クオの神殿

和団子

 世界は、ながきにわたる戦争に支配されていた。


 きっかけは何か、どこの誰が始めたのか。

 国を越え、世代を越え、そうして世界中に広がった戦禍は、今や憎しみの他に何も生まない。

 みんなもとっくに分かっていた。しかし、誰かが手を挙げて「もうやめませんか」と言うのを待つことしか出来なかったのだ。


 そんな荒廃した時代。

 負傷した1人の兵士が、戦の火の粉を避け、静かな森の中を歩いていた。


 暖かな木漏れ日。穏やかな小川の流れ。鳥たちのさえずり。空気がまどろみ、揺蕩たゆたう。久しぶりに感じた森の息吹きはどれも優しかった。


 しかし、彼の傷は深かった。

 足が無事なのは幸いだったが、肩を矢で抜かれ、左腕は盾と共に砕かれた。剣を手放し、鎧を脱ぎ、恥を捨てて、命からがらこの森の中へと逃げてきたのだ。


 どれほど歩いたのかはもう分からない。

 そして、意識さえも失いかけた彼の目の前に、突如としては現れた。


「これは……」


 森の木々たちに囲まれた――古めかしくも立派な神殿だった。


 よくも今まで見つからなかったのものだ。

 神殿は悠久の時を経て、森と一体化していた。蔦や根が壁を伝い、窓からは枝が生えている。


 彼は、そんな神殿のを見て、息を飲んだ。圧倒されたのだ。すでに役目を終えているはずなのに、不思議と神聖な雰囲気も感じる。


 彼は祈った。膝をつき、肩や腕の痛みを受け入れ、自らの死を見据えて。

 世間とはかけ離れたこの場所は、まさしく現代の最後の聖域であり、最後の憩いの場なのだろう。


 やがて、意識が遠くなる。瞼が重い。ぼやける視界の片隅で、神殿の中から駆け寄る1人の老人をとらえた直後に、彼の身体中の力が抜けてしまった。



 目を開けると同時に、身体中の痛みが甦ってきた。


 真っ白なシーツに真っ白な寝間着。ガラスの無い窓の縁側には、薄い緑色をした小鳥が2羽とまっていた。

 つがいだろうか――。


 ベッドの脇には薬品や包帯が並ぶ木の机があった。他にも読みかけの本や、湯気がたっているカップもある。それらを見て、兵士はようやく自分は「助かった」のだと理解した。


「おお、お目覚めですな」


 声をかけてきたのは、色褪せたグレーのローブを纏った1人の老人だった。

 きれいな白髪を後ろでひとつに結び、長く蓄えた髭も真っ白。痩せこけた手は、水が入った金盥をグッと掴んでいる。


 途切れる意識の中で目に留まった老人だ。

 彼はニコリと笑って、「まだ熱が引いていないから、横になりなさい」と優しく言った。


「助かりました」

「私も驚きましたよ」

「ここはどこなのですか?」


 答える代わりに、老人は再びニコリと笑みをつくって「もう安心ですよ」と、濡れたタオルを額に乗せてくれた。


 冷たいタオルが心地よい。

 兵士は再び部屋の中をぐるりと見渡した。


 自分が寝ているベッドと、脇にある机いがい何もない、こざっぱりした小さな部屋。四方八方が灰色の石で囲まれ、床には落ち葉が所々にあった。


「ここは、あの神殿の中ですか?」

「神殿と言うほどのものではありませんよ」


 老人は椅子に座ると、机の上にあったカップを手にとって口につけた。


 小鳥の番はもうどこかへ行ってしまった。窓の外からは、パキパキと小枝たちの音が微かに聞こえてきた。


 戦場とは違い、ゆっくりとした時間が流れる。手を伸ばせば掴めてしまうくらいの静寂だ。老人を見ると、読みかけの本に手を伸ばし、どこまで読んだのかと探している様子だった。


「フィルです。カンタゼという国の……」


 沈黙が怖いわけではない。むしろ心地よいはずなのに、人生の半分以上を過激な時間を経験していた兵士だからこそ、このひと時に体が馴染めずにいた。

 そして名乗った。見知らぬ命の恩人である老人に向かって、「私の名前はフィルですよ」と。


「私はクオと申します」


 老人は本を読みながら答えてくれた。


「クオ殿は、この神殿にひとりで?」

「ええ」

「よくも今まで見つからなかったものだ」

「気になりますか?」

「え?」

「あなたが神殿と呼ぶ、この建物のことを」


 老人クオはようやく本を閉じて、少しだけ意地悪そうな笑みでこちらを見つめた。クオは笑うと決まって左側の口角を上げる。彼の顔をあらためて見つめ、兵士フィルは今更ながらそんなことに気がついた。


「ええ、立派な神殿――建物なので……」

「ならばお話しましょう。しかし、私も歳をとって、昔話となると、少々お時間がかかるかもしれませんが」


 フィルは戦場での生活をつと思い出した。

 そもそも母国であるカンタゼが討たれたから、決死の覚悟で敵国へ突撃し、このように逃げてきたのではないか。


「ぜひに。時間ならたっぷりとあります」


 もう、自分には帰る場所はなかった。

 ここには鎧もなく、光線銃を枕する必要もない。


 老人クオはまたしてもニコリと笑った。左側の口角だけをあげて。


「私も時間だけはたっぷりありますから」


 そして彼はポツリポツリと語り始めた。


「まだ私が幼少のころ。それこそ、ものの分別もできないくらいのころでした。世間はすでに戦争で蔓延してました。今では信じがたい大きな兵器や重たそうな武器、残酷な殺戮爆弾を各国が保有していた。あなたの国、カンタゼもそのうちのひとつでした」


 老人クオは、ふぅと机の上の埃を吹いた。

 歳の差は親子以上であろう二人。しかし、老人クオの口調は、まるで母親が子どもを寝かしつけるように優しく、そして兵士フィルも、すでに物語の世界に飛び込む心持ちは出来ていた。


「この建物は変わってません。はるか昔からずっと、私たち子供を戦から守る砦だったのです」


 窓から木漏れ日が落ちて、兵士フィルのシーツに模様をつくる。


「かつて、ここには大勢の子どもとそして美しいお方――そうですね、神殿なので聖母様としましょう――がおりました」

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