どうしようもなく「誰か」であること

自分が「誰か」であることって、あまりに当たり前な気がしているけれど、実際はとても相対的なものなのかもしれません。
誰の前にいるかによっても、何をしているかによっても、自分というものは少しずつ形を変え、移ろっていきます。
それなのに自分という存在が一定である気がしているのは、実は不思議なことなのだな、と私はこの作品を読みながら思いました。
もしかしたら自分という不確かな存在を自分自身にしているのは、ささやかだけれどこれ以上ない強い願いなのかもしれない、と。

主人公のエリファレットは、もはや図太いとすら言える安定した人格の持ち主なのですが、自らの出生の秘密に迫るほどに、他者からの「誰か」であれという望みの渦に巻き込まれていきます。それは、エリファレットという個人を腹の立つほどに無視した勝手な願いですが、エリファレットはその「役割」を演じることで己の道を切り開こうとしていきます。

もう、この時点でカッコ良すぎるんですよ。自分を生かすためとはいえ、こうも傷つきそうな道を選ぶなんて、なんて強いんだろうエリファレット……強すぎて心配になる……。

しかし、強くて強くて強いのに、エリファレットはどんどん誰だかわからない存在になっていきます。それほどまでに周りが「誰か」であることを彼女に願う訳も、彼女は知っていくのです。エリファレットという個は、どんどん形を失い、ささやかなものになっていきます。

でもやっぱり、彼女はどうしようもなく彼女自身でしかないのです。

彼女は別の「誰か」を演じるほどに、漸近するほどに、そのあまりに曖昧で、不確かな「自分自身」を、強く意識していくように思えます。

どれほど周りが望もうと、彼女が彼女であることを誰も変えられない。
それがエリファレットにとってどういう意味を持つかはまだわかりません。けれど、私にはそのことがどうしようもなく貴いものに思えます。
誰にも奪えないものがあってほしい、そう願ってしまいます。

『薔薇鉄冠』は、そんな、かつて少女だった私たちの切なる願いをこれ以上ない形で拾い上げてくれている気がします。

誰もが誰かにとっての誰かであること、それ以上に、私たちが私たちにとっての「自分自身」であればいいのに、と願いながら、この作品の終わりを見届けたいと思います。


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薔薇鉄冠

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