第3話【呼声】



「どうした座らないのか?」


私が玉座の横を空けても、少年は座ろうとしなかった。


「なんか、想像してたのと違う。皇子様が王様になる時に座る椅子だって聞いたから、もっと立派な椅子だと思っていたのに…」


そう言って、つまらなそうに床の氷を蹴った。


「私のために設えられた玉座をつまらないとは!随分生意気な…何をする!」



その後玉座の石は、ロンドンのウェストミンスター寺院に置かれることになった。


なぜこの石が直接ロンドンではなく、最初このライの港町に運ばれのか、私は知らない。ただ、その年の冬は記録的な寒波が、このグレートブリテン島全体に長く居座った年でもある。


鉄道や車道、あらゆる交通網が閉鎖された。雪解けを待って、ロンドンからも近い、温暖なこのライの村ならば、玉座に必要な木材も調達しやすいだろう。


王室に仕える人間たちは、そんな風に考えたのかもしれない。


以来このエドワード王の椅子は、戴冠式に用いられるようになったと聞く。


代々のイングランド王は、スコットランド王の象徴であるこの石を尻に敷いて、即位する事となった。


思えば気の毒な話だ。この石もつまらぬ理由で海を渡り、つまらぬ目的で人の尻に敷かれる運命だった。


今度石に会う事があれば、今何を思うか、聞いてみたいものだと私は思う。


少年は私の手を何の躊躇いもなく掴んだ。


「な、何をする!」


「うわ、お姉さんの手冷たい!いつから此処に座っているの?凍えてしまうよ」


そう言って少年は、掴んだ私の手を離そうとしなかった。初めて触れた人の手。

火のように熱い。そう私は感じた。


「女の人は体が冷えると子供が産めないって、母さんが言ってた」


「わかった!わかったから…もう手を離せ!」


「お姉さん見たことない顔だよね?ねえ旅をしてる人?旅の人なら、僕この町の楽しいところ沢山知ってるよ」


そう言って少年は私の手を引いた。初めて繋いだ手の熱さには既に慣れていた。


私は彼の手に引かれるままに、教会の中にある梯子のように急な階段を登った。


聖メアリー教会の入り口には、一見すると何だか分からない、大きな鉄のスプ―ンのような物体がぶら下がっている。


それは教会の塔にある、時計の振り子だった。教会の時計は1561年に設えられた物で、時計としては英国で最古。ステンドグラスは12世紀の物だった。


塔の上の展望台に出るまでには、時計の機械室の歯車も見ることが出来た。私達は塔の上に出て、灰色の空の下に広がるライの赤茶けた屋根が建ち並ぶ風景を見た。


1561年以来止まる事なく動き続けた時計と鐘は、その日以来凍りつき、動く事も時を報せる事もなかった


「お前の名前は」


私は少年に漸くそれを訊ねた。


教会の刻を告げる鐘は鳴らない。けれど私はその名前を胸の中で、何度も繰り返し呟いた。


あれは初めて出会った少年の名だったか?それとも…今となっては、その記憶も曖昧になるほど遠い昔の話だ。


教会を出た私達は、ラムハウスの前を通り、雪と氷に閉ざされた通りを歩いた。


途中少年は、何度も足を滑らせて転びそうになった。今度は私が手を差しのべなければならなかった。


暫く歩けば、町の通りを抜けて、海に出るはずだ。目の前に見えて来るのはイブラタワ―。1249年に英国政府が、敵対していたフランスと、海賊の浸入を見張るため建設した見張りの塔だ。


複数の円筒が集まる石造りの建物。イブラ城とも呼ばれ。塔と呼ぶにも、城と呼ぶにも実物は余りに小さい。


今も昔も、町の景観に影を落とす偉容はなく、役場の敷地よりも建物よりも、実にこじんまりした物だった。


塔の目の前には、木造の武器庫があって、当時は既に使用されていなかった。


今は朽ちて1つしか残されていない、ランドゲ―トを潜る。あの時はゲ―トは確か…6基あったはずだ。


ゲ―トの短かい暗闇を抜けると、通りの表示が、マ―メイドストリートに変わる。通りの名前の由来は、海の近くにあるマ―メイド インという古宿が発祥だ。


店先には、可愛らしい人魚のシルエットが掘られた看板が提げられていた。


名前とは裏腹に、昔は盗賊や海賊が根城にしていた宿で、英国にはそうした歴史を持つパブや宿屋は多い。


宿屋の前を抜ければ海。大小複数の運河が地面を別ち、その先にあるライの海岸と、ド―バ―海峡に灌いでいる。海を渡ればその先はもうフランス領だった。


浜辺を散歩してから私は少年と別れた。


私は一人呟いた。少年の名前は波の音に浚われた。その魔法のような響きは、何時までも陽の光を浴びてざわめいた。けして消える事はなかった。


自分の名さえない。人の名を呼ぶ事も、呼ばれる事もない。それすらも、すべてが初めての経験だった。


手に残る温もりが消えぬよう、波打ち際で私は胸に手をあてた。そこにあった筈の、小さな掌の温もりは、とうに失せていた。


私の手や体は海の水よりも冷たく冷えたままだった。



次の日も…また次の日も…私は教会の塔の上で待ち合わせをして、少年と会った。


そのうち言葉や約束を交わさなくても、私たちはいつも寄り添うように、一緒にいた。


雪や氷と一緒に私は生れた。そんな私にも、人の感情に似たものはある。


人が私の棲みかに踏入れば怒りもする。目覚めて、人の住む私の領地を歩けば、気持ちは空のように晴れやかになる。


人の魂や心は、目には見えぬものらしい。私の魂は雪そのものだ。


私がそこにいれば雪は降る。雪は積り、地熱で溶けても、また空から降りしきる。


それは私が生れた時から始まり、この世界が終わりを告げるまで、永遠に止む事はない。雪と氷が私の心だ。


降り積もり、凍てつき、熱を奪い、枯らし、この世界を覆い尽くす。それが私という存在だ。


私が人の地に留まれば、 雪と風はいつまでも止む事はないだろう。


生き物はすべて死に絶え、草木は枯もれた氷河の時代。私が初めて目を覚ました時に見た風景。空から落ちる雪と、凍てつく大地。それ以外何も無かった。


「私と遠い国に行かぬか」


風と雪が舞う教会の塔で、私は少年にそう訊ねた。もはや棲家に独り戻る気にもなれず、この町に留まる事も出来ない。


無理とわかっていても、つい口から零れた言葉だった。


「いいよ」


そう少年は答えて私の胸に頭を預けた。いくら身を寄せても、私はお前の母や暖炉の火のように、お前の体を温める事は出来ない。けして出来ないのだ。


「私はお前を凍えさせるだけだ」


「なら僕が温めてあげる。お姉さんの体や手は、とても冷たいから」


そう言って、巻き毛の下の蒼い瞳は閉じられた。


「もう充分だ」


私の心は溶けて消えてしまうほどに温められた。それでも1度それを知ってしまえば、2度と手離せなくなる。赤子よりも人との交わりを知らぬ。私の心はそれすら未だ知らなかった。


それから次の日も、その次の日も、その少年は私の前に姿を現さなかった。


私は町で人の噂声を耳にした。人の噂の大半は、どれも他愛ないものばかりと思っていた。


町の人々の口から聞こえるのは、一向に降り止まぬ雪に対する不安や、怨みの声ばかりが大半を占めていた。


『石炭や薪などの燃料は直ぐに底をつくだろう。港からは舟が出せず、漁も出来ない。気節外れの大雪で、麦や作物が大きな被害を受けた。陸の交通も雪で完全に麻痺したままだ。他所から食糧や物資を運ぶ事も出来ない。困ったもんだ』


降り止む事ない雪を嘆く声。それらはすべて、私が此処いるために引き起こされた被害に他ならない。


「漁師のマシュ―のとこの小僧っ子が気が触れちまったらしい」


「俺も通りを歩いてるのを見たが、あれは悪魔つきか、魔女にでもたぶらかされたとしか思えねえ!」


「ひょっとすると、この天気も魔女か悪魔の呪いか?」


「家に牧師様が呼ばれたらしい」


「連れてくんなら、さっさと小僧1人ぐらい連れて行っちまって…この雪をなんとかして欲しいもんだ」


「…めったな事を言うもんじゃねえ!何処で誰が聞いてるか…」


声を潜めて話す噂は、あの少年の事を話しているらしい。考えてみれば無理もない事だった。


私の姿は、あの少年以外には見えていない。誰もいないのに、恰も誰かそこにいるように話したり、笑ったりする少年の姿は、町の人の目にはさぞかし奇異で、異様な光景に映った事だろう。


少年はそんな奇行を家族に咎められ、大人のように口を閉ざしたとは思えない。


それこそ必死になって、私の存在を説明したに違いない。


大昔から、そんな人達の辿る末路を私は知っていた。私は少年の家を探した。夜通し鳴り止まぬ風と雪。民家の窓を叩いてまわる音は、少年を呼ぶ私の声だった。


ライ村の人々は皆それを耳にしたはずだ。

まるで示し会わせたように、誰もが戸口や窓に鍵をかけ、家の中に引き隠った。

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