エピローグ

境界のシリウス

 こうして横になっていると、うっかり眠りに落ちてしまいそうだった。

 一人で電車や新幹線に乗るのは初めてだったし、慣れない長距離移動で疲れが残っているのかもしれない。そんな僕の様子を察したのか、赤いダウンジャケットを着込んで隣で寝そべっている美來が腕を伸ばして僕の肩をつついた。

「ねえ想介、星座の話してよ」

 その袖口からは、手首に巻かれた二つのミサンガが覗いている――痛々しい自傷痕を覆い隠すように。

「なんだよ、いつもは五月蠅そうにするくせに」

「だって、星の話になると急に饒舌になって気持ち悪いんだもん」

「お前は歯にも厚着をさせろ」

「星を眺めながらロマンチックなうんちくを披露したら、美來ちゃんイチコロかもしれないよ?」

「それを聞いて余計に話したくなくなった」

 と言いつつも心が揺らいでしまう僕は、やっぱりカズの言う通りチョロいのだろうか。

「そうだな。一番わかりやすいところで言うと、あそこにあるのがオリオン座だ」

 僕は左腕を空にかざし、その位置を指し示す。

「あっ、それ有名なやつでしょ? でもオリオンって何なの?」

「オリオンはギリシャ神話に出てくる海の神ポセイドンの息子だよ。自分に狩れない獲物はいないと豪語する凄腕の漁師だったんだけど、その傲慢さが裏目に出てサソリに刺し殺されちゃうんだ。神話の世界じゃ驕ってるキャラクターはそういう悲惨な末路を辿ることが多い。当時の世相とか倫理観が読み取れて面白いよな。そのオリオンを殺したサソリってのが夏の星座のサソリ座で、サソリ座が見えるようになる時期にオリオンは逃げるようにいなくなるっていう――」

「ふわああ」

「あれ、なんで欠伸してんの?」

 自分から訊いたくせに、やっぱり興味ないんじゃないか。

 それにしても――まさかこんな日が来るなんて思っていなかった。こんな風に二人で、外の世界で、並んで夜空を見上げる日が来るなんて。


 カズが最後に渡してきた茶封筒には、焼き切れたミサンガと一緒に、美來の居場所と記憶について記された紙が入っていた。最初からカズは、僕の記憶を元に戻して美來を僕に託すつもりだったようだ。

 記憶を失った双子の姉・美鈴と共に、苛烈な運命に身を置き続けるカズと。

 記憶を失った双子の妹・美來と共に、しがらみのない世界で未来を歩む僕。

 そういう絵図を描いていたらしい。

 動物園での一幕はどうやら誰にも知られずに済んだようで、僕たちは一度解散して身を隠すことにした。

 どのみちカズがやすやすと捕まるとは思えない、というのが伴動さんの意見だった。『記憶改竄』を使えば、すれ違う人間から自分の記憶を消しながら、誰にも認識されず、生者と亡者の境界線上を渡るように移動することができる。

 今もどこかで、誰かの記憶を消しながら歩いているのだろうか。

 それがカズの選択した生き方だった。


「こっちにはいつまでいられるの?」

 美來が空を見上げたまま訊いてくる。

「今週いっぱいは大丈夫だよ。その後はいつ戻ってこられるかわからないけど」

「そっかー」

 明るい口調だが、その声には一抹の寂しさが含まれていた。

 伴動さんたちと今後の動き方について話した結果、それぞれが一般人としての身分をまず確立すること、それまでは親しい人間と極力接触しないという方針になった。

 美來の記憶では、僕と美來は同じ孤児院でずっと一緒で、つい最近二人揃って卒院したことになっていた。カズのいた場所に僕の記憶が配置されたのだろう。

 僕が東京で働き口を探すと言うと、美來は僕と一緒に東京に引っ越すと言い張ったが、何も覚えていない美來を万が一にも巻き込むわけにはいかない。僕もギリギリまで悩んだのだが、苦渋の決断だった。

 来週頭には本格的に動き出す。しばらくは美來とも会えなくなるだろう。玖恩さんと上井出は二人で旅行(ちゃんと電車で)に行ったし、天照さんは華雅の墓参りに行くと言っていた。嫌々ながらリーダー役を引き受けた伴動さんは「行く当てもないし」と言っていたが、どこか寂しそうな顔をしていた。

「あっ、じゃあさ、あれは何の星? あの明るい星」

 美來が、オリオン座の右上の方を指して訊いてきた。

「ああ、あれはおおいぬ座のシリウスだよ。夜空で一番明るい恒星だ。オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオンとシリウスで冬の大三角だ。ほら、あの星とあの星と繋ぐと三角形になるだろ」

「おお、あれが有名なウィンター・トライアングル!」

「シリウスは明るいって以外にも面白い特徴があってね。ひとつの星に見えるけど実は連星なんだ」

「レンセイ?」

「恒星が二つあるんだよ。重力で引っ張り合って、お互いの周りをつかず離れず回り続けてるんだ。遥か昔は二つとも明るい星だったらしいんだけど、片方が先に寿命を迎えて、今は肉眼じゃほとんど見えない白色矮星になってしまったらしい」

 説明をしているうち、僕は切ない気持ちになった。

 最後まで添い遂げられない悲しい双子の運命を象徴しているようで。

 だけど美來は嬉しそうに笑った。

「なんかいいね。好きだな、そういうの」

「珍しいな。どの辺が気に入ったんだ?」

「んー、なんだろう。お互いを守り合ってるみたいで羨ましいなあって。片方が輝きを失っても、ずっと一緒ってことじゃない?」

 僕は言葉を失う。

 死が二人を分かつまで、運命を共にする二つの星。

 今の美來は覚えていないのだから、ただの偶然だろう。だけどそれは、三人で壁の上で星を見たあの秋の夜、僕が美來に話した内容そのものだった。


 ――また一緒になれるさ。だから、また冬に四人で、四つの星を見に来よう。


「私にもそんなロマンチックな相手がいたらなあー」

「悲しいこと言うなよ。僕がいるじゃないか」

「それがどうしたの?」

 本当に悲しいことを言いやがる。

「そういや、最近は怖い夢は見てないか?」

 僕は話題を変えた。美來の『未来視』は本人の自覚とは無関係に発動する能力なので、記憶を失った今でも時折うなされて眠れない夜があるようだった。なるべく思い出させないようにした方がいいかとも思うが、やはり気にはなる。

「うん、ちょうどそのことを考えてたんだよ。想介が東京から戻ってくる前の日にね、夢を見たんだ」

「どんな夢?」

「すごく変な夢。今まで忘れてたんだけど、さっきの話で思い出したんだよね。あのね、四人出てきたの」

「四人?」

 どきりとして訊き返すと、美來は寝そべったまま首を傾げた。

「うん。四人って言っていいのかなあ。想介と私が並んで立ってて、その向かい側に男の人と、もう一人の私がいたの。変でしょ?」

「…………」

 普通ならば、それは確かに〝変な夢〟で済まされる話だ。だけど僕は全身の肌が粟立つのを感じながら、美來が視たというその光景を思い浮かべていた。

「その男の人は目つきが鋭くて怖い雰囲気で、知らない人のはずなんだけど、どこか懐かしいっていうか、不思議な感じがしたの」

「その人たちとは、何か話したのか?」

「ううん、ただ向き合ってるだけ。でもね、そのもう一人の私が泣いてたの。それを見て私は笑ってた」

 そこで美來は慌てて言い訳をするように手を振った。

「あ、私が苛めてたとかじゃないよ? それにね、想介とその男の人はすっごく疲れてて、倒れそうなくらいにボロボロなんだけど、やっぱり二人とも笑ってた。満足そうな顔で」

「へえ……」

 気のない返事に聞こえたのか、美來は「なによう」と鼻息を荒くする。

 だけど仕方ない。美來の満足するような反応を僕は返せないし、喋ると声が震えてしまいそうだったから。

 星空が滲んでぼやけてしまったので、僕は目を閉じた。

 すると僕の様子がおかしいと気付いたのか、美來が上体を起こして顔を覗き込んできた。

「珍しいね、想介が私の夢の話にそんな興味持つなんて」

「いや、ここんとこ仕事で頭が疲れてるからさ。たまには美來のどうでもいい話に付き合うのもいいかなって」

「自分から訊いてきたくせに! 想介の星座の話よりはましでしょ!」

「違いない」と僕は笑った。

 目を開けると、夜空で一番明るい星は変わらずに輝きを放っていた。目には見えない白色矮星を伴って。

 『愛の命日』に両親と弟を失って以来、親戚をたらい回しになった挙句に人間でなくなってしまった僕は、あの日二人に会うまで、二人から言葉をかけられるまで、闇の中でも光が灯ることを知らなかった。

 今度は僕が伝える番だ。

 美來が夢を見る限り、未来は続いている。

 いつかはあの日の約束を果たせる日もくるだろう。二人が手を離さない限り。僕が美來の隣にいる限り。

「だって僕たちは一蓮托生だもんな」

「えー、なにそれ気持ち悪い。えんがちょー」

「…………」

 もう夜中に怖い夢を見てもトイレに付き合ってやらないと、僕は星々に誓った。



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ヘテロ・チャイルド 一夜 @ichiya_hando

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