第2話
この村の神社の起源に関して正確な記録は残っていないが土着神を祀るために建てられたもので、それが江戸期からヒルコ信仰と混ざり社名も
この小さな村の海岸線には、激しい白波に削られた切り立った崖と、礫の敷き詰められた浜と、後世になって漁を効率的にするために作られた桟橋のある岸壁の三種類があり北から崖、浜、岸壁の順に南へ向かって並んでいる。神社の建つ崖から桟橋のある岸壁まで歩いても三十分かからず、桟橋から向こうは同様に礫浜が続くが人家がないため村人は足を運ばない。浜と崖の海岸線と平行に松林が小さく茂っており、見通しは悪い。村の内陸の西端にバス停が一つあるが、町の方面に出るのは一日に五本限りだ。神社に向かうには東の礫浜から一の鳥居を抜けて緩やかな石段を上るか、内陸側から松林を抜けて急な石段を上る二つの道を取ることが出来る。村人は専ら後者のルートを取るが、今朝は
大学の研究機関に所属する御影は、民俗学の授業を受ける学生の一人からこの蛭子神社で変わった儀式があると聞き調べ始めた。その学生はここの隣の村で生まれ、幼い頃からこの村の神事について色々聞かされて育った。儀式では生きた動物を殺し村人全員で生肉を貪るだの、神事の夜には若い男が一人消えるだの、この蛭子神社は漂着した死体——つまりえびすを御神体としているなど……当人は根も葉もない噂だと笑っていたが御影にとっては非常に興味深く、わざわざ足を運ぶに至った。このアポイントメントを取り付けるまでが大変で、最初はその学生の父親づてに隣村の村長の話を聞きに行き、更に隣村の村長からこの村の村長の連絡先を貰って何度も電話をかけ神事を見たいと懇願し、なおかつ二度ほど村に赴いて神主の家の畳に額を擦り付けてやっと渋々ながらも許可を得たのだ。その下調べの際に神社の縁起や祭神など一通り調べ終え、あとは村で生まれ育った人たちの話を聞くことで補完しようと思っていた矢先の事件である。御影にしてもこの事件は迷惑極まりないイレギュラーで、犯人に対する憤りは村人たちに勝るとも劣らないものがあった。
不意に松の木の間、御影の膝よりも低い場所を影が横切った。情けない声を出してよろめいた御影が辺りを確認すると茶色い動物がつぶらな目でこちらを見ている。
「ノウサギですよ」
後ろから笑いを堪えるような声をかけられ、御影は慌てて振り向いた。漁村には珍しく細腕の青年が日焼けした顔に笑顔を浮かべて立っていた。随分と垢抜けた風貌で、薄手のコートにジーンズを合わせて灰色のマフラーをなびかせている。春を目前にした都会の学生のような装いは寂れた田舎町の松林にはひどく不釣り合いだった。
「ノウサギ……ですか。こんな海辺に?」
御影は青年に問う。日本のノウサギは通常山岳地帯や平地に生息するものではないのか。不審げな御影を見て青年は更に笑みを強くして応えた。
「以前、この村であんまり不漁が続いた時にタンパク源として山から持ってきたのが始まりらしいですよ。今は食べることはないですけど。村のもっと内陸……ちょうど今の村長の家の辺りの茂みにはいっぱいいるんですけど、こいつはちょっと遠出してきたみたいだ。ほら、おいで」
青年がノウサギに手を差し伸べると、つぶらな瞳は怯えながらも鼻を寄せる。一通り鼻をヒクヒクと動かした後は跳ね上がるように内陸の方向へ駆けて行った。
「あぁ、行っちゃった。人に慣れてて可愛いでしょう。御影先生でしたよね?名乗り遅れて申し訳ない、僕は
「いや、こちらこそ名乗り遅れました、
龍臣は照れたように笑った。
「お恥ずかしながら、蛭子神社の後継ということになりますね。見ての通りこのような体たらくですよ」
気さくな様子で柔らかな髪をかき上げた龍臣は思い出したように肩にかけていた黒いショルダーバッグを探った。
「先生が村のどこにも見えなかったので何も食べられていないのではないかと思って、大したものではないですが……」
龍臣はロゴの印刷の剥げかけた黒い弁当箱を取り出し御影に手渡した。
「お気遣いいただいてすみません、ありがたくお言葉に甘えます」
「どうぞどうぞ、汚いところですがその辺にでも掛けてください」
龍臣は冗談めかして明るく言うと内陸を背にして松の根元に胡座をかいた。御影もそれに倣い、龍臣の正面の砂と芝がまだらになった地面に腰を下ろす。弁当箱を開けると手のひら大の握り飯が二つと、漬物、卵焼きが詰められていて、御影は改めて礼を述べつつ手を合わせてささやかな昼食を摂り始めた。おにぎりの中身は梅干しと鮭フレークで絶妙な塩分が気疲れした身体に嬉しい。
「皆上さんはお昼ご飯は大丈夫なんですか?」
「龍臣で構いませんよ。さっき弁当を作るついでにつまんだので大丈夫です。ご存知の通り誰も彼もバタバタしておりまして、厄介ごとは御免なので逃げて来ました。出かけていて先程戻ったらこの騒ぎでしょう、それで村長が客人をほったらかしだと肩を落としていたのでちょっとお節介をね」
「とんでもない、ちょうどお腹が減っていて助かりました。それにしてもよくここだと分かりましたね」
「人が来ないところといえば北西の浜とここくらいですから」
御影と龍臣はその後もしばらく他愛ない話を続けた。恐ろしい事件があったことを振り払うように、互いにその話題を意図的に避けていた。人のいない松林の中でまるで他人の目を気にするかのように表面的な話ばかりを続けるのは、海の中で話を聞いている何かに注意を払っているようでもあった。
誰そ彼と水底 桜井 @guru_1000
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