商君の法

左安倍虎

我が法は永遠に

「あわれなものだな、おうよ。先君の寵を得て大良造の位にまでのぼったおまえが、こうして縛につくとはな」


 縄を打たれてひざまづく男を、甲冑を身につけた貴人が見おろしている。背後に数千人の秦兵を従えた貴人の顔は仮面に覆われており、その表情をうかがうことはできない。


「公子様、おひさしぶりでございます。お外に出られるのは八年ぶりでしょうかな」


 顎が細く尖り、険のある顔つきの男が不敵に言った。かつて秦の国にあって並ぶもののない権勢をふるったこの男、商鞅しょうおうは捕らえられてなお、恐れる色をみせない。その後ろに控える五十名ほどの兵は、この黽池べんちでかれとともに最後の抵抗を試みた者たちだ。


「黙れ!私をこのような姿にしたのはおまえではないか」


 貴人が仮面をはずすと、商鞅の後ろの兵たちが息を呑んだ。貴人の顔には鼻がなかったのだ。


「おまえの作ったくだらぬ法に触れたせいで、私は鼻を削がれ、かくも醜い姿となったのだ。人目を恥じるのも当然であろうが」

「おや、まるで理不尽な目にあったとでも言いたげですな。私は、たとえ貴人であろうと法の支配からは逃れられぬことを示してみせたまでのこと。おかげでこの秦では誰もが法に服するようになり、秦は強国への道を歩みはじめました。公子様はそれがご不満なのですか」


 商鞅は法に従わぬ民を動かすため、法を犯した秦の太子にかわり、かれの侍従をつとめていた公子虔を鼻削ぎの刑に処することとした。法の峻厳しゅんげんさに恐れをなした秦の民は以後、誰一人として商鞅の法にはそむくことはなかった。


「思いあがるな。その法こそがおまえを窮地に追いこんだのではないか。おまえが函谷関でどのような目にあったか、私が知らぬとでも思っているのか」


 先代の王・考公が没すると、公子虔をはじめとする不平派が商鞅は謀反をくわだてていると秦王に誣告ぶこくした。商鞅は追手を逃れようと函谷関にいたり、宿を求めようとしたが、法により旅券を持たないものは泊めることができない、と言われたのだった。


「ええ、秦のすみずみまで私の法がゆきわたっているさまを見届けられましたので、心より満足しております」

「強がりを言うな。おまえはこれから死ぬのだぞ」

「私は死にませぬ」

「なんだと?気でも触れたか」

「ここで滅びるのは私の身体のみ。法こそがわが魂であり、私の法は秦とともに生き続けます。すでにわが秦の兵は精強で、山中の盗賊は絶え、道に落ちた物すら拾うものはおりません。法あるかぎり秦は栄える。それはすなわち、この私が栄えるということです。いずれ秦は六国をも呑み込む日がくるでしょうが、そのときには私が天下を取ったことになるのです」

「小賢しいことを……」


 虔はかたく握った拳を小刻みにふるわせた。商鞅の法による信賞必罰と連座制、厳罰主義が秦を富み栄えさせていることは事実であるだけに、抗弁できない。


「私を殺しなさい。私が処刑されることで、あの商鞅すら罪を犯せば刑に服さねばならぬのだと知れわたり、法に重みが加わる。それこそ私の望むところです。さあ、公子よ、あなたの手で我が法を完成させるのです。その鼻と引きかえに我が法を秦にゆきわたらせたあなたこそが、その役にふさわしい」

 

 虔が耳をふさぎたくなるような哄笑が、いつまでも黽池べんちを吹きわたる風の中に響きわたった。





 ◇





 商鞅は見せしめのため、秦の恵文王の命により車裂きにされた。秦が六国を滅ぼし、中華を統一するのはかれの死より百十七年の後のことである。

 

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