桜花一片に願いを
野森ちえこ
しあわせになれますように
アルバイトに向かう途中の公園に、どっしりと根をおろしている一本桜。はらはらと舞うその花片を、彼は静かに見あげていた。
きれいだ――と思った。
桜吹雪のなかにすらりと立つ、そのうしろ姿がとてもきれいで、どこか幻想的で、今にも消えてしまいそうに見えた。だから――
「うわっ」
ドン! と、両手で思いっきり背中をどついてみた。
「なーに、たそがれたふりしてんの」
「び、びっくりした……乱暴だなぁ、もう」
たたらをふんで振り返った顔は苦笑していた。バイト仲間の
「ふりじゃないよ。そもそもたそがれてないし」
抗議する声すらやわらかい。先月
理沙は男おとこした男性が苦手だ。筋肉質の、がっしりしたスポーツマンタイプなんてもってのほか。特別いやな目にあったというわけでもないのだが、体格がいい男性特有の圧迫感というか威圧感というか、とにかく男らしい男の人がどうにも苦手なのだ。
先崎くんはその点、線が細く雰囲気もおだやかで、ついでにまだ『少年』といっても十分通用するくらいに童顔だ。
おかげで彼は、理沙が家族以外で気安く話せる、唯一の男性となっていた。もっとも彼本人は、そんなこと知るよしもないのだが。
「先崎くん、ずいぶん早いね」
今日は十二時二十一時の理沙とおなじシフトのはずだ。まだ十一時を数分すぎたばかり。ここからアルバイト先であるファミレスまでは徒歩五分でつく。
「いい陽気だから、お花見でもしていこうと思って」
「……ひとりで?」
「ひとりで」
それで桜を見ていたのか。確かにお花見といえばお花見――なのだろうか。なんかちがうような気もしたが、そんなのは個人の自由である。
「
「あたしは、ランチいりのときはいつもこんなもんだよ」
理沙たちが働いているお店は、だいたい十一時半くらいからピークがはじまり十四時くらいまで続く。ランチタイムはまさに戦場。そこにいきなり飛びこむには、心の準備運動が必要だった。ほかの人間はどうか知らないが、すくなくとも理沙には助走時間が必要なのだ。
そう話すと、先崎くんはちょっと不思議そうな顔をして、それからふわりとほほ笑んだ。
「なんか、ぽいね」
「そう?」
「うん。まじめっていうか、几帳面ていうか。山波さんぽい」
「……どうせ石頭で融通がききませんよー」
「ええ? そんなこといってない」
「いってなくても思ってるでしょ」
「思ってないって」
「いいよ、気つかわなくて」
まじめという言葉を素直に聞けたのは小学生くらいまでだ。本来の意味がほめ言葉だということくらい理解しているが、同年代の人間がつかうそれはニュアンスがちがう。『まじめ』と『つまらない』は同義語で。『几帳面』は『めんどくさい』とおなじ。高校生の時、はじめてできた彼氏にもそういわれてフラれた。
「いや、えーと、ごめん。いいかたが悪かったのかな。ほめたつもりなんだけど」
――ああ、もう。こういうところだ。
ほんとうは、理沙もわかっている。先崎くんの言葉には含みなんてないと、ちゃんと知っている。
だが、このやさしさが理沙をイラだたせる。こちらが勝手にイラついてやつあたりしても怒らない。そのことにまたイライラする。怒らせてやりたくなる。そのすました顔を歪めてやりたくなる。
だから――
だから――
あの日、願ってしまった。
人として最低なことを、理沙は願ってしまった。
❀
理沙がファミリーレストランのホール係としてアルバイトをはじめたのは、大学生になってすぐのことだ。同時に何人か採用されて、そのなかに先崎くんもいた。
基本的に平日は夕方から。土日祝日と長期休みは昼から――と、先崎くんとはシフトがかぶることも多く、年齢もおなじ。また、そのやわらかな雰囲気と、中性的な見た目のおかげで、男性らしい男性が苦手な理沙でも気軽に話せた。もちろんそれは『仲間』としてであって、それ以上でも以下でもない。そのはずだった。
しかしアルバイトをはじめて半年くらいたったある日、先崎くんに遠距離恋愛中の彼女がいると知った。
どうしてだか、理沙はひどくショックを受けた。なぜショックを受けているのか、自分でもわからなかった。いや、わかりたくなかったといったほうがいいかもしれない。
その日をさかいに、いつも飄々としている彼に無性に腹が立つようになった。そして、ことあるごとに、ほとんどいいがかりみたいに文句をつけるようになった。しかしそれでも先崎くんは怒らない。せいぜい、ちょっと困った顔をするだけだ。
我ながら理不尽だと思いながら、どうにもコントロールできないイラだちがピークに達していた去年の今ごろ。やはりアルバイトに向かう途中だった。この見事な花を咲かせる桜の木を見て、ふと思いだしてしまったのだ。
桜の花びらを、地面に落ちるまえにキャッチできたら願いが叶う――という、おまじないのような、占いのような遊びが、むかしはやっていたことを。
軽い気持ちだった。おまじないなんて遊びだ。気休めだ。わけもなくむしゃくしゃする気分を晴らすだけのことだ。そう思って、願った。祈った。
先崎くんと彼女が別れますように。
先崎くんなんて、彼女にこっぴどく捨てられればいい。
ひらひらと舞う
そして、おそるおそる指をひらいていった。
はたしてそこに、一枚の花びらがあった。
❀
先月、先崎くんは
だけど――
ひさしぶりに顔をあわせた彼はどこか弱っていた。笑っていてもかなしそうで、ざわりといやな予感がした。聞いてはいけないと思いながら、聞かずにいられなくて、冗談まじりに聞いてみれば、やはり予想通りのこたえが返ってきた。
――彼女と別れた。
その言葉を理解した瞬間、理沙はほっとしている自分に気がついた。安堵して、よろこんでいる自分がそこにいた。いやでも、自分の想いを自覚した。
そして――
あんなことを願ってしまった自分が、どうして気持ちを伝えることができるだろう。この先もう絶対に、彼に気持ちを伝えることなんてできない。好きな人の不幸を祈るなんて、そんな意地の悪い人間が――いえるわけがない。いっていいはずがない。そう、思った。
「山波さん?」
「……んー?」
顔を見なくても不自然にならないように、あごをそらして桜を見あげた。
「……どうしたの?」
「どうもしないよ」
「泣きそうな顔してる」
「してないよ」
もう一度、願ってもいいだろうか。
先崎くんがしあわせになれますように――
心からの笑顔をとり戻せますように――
そう願っても、いいだろうか。
ひらひらと舞う花びらに、理沙はそっと手を伸ばした。
(了)
桜花一片に願いを 野森ちえこ @nono_chie
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