第5話【最終話 魔女の置き土産】



「姉さん、どうしました?」


急に目の前で立ち止まった彼女の背中に思わずおでこをぶつけてしまった。





本当は手を繋いで、初めて訪れる土地をゆっくり話ながら見て歩きたい。


なのに…この人ときたら。


「ぼちぼち歩いていたら日が暮れるぞ」


とか。


「さっさと片づけて帰らないと、一泊するはめになる」


なんとか言っちゃって。健脚にも程がある。


「別に一泊ぐらい、お泊まりしたっていいのに…」


そう思いながら、ノーラ オブライエンは、彼女が姉さんと呼ぶ魔法使いの後をいそいそと、ついて歩いた。


ロンドンから、イーストサセックスにあるライまで80キロ。馬車や鉄道でも、片道凡そ3時間はかかる。


アシュフォートで降りて、そこからライまでは徒歩で、ここまで来た。ずっと自分の部屋に引き隠っていた。以前の自分ならとても、こんな行程の小旅行は考えられなかった。おそらく途中でへたりこんでいただろう。


「これも姉さんが、私を部屋から連れ出してくれたおかげです」


そんな感謝の気持ちが自然と胸に溢れて来る。ノーラは目の前を歩く彼女の足音に、そっと自分の呼吸を重ねてみる。


ドルイド風のマントの裾が風に翻る。その後を幸せな気持ちで追いかけていた。


父親の経営する洋服店から独立して、今は彼女の手伝いをしながら暮らしている。


「資金がたまったんなら、さっさと出ていけ」


なんて憎まれ口をきくけれど、うるさがられながら、姉さんの身のまわりのお世話をして、お仕事のお手伝いに付き添う。


怖いことだってあるけれど、こんな日が毎日続けばいい。心の中でそう思わずにいられない。彼女の仕事は、どんなに遠くてもロンドン市内に限られていた。


それ以外の依頼は基本的には受けない。


「今回は私の師である、バブシカ様からだ。だから断るわけにはいかないんだ」


ロンドンを出る前に、彼女はそうノーラに告げた。


「イーストサセックスには、別の魔法使いがいて、私が出向くのは、本来管轄外なのさ」


「その魔法使いさんは、どうされたんですか?」


「逃げたのさ」


ノーラの質問に彼女はため息まじりにそう答えた。


「ライの町を見たらわかるよ」


町を見たらわかる…それは姉さんのような魔法使いが逃げ出すほどの事が、あの田舎の小さな港町で起きているのだろうか。それを聞くと少し怖くなった。


それでもノーラは、尊敬する姉さんと一緒にいるだけで、安心出来た。


むしろそんな場所にまで、連れて行ってもらえる。自分は彼女に信用されている証拠だ。そう思うと誇らしく、自然と怖れは消えて、体中に力が沸いて来る気がした。


「姉さん私やります!」


「やるって何をだ?」


「わかりません…でも頑張ります!」



頑張らなくちゃ!少しでも姉さんの足で纏いにならないように…たくさん恩返しするんだから!ノーラは歩きながら、拳を握りしめて、一歩一歩足を前に踏み出す。



小高い丘の上にあるライの町。その中心にある、聖メアリー教会の屋根がようやく見えて来る。


もう初夏だと言うのに、教会の屋根には雪が降り積もっていた。教会だけではない。この町の空を灰色の雲が覆い、そこにだけ雪が降っていた。


「姉さんあれは…」


言いかけた時、目の前で彼女が急に足を止めた。ノーラは彼女の背中におでこをぶつけた。ブーツの裾も少し踏んでしまった。


「姉さん、どうしました?」


ノーラは顔を上げた。目の前の坂道を、女が降りて来るのが見えた。女は1人ではなく連れがいた。


女の脇に少年がいて、2人は互いに手を繋いで、弛いスロープの下り坂をゆっくり降りて来るところだった。


「きゃ」


ノーラは短い悲鳴の声を上げた。


横にいた彼女の連れが、ふいに首に腕をまわして顔を近づける。まるで恋人がするように、体を引き寄せたからだ。


「姉さん…いきなりなにを…」


戸惑うノーラに彼女は耳もとで囁いた。


「私がいいと言うまで、けして顔をあげるな…いい子だから…声も出すな」


急に圧し殺したような低い声にノーラは黙って頷いた。


「あれが通り過ぎるまで」


少年を連れた美しい女は、目にも鮮やかな、真朱のドレスを身に纏っていた。それはまるで、浴びたばかりの鮮血のような色だった。目の前を通り過ぎる女の足は裸足。心臓が早鐘のように鳴った。




「あれが魔女だ」


後で彼女はノーラにそう説明した。


「では、あの男の子は!魔女と一緒にいた子供は……大丈夫なんですか?」


ノーラは不安になって彼女に聞いた。彼女は軽く首を振って答えた。


「あの女は魔女ではない」


「姉さん、私よくわからないわ…」


「魔女というのはあの女ではなく、女が連れていた少年の方だよ。魔女に性別は関係ないから、皆が騙されるのさ」


彼女の話では、あの少年が魔女で、あの女を町に引き寄せたのは少年だという。


「では、あの赤い服を着た女の人は一体何者なのですか?」


「それは」


いつも明瞭に、せっかち過ぎるくらいに質問に答える彼女が言い淀む。その顔をノーラはじっと見つめていた。


「マレフィキウム」


その言葉を彼女は、ノーラオブライエンの前で口にしたくはなかった。ノーラの魂に寄生して、復活の時を待ちわびる者。それこそが、あの時道ですれ違ったマレフィキウムと同じものだったからだ。


ノーラは黙って彼女の言葉を待った。姉さんは、何かを口にするのを躊躇っている。姉さんにだって、人に言いたくないことだってあるだろう。


自分を見る姉さんの目が、いつもとは違って、少し哀しげに見えたのは気のせいだろうか?


もしかしたら。それは私に関係ある事なのかもしれない。それでも聞いてみたい。姉さんの口からなら。


姉さん私頑張ります!


「マレフィキウム」


彼女の口から零れた言葉。それは生まれて初めて聞く、魔法のような響きの不思議な言葉だった。


ノーラの胸がとくんと鳴った。


「それはつまり、魔法そのものなのさ」


「魔法そのもの…ですか」


「原初の魔法…言い換えれば【冬】そのものと言っていい。それが局所的に発生した現象の1つで、気の遠くなるような長い時を生きる。人はおろか、魔法使いや魔女でさえ、滅多に遭遇はしないものだ。あんな風に人の姿で現れる事も、実は希だ」


魔法使いは彼女のような存在を研究し、秘められた力の源に触れることで、自らの力を得ようとする。


魔女は人の作った偶像ではなく、自然界から派生した神的存在に、その身も魂も捧げる。それが真のアンチクライストと呼ばれる者だ。


火箸の先で、まるで火山の火を掠め取るように細心の注意を払って。


彼女はノーラにそう教えてくれた。


「本来人が見ることも、近づくことも出来ないような、神聖な存在なんだ…まったく、私の師匠ときたら、えらいものがいる場所に送り込んでくれたもんだ!」


「彼女をそのまま帰してよかったのですか…その、私たち何もしてませんよね…」


「それがバブシカ様の依頼だからな」


「依頼とは一体なんだったんですか?」


「ただ『見ておいで』それだけだ」


「私には偉い魔法使いの方のお考えはわかりません…さっぱりです」


「あれが大人しく棲み家に戻るかどうか、戻ればよし、戻らぬなら」


「戻れぬならば?」


「だからバブシカ様は『見ておいで』とだけ私に言ったのだ。そうでなければ」


「姉さん」


「おそらく私もお前も生きてはいまい」


「姉さん…私頑張ります!」


「だから一体何をだ」


「わかりません!とにかく頑張ります!」


彼女はノーラに教えてくれた。


「マレフィキウムと魔女は互いに惹かれ合うものだ」


「あの時女に手を引かれていた少年が魔女。あの子が町に彼女を呼び寄せた」


「おそらくあの男の子は、魔女の系譜にある者だろう。魂そのものが魔女なんだ」


「魂そのものが魔女」


「いつ少年の血筋に魔女が入り込んだのか、何がきっかけであれが少年を求めるようになったのか、それはわからないがね」


あの時通り過ぎる二人をそっちのけで、空を見上げていた魔法使いの少女の横顔を、ノーラは今も思い出す。


町を吹き抜けて届く海風に運ばれて、雪がはらはらと舞っていた。


「血の匂いがするな」


ノーラには潮の香りも何も、感じることは出来なかった。いつの間にか雪は降り止んで、厚い雲の隙間から、初夏の陽射しが道を照らし始めていた。


町がある方へ行くのか、今来た道を戻るのか、ノーラは彼女に聞かねばわからなった。


「姉さん」


彼女は少し苦しげな表情をして胸のあたりを押えている。


「姉さん、大丈夫ですか…もしかして胸の傷が痛むのでは?」


「触るな!」


ノーラが伸ばした手を、彼女が邪険に払いのけた。彼女はそのまま横を向いて、顔を伏せた。ノーラは突然のことに、どうしていいかわからず、ただ狼狽えた。


ふと背後に、視線を感じて振り返る。女に手を引かれたままの少年が、黙ってこちらを見ていた。


ノーラではなく、隣にいる彼女が右手で押さえている胸のあたりを、少年はじっと見ていた。


空が晴れて、田園に囲まれた街道を雲の影が流れて行く。


陽の光を浴びて、女の身に着けていた衣服が、初夏の大気の中にほどけて散る。


赤い雪片が目の前を吹き過ぎて消えた。


道の先には誰もいなかった。


「すまなかった、ノーラ」


涙ぐむノーラの頭に手がのせられた。


「少しだけ痛みで気が立ってしまった」


そう言って、すまなそうに彼女は言った。ぶっきらぼうな言い方。


いつもの優しい笑顔の彼女がそこにいた。


「ノーラ…泣くやつがいるか!?そんなにきつい、もの言いだったか…」


「もう、お怪我は大丈夫なんですか?」


ノーラは服の袖で目を擦り、鼻をすすりながら言った。


「ああ、もう大丈夫。心配かけたな」


「だめです!ちゃんと脱いで見せて下さい!ちゃんとほら隅々まで見ませんと!」


「やめろ!こんな往来で、昼間から私を裸にする気か!?」


「では、今夜は宿に泊まりましょう!私可愛い小物があれば、お土産物に買いたいし…それからですね」


「ノーラ…町には寄らないよ」


ロンドンに帰ろう。私たちの住む町に。彼女は心の中でそう呟いた。


彼女は諭すように優しく言った。


「え~どうしてですか!?私お金ならたくさんありましてよ!」


そう言ってノーラは頬をふくらませた。


「いまいましい女だ!仕事は終わり!日が暮れる前に帰るぞ!」


そう言い残すと、彼女はノーラを置いて今来た道を歩き始めた。


振り返れば遠くに見えた。中世のお伽噺に出て来るようなライの町は、眠るような静けさの中にあった。


もしも今の町中の様子をノーラが見たら、おそらく気を失いかねない。


魔女が目覚め、マレフィキウムと仲良く手を繋いで通り過ぎた後だ。


こんな魔法使いか魔女という格好で、町に繰り出せば、どんな目で見られるか。


ノーラには話さない。話さなくてよい事もある。前を歩きながら、若い魔法使いの少女は思った。


港町ライは昔から、あのマレフィキウムの餌場だ。そして彼女の魂の片割れとして生まれる魔女は、彼女が目覚めると、無意識のうちに、彼女のために生贄になる人を集める。


この世界に水が必要不可欠なように【冬】もまた、なくてはならない。


彼女の力が枯れてしまわないために、不定期に目覚めた時に生贄が必要なのだ。


魔女に生まれたものは、目覚める目覚めないに関わらず、嬉々として生贄を集める。そうしてあれは、力を蓄え生きながらえて来た。


あれが棲む森には、実は周囲に強固な結界が張り巡らされてる。


ただし森の入り口を除いて。


あれは好きな時に目覚め、人里に降りて生贄を喰らう。勿論獣のように血肉を貪るわけではない。供物として人の魂は神性の彼女には必要だ。


そして開け放たれた森の入り口から、棲み家に戻り眠りにつく。


眠っていても、あれが存在する限り冬は来る。町に魔女が生まれたら、それに惹かれ目を覚ます。そんな仕組みだ。


魔女の系譜にある者は、目覚めても目覚めなくても、結果は同じ事だ。


今回あの少年は魔女として目覚めた。


だから自らの意志で、生贄になる人間を誘き寄せ、供物として差し出した。


そして彼女の後について、森へ消えた。森の結界は、本来彼女を中に閉じ込める目的で作られた物ではない。


あれは彼女の力が、森以外に及ばぬように作られた。謂わば天然の生簀だ。


昔氷河の大陸からこの国に渡り、猛威を振るったマレキフィムがいた。


彼女に悪意はなく、ただ彼女がいれば氷河の時代は終わらない。


1人の魔法使いが、ライの森を彼女の城にして、そこに閉じ込めた。


彼女が冬の魔法そのものであり、不定期に巻き起こり、人の命を浚う大津波のような存在なら、それが目覚めた時に最小限の被害で済めばいい。


そんな考えだろう。滅ぼすわけにもいかず、野に放つわけにもいかぬなら、そうするしか手はない。


そのために町に魔女の系譜の家を置いた。あるいは雪、彼女の魂の欠片を宿した者をそこに置いた。


彼女はヤドリギのマレキフィウムと違って、好戦的ではない。彼女が歴史上子供を手にかけたという話は残っていない。


その血を受け継ぐ子供が残れば、それで円環のようなループは続く。


それが魔法使いが、この町にかけた結果の術式だ。それは人も魔女も知らぬ、天の摂理のように今も機能している。


一体誰にそんな真似が出来る。


彼女は道端に落ちていた孔雀の羽根を拾った。おそらく、あの女が落としていった物だろう。


「まったく、どっちが魔女だか、マレキフィウムだか…」


「見ておいで」


そう師は自分に伝言した。彼女は思う。


「見て来いというのは『見て決めろ』ということなのですね」


お前はどうするのだ。孔雀の羽根を眺めながら彼女はそんな事を思った。


「姉さん」


傍らでノーラが微笑んでいた。


「私姉さんとの約束を少しだけ破って、あの2人を見てしまいました」


「呪われるぞ」


「それは困ります。でも…」


ノーラは唇に指をあて言った。


「私には…あの2人はとても幸せそうに見えました」


「そうか」


「それで、あの…私達も、帰りは手を繋いで帰ってもいいですか?」


「日が暮れる」


そう言って、彼女はコートを翻した。もと来た道を速歩で歩き始めた。


「ちょっとだけでいいんですってば!夕飯にキューリのサンドイッチ、それからジャガイモのクリスプもつけます!」








「いいよ」




ステップガール番外編 魔女のめざめ 了




その少年は夜が来ても帰らない。楽しげに、笑いながら、歌いながら、凍りついた森の中を滑る。


身につけていた衣服は、すべて脱ぎ捨てていた。まるで側に誰がいるかのように、時折語らうように話した。


森を流れる運河の水辺で、少年に彼女が微笑みかけた。少年がその胸に飛び込むと、彼女はそのか細い体を抱きしめる。


二人はそのまま水に落ちた。そのまま光も届かぬ場所へと身を沈める。


川の水は凍結し、二人には寝所の天涯が閉じて行くのが見えた。


二人は互いの額を合わせて目を閉じる。


もう目覚めなくも構わない。


凍りついた世界で。


2人はそう思った。







【覚え書き】


『スクーンの石がイングランドに奪われたことは、スコットランドの人々にとって、イングランドへの敵対意識を高めることなった。1950年には、スコットランド民族主義者による、盗難事件が発生している。最終的に石は発見され、回収された。しかし犯人グループによる運搬中に、2つに割れてしまっていた。1996年。トニー ブレア政権によりスクーンの石は700年ぶりにスコットランドに返還された。現在【運命の石】はエディンバラ城に保管されている』

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【魔女の目覚め 全話掲載 完全版】 六葉翼 @miikimiki

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