらつくほど気分が悪くて立ち上がることすらままならない。それでも、近寄ってくる色欲の魔の手から逃れようと必死になって後ずさりしていく。

「い、いやっ! こ、こないで!」

「おいおい、そんなに嫌がるなよ。マネージャーからは了解をもらってるんだぜ? 言う通りにするのがアイドルってもんだろうが!」

「ま、まさか今日子さんが――!?」

 彼女の動きがピタリと止まった。

 マネージャーの新羅が了解したとはどういう意味だ。自分のことを守ってくれるはずなのに、どうして――?彼女の頭はパニックに陥った。

 思考回路が停止している彼女、そのわずかに気が緩んだ瞬間を彼は見逃さなかった。欲望のままに、ベッドにいる彼女目掛けてなだれ込んできた。

「キャアァ!!」

 抵抗する彼女の両手をわし掴みにする連章。ここにいる男は、あのキザで二枚目を売りにしているタレントの連章琢巳などではない。性欲という牙を剥き出した野獣そのものであった。

「お、おとなしくしろぉ! ヘヘヘ、いい思いさせてやるからよぉ」

「だ、誰か助けてぇ!!」

「へへへ、誰もいるわけねぇだろうがぁ! さぁ、おとなしくするんだ」

「いやぁぁ~!!」

 鬼畜のごとく乱暴に襲いかかってくる。こういう時の男性の力はとてつもなく強い、少女がどんなに抵抗しても振り解けないほどに。

 もがきながら泣き叫ぶ彼女、ついに淡いピンク色の唇が奪われそうになる、まさにその瞬間だった。

『ガツン――!』

「ぐあぁあぁ!?」

 突然の大きな打撃音と連章のうめき声。

 彼は頭を両手で押さえながらベッドの下へと倒れ込んだ。

 何が起きたのかわからないまま、香稟はそっと目を開けてみる。涙目でかすんでいた視界に映ったのは、激しい息継ぎをしながら陶器の花瓶を持ち上げている女性の姿であった。

「きょ、今日子さん……!?」

「さぁ香稟! 今のうちに早く逃げるのよ!」

 マネージャーである新羅今日子は、香稟の手を掴んでベッドから引っ張り起こした。

 気が動転して意識もはっきりしない香稟は、新羅に手を掴まれたまま全速力で玄関へと連れ出されていく。

「く、くっそぉ……!」

 花瓶で殴打された頭を抱えて床の上でうずくまる連章。そんな彼の目には、二人の女性の駆け抜ける足下だけが見えていた。

 玄関のドアから急ぎ足で出ていく彼女達二人。マンションのフロアは六階、エレベーターが到着するのを待っている余裕もなく、非常階段から出口となる一階を目指した。

 彼女達は息を切らせながら必死の形相で階段を駆け下りていく。背後から人の気配を感じようが感じまいが、恐怖心と不安感から逃れるために無我夢中になって駆け下りていく。

 そしてその数分後、彼女達はマンションの前で待っていた乗用車の後部座席へ滑り込むように乗り込んだ。

「早乙女クン、早く車を出して!」

 早乙女が目一杯アクセルを踏み込むと、乗用車はタイヤを地面に擦り付けながらハイスピードでマンションの前から走り出した。

「はぁ、はぁ……」

 息苦しさと顔中にびっしょりの汗。どうにか脱出できたが、香稟と新羅に安堵感などなかった。

 香稟は自らの体を両手で抱き締めて震えていた。表情もまだ真っ青で、悪寒が全身を覆い尽くしているかのようだ。

 それも仕方がない。男性に襲われたことによる精神的ショックはそう簡単に消えるものではないからだ。十代の少女にしたら、それがトラウマとなって生涯心に傷が残ってしまうこともあるだろう。

 一方、しばらく口をつぐんだまま下を向いていた新羅だったが、時間の経過と共に落ち着きを取り戻した。すると、抑えてきた感情が込み上げてきて涙をぼろぼろと零し始める。

「ゴメンなさい、香稟……。本当にゴメンなさい……」

 新羅は零れる涙を覆い隠すように、顔面に手のひらをあてがった。

 罪悪感から襲ってくる辛さ、悲しさ、そして悔しさ。それらが彼女の心を締め付けながら追いつめていく。

 香稟はその時、連章の言葉を思い出していた。“了解していた”という不可解な言葉を。

 彼女は唇を噛んで静かに問いただす。この一連の出来事の真相について――。

「……すべて話してください」

「…………」

 声を発することができない新羅。このまま無言を貫く気だろうか。

「答えて下さい! あの人、今日子さんから了解をもらったと言ってました! ちゃんと、あたしにわかるように説明して下さい!」

 香稟はかすれ気味の大声を上げて新羅を問い詰める。その語気には疑心と憤怒が入り交じっていた。

 新羅もわずかながらに全身が震え出した。しかし、まだ声を発しようとはしない。彼女達二人の絆も、信頼関係もこのまま崩壊してしまうのだろうか。

 ――車内に訪れる重苦しくて長い沈黙。とうとうそれに耐え切れなくなったのか、新羅はうつむきながら小さく口を開く。

「……今から六年前よ」

 新羅は手のひらで顔を覆い隠したまま、自分自身の秘められた忌々しい過去を打ち明ける。

「わたしがまだ、芸能人という肩書きだった頃、わたしはあの男と出会った。その頃の彼はデビューしたばかりで今ほど売れてはいなかったけど、レギュラー番組を数本持つぐらいの仕事はこなしていたわ。それに引き換え、わたしは年齢が増すことでアイドルという名声をなくしかけていた時期だった」

 新羅今日子は香稟の先輩、かつてアイドルとして活動していた過去があった。愛らしさを売りにするというよりも、妖艶な美貌を売りにするミステリアスな路線であった。

 そのためか、年を重ねるごとに持ち前の魅力や色気を失った彼女は、業界から見放されるようになりアイドルとしての仕事がみるみる減っていってしまう事態に陥った。演技や話術が不得手だったせいもあり、タレントや女優など多方面で生き残る選択肢がなかった。

 そういった苦しい過去を思い出したからなのか、彼女は涙が止まらなくなり顔を覆い隠している両手の隙間から涙の滴が零れ落ちていた。

「事務所もその頃、あなたのようなスーパースターに恵まれず資金繰りも悪化していたの。あの男は、そんな火の車だった事務所を救ってやると、わたしに言い寄ってきたのよ」

 連章琢巳が在籍するレンショウ・カンパニーは業界屈指の有名芸能事務所。彼の父親の豊富な財源をもとにテレビ局への接待という名目のコネ作り、さらに別の事務所からのタレントの引き抜きなどやりたい放題でその地位を築いた。

 だから業界内の評判は最悪であった。新羅もそれを承知していたが、仕事を失っていた自らの責任を感じ、社長に一言も相談しないまま彼の甘い誘惑に乗ってしまう。

「わたしは、事務所の社長を、いえ、父を助けたい一心だったの」

 ここまで涙ながらも淡々と語っていた彼女だったが、次の瞬間、突然身震いが大きくなり両手をひざの上に叩き落として悔しさを爆発させた。

「あの男、連章琢巳はその見返りとして、わたしの体を要求してきたのよ――!」

「え――!」

 衝撃的な告白だった。香稟は絶句し表情が一瞬で凍りつく。

「わたしは、父を助けたくてやむなくあの男と関係を持ったわ。ただ一度きりならと割り切ってね。……だけど、それがこの先の悪夢を生み出してしまったの」

「悪夢って、どういうことですか?」

「その時のお金の流れがね、横領罪という違法行為を招いてしまったの。あの男、それをいいことに事務所を脅し始めたのよ。もし逆らえば、この事実をすべてマスコミの前で明らかにすると……」

「そ、そんな! ひどいですよ、それ!」

 たった一度きりの情事……。それにより、新羅は新しい仕事を得て事務所の資金も潤った。だが、その代償は大きかった。適正な流れではない裏金、つまり横領による資金流用という犯罪行為によるものであった。

 それが発覚したところで、連章の事務所を相手に訴えようにも勝てる見込みはない。なぜなら横領になると知らなくても、自らが同意した上でこの結果になったことに相違ないからだ。

 やむなく、彼女は言う通りに従うしかなかった。もしマスコミに知られたらそれこそ大事件、事務所は信頼失墜により破産し、自分ばかりではなく父親どころか所属している仲間達まで路頭に迷ってしまうのだから。

 後悔という忌々しい過去に苛まれる彼女、涙で化粧が崩れたその表情は悲痛に満ち溢れている。

「あの男、あなたに目を付けたのよ。打ち上げパーティーの前に、わたしに向かってこう言ってきたわ。パーティーから香稟を連れ出すから、その手伝いをしろってね」

「…………」

 すべての真相を知った香稟は、やり切れない悲しみでいっぱいになった。怒鳴り声を上げたり、怒りをあらわにする気力はもうない、ただ黙ったままマネージャーの横顔を見つめていた。

「もちろん、抵抗はしたわ。でも、過去のことを持ち出されたらどうしようもない。……悪いようにはしない、ただもう少しだけ仲良くなりたいだけだと言われて、ついあの男の言いなりになってしまったの」

 新羅は指示されるがまま、連章と酔い潰れた香稟の二人を乗せた乗用車で彼のマンションへ向かった。自らが招いた愚かさと罪深さに胸を締め付けられながら……。

「仕方がなかった。あなたをこんな目に遭わせたくはなかったけど、仕方がなかったの……」

「今日子さん……」

 新羅は悔し涙を流し続ける。だが、どんなに涙を零してもこの現実から逃れることはできない。たとえ許してもらえなくても、今は香稟に対してひたすら謝るしかなった。

 そんな彼女に香稟はそっとハンカチを手渡した。もう謝らないでほしいと一言だけ付け加えながら。

「そういう事情があったのに、どうしてあたしを助けてくれたんですか? もし、このことがマスコミに知れたら事務所が大変なことになるのに」

 その質問に、新羅は胸中を打ち明ける。

「耐えられなかったの。あなたは、まだこれからなのよ。そんなあなたをこんな形で傷ものにしたくなかった。たとえ、わたしの身がどうなろうとも」

 香稟という一人の少女を守るのも、そして香稟という一人のアイドルの人生を守るのもマネージャーの使命だ。マネージャーというよりも、母のように心優しい姿がそこにはあった。

 彼女は真剣な目で必死に訴える。もう過去には縛られない、自分でまいた種は自分で刈り取る。後始末も含めて必ず守ってみせる、だから信頼してほしいと。

「今日子さん、ありがとう――」

 香稟はこらえ切れずに涙を零して、新羅の温もりある胸に飛び込んだ。

 それを受け止めた新羅は、胸の中の香稟を優しく抱きしめた。

 彼女達を乗せた乗用車は、まるで何事もなかったかのようにネオン煌めく都内の市街地を駆け抜けていく。

 芸能界という舞台の裏側にある秘められた過去が明かされた夜。その夜は静かに閉じていく。

 しかし、この一連の出来事の顛末は、この夜のように静かには終わらない。なぜなら、スーパーアイドルの香稟にとって思いも寄らぬ展開が待っていたからである――。

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