〈下〉

 なんで鍵かけてねえんだ、浴びせられた不機嫌な声音と小突かれた感触に目が覚める。すね毛だらけの脚が顔のすぐ横にあった。

 のろのろと身を起こしながら顔をこすれば、俯せていた左頬にくっきり畳の目が辿れた。

 あんたが来るからと呟けば、なら寝るなと返され、喉元に迫り上がった、遅れたやつがうるさいという言葉は呑み込んだ。

 見上げた壁の八角時計は午後二時半過ぎを指している。随分な重役出勤だが、時間を指定していなかったこちらも迂闊だった。本音を言えば、時間を決めて、その時間が過ぎた時点で「行かない」という意思表示をされるのが嫌だった。

 今日の清太は薄汚れた作業着ではなく、ハーフパンツにTシャツという休日仕様の格好だ。私も似たようなもので、キャミソールにショートパンツという寝間着と同じ姿だった。

 キャミソールの胸元を摘まんで羽ばたかせ、汗ばんだ肌に空気を送り込む。今朝のニュースでは今年一番の夏日になるでしょうとアナウンサーが言っていた。

 さっさと寄越せと言わんばかりに差し出された腕には太い血管が走っている。その先には太くどちらかと言えば丸っこい指先。同じ技術者エンジニアでも違うものだな、と妙な感慨を抱く。

 冷蔵庫まで四つん這いになって行き、目当てのものを取り出し、清太へ放り投げる。自分の分も取り出し、袋から出し、口いっぱいに迎え入れた。

「・・・・・・鰺の南蛮漬けは」

「昨日、お風呂入ってたら、冷蔵庫にしまい忘れた。腐ってても酢に漬けるからわかんなかったかもだけど、そもそも作り方しらないし」

「意味がわからん、お前が作るつもりだったのかよ」

「レイカさんは日勤の遅番。夜まで帰ってこない」

 聞いてねえよ、清太は呟きながらもアイスキャンディーの袋を破る。イチゴの鮮紅色。私はソーダの淡い青。昔からぞれぞれ気に入りの味と色だった。でも、当時はまだ男は青、女は赤、みたいな妙な性差観があったから、買ってもらった後で取り替えていた。清太が覚えているかはわからないけれど。覚えていたとしても今の彼にとってはさして重要なことではないかもしれない。私が本当はイチゴ味の方が好きだったなんて。

 それぞれ無言のままアイスキャンディーを舐め、溶かし、齧った。断面はカラフルな霜柱状。ざくざく、ざくざく、その様相は真冬の公園の日陰で踏みっこをした記憶を甦らせる。

 開け放ったガラス戸から風が入り込み、薄手のカーテンを膨らませる。公園とは反対側の隣家からAMラジオの方言をうりにしたパーソナリティの声が流れてくる。休日だというのに子どもの声は聞こえてこない。一体どこでどうして有り余る力を発散させているのだろう。

 ある意味、静かな休日の午後。あの日を再現したような。相手は清太ではなかったけれど。


 〝おとうさん〟――興奮のあまり飛び出た声は束の間、六畳間を凍り付かせた。

 その時こそレイカさん――母は、私を叱るべきだったのだろう。もしかしたら、もうひと呼吸、ふた呼吸待ったなら母はそうしていたのかもしれない。

 けれど、それより早く返ってきたのは社長の豪放磊落な笑い声だった。そうか、そうかあ、おとうさんか。こりゃいい、早希は俺の子か、俺の子になるかあ。

 読み間違えた、失敗をしたと一瞬ひやりとしたから、その反応には救われる思いだった。私はことさら陽気に言った。うん、なる、おとうさん、おとうさん、大好きおとうさん!

 言いながらも大人たちの様子を素早く観察した。母は笑っていた。おくさんは多少ぎこちなかったけれど微笑んでいた。そして清太は・・・・・・幼なじみの少年は一人きょとんとした表情を浮かべていた。

  

 それから度々、私は社長を〝おとうさん〟と呼んだ。理由は単純だ、喜ばれたから。子どもだった私が言うのも妙だが、いっそ無邪気なほどに。

 社長はますます私に甘くなり、物品を買い与え、美味しいものを食べさせ、連れ出した。こちらの需要が追いつかないほど頻繁に。だから、いつの間にか喜ばせるためにではなく、お礼の言葉として〝おとうさん〟は使われるようになった。

 おとうさん、ありがとう! おとうさん、また連れてってね! おとうさん、大好き! 

 よその子に〝おとうさん〟と呼ばれるのは嬉しいものなのだろうか。よその子に〝おかあさん〟と呼ばれるのを想像してみるが、実の子もいないのにその気持ちを推し量るのは難しい。

 単に若い娘に慕われて嬉しいというだけなのかもしれない。実際、その仕組みは、新卒で入社したサハラで大いに利用させてもらったし、自分とて若く利発な男の後輩に懐かれ頼られたなら確かに悪い気はしないだろう。

 それとも私だったからなのか。

 工場で遊んでいて、たまたま清太が自分の部屋にゲーム機を取りに行き、他の従業員も外していた時、社長から問われたことがある。機械群の低い唸が響く中、大きくはないけれどはっきりとした声で、しっかりと見据えられて。レイカに――母さんに〝おとうさん〟と呼べと言われたのか、と。両肩を掴まれた私は首を横に振った。一瞬、空虚な表情を浮かべた社長は、次にはいつもの顔に戻り、今の話、誰にも言うなよと頭に手を置いた。

 その問いの意味が読み取れたのは数年経過してからだ。

 静かな晴れた休日の午後、おくさんはやってきた。社長はゴルフ、清太は部活の試合、レイカさんは仕事で不在の日。ただ、私を訪ねて。


「大掃除か。この時期に」

 アイスキャンディーを食べ終え、持て余したのか、清太は六畳間の左隣の寝室に雑多に置かれたダンボールを見やっていた。大掃除。清太は鋭いようで外れている、昔から。

「引っ越し。家出るの。そのうち結婚するから」

 ガラス戸を背に体育座りをして、膝の間に顔を沈める姿勢で告げる。薄紙一枚挟んだ間の後。

「そりゃ、おめでとさん」

 あぐらをかいたまま清太は呟いた。こちらに向けてというよりも虚空へ漫然と浮かべて。

 私は無精髭の生えたうすらぼんやりした顔にアイスキャンディーの棒を投げつけた。

 文句を言われる前に立ち上がり、清太のあぐらに向かい合わせに馬乗りになり、胸ぐら掴んで押し倒す。

 清太の後頭部が背後の砂壁を掠め、ぱらぱら砂が落ちた。子どもの頃、この砂が服につくのが嫌だった。古い安普請の家の壁。昨今では滅多に見ない。でもある頃を境に、制服に付いたそれは符丁となった。なら、今は。

 ベージュのハーフパンツの上から股間の膨らみをさすった。やめ、という呻きを無視して――むしろからかうみたいに力を強める。バッドボーイ、バッドボーイと。反対の手でキャミソールを捲り上げ、脱ぎ捨てた。ブラは昨夜からつけていなかった。薄っぺらな生地を押し上げていた突端に気付いてなかったとは言わせない。

 脱いでいる間も、なでさすりなぶり続け、ふかふかしていたそこは徐々に硬くなりつつあった。乳房を太ももにこすりつけるようにして這い寄り、水面に顔をつける心地で顔を寄せる。上から荒く熱い息が降り注ぎ、一気に潜り込んでしまおうと、ウエストの布地に手をかける。ハーフパンツも下着も一緒に。だが。

「やめろって!」

 男の力で引き剥がされて、敵うはずなかった。そして私はもう女王様ではない。清太は私を選ばない。なにやってんだよ、脱ぐなよ、着ろよ、頭おかしいのか――

「レイプしようと思っただけ」

 久々に見た呆気にとられた清太の表情はなかなか愉快だった。

 そう、私はおかしい。レイプしてまで、はめあわない清太とはめあいたいなんて。公差を外れていて、それでもはめあおうものなら、気持ち良さよりも痛みが勝るに決まっている。壊れてしまうかも。清太がメス側だから、身を削るべきはオス側である私だ。でも。

「今更、カマトトぶらないで」

 身を起こし、見つめた。畳に座り込んだままの清太の喉仏が上下に動く。清太は怯えていた。今更。そんなところはおくさんによく似ていた。手遅れになってなお、正しくあろうとするなんて。


 カーテンが風と光と踊り、ちらちら透かし模様を織り成す。

 中三の五月のとある日曜。私は近々訪れる衣替えに備えて、制服のスカート丈のつめ具合を姿見の前で吟味していた。これぞと決めた丈は、空のタッパーと回覧板を携えたおくさんが眉を顰める長さだった。

 おくさんは少し上がって良いかと尋ね、私は頷いたが、奇妙に思った。私たちは、清太あるいは社長を挟んだ仲であり、サシで向かい合う間柄ではなかったから。

 女の子は華やかで良いわね、そんな言葉はリップサービスであり潤滑油であることはとっくに理解していた。

 ――鰺の南蛮漬けごちそうさま、うちではなかなか作らないから、うちのお父さん一人占めして食べてたわ。昔からの好物らしいわね。私はよく知らないけど。お母さんは今日も仕事? 大変ね、でもきちんと食事作られるから偉いわ、そういえばもうすぐ中間テストね、清太は勉強しないで部活ばっかり、大丈夫かしら――

 中学に上がる頃には、高木家を六畳間に招くことは少なくなっていたが、母はしばしば鯵の南蛮漬けを作り、私に届けさせていた。

 グラスに注がれた麦茶を挟んだ雑談はおくさんからの一方通行であり、時折、質問が挟まれたけれど、はい、いいえで済む簡単なものだった。

 おくさんは高田日本中央技研の経理を担い、若い従業員の面倒も見ており、忙しい人だ。だから、よほどの事案でなければわざわざ時間を割かない。

 ――早希ちゃん、時々、社長のこと〝おとうさん〟って呼ぶけど。

 おくさんが〝うちのお父さん〟を〝社長〟に言い換えた意味を量る。思考が結論を導き出す前に。

 ――清太の傷つくこと、あんまり言わないでね。

 私が社長を〝おとうさん〟と呼び始めてから数年経過していた。それを今更、どうしておくさんは清太の傷つくことと認定し、わざわざ注意しにやってきたのか。社長も清太も母も不在の時を狙って。

 社長と母の同時の不在。私の両肩に痛いほど掴まれた肩の感触が甦る。

 おくさんを突き動かした何かがあったのかはわからない。例えば、社長と母が本当はどこへ行ったかなんて。例えば、私の父親は本当は誰かなんて。例えば、私と清太が本当は・・・・・・なんて。

 おくさんは、唐突に繋がった思考に呆然としていた私の手を取って、なにやら紙を握らせた。握り続けていることができず、ぽとり畳上に落とす。それは一枚ずつ幾重にも折られた千円札だった。一枚、二枚、三枚。蛹から羽化してしわくちゃの羽を膨らませる蝶じみてわずかに震え開く。

 ――清太のこと、約束よ。

 どうして、今更、だってもう、私たち。

 清太の制服についた砂壁のきらり光る粒を払った、あの化繊のごわりとした感触を覚えている。春浅く、寒さにすり寄せた肌の質感よりもなお。

 じゃあ、と言いたいことを言って立ち上がったおくさんへ向けて湧き上がったのは怒りだった。生まれて初めての途方も無い激情。少女の癇癪とはまったく異質の。

 だから次に発した言葉は紛れもなく殺意が込められたものだった。殺すつもりで吐き出した。五月晴れの清々しい休日、幼なじみの、大好きな、お嫁さんになるつもりの人の母親へ。

「あんたの旦那は、三千円なの」


 子どもだったからと、あの日の殺意を言い訳するつもりはない。

 おくさんとのやりとりを面と向かって清太に語ったことはなく、清太がおくさんから聞いているかどうかもわからない。レイカさんにも、私の実の父親が誰かなのかと詰め寄るようなまねはせず、この六畳間で昼ドラ的展開が繰り広げられることはなかった。

 ただ、中二の終わり、私は母をレイカさんと呼ぶようになっていた。清太がおくさんを〝おふくろ〟と呼ぶようになった同じ頃。レイカさんは脳天気に若返った気がすると喜んでいたけれど。

 高田日本中央技研の跡取りは、現社長夫人に暴言を吐いた女を嫁として迎えるはずはなく、薄暗い可能性を秘めているのに気付いたなら、なおのこと。

 私は公差を外れた部品で、清太の清らかなる将来設計図において、不要な存在、おしゃかだった。

 私は、私がはまる図面を探し、吟味し、選び出した。宮路さんに不満はないし、愛おしいと思ってる。そして、騙しているという罪悪感もなかった。これが私の描いた私の意思が込められた図面なのだから。

 清太は私を選ばない。でも、手離す必要はないでしょう?

 視線を逸らし、無意識なのか、清太は黙って畳の目に爪を立てる。そっと近付き、耳元に唇を寄せて囁いた。おにいちゃん、と。

 違う。清太は否定するけれど繰り返し呼ぶ、おにいちゃん。違う、おにいちゃん。違う。

 清太は社長を尊敬している。そして清太は親孝行な正しい跡取り息子で、不道徳なことなどしていない。腹違いの妹と近親相姦なんて。それにくらべれば、結婚前の幼なじみとはめあうなんて、可愛いものでしょう?

 ・・・・・・なら、証明してよ。

 清太の眼が暗く光る。ショートパンツのゴムはゆるくやすやすと引き落とされる。背中を押され、卓袱台にうつ伏せに押し付けられる。

 割り開かれた脚の中心は熟れ切って、はめあうのを待っていた。

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畳上の公差 坂水 @sakamizu

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