誰そ彼と水底

桜井

第1話

 第一発見者は村の漁師、栄作えいさくだった。都会ではもう定年も過ぎて隠居いんきよしようかという年齢でも田舎の漁村ではまだ働き盛りだ。栄作も多分に漏れず、七十を目前にしてなお毎日海へ出る屈強な田舎の老人だったのだが昨日の仕事で足をくじき、若いしゆういたわられて今朝の船には乗らなかった。しかし足を痛めた程度で日がな一日とこいているのは性に合わないため、当日まで一週間を切った神事しんじの運営の件で宮司ぐうじの元へ向かった。この時間ならもう起きて仕事にかかっているだろうと、神職しんしよくつとめる皆上みなかみの家ではなく海のみならず村をも見下ろす断崖だんがいの上の古ぼけた小さなやしろを目指す。

 夜明けを二時間ほど過ぎた海岸、太陽は水平線を見下ろして絵画のようにいだ海はまた今日も不漁ふりようを予感させる。水はにぶい灰色で、厳しい冬の寒さを乗り越えても暖かいだけの貧しい春を迎えたのだと意識させられる。神に豊漁ほうりよううという前時代の遺物いぶつのような儀式にいまだにすがりつくなんて、馬鹿馬鹿しくてやっていられないと栄作ですら思っているのだから若者は余計だろう。老人が信心しんじん深く迷信的めいしんてきだった時代は終わった。こんな辺鄙へんぴな場所でも電気があり水道がありテレビもパソコンもスマートフォンもある。栄作は先日都会からやって来た研究者の青年のことを思いだし、海を横目に嘆息たんそくした。どんなに栄作ら老人がもう信仰しんこうを捨てていても、都会育ちの人間にはそれがわからない。毎年繰り返される平凡へいぼんな神事を、珍しくてたまらないといった風で調べに来る。都会の学者が好き勝手に神を解剖かいぼうして論文を書いても一向いつこうに構わないが、そのために村でつつしまやかに暮らす自分たちの生活まで土足で踏み荒らされるのは我慢ならなかった。しかし近年の村おこしブームにかぶれた現村長――便宜的べんぎてきに村人はみな村長と呼ぶが役職は町内会長――とその一派が、学者を歓迎かんげいし好意的に呼び込んでしまったために、栄作を含めた余所者よそもの嫌いの一派は苦虫を噛み潰す思いで神事の準備に取り掛かっている。栄作は村長が、村の看板キャラ制作やこの辺りの名物のアピールについて嬉々ききとして語っているのを見るたびに、貧しさは人間を馬鹿にするんだと改めてきもめいじる羽目はめになる。

 栄作が物思いにふけりながら海辺の崖の上につ神社へ向かって黒々とした礫浜れきはまを横切っていると、神社の急な石段と一の鳥居のすぐ脇に大きな漂着物が見えた。この浜には海流の関係か、色々な物が流れ着くことがある。難破船なんぱせん残骸ざんがいか、はたまた白い流木りゆうぼくか。あるいは生き物の死骸しがいか。まさか——栄作は途轍とてつもなく巨大な不安感とひとさじの好奇心を持って波打ち際に近づいていった。——それがただの水死体であればこんな大騒ぎにはならなかったかもしれない。首の無い男の死体を見つけてしまった栄作はがらにもなく取り乱し、足をもつれさせ情けない声を上げながら村にとって返した。

 そこからが大変だった、誰が呼んだかパトカーが警察官がと続々村にやってきて凪いだ海と対照的たいしようてきに陸はにぎやかになった。朝の光に照らされ白くさざめく水面みなもぞくっぽい黄色の進入禁止テープが三角コーンを交えて平行に伸びた海岸はたちまち村中の人間の恐怖と好奇の目にさらされた。そんな狂乱の中でも刑事と話していた枯れ枝のようなたたずまいの老人が浅黒い顔を一層いつそう黒くして独り言のようにうめいた「孫の良雄よしおが昨晩から見えんのです」という言葉だけは人集ひとだかり中に伝播でんぱしていったのだった。


 村の人口はおおよそ百人と少しで他の集落しゆうらくからは孤立こりつした場所にある。数少ない子供たちはバスで三十分かけて学校に行かねばならず、小さな商店すらも村の中にはない。誰もが顔見知りのこの村に一昨日おとといから一人余所者が来ていた。名を御影信一郎みかげしんいちろうというこの男は余所者という理由で真っ先に受けた事情聴取に対して、東京の大学で研究をしておりこの村に伝わる豊漁祈願ほうりようきがん儀式ぎしきを調べに来たと説明した。歳は三十手前のおだやかそうな好青年で、冷や汗をかきながらも落ち着いて話すその様子と村におとずれた理由などからすぐに容疑ようぎは晴れた。

 警官が到着してまもなく、漁に出ていた男達も陸に戻って来て騒ぎに出くわし狼狽うろたえていたが、遺体の様子が明らかに殺人ということもあり悄然しようぜんとした様子で取り調べに応じていた。その頃にはすでに、行方不明の青年の母親も浜へ来ており身元みもとの確認は済んでいた。浅黒い顔の老人——行方不明の青年の祖父から話を聞いた警察がすぐに青年の住む岡崎おかざき家に向かうと、母親は痛ましくもあおい顔で玄関先を落ち着きなく右往左往うおうさおうしており浜に連れてこられた時には既に心ここにあらずといった様子だった。遺体の前に立った母親はゆっくりと屈みこんで、進入禁止テープ越しの遠目からでも見てとれるほどに手を震わせながら、何故か遺体が一枚だけ着ていた白い襦袢じゆばんに手をかける。若い刑事が手を触れないようにと注意しようとするのを現場を取り仕切る壮年そうねんの刑事が無言でせいした。画一的かくいつてきな規則だけでは遺族の協力が得られないことを経験から知っているのだろう。母親は遺体の腹部を見るやいなや、千切れんばかりにくちびるを噛み締めてうつむき、大粒の涙をこぼしながら口中に咆哮ほうこうを響かせた。答えは聞かずともそれだけで誰もが岡崎良雄の死を察し、陰鬱いんうつな空気が春の浜におりのように溜まっていった。しばらく獣のように慟哭どうこくを続けていた母親は、不意ふいに口を開き覚束おぼつかない言葉で遺体が息子であると認めた。

「良雄は小せえ頃に盲腸もうちようをやっとって……その傷があります……ひじ黒子ほくろも……ま、間違いねえです、これは良雄です——あん子は小せえ頃に、盲腸を……」

 もう十分以上も遺体のまと襦袢じゆばんを握りしめて狂ったように同じことを繰り返している母親のかたわらで立ちすくむ祖父と、船から降りてきて同じように呆然ぼうぜんと息子の亡骸なきがらを見つめる父親はまるで一つの挿絵さしえのように動きがなく、家族に訪れた突然の惨禍さんかを物語っていた。まだ少年らしさの残るあどけない身体に濡れた白襦袢しろじゆばんを纏わせ、首に黒々とした切断面をたずさえたその姿は生きた人間の成れの果てとは思えない芸術性をはらんでいた。その場で調べていた警察の見解けんかいでは、断定だんていは出来ないが死後に手引てびきののこぎりのようなもので首を切られたのではないかということである。大っぴらに発表していたわけではないが、昼前から礫浜全体や目ぼしい家屋かおくの中などに捜査範囲を広げたことで、首を切った場所は死体発見現場とイコールではないともくしていることがうかがえた。


 一昨日村に来たばかりでまだ村人の半分とも顔を合わせていない御影は、まだ被害者の若者にもお目にかかったことはなかった。野次馬やじうまの噂話に聞き耳を立てたところによると、行方不明の青年は十代の後半でこの春高校を卒業して父親の船をぐことになっていた期待の若手だったらしい。両親と父方ちちかたの祖父と四人暮らしで、困っている人を放っておけない正義感のある心優しい青年だったことが話の端々はしばしから察することが出来た。もつとも、当人の遺体や家族まで前にして大っぴらに悪口を言う者もそういないだろうが。

「良雄を殺そうなんて奴ぁこの村におらん」

「あんなええ子にこんなむごたらしいことをする奴が人間のわけねぇ」

「海から悪いもんでも上がってきたんじゃねぇか」

「やめなアンタ、縁起えんぎでもねぇ。奈津子なつこが聞いてるよ」

 奈津子と呼ばれた母親は刑事にさとされ、やっと白装束のすそを手放した。現場検証の警官たちとは別の事情聴取を担当する警官に連れられ、一家は浜を後にした。残ったのは被害者の死をいたみながらも、そのじつあれが自分の身内でなくて良かったと胸をで下ろす他人の集団で、当事者がいなくなったのをいいことに有る事無い事口々に喋っていたので御影も一足先に現場を去ることにした。御影に良雄を殺す理由がないとはいえ、余所者が来た途端とたん陰惨いんさんな殺人事件が起きたことで村人は口にせずとも御影のことを避けるような挙動きよどうをする。そもそも村に訪れた時から御影のことを歓待かんたいしてくれたのは村の中でも外交的な現在の村長の一派であり、保守的な前村長の一派はすれ違ってもうなずくような挨拶あいさつを返すのみで目すら合わせてくれない老人もいた。それが今では村中の誰もが御影のことを白い目で見ていて居心地が悪いことこの上ない。刑事も大方さつしたようで「学者の先生は、夕方五時頃にもう一度だけ伺いますんでそれまで村から出んでくださいね」と釘を刺したのみで他に行動をしばるようなことは言わなかった。浜の野次馬から数歩離れたところで、小柄な村長が人目を忍ぶようにひょこひょこと寄ってきて申し訳無さそうに頭を下げた。

「先生、気を悪ぅせんでください、皆気が立っとるんです。ワシからも後で言うときますんでここはどうか……」

 御影はなんと返してよいやら言葉に詰まりながら八の字まゆで応える。

「この度はこんなことになってしまって……亡くなった良雄さんにおやみ申し上げます。村の皆さんのお気持ちは当然ですし、僕はしばらく目につかないところにいましょう。……今回、神事を拝見はいけんするのが難しいようでしたらまた次回出直しますのでお気遣きづかいなく」

「いやぁそんな、頭下げんと。今後が固まったらまた伝えますんで、今は休まれててください」

 御影は礼を言いその場をした。宿場も無い小さな村なので、御影は村長の家の一部屋を借りている。この村長すら態度たいど豹変ひようへんしていたら御影は靴もかずに逃げ出していたかもしれない。借りている部屋に戻れば一番安心なのだが、戻ったところでするべきこともなく、しかし大手おおでを振って村を歩き回ることも出来ず、ふらふらと神社の裏手にある海岸林かいがんりんと言うには小さな松林まつばやしにたどり着いたのだった。

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