三
それでも、やがて。最初の契りから五年もの月日を数えた頃、私がかの神霊と交わした約束事は唐突な終わりを迎える。
私の姪は、真鶴は、さんざめく春の荒天に紛れて、その身ごといずこかへかき消えた。花も嵐も踏み越えて、きれいで気丈できよらな姪を拐かしていったのはどうしたことか、私が共謀し続けた、可憐で苛烈なあの神霊ではなかった。そのことに私はひどく憤ったし、また『共犯者』である彼に対して失望すらした。
けれど報せを聞いた私がとどめられずに両の目からあふれさせた涙は、間違っても悔しさや、怒りや、悲しみだとかのためではない。
起こってしまった悲劇に駆けつけた親族達は、それぞれに沈痛な面持ちを隠さずにいた。またも家筋の娘を、大切な曾孫娘を奪われた、と慟哭する祖父を見た。落胆と無力さを隠せずに、こぶしを握りしめる父や叔父たちに、かけられる言葉はなかった。この家の血は継がない親族の女性たちは、複雑な面持ちで彼らに寄り添った。あるいは遠巻きにしながら、嫁いできた女同士で言葉を小さく交わしていた。――彼女たちに、私は近づけやしなかった。娘や義姉妹を失った傷が癒えていない者だって、いるのだ。血縁の娘に対して夫たちが妙に過保護である意味を、いまはじめて目の当たりにした者だって。それでも蒼白になりながら、幼いひとり娘を抱きしめて離さない兄夫妻とともに、従兄弟たちに守られるようにして囲まれ座る私が泣くのは、ただただ、真鶴への弔いのためだった。
私と真鶴との関係性が、どこかいびつなものであろうとも。それでも、この時ばかりは、私は彼女のためだけに泣いた。
私たちは、
泣いて、泣いて、誰もが気落ちした本家の広間を、私はやがて立ち上がっては退いた。かたわらにいた従兄弟のひとりが心配そうに、少しだけ距離を保ちながらも、私の後を付き添った。
ふらふらとおぼつかない足取りで廊下を辿り、真鶴の部屋の戸をひらき、立ち入る。従兄弟は気を遣ってか、開け放たれたままの扉の脇で待っていてくれた。
ひからびることのない鬼灯の枝が、時経りてなおあざやかな山吹の花束が、水も光も必要とせず、硝子の花瓶に生けられている。漆喰仕立ての壁には、真鶴が気に入って通った美術展の、ミュージアムショップで買ったポストカードが何枚も。部屋の片隅にはこまかな飾りさえ丹念に仕込まれた桐箪笥がしつらえられていた。箪笥の上には彼女が学ぶ専攻の資料や書籍が乱雑に積み上げられているけれど、内側にはきっと、絢爛の絹や綸子の数々。私の『共犯者』からの求婚の品が、あまた押し込められていることだろう。
「……あなたは」
力がぬける。ふらふらと、あの子がのこした部屋を見つめれば、山吹や鬼灯の間からいつかの桜枝が顔をのぞかせていた。私は落ちることもほころびきることもなく時を止めた桜の枝に手を伸ばし、取り上げる。対して言葉はふがいなく落ちる。
「ふしあわせなこと、知らずにいることもできたでしょうに」
どうして、あの子は彼の手を取らなかったんだろう。きっと真鶴がかの神霊の求婚に頷いたならば、恐ろしくない、暗がりでもない、寒くもない、痛みに耐えなくていい、きっと善い生をまっとうできる御山で、大切に、大切にされたろうに。あの子には、それができたのに。
私とは違って、真鶴、だなんて。いつかの古い時代に、そしてそのあとの長い時代に、生のながくを人間の世の中で生き抜けたのだという幸運なねえさんたちの名前を、願いとともに、祈りでもって、そのまま名づけられたあの子なら。
「そうですよね、御山の方」
部屋の奥へ進み、続き二間のはし、
一歩、二歩と進み出て、ずるずると柱に背を預けて縁に座り込みながらも、私は桜枝を外へと差し出した。するとその枝先を、あの白くて細くてけれど芯のある指先が、静かな所作で受け取った。私たちの成長とともにうつくしい青年の姿を保つようになった神霊が、眉根を寄せてそこにいた。私はそれでも、桜枝のこちらがわを離すことができなかった。
「……あの子が拐かされるなら、私、あなたにそうしてほしかった」
「だが、僕はそうした行いは望まなかった」
「あなたはあの子を手に入れたくて……そのために私たち、約束まで、したのにね」
「そうだな。まったく……残念だ」
思いのほか、彼の声は淡々としていて。するりと視線をあげてみれば、あの日、指切りをした日に私がみつけた、彼のぎらついた熱は凍てついたようになりをひそめている。
「あなたも、悲しい?」
「憤りならばある。意図せぬ輩の手を、よりにもよって真鶴は自らとった」
であるがゆえ、察しきれず、口説ききれなかった己への憤りならばあると、弱った声音で彼は続ける。
彼の言葉で、真鶴は拐かされたのではなく、自ら望んで人ならぬ誰ぞと駆け落ちたのだと知って……私は少しだけ、本当に少しだけ、心を縛り付けている恐ろしさと悲しさの結び目を解いた。
そうしてもう一度神霊を見つめてみれば、ずいぶん、その面差しは傷つききったものにみえた。
人ならぬ彼からすれば、人遊びめいた恋の鞘当て……というには一方的な横槍は、きっと身を穿ちすぎた一閃だったろう。そして戦めいた心のやりとりに疲れたのは、この真摯な神霊だけではない。
「あの子の意思で、真鶴があなたの御山には行かなかったのなら……私とあなたとの縁は、どうなるの。これでおしまい、になるのかな」
「そうかもしれない」
「そう。――だったらよかった! ねえ、もう、私たちこの先、指切りする必要、ないんだね」
絶対、誰のものにもならなくていいからと。誰から
懐かしいその文句をおもいだしながら、私は少しだけ高い声で、なかば自暴自棄にさえずった。あんな言葉ほしくなかったと、どうしようもなく思ってしまった一瞬だった。
だって。真鶴を求めて、求めて、そして恋に狂えるさますら隠せないでいたあなたと、この鈍色に染まった小指を絡めた時――きっとあの時、私という人間の女の子も、たぶん恋を、していた。……そして、口をつぐんだ。
それでもこの鈍の小指の爪こそが、私が安らかにあたりまえに、息をできていた証だった。だからこそいつだって、私の心は嘘と本当でぐちゃぐちゃ。
「……おまえは、誰かから恋われる必要も、拐かされる必要もないと。僕は、最初に約したはずだ」
低く変わり果てた馴染みの声が、ゆっくりと私の身のほど近くへ落ちてきた。いまだ少年の気配をいろこくみせているとはいえ、背丈もずいぶんと伸ばし、肩幅も凛と成長させてきたかの神霊が、片膝を縁に乗り上げて、うずくまる私へ視線を合わせてきたのだった。
「誓いを破れば、嘘をついたら、千歳の先まで神隠し、と指を切ったはずだ」
可憐さを脱ぎ捨てたいまもなお、苛烈な神霊は私をまっすぐに見つめた。
「であればなぜおまえはいまもなお、交わした契りに背こうとすらする。嘘ばかりの感情のままに、僕に真実ばかりではない言葉を、叫ぶ」
なにもかも……なんだか見透かされている気がして、情けなくておかしくて、私は涙でぼろぼろの顔を笑みの形に崩してしまった。
なんだ。あなたも知っていたんだ。私だって、恋をしていたこと。このうつくしい神霊が、好ましいということ。私の幸福の象徴を、とことわの春へと拐かしてくれる――そのはずだった少年に心を寄せてしまっていたこと。
知っていて、その恋と相反するような言葉を吐くなと、いまになって咎めてくるなんて……なんて、どこまで真摯で、馬鹿、みたいなんだろう。
でも、そんな彼の姿勢はきっと最初の最初からのものだった。それでもあんなに、苛烈な視線を見せつけられてしまっては! そして脆くて弱くてみじめなままで終わるはずだった感情を、あれから幾度も交わした指切りによって、育てられてしまっては。彼が真鶴へと差し出し続けたいっそ無垢なほどの真摯さに、胸打たれてしまっては。……私だって、彼の無茶な願いを受け入れ、そして共謀をし続けてしまったことに、ひとかけらの後悔も持たないわけではないのだ。
そうやって恋というものを憶えた私の言葉は、彼と真鶴の成就を心から求められるほど単純なものではなかったわけだ。最初から、私は私に嘘をついて、彼と指切りをしたわけだ。くしゃりと、次第に表情が歪んだ。また涙があふれてきそうだった。
「私たちは、求められすぎた。家族からは、過保護なまでに。……人ならぬあなたたちからは、いっそ過激なほど。でも、あなたは真鶴のことは求めても……私のことは、ただしく、求めたりはしなかった」
神霊の少年の、視線が揺れる。
「私……私のことを求めたりなんかしない、それでも私のことまで守ろうとして、大切にしてくれようとしたあなたのこと、必要だったのだろうなと、いまでも思うの」
だから共犯者になりたかった。最初から最後まで、あなたに救われてからを生きて死ぬまで一生ずっと、本当の意味では約束を守れないのだとしたって。
言葉を最後まで伝えるよりも、わずかばかり寸前のたまゆらに。御山の神霊はまるで縋るかのように、のこる左手を私の背中にまわしては、よすがの桜枝を手放した。私の指も、我が身に触れた彼の体温に、熱に浮かされたかのようなやわい仕草に驚いて、咄嗟に枝からもつれて離れる。
指切りげんまん、嘘をついたら。……千歳の先まで、神隠し。
そんな誓いからはじまりながらに――そしてその契りの成就を、こうして目の当たりにしながらに。
私たちは、焦がれる相手がこちらを振り向くことを望めない……そんな恋を、今となってはきっとしている。それだけは、この一瞬でわかりきってしまった。
桜枝が落ちてゆく。かの枝が土にたどりつく時、私もこの神霊も、ここから姿を消しているだろう。御霊憑きの家の誰しもは、私が神隠しに遭ったことを、土に落ちた桜枝のひとふりでもってやがて知る。
それでもいい。それでいい。代々のねえさんたちが、辿った道を辿たっていい。そのように、私もまた心定めてしまった。
たったふたりきりのおそろいだった私と真鶴は、おなじ春の咲き初めた今日に、とうとうこの土の上を離れてしまう。たったひとりの娘として残される姪があわれだなと、ひととき思って、けれどそれきりだった。
だって、恋を失い恋を患う、そんな病を相憐れんで、私と彼とふたりして負った、傷を舐めてやれたなら。悔いることなどひとつとして、ありはしないと思うのだ。
小指をからめて息をする 篠崎琴子 @lir
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