クオの神殿
和団子
1
世界は、
きっかけは何か、どこの誰が始めたのか。
国を越え、世代を越え、そうして世界中に広がった戦禍は、今や憎しみの他に何も生まない。
みんなもとっくに分かっていた。しかし、誰かが手を挙げて「もうやめませんか」と言うのを待つことしか出来なかったのだ。
そんな荒廃した時代。
負傷した1人の兵士が、戦の火の粉を避け、静かな森の中を歩いていた。
暖かな木漏れ日。穏やかな小川の流れ。鳥たちの
しかし、彼の傷は深かった。
足が無事なのは幸いだったが、肩を矢で抜かれ、左腕は盾と共に砕かれた。剣を手放し、鎧を脱ぎ、恥を捨てて、命からがらこの森の中へと逃げてきたのだ。
どれほど歩いたのかはもう分からない。
そして、意識さえも失いかけた彼の目の前に、突如としてそれは現れた。
「これは……」
森の木々たちに囲まれた――古めかしくも立派な神殿だった。
よくも今まで見つからなかったのものだ。
神殿は悠久の時を経て、森と一体化していた。蔦や根が壁を伝い、窓からは枝が生えている。
彼は、そんな神殿の有り様を見て、息を飲んだ。圧倒されたのだ。すでに役目を終えているはずなのに、不思議と神聖な雰囲気も感じる。
彼は祈った。膝をつき、肩や腕の痛みを受け入れ、自らの死を見据えて。
世間とはかけ離れたこの場所は、まさしく現代の最後の聖域であり、最後の憩いの場なのだろう。
やがて、意識が遠くなる。瞼が重い。ぼやける視界の片隅で、神殿の中から駆け寄る1人の老人をとらえた直後に、彼の身体中の力が抜けてしまった。
◯
目を開けると同時に、身体中の痛みが甦ってきた。
真っ白なシーツに真っ白な寝間着。ガラスの無い窓の縁側には、薄い緑色をした小鳥が2羽とまっていた。
ベッドの脇には薬品や包帯が並ぶ木の机があった。他にも読みかけの本や、湯気がたっているカップもある。それらを見て、兵士はようやく自分は「助かった」のだと理解した。
「おお、お目覚めですな」
声をかけてきたのは、色褪せたグレーのローブを纏った1人の老人だった。
きれいな白髪を後ろでひとつに結び、長く蓄えた髭も真っ白。痩せこけた手は、水が入った金盥をグッと掴んでいる。
途切れる意識の中で目に留まった老人だ。
彼はニコリと笑って、「まだ熱が引いていないから、横になりなさい」と優しく言った。
「助かりました」
「私も驚きましたよ」
「ここはどこなのですか?」
答える代わりに、老人は再びニコリと笑みをつくって「もう安心ですよ」と、濡れたタオルを額に乗せてくれた。
冷たいタオルが心地よい。
兵士は再び部屋の中をぐるりと見渡した。
自分が寝ているベッドと、脇にある机いがい何もない、こざっぱりした小さな部屋。四方八方が灰色の石で囲まれ、床には落ち葉が所々にあった。
「ここは、あの神殿の中ですか?」
「神殿と言うほどのものではありませんよ」
老人は椅子に座ると、机の上にあったカップを手にとって口につけた。
小鳥の番はもうどこかへ行ってしまった。窓の外からは、パキパキと小枝たちのしなる音が微かに聞こえてきた。
戦場とは違い、ゆっくりとした時間が流れる。手を伸ばせば掴めてしまうくらいの静寂だ。老人を見ると、読みかけの本に手を伸ばし、どこまで読んだのかと探している様子だった。
「フィルです。カンタゼという国の……」
沈黙が怖いわけではない。むしろ心地よいはずなのに、人生の半分以上を過激な時間を経験していた兵士だからこそ、このひと時に体が馴染めずにいた。
そして名乗った。見知らぬ命の恩人である老人に向かって、「私の名前はフィルですよ」と。
「私はクオと申します」
老人は本を読みながら答えてくれた。
「クオ殿は、この神殿にひとりで?」
「ええ」
「よくも今まで見つからなかったものだ」
「気になりますか?」
「え?」
「あなたが神殿と呼ぶ、この建物のことを」
老人クオはようやく本を閉じて、少しだけ意地悪そうな笑みでこちらを見つめた。クオは笑うと決まって左側の口角を上げる。彼の顔をあらためて見つめ、兵士フィルは今更ながらそんなことに気がついた。
「ええ、立派な神殿――建物なので……」
「ならばお話しましょう。しかし、私も歳をとって、昔話となると、少々お時間がかかるかもしれませんが」
フィルは戦場での生活をつと思い出した。
そもそも母国であるカンタゼが討たれたから、決死の覚悟で敵国へ突撃し、このように逃げてきたのではないか。
「ぜひに。時間ならたっぷりとあります」
もう、自分には帰る場所はなかった。
ここには鎧もなく、光線銃を枕する必要もない。
老人クオはまたしてもニコリと笑った。左側の口角だけをあげて。
「私も時間だけはたっぷりありますから」
そして彼はポツリポツリと語り始めた。
「まだ私が幼少のころ。それこそ、ものの分別もできないくらいのころでした。世間はすでに戦争で蔓延してました。今では信じがたい大きな兵器や重たそうな武器、残酷な殺戮爆弾を各国が保有していた。あなたの国、カンタゼもそのうちのひとつでした」
老人クオは、ふぅと机の上の埃を吹いた。
歳の差は親子以上であろう二人。しかし、老人クオの口調は、まるで母親が子どもを寝かしつけるように優しく、そして兵士フィルも、すでに物語の世界に飛び込む心持ちは出来ていた。
「この建物は変わってません。はるか昔からずっと、私たち子供を戦から守る砦だったのです」
窓から木漏れ日が落ちて、兵士フィルのシーツに模様をつくる。
「かつて、ここには大勢の子どもとそして美しいお方――そうですね、神殿なので聖母様としましょう――がおりました」
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