桜花一片に願いを

野森ちえこ

しあわせになれますように

 アルバイトに向かう途中の公園に、どっしりと根をおろしている一本桜。はらはらと舞うその花片を、彼は静かに見あげていた。


 きれいだ――と思った。


 桜吹雪のなかにすらりと立つ、そのうしろ姿がとてもきれいで、どこか幻想的で、今にも消えてしまいそうに見えた。だから――


「うわっ」


 ドン! と、両手で思いっきり背中をどついてみた。


「なーに、たそがれたふりしてんの」

「び、びっくりした……乱暴だなぁ、もう」


 たたらをふんで振り返った顔は苦笑していた。バイト仲間の先崎せんざきくん。この人が怒ったところを、理沙りさは見たことがない。


「ふりじゃないよ。そもそもたそがれてないし」


 抗議する声すらやわらかい。先月二十歳はたちになったというのに、相変わらず見た目は高校生みたいだ。身長はそれなりにあるものの、なんというか……つるんとしている。


 理沙は男おとこした男性が苦手だ。筋肉質の、がっしりしたスポーツマンタイプなんてもってのほか。特別いやな目にあったというわけでもないのだが、体格がいい男性特有の圧迫感というか威圧感というか、とにかく男らしい男の人がどうにも苦手なのだ。


 先崎くんはその点、線が細く雰囲気もおだやかで、ついでにまだ『少年』といっても十分通用するくらいに童顔だ。

 おかげで彼は、理沙が家族以外で気安く話せる、唯一の男性となっていた。もっとも彼本人は、そんなこと知るよしもないのだが。


「先崎くん、ずいぶん早いね」


 今日は十二時二十一時の理沙とおなじシフトのはずだ。まだ十一時を数分すぎたばかり。ここからアルバイト先であるファミレスまでは徒歩五分でつく。


「いい陽気だから、お花見でもしていこうと思って」

「……ひとりで?」

「ひとりで」


 それで桜を見ていたのか。確かにお花見といえばお花見――なのだろうか。なんかちがうような気もしたが、そんなのは個人の自由である。


山波やまなみさんは?」

「あたしは、ランチいりのときはいつもこんなもんだよ」


 理沙たちが働いているお店は、だいたい十一時半くらいからピークがはじまり十四時くらいまで続く。ランチタイムはまさに戦場。そこにいきなり飛びこむには、心の準備運動が必要だった。ほかの人間はどうか知らないが、すくなくとも理沙には助走時間が必要なのだ。

 そう話すと、先崎くんはちょっと不思議そうな顔をして、それからふわりとほほ笑んだ。


「なんか、ぽいね」

「そう?」

「うん。まじめっていうか、几帳面ていうか。山波さんぽい」

「……どうせ石頭で融通がききませんよー」

「ええ? そんなこといってない」

「いってなくても思ってるでしょ」

「思ってないって」

「いいよ、気つかわなくて」


 まじめという言葉を素直に聞けたのは小学生くらいまでだ。本来の意味がほめ言葉だということくらい理解しているが、同年代の人間がつかうそれはニュアンスがちがう。『まじめ』と『つまらない』は同義語で。『几帳面』は『めんどくさい』とおなじ。高校生の時、はじめてできた彼氏にもそういわれてフラれた。


「いや、えーと、ごめん。いいかたが悪かったのかな。ほめたつもりなんだけど」


 ――ああ、もう。こういうところだ。


 ほんとうは、理沙もわかっている。先崎くんの言葉には含みなんてないと、ちゃんと知っている。


 だが、このやさしさが理沙をイラだたせる。こちらが勝手にイラついてやつあたりしても怒らない。そのことにまたイライラする。怒らせてやりたくなる。そのすました顔を歪めてやりたくなる。


 だから――

 だから――


 あの日、願ってしまった。

 人として最低なことを、理沙は願ってしまった。



 ❀



 理沙がファミリーレストランのホール係としてアルバイトをはじめたのは、大学生になってすぐのことだ。同時に何人か採用されて、そのなかに先崎くんもいた。


 基本的に平日は夕方から。土日祝日と長期休みは昼から――と、先崎くんとはシフトがかぶることも多く、年齢もおなじ。また、そのやわらかな雰囲気と、中性的な見た目のおかげで、男性らしい男性が苦手な理沙でも気軽に話せた。もちろんそれは『仲間』としてであって、それ以上でも以下でもない。そのはずだった。


 しかしアルバイトをはじめて半年くらいたったある日、先崎くんに遠距離恋愛中の彼女がいると知った。


 どうしてだか、理沙はひどくショックを受けた。なぜショックを受けているのか、自分でもわからなかった。いや、わかりたくなかったといったほうがいいかもしれない。


 その日をさかいに、いつも飄々としている彼に無性に腹が立つようになった。そして、ことあるごとに、ほとんどいいがかりみたいに文句をつけるようになった。しかしそれでも先崎くんは怒らない。せいぜい、ちょっと困った顔をするだけだ。


 我ながら理不尽だと思いながら、どうにもコントロールできないイラだちがピークに達していた去年の今ごろ。やはりアルバイトに向かう途中だった。この見事な花を咲かせる桜の木を見て、ふと思いだしてしまったのだ。


 桜の花びらを、地面に落ちるまえにキャッチできたら願いが叶う――という、おまじないのような、占いのような遊びが、むかしはやっていたことを。


 軽い気持ちだった。おまじないなんて遊びだ。気休めだ。わけもなくむしゃくしゃする気分を晴らすだけのことだ。そう思って、願った。祈った。


 先崎くんと彼女が別れますように。

 先崎くんなんて、彼女にこっぴどく捨てられればいい。


 ひらひらと舞う一片ひとひら花片かへんに手を伸ばして、さっとこぶしを握る。

 そして、おそるおそる指をひらいていった。


 はたしてそこに、一枚の花びらがあった。



 ❀



 先月、先崎くんは二十歳はたちになった。誕生日から三日間、彼はアルバイトを休んだ。きっと彼女と盛大にお祝いしてるのだと、理沙はそう思っていた。おまじないのことなんて、もうすっかり忘れていた。


 だけど――


 ひさしぶりに顔をあわせた彼はどこか弱っていた。笑っていてもかなしそうで、ざわりといやな予感がした。聞いてはいけないと思いながら、聞かずにいられなくて、冗談まじりに聞いてみれば、やはり予想通りのこたえが返ってきた。


 ――彼女と別れた。


 その言葉を理解した瞬間、理沙はほっとしている自分に気がついた。安堵して、よろこんでいる自分がそこにいた。いやでも、自分の想いを自覚した。


 そして――ばちがあたったと思った。


 あんなことを願ってしまった自分が、どうして気持ちを伝えることができるだろう。この先もう絶対に、彼に気持ちを伝えることなんてできない。好きな人の不幸を祈るなんて、そんな意地の悪い人間が――いえるわけがない。いっていいはずがない。そう、思った。


「山波さん?」

「……んー?」


 顔を見なくても不自然にならないように、あごをそらして桜を見あげた。


「……どうしたの?」

「どうもしないよ」

「泣きそうな顔してる」

「してないよ」


 もう一度、願ってもいいだろうか。


 先崎くんがしあわせになれますように――

 心からの笑顔をとり戻せますように――


 そう願っても、いいだろうか。


 ひらひらと舞う花びらに、理沙はそっと手を伸ばした。



     (了)


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桜花一片に願いを 野森ちえこ @nono_chie

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