The Shape Of Rule To Come

hugo

The Shape Of Rule To Come

 オーネット・コールマンとエリック・ドルフィーに出会った夏、俺はまだ十八だった。どれだけ時が経っても、そっくりそのまま思い出せる。あの夏の東京を覆っていた皮膚を溶かすような熱波と、それをも凌ぐほどの熱量を秘めた彼らの魂のブロウを。俺がサックスプレイヤーだったせいもあるだろうが、二人は別格だった。出会ったきっかけは覚えていないが、必然の導きに違いなかった。俺は一週間、風呂に入らず、メシは一日一食インスタントで済ませ、死に物狂いで彼らのアルバムを聴き込んだ。極度の集中と情熱をもって行うならば、音楽鑑賞は癒しなどとは程遠く、自傷行為にも似ているのだと初めて知ったのはこの時だったが、疲れ果てて気を失うまで聴き続け、起きたらまた聴くという終わりのないサイクルが俺を支配していた。ただ、何かを意図的にやっているつもりはなかった。俺は内側から湧き上がる本能的、もしくは動物的な渇望感にだけ突き動かされていた。聴かなければ死ぬと、体がそう本気で思い込んでいたのだ。エアコンは一度も点けなかったし、俺は聴きながらもがくように踊り続けていたから、多分室内温度は四十度近かったんじゃないかと思う。引きこもる俺に対し親はどうしたかと言えば、何もしなかった。というのも、俺は十二になる前には完全に彼らに見限られていた。教師に掴みかかったこと、家出、上級生との喧嘩、それら叱りつけることで強制しようとする彼らへの反抗などがその主な原因だろうが、俺から言わせればどれも不可抗力だったと言わざるを得ない。常に俺には通すべき筋があり、道理があったから、後悔したことは一度も無いし、間違っていたとも考えた試しはなかった。何も言わなくても彼らは俺を追い出さないし、メシを用意するし、学費もしっかりと払う、なんてことはわかりきっていた。なぜならば、彼らはルールを守らない俺を容認できず、誹り、糾弾し、無いものとして扱うようになった。だから彼らは、ルールを守る。人並みから外れるような行為、つまり、子供を家から追い出すようなマネは決してできないだろうと、若くして俺は巧みに見抜き、全力でその隙に付け込んでいた。悪い事をしたとは思わない。むしろかえって、俺が彼らにとっての悪になってやっていたおかげで彼らの尊厳やモラル、アイデンティティが確立されていたのだとすら思うし、きっとこの時も同じようなことだった。そして七日が経ち、とうとう俺は一台十万円以上のスピーカー同士をぶつけあってぶち壊し、ハイスペックノートPCを三百六十度まで無理やり開き、最後に全アルバムを叩き割った。そのまま部屋を出て、はだしのままで焦げたアスファルトの上を駆け回った。最高にジャズだった。そうやって俺はフリージャズプレイヤーになったわけだが、それ以降もそんなキチガイ染みたマネを繰り返してきたわけではない。むしろ俺はあの一件によって落ち着きを得たし、周囲からもとっつきやすくなったとさえ言われるようになった。フリージャズは、見世物じゃない。エンターテインメントでもなければ、ショウビジネスでもない。まずもって、外的な作用を狙った行為ではない。この世における最大の深淵たる自己内を思索する行為だ。つまり、俺はそれまでとは異なり、反逆の対象を自身の心根と、肉体と、境遇と、経験と、嗜好と、最後にあの一週間で骨の髄まで染みこませた永遠に消えない亡霊に定めたのだった。


 その後俺は高校を卒業してすぐに家をオサラバし、繁華街、河原、埠頭、公園、トンネルと場所を問わずサックスを吹き続けた。もっぱらは新宿にあった一軒のジャズバーでプレイしていたが、無駄に広い割には客もまばらで、大した儲けにはならなかった。まぁ、あの時代にフリージャズプレイヤーにギャラを支払うような道楽に興じてくれていたマスターには感謝しかない。おかげでロクでもないフリージャズ界隈の人脈も築けたし、家主同様ロクでもない彼らの家々に居候できて死なずに済んだ。プレーに関して言うならば、着実にテクニックは上がり続けていた。しかし、フリージャズにおいてテクニックなどさして重要なファクトではない。大事なのは予想を裏切って裏切ってたまに開き直って最初の場所に戻るような絶え間ない変化の姿勢を保つことで、それはもちろん俺を疲弊させたし、革新性や本質を求め続けるのは骨が折れた。もどかしさや挫折感を覚えることも多々あった。けれど俺は他のジャンルに浮気することだけはなんとか回避し、フリージャズの領分に留まることができた。 


 そんなこんなで気付けば二十四。俺はその夏、ある女の家で暮らしていた。出会ったのは年初、件のジャズバーにおいて。どうやってあんなディープな場所に迷い込んだのか、俺が自分のソロを終え、ステージの端に置かれたイスに座っていたところ、タイトで真っ黒なスーツに同じく真っ黒なタイツを履き、細いシルバーのフレームのメガネをかけた彼女が入ってきたのだ。あそこに来る客といえば熱心なジャズファンのおっさんか、バンドメンバーの知り合いの変わり者か、寂しがり屋のナヨナヨした気持ち悪い世捨て人気取りか、そんな具合だったからカチッとした聡明そうな彼女が入ってきたのにはなかなか面食らった。女はその足でカウンターに座り、ステージには見向きもせず度数の高い酒を煽っていた。丁度その時はつまらないトランペットソロが冗長に何の意味も無く展開されていたわけだし、俺はふとテナーからソプラノに持ち替え、小学生が持ち歩くブザーよりもけたたましい、甲高いロングトーンを警笛のように鳴らしてやった。すると狙い通り、ようやく女は驚いたような顔でこちらを振り向くので、俺は嬉々として再びソロに入った。いや、正確にはトランペットの男も無いブレスを目いっぱい使って対抗しようとしてきたが、ほとんどは俺がかき消してやったから同じことだ。俺は高速のパッセージに、おそらく俺より一回り年上だろう女への、湧き上がる疑問の限りを込めた。きっとそれが伝わったんだと思う。その後三十分間女はじっと俺のことを見つめ、ステージが終わるとどこからともなく俺の前に現れ、言葉をかけてきた。今やもう覚えていないが、どうでもいい他愛もないことについてカウンターに横並びで座って閉店まで盛り上がったのは覚えている。そして翌朝、気付いてみれば俺は女と同じベッドで寝ていた。そこは今まで見てきた中で、一番白い場所だった。1LDKの家中恐ろしく物が少なく、ベッドは寝室の壁沿いではなくど真ん中に鎮座していた。シングルサイズだったので、俺はいつもどちらかが落ちてしまうんじゃないかと危惧していたがともかく。女はうごめく俺の気配を敏感に感じ取ってか程なくして起き、「おはよう」と自然に言った。「ああ、おはよう」と返すのに対し彼女は興味なさげに立ち上がり、寝室を後にした。暖房が激しく効いているというのに上下長袖のパジャマの上からフリースまで着込んでいた彼女がいなくなり、俺は手持ち無沙汰になってただベッドに腰掛け、何となくサックスの手入れなんかをしていた。三十分程して戻ってきた彼女は昨晩と同じスーツをきっかり身に付け、ドアから顔を覗かせて「こっちよ」と俺をリビングに招いた。すると中心に置かれた一人掛けのテーブルの上にコーヒーの入ったマグカップと食事の載ったプレートが二つずつ、スペースいっぱいに並べられていた。

「さぁ、食べましょう。どうせいつも酷いものばかり食べてるんでしょ?」

 俺はその言葉に感動した。泊めてくれるに飽き足らず、朝食まで用意してくれるとは。まさに一宿一飯の恩義。俺はできる限りおいしそうに食べることで(事実おいしかったが)それに報いた。彼女が必死の形相でありつく俺を見て笑うので、一層演技にも熱がこもった。俺に続いて食べ終わると、彼女は立ち上がって玄関に向かった。

「まだ六時にもなってないのに、もう行くの?というか、俺を家に残しといていいの?何か盗んじゃうかもよ?」

「これが私の普段通りの出勤時間よ。それに、この家から盗みたいものなんてある?通帳も印鑑も、全部この鞄に入ってるのに」

 彼女は肩をすくめてそう言った。

「好きに過ごしててもらって構わないわ。ずっといても、すぐにいなくなっても。ただ、カギはオートロックで一回出たら入れないでしょうから、出るタイミングはよーく考えることね」

 言い終えてニヤリと笑い、彼女は出ていった。結局俺はしばらく歩き回ったり、高層マンションらしい景観を楽しんで時間を潰したが、いかんせんやることがなく、サックスも吹けないので十時前には家を出た。東京タワーが近くに見えたことから大体の方角はわかっていたが、出歩いてみるとかなりの都会で、女が金を持っているのだろうと推察された。俺は行き当たった川の流れる公園で汗水たらしながらサックスを吹き、それから夜のライブに向けて新宿に向かい、銭湯で体を磨いてからステージに立った。すると日付が変わろうかという頃、再び女が訪れた。意味ありげな笑顔を浮かべてから昨日と同じカウンターにかけ、リラックスした表情で俺をボーっと見てくる。そしてライブが終わると昨日と同じくどこからともなく立ち現れて、閉店まで話してから何となく彼女の家に向かい、同じベッドで寝る。という奇妙なサイクルの関係が夏になっても続いていたわけだが、実のところセックスは一度もしていなかった。そういうムードは一切流れなかったし、なんだか彼女がそれを求めていない気がして、こちらはそれに合わせただけだった。今までの女――俺を家に招くなり股を開いて誘ってくるような女とは何もかもが違っていた。そういう女は大抵家が散らかっていて、靴は玄関に散りばめられ、そのどれもが薄汚れていたりなど、見てくれはよくてもパーソナルスペースやその細部において必ず粗というものが見られるものだが、彼女にはそれがなかった。俺にはそれがありがたかった。セックスは快感だが、ジャズの方がもっと気持ちいいし、何より無駄に疲れるからだ。それまで何度かセックスを断った途端に強姦魔のように扱われ、叩き出されるという経験をしてきたので女は避け、むさくるしい男達の家を転々としていたのが一転、何の見返りもなくあんな綺麗な家に入り浸れたのはまさしく幸運だった。彼女が俺に何を求めているのか、それについては努めて触れないよう心掛けた。きっとそうするのが今を続けるための秘訣だとわかっていたからだ。そしていつしか、俺はライブをしなかった次の日も彼女の家に居つくまでになり、半ば同棲の体となったが、彼女は全くもって嫌がらず、ケラケラと笑うだけだった。女の欠点と言えば、酒に飲まれることぐらいしかなかった。いつも十一時頃に帰ってきたが、時折日付が変わってからになることもあり、その時は大抵大量の酒類をビニールに提げ、俺を付き合わせるのだった。飲まなきゃやってられないわよ!と、現実にそんな常套句をのたまう人間を見たのは、彼女が初めてだった。それはそれは凄い飲みっぷりで、さぞ会社で嫌なことがあったのだろうと思うが、仕事についてはあまり多くを語りたがらなかった。どんな職種に就いていたのか、それすら俺は知らないままで、彼女と接していた。これも同じことだ。彼女が俺に求めている役割はそうじゃないと、そう感じ取っていたから俺は踏み込まなかった。


 夏の終わりに変化が起きたのは、俺の方だった。なぜだか途端に、サックスがどうでもいいと思える瞬間が増えてきたのだ。練習も、ライブも、コールマンとドルフィーまでもが空虚に感じられ、俺は惰性でステージに立ち、ずさんなプレイをやり続けた。糞みたいな、手癖に任せた経験の羅列。最も俺が忌み嫌っていたサウンドに、俺自身が堕ちてしまっていた。そんな俺を見続けていた彼女がある日、ライブの後のおしゃべりでこう言った。

「……ごめんね。私があなたを生殺しにしてるせいで、あなたまで弱くしてしまったのかも。……でも、ごめんね。私、やっぱりあなたに触れること、できないの。わかってね。お願いだからこれまで通り、私に迫らないって、誓っていてね……」

 訳が分からなかった。まるで俺が心の底で彼女を求めているのに、彼女との取り決めによって我慢している健気な男かのような口ぶりに、俺は戸惑いを隠せなかった。そうなってしまえばもはや、プレイはさらに悪化の一途を辿り、とうとう俺はライブにすら行かなくなってしまった。彼女の家に閉じこもり、彼女に甘えて生きながらえた。そんな俺に対し、やはり彼女は怒らず、むしろそれまでよりも優しい目つきで俺を見るようになった。決まって言うのが、あの「ごめんね」だ。そう言いながら、彼女は何度も何度も俺の手を取り、頭を撫でた。もう限界だった。俺はある時いつも通り俺の頭を撫でるべく伸ばされた彼女の腕を掴み、強引に引き寄せ、俺の体ごとベッドの上に押し倒した。そして何も言わずに、彼女が好んで着続けた、最初の朝と同じフリースのジッパーに手をかけ、一気に下ろした。その時彼女は、何かを諦めるような、遠い目をしていたように思う。けれど、俺にももう余裕なんて無かった。俺のたぎる欲情は下腹部において爆発しそうになっていた。だからパジャマのボタンを手早く外し、彼女の豊かに膨らんだ胸を見るべく払いのけた。そこには確かに期待通り、形のいい双丘があり、それぞれの中心にピンクの突起があった。けれどそれだけでもなかった。左の乳房の上から肩口にかけての、地を這うムカデのような紫の痛々しい傷跡。右の脇腹の真っ赤にただれた大きな火傷痕。そして、至る所に残る切り傷。俺はあまりの衝撃に固まってしまい、ただ彼女の体と顔とを交互に見続けた。

「ダメじゃない……。約束、したでしょ?私達、触れ合わないって……」

 彼女は俺の方向を見てそう言ったが、明らかに俺のことを見ていなかった。俺のはるか後方の、おそらく真っ白な天井を見透かしていたに違いない。

「ほらね?やっぱりあなただって気持ち悪いって、そう思うでしょ?知ってた。他でもない私自身最悪だと思うもの。だから、あなたは悪くない。悪いのは、いつだって私」

 生気を失いゆく彼女に対し、俺は彼女を抱かなければならないと切に思い、自らのズボンとパンツをずりおろし、彼女の下も全部脱がせ、片足を持ち上げて彼女の秘所に割り入ろうとした。しかし、できない。彼女に刻まれた痕は、下半身の至る所にまで及んでいた。特に陰部のその周辺は悪趣味としか言いようがない程に悲惨だった。どうしても、俺は俺の男根を固めることができず、ただ空しく萎み切った亀頭を擦り付けるばかりだった。

「もう、いいから……」

 そう言って彼女は力の抜けた俺を軽々と押しのけ、立ち上がった。

「でも、これで良かったんだと思うわ。これが、正しいとされる世の中なんだと思う。ルールに縛られるなんてバカバカしいって?そうね。私も、そう思う。ルールって、破るためにあるのよね?破る人がいるから、守る人がいる。そうでしょ?これであなたは私にこれ以上騙されなくて済んだし、きっと音楽の方も前みたいにうまくいくようになるわよ。だってあなたはもう、私っていう“ルール”に囚われないで済む。最初から、こうなる運命だったんのよ。私は、あなたがそういう人だって知ってて声をかけたんだから。何かに反抗することでしか、自分を証明できない人間だって。……要するに、本質的には私と全く同じ型を、ひっくり返しただけの人間だって。途中でちょっと間違えちゃったかも知れないけど、結果的には大丈夫。あなたも私もこの反省を活かして、より前に進めるはず。だから、ありがとう。私、あなたの事が好きだったんじゃないかと思うわ」

 そして彼女はスーツに着替え、家を出ていった。真夜中だというのに。それから俺もしばらく間を置いてから、もうこれ以上いられるわけもないので出ていき、二度と戻ってくることは無かった。

 

 一週間後、彼女はちょっとしたニュースになった。どこかの田舎である女が父親を殺したというので、どうでもいいなと思いながらふと見てみたら、彼女の氏名が公表されていた。理由は特に書かれておらず、最近の若者は狂い始めてるとかなんとかコメンテーターが語っていた。驚きは無かった。俺の胸には、彼女から言われた言葉だけが浮かんでいた。俺はかつてそうだったように、死に物狂いで音楽に取り組みだした。だけど、あの夏のそれとは程遠い。もはやフリージャズの行き着く先がなんたるか、俺にはわかりきってしまっていた。もうあの頃みたいに、純粋ではいられなかった。俺は止まらぬ震えを忘れ去るために、一心不乱に息を吹き続けた。まるで、そうしなければ死んでしまうかのように。彼女の言葉に、行動に、俺の全てが否定されてしまわないためにも。

 時に思う。もしあの夜、俺がルールを破らなかったら、彼女は救われたのだろうか?ずっと後で、彼女の方から打ち明けられていたら。十分な時間を取れていたら。俺のチンコが勃起していたら。俺は、まともな人間になれたのだろうか。答えはNOだ。オーネット・コールマンがニヤリと笑って言う。『フリージャズへようこそ』と。

『ここは、ルールに従わないであり続けることだけがルールの世界だ。後は何をしてもらっても構わない。ただ、ルールを守らないというルールに従うこと自体がルールだってことを意識しちゃいけないってルールもある。もちろん、さらにそれを意識しちゃいけないってルールも。まあ、ざっとそんなもんだ。もう一度改めて、フリージャズへようこそ』

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