第4話「魔女の目覚め」



気節外れの雪が降る。吹雪と氷に閉ざされたライの港町。波止場の近くにある集落。


その中の1つ。ぽつんと明かりが灯る小さな民家の、窓の外に私は一人佇んでいた。そこが私の探す少年の家だった。


白い綿毛に埋もれてしまいそうな東屋。その民家の窓の外から覗く光景は、とても奇妙なものに見えた。


簡素なランブの他には、粗末なベッドやテーブルがあるだけの部屋。かき集めるだけ集めた蝋燭の火影が揺れて、壁一面に隙間なく掛けられた、宗教画やロザリオを照らしている。


床やテーブルの上には、教会から持ち込まれた聖水の入った小瓶が、足の踏み場なく、ところ狭しと並べられていた。


家族全員が牧師を上座に据えて、取り囲む様に、皆が手にした祈祷書に書かれた文言を読み上げている。


少年はベッドの上にいた。手足を縛られ拘束された状態で、仰向けに寝かされていた。見たところ、酷い拷問を受けた様子はなく、私は安堵した。これから火にくべられようとする気配もない。


私は自分の右手で顔を覆う。出来る事ならば、暴れたり大声を出して、私の話をするのは止めて欲しい。


そのまま朝まで眠っていて。そして朝になったら、そ知らぬ顔で何も覚えてないと、家族や牧師に伝えて欲しい。


この部屋には人の恐れが満ちている。人が目に見えぬものに恐れを抱けば、どんな残酷な事でもする。


自分の子供や幼い女子供だって、容赦なく異端審問や拷問や、火刑の十字架のある広場にだって、平気で差し出す。


そこにいたのは牧師だったか。それとも神父?教会の建物は昔から何も変わらなくても、人の神の代行者の呼名や、衣装だけは度々変わった。


そこにあるロザリオや、祈祷書が書かれた紙や言葉が生まれる前から、私はこの地に存在していた。


だからそんな物は、どれも私には無意味だった。私はこうして窓の外にいて、ずっと見ているのに。牧師も少年の家族も、気配すら感じてはいない様子だった。


そこにいる誰の目にも、私の姿は映らない。このまま去ろう。物音1つ立てずに。私が去り、朝になって雪が止めば。


「悪い夢を見ていただけだ」


そう少年に家族は伝えるだろう。窓を叩く風と雪以外何もない。


何事も起きてはならない。物音1つ立ててはならない。


私の事など覚えていてはならない。


私はその場を去る事にした。あの時振り向きなどしなければよかった。


あの時運命の石の玉座になど、座ってさえいなければ。お前の金色の巻き毛や、瞳の色など、知らずに済んだ。


髪の匂いや、繋いだ手の温もりや、初めて私を見て笑いかけた…その声や名前など知らずに帰れたものを。


振り返った私と、窓越しに目を開けた少年の目線が合ってしまう。


首をしきりに振って少年はもがいた。


「何か言いたそうだ」


牧師が少年の猿轡をほどいてやる。


少年が窓の外の私を見て叫ぶ。その時私はもう窓を砕き、家の中へと飛び込んでいた。


吹雪となった私は、そのまま彼を家の外へと連れ出していた。


振り向きもせず、漁師の船着き場がある港へと向かった。


いつか凍った大地を何処までも歩き、氷河の海を渡り、この国に辿り着いた。それは、気の遠くなるくらい昔の話。


その時そこに、人はまだ居なかった。私が歩いた道を辿れば、今もそこに雪と氷に閉ざされた、氷河の国と城は存在する。


そこに暮らす雪の民には、50以上の雪の言葉があるという。その中には、もしかしたら、私の本当の名前があるやも知れない。雪を敬い畏れ、雪原の中で暮らす民には、私の姿は見えるだろうか。


たとえ見えなくてもよい。行こう。私の生まれた国へと。


私は少年と、波止場に繋がれた小さな釣船の舫いを解いた。


2人でも凍り始めた海を渡るには、その船でも充分だった。流氷の海を進むのに、帆も楷も地図も羅針盤も必要ない。


流れる氷塊は私のために道を開け、舟は思い通りに水の上を進む。沖に出てから振り向くと、港に漁火のような灯りが見えた。


灯台には火が灯され、時より浚うように海面の暗闇を撫でては通る。しかし船は一艘も港から出ることは叶わなかった。


今夜人が船を出して沖に出るには、流氷はあまりに危険だったからだ。此処まで来れば大丈夫だ。軍艦でもなければ、村人達も此処までは追っては来れまい。


少年は先ほどから毛布にくるまり、舷に腰を沈めた姿勢のままで震えていた。


「もう大丈夫だ」


私は微笑んで、少年に手を差し伸べた。その手を少年は払った。


「来ないで!来ないで!こっちに…来るな!!お姉さんは…お姉さんは…」


私は自分の掌をじっと見た。どこが違うのだろう?昨日と同じ掌がそこにある。私は昔から何も変わっていなかった。


人は目に見えぬものに恐れを抱く。自分には見えぬものが見える者を恐れて、忌み嫌う。自分にしか見えぬことを教えられた人は、そんな自分に恐れをなして、目にしたものを忌み嫌う。


幼い子供ならばなおのこと。幼いうちから、教えられ諭され、人は大人になる。


見えぬものとは、人の神と呼ぶ物以外はすべて、人に仇成す悪魔とその僕なのだ。


恐れも何も知らずに、私の手を握った少年は、既にそこにいなかった。おそらく私と会わぬ間に、家族や牧師がこの子を変えてしまったのだろう。



私は子供をたぶらかし夜の海に拐った。そんな恐ろしい怪異を目の当たりにして、ただひたすら泣きながら怯え続ける人の子に私は背を向けた。


「家に帰して」


震える声に耳を塞ぎたかった。私は無言のままで、舟の舳先を沖に戻した。


生きているものは呼吸も出来ぬほどの吹雪の中。船着き場に船は戻った。


闇は白く染まり、滲む松明の向こうで少年の名を呼ぶ声がする。


転げるように少年は船を飛び出して、そちらへと駆けて行った。途中1度も振り向く事はなかった。


私はゆっくり船から降りた。私の姿は人には見えぬ。私がそうしたいと思わなければ。


私は雪の帷の中から、彼らの前に姿を現した。誰かが私を、私の知らぬ名前で呼んだ。先ほど少年が、私に向かって呟いたのと同じ言葉だった。


「魔女」


「魔女だ!」


「魔女が現れたぞ!」


次第に大きくなる声と揺れる松明の灯りを私はぼんやりと見つめていた。



そうして私は帰る。私のいるべき氷の棲み家の寝所へと。森の奥深く、唯一雪と氷が残る運河に身を沈める。


そこは時間も記憶も凍りついて、動かない世界。そこで私は、いつ覚めるとも知れない眠りについた。悲しい記憶も、言葉も、枯れ葉と一緒に凍りついてしまえばいい。私はそこで1人目を閉じた。





「魔女」


「魔女だ!」


「魔女が現れたぞ!」


気がつけば、私は船着き場に少年といた。これは今なのか昔なのか。


この少年は何人目の少年か。私は氷の中でまだ微睡み、夢を見ているのだろうか。夢ならばいいが。


昼と夜の違いはあるが、それだけだ。少年を連れ出す場所が、火刑の広場やさらわれた先の、悪魔を崇拝する人間の巣窟であっても、結末はいつも変わらない。


私は何度同じ事を繰り返す。凍りついた記憶や心が、掌の温もりで溶けるまで。何10年何100年私は此処に立ち続ける。



「早く!こっちへ来なさい!その女は」


少年の父親とおぼしき男が叫んでいる。


「その女は恐ろしい魔女だ!」


それは私の名前ではない。それが人が私につけた名前であっても。


その名前で私を呼ぶな。


この子の前で、その名を口にするな。


私を見上げる曇りない瞳の少年。


私はお前に話したい事がまだあったのだ。人の心は目に見えない。


だから人と人は、互いに心が離れぬように、手を繋ぐ。私はそう思う。


お前と手を繋いだ時それがわかった。少年よ、私の心は人とは違う。


私の心は空から舞い落ちる雪。私の心は雪で出来ている。


私の心が見たければ、空を仰いで見るがいい。掌をかざしてその中で溶けて消える。それが私。


誰にも偽りのない、真白き私の心だ。


降りしきる雪は、その1つ1つが星のようなかたちの氷の結晶。それは私自身。


私の気持ちは人と同じ。怒りや悲しみで、そのかたちは変わる。


石よりも、鋼よりもダイヤモンドよりも、如何なる研ぎ澄まされた刃物よりも、鋭利な刺を持つ刃となる。


それを私は止める事は出来ない。降りしきる雪は、やがて一寸先の人の顔も見えぬ吹雪となって巷に吹き荒れた。


雪は吹き止まず、町の空気を赤く染めた。この吹雪と悲鳴が止めば、そこに人は誰一人いない。私を魔女と蔑む者は、風雪とともに消えていなくなるはずだ。


瞬きも呼吸すら許さぬ。それこそが私が生れた世界だった。私はいつも、そこに1人で立っていた。


その時、誰かがそっと私の手に触れた。


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