近江維新史異聞 元治元年、月浜藩、京へ(花の秘剣7KAC10版)

石束

月浜藩、京都出陣(花の秘剣7 KAC10版)

 降るようなひぐらしだった。

 遠くどこまでも上る積乱雲と遠く青い空。庇の下の濃い影に立って、加代は人気のない道場を眺めた。

 本来なら竹刀の音と子供たちの声が響く頃合いだ。

「……」

 しかし、今、小菅道場は休止状態にある。

 暑気あたりか。道場の主『小菅甚助』が体調不良で寝込んでいるのだ。

 甚助の病態は、幸い、命に別条があるようなものではなかったが、稽古にくる人数がある事情で減っているため、しばらく道場を閉めることになった。

 道場を一時閉めると決めた時の父の様子を思い出すと、何とも言えない気持ちになる。

 

 ここは近江の小藩、月浜にある小さな剣術道場。

 流儀の名は『晴願流』。決して広く世間に名を知られた大流儀ではないが、ここ月浜ではそこその門弟がいる道場だった。成人男子のみならず、子供、町人、女性にも門戸を開き、剣術を通じて自己研鑽を行うことを目的とする、少し変わった道場である。


 日々の稽古を通じ、技を人を育み積み上げ、磨きあげる。その末に咲く『花』をこそ尊いと愛する。

 晴願流は、そんな修行の向こうにある明日を信じる流儀だ。

 だから、こうして、がらんと人気のない道場をみると、加代は父や自分たちが歩んできた日々を否定されたような気になる。

「……いけない。私がこんなことでは」

 加代は、弱気になっている自分を発見して、大きくを息を吸って背を伸ばした。

 虚勢を張るのは、かえって思わぬ隙を招く。だから認める。

 道場に人がいないのは、武士も町人も農民も問わず、成人男子が少ないせいだ。道行く人影がまばらなのは、折からの政情不安で、女子供が外に出ないせいだ。そして、彼女がこんなにも不安なのは

「……」

 矢倉新之丞が不在であるせいだ。


 元治元年、夏。

 禁裏守護の任に着くべく、近江月浜藩の京都出陣が決まったのだ。


 一万余石の小藩とはいえ、都に近い近江に領地がある月浜藩は、京都市中警備のために派兵していた。

 一橋公指揮下の幕府軍にせよ、京都守護職である会津松平家にせよ、あるいは桑名松平家にせよ、近江月浜藩より遠方から出兵している。

「小さいから」では、格好が付かない。『貧者の一灯』の故事ではないが、なけなしの藩兵百二十名を、藩主小橋繁之自ら率いて、上京した。


 彼女の幼馴染は、藩主直近の護衛として、京都に赴いている。


 ◇◇◇◇


 東作は、三か月ぶりに彦根に帰参し、すぐに『師』のもとへ赴いた。

 師は、彦根井伊家の家老職にあり、江戸から彦根に帰っていた。東作の帰参はそれにあわせたものだった。

「月浜は……どうじゃ?」

 高齢の師は、日差しを避けて障子の影の奥に座っている。長身をぐしゃりとつぶし、脇息に半身を預けている格好には、やや疲れが見えた。

 だが、薄闇の中からこちらを見る両眼には光がある。炯々と輝くそれは、まるでフクロウの目のように、こちらを捕らえて離さない。

 意見の対立から掃部頭直弼公とは相いれなかったが、それでも藩政における存在感は大きかった。そして桜田門以降、すでに彼に比肩する政治家は彦根藩に存在しない。

 東作は、背筋を伸ばして正対した。

「恐るべきはその兵装です。すでに、完全洋式化を終えております。数こそ二百に足りませんが、鉄砲を七〇丁。大砲を二門。予備兵を含めて高島流の砲術を学び、運用すべく編成されています」

「練度は……」

「独自の工夫があります。『兵科』なるものがあり、鉄砲や大砲の運用、武器弾薬の取り扱いについて、専門分野を分けて教育しております。その集団においては技に習熟するものが最も尊重されます。そこに身分の差はありません」

「ふん」と、師は面白くなさそうに鼻をならした。

「……『晴願の達者は他流に及ばず、されど、その初心者は入門三日で刮目他流を圧倒する』か。一兵卒を仕上げるにはよい流儀だの」

「藤居駿斎、まこと一国に冠絶する才器か、と」

「悍馬め。好き勝手やりおるわ……」

 東作。と地を摺るような呼び声がして、思わずあごを引く。

「ゆめゆめ、注意を怠るな。小さくとも位置が悪い。月浜の動き次第で、近江の諸藩は雪崩うつ」

 しわがれた声に執念が、闇に光る両眼に無念が、滲む。

「見定めねばならぬ。我らはもう、失敗できぬのだ」


 ◇◇◇◇


 庵の中に、幽かな話し声がする。


「筑波山の蜂起から、すでに半年か。本来、朝廷を重んじるものなど何処にもいなかったというのに……」


 変われば、変わるものだ。そんな嘆声が風に溶ける。


「巨大で、揺るがし難い幕府を揺るがすために、朝廷を利用した。それを不本意に思いながらも、朝廷は応えた。だから勅諚などという、重いものが幕府のいち家臣に下される」


 それは何故か? 簡単だ。朝廷すら、自ら下す勅諚で何かが変わるなどと思っていなかったのだ。

 そんな力が自分たちにあるなどと、思いもしなかった。


「だが、幕府はそれを気にした。全力でつぶしにかかった。だからこそ、皆気づいたのだ」


 朝廷には、あの巨大な幕府が無視しえない『力』があるのだ、と。


「……無視すればよかったのだ。条約など幕府の専権事項。天皇家はただ日々の儀式を務めて国家の安寧を祈ってくれればよい――と」


 朝廷の力など幻に過ぎない。経済的にも軍事的にも、独自のものはない。あるのは権威のみ。それすら、幕府の庇護と認可のもとに保証されていたはずのものだ。


 結局、朝廷に力を与えたのは、幕府の恐れに他ならない。


「だがもう、皆気づいてしまった。幕府は自分が絶対者ではないと自ら証明し――朝廷を擁する者たちは自分たちが取って代われる可能性に気づいてしまった」


 かくて、太平の幻想は砕ける。


「この流れは、誰にも止められぬ。あとは、博打だ。伸るか反るか。ふたつに、ひとつ」


 ◇◇◇◇


 紅蓮の炎が、夜空を焦がす。


 七月十九日。御所の西、蛤御門付近で、長州藩兵と会津藩兵が激突した。

 一時期長州が優勢となるも、薩摩藩兵の援軍によって敗退。

 長州は藩邸に火を放ち逃走、会津も火を放つ。これを火元とする大火が起こった。

 長州藩邸と堺町御門から起こった火災は、北東の風により延焼し、京都市中を嘗め尽くす。


 その騒乱の最中に、小菅道場師範代、矢倉新之丞の姿があった。


「花は、……花のみにて咲くに、あらず」


 痩身に血をまとい、傷を負い、残った力で辛うじて立っている。


「……種があり、芽吹く」


 鮮やかなほどの赤は、返り血と、彼自身の血。最早どちらが多いのかわからない。


「……根を張り、枝を伸ばす」


 それでも彼は立っている。今にも霞んで闇に飲まれそうな視界の端に、火と煙と血と泥から不似合いに浮かび上がる『浅葱色』。


 ふと。耳の奥に蘇る『声』。

 どうして、新之丞が征かねばならぬのか、と、震えながらの問いかけを思い出す。


 あの人の問いに、自分はなんと答えたろうか?


「少しずつ積み上げて……空を目指す枝先に。いつか、そこにこそ、花は咲く」


 目の前に迫る白刃に身を晒して、なお、まだ体は動く。

 稽古は裏切らない。

 だから、あと一足、あと、一振り。


「せいがん、りゅう――花の、秘剣。朔の対手――」


 これが、今、彼が差し出せるものの『全て』


 ……………

 ………

 ……

 

「……」


 がぽり。とヘッドセットを外す。

 視界が回復すると、見慣れたデスクと、窓と、アンティークの戸棚と、サポートAi『リンドバーグ』のホログラム映像が見えた。


「いかがでしたか♪ カタリィ・ノヴェル!最新式の全感覚没入型ライトノベル読書システム『がっつりくん』のヴァーチャルリアリティっぷりは♪」


「容赦なくガッツリだったよ!」


 がーっと怒鳴って、ヘッドセットを床に叩きつけようとして……それが、むちゃくちゃな高級品だったことに気づいて、思いとどまる。


「聞いてないよ……。最後血まみれだよ? お腹がやぶれて色々落ちそうだった。目の前には、十字傷の人斬りの人とタメはるような怖い人が立ってるし」


 そういえば、あの人はあの頃どこにいるんだろ? などと、彼が思いを飛ばしていると


「そこはせめて小説の方へいってくださいね。名前詐欺ですよ♪」

「ひどいなっ! あと思考読まないでよ!」

「ヘッドギアの付録機能です♪」

「ふろくなの!?」


『がっつりくん』はヘッドギアで読書している人の記憶の中から、思考、記憶、無意識を読み取り、それを基に映像を、いや『世界』を組み上げるシステムである。

 例の漫画のような敵が出てきたのはカタリィ自身のせいだったりする。


「だから小説さえあれば、イラストレーターも、編集者も、アニメーターも、CGクリエーターも、プログラマーも、出版社も、制作会社も、映画監督もなしに、メディアミックスができるという」


「業界を滅ぼす悪魔の機械じゃないかっ!」


「妄想力がないと構築される世界そのものが残念仕様になるのが玉にキズですね♪」


「あ、あれ?」


「その世界がリアルだったとすれば、それは貴方が沢山の作品に接して、愛して、覚えているから、ということになります♪」


 そう、か。と、 カタリィ・ノヴェルは、すとんとソファに腰かけた。


「まー妄想過多とも言えますがー」

「褒めるか貶すかどっちかにしてよ! せめて境界線をつくって。何もないみたいにフラットに行き来するのはやめて!」


 彼は、もう一度、ヘッドギアに目を落とす。作品世界に浸れるのは楽しかった。ほかにも読んでみたいとも、思う。でも残念だったのは。


「あの話、イベント合わせで書かれてるから完結してないんだよね」


「まったく困ったものです♪ 結構いるんですよね。十回のお題で連作に挑戦している人も。がんばるのは良いことです。ついでに身の程を知ればもっといいのに♪」


 でも。と、リンドバーグが言葉をつづける。


「あのお話、再構成して一本にまとめるそうですよ」

「ほんとに」

「ハッピーエンドに、なるそうですよ♪」

「……そっか」


 あの灼熱の時代。勝者も敗者も、不幸にしかなれない物語が多い中でなお、あの物語は「それ」を目指すのか……


「そしたら……また、読んでみようかな」


 カタリィはそっと、ヘッドギアをテーブルに置いた。


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