紙とペンと、あなたへの遺書

冬野瞠

遺言状

 これは遺書である。

 認識が崩壊する世界へ、私が爪痕を遺すための。


 私が何故このようなものを書くに至ったか、少々説明せねばならない。

 事の発端は今から十数年前に遡る。ある日唐突に、見知らぬ日用品が自宅の中に多数発見されるという事象が頻発し始めた。それも世界中で。警察や科学者や社会学者や軍隊が順々に名乗りを上げて原因の特定に躍起になったが、真相が判明するのと同時に、百億を超えていた地球上の人口が六割ほどに減っていたことが明らかになった。

 この一報が世界を駆け巡った日、我々は唖然として言葉を失う他なかった。人口がそれほどまでに減少していたからではない。である。

 隣人や親類や愛する家族までもが、いつの間にか消えていた。残された者はその生じた穴を知覚することなく、日常の営みを続けていたのだ。消えた人間に関する情報がヒトの脳からもデータベース上からも消失していたために、家の中に見知らぬ日用品があると誤認する結果となったのである。個人の記録が残るもの――日記帳や写真、録音、読書履歴、音楽視聴履歴など――がすべて電子化されていたのが仇となった。人々はこの事実を受け入れられず、しかし後発的に開発された人口管理用AIが示す数値が減り続けているのは現実で、世界は加速度的にパニック状態へと転がり落ちた。

 自分が訳も分からず消え失せる恐怖。大切な人が急に消失する恐怖。その消失を知覚できないという恐怖。

 人が物理的に消失しているのか、それとも人工知能にさえ認識できない状態になっているのかは判然としなかったが、現代では人工知能の認証なしでは買い物も移動もできない以上、数値が減ったぶんだけ人が亡くなっていると考えた方が自然だった。

 地球全土で暴動が起き、事を鎮静化するのが役目の機動隊や軍隊も徐々に機能しなくなった。彼らの中にも恐怖があり、消失は無差別に起きる。当然と言えば当然の帰結であった。家族もおらず親しい友人も既に見える形でうしなっていた私は、あまり取り乱すこともなく人々の様子を眺めていた。人工知能の託宣に唯々諾々と従っていた人類も、まだこのような爆発的なエネルギーを持っていたんだなあ、と私は妙なところで感心した。


 ヒトの消失そのものの原因が分かる頃には、世界人類は三十億ほどになっていた。

 原因。それは、感染性の電子情報喪失現象だった。

 病原がウィルスなのか細菌なのか、はたまた未知の物質なのか、旧来のSFによくあるAIの暴走に起因するのか、可能性を検討する術すら残された人類にはなくなってきていた。分かったのは、その現象が人から人に感染し、感染者は自覚症状がないまま口からさらさらと情報を吐き出し続け、その後消失する確率が百%だということだけ。人工知能はこのままでいくと数年でヒトは絶滅すると予測を立てた。感染原の特定と治療法の確立は絶望的であるとも。驚きはなかった。その頃にはもう、穏やかな退廃と優しい虚無とが世界を覆い尽くしていた。

 それでも使命感を持った人間というのはどんな時代にもいるもので、情報の流れを可視化するシステムが構築され、そのシステムを搭載したゴーグルが自動配達ロボットトランスポーターによって私の元へも運ばれてきた。試しにそれを着けて、向かいのマンションのベランダでぼんやり空を眺めている男を見てみると、口元から砂に似た細かい薄青うすあおの光が、さらさらと流れ出ているのだった。


 ここまでこの文章を読んできた聡いあなたには、私の身に何が起こったのか予想がつくかと思う。私もまた、情報喪失症状に感染したのだ。いつ来るかと身構えていたから、自分の手に淡い青の光が零れ落ちるのを見ても、心の中に動揺はなかった。静かに自己の消失を受け入れられると思っていた。

 しかしながら、自分が消え失せる目前となって、私はにわかに怖くなったのである。そんなぎりぎりの瀬戸際になって思い知るなど、愚かだと思う者もいるだろう。何事もその時になってみねば分からない――この言葉は、当事者以外にはまったく響かないものだ。

 私の職業は小説家だった。端的に言うと、架空の話をでっち上げて収入を得る仕事だ。私ははたと気づいた。執筆も電子媒体、配信も全て電子データだった私の作品は、私という情報が消えれば、すべて無に帰すことに。

 数億年前に息づいていた生物は化石となって、四千年前のメソポタミアの文字は粘土版として、時を超えて情報を私たちに届けてくれていた。けれど現代人には、電子情報以外で情報を届ける手段が無くなっている。人間の肉体そのものも所詮はATCGの塩基の羅列という二次元的な情報に過ぎず、この思考だって、脳内のニューロン間の電子の流れに過ぎない。

 だから私は、亡き親友の形見である古い万年筆と、もはや骨董品の部類になってしまった植物繊維からできた紙を以て、この遺書を書いている。


 さて、前置きが長くなってしまった。遺書とは誰かへの要望を託すために書くものだ。ここからが私があなたに頼みたいことである。

 私の母国の詩人・中原中也は、詩『一夜分の歴史』の中でこう書いた。


“その夜は雨が、泣くように降っていました。

(中略)

コーヒーに少し砂糖を多い目に入れ、

ゆっくりと掻き混ぜて、さてと私は飲むのでありました。


と、そのような一夜が在ったということ、

明らかにそれは私の境涯きょうがいの或る一頁いちページであり、

それを記憶するものはただこの私だけであり、

その私も、やがては死んでゆくということ、

それは分り切ったことながら、また驚くべきことであり、

しかも驚いたって何の足しにもならぬということ……”


 今まさに、私が抱いている心境がこれだ。中也の人生は短かったけれど、彼が詩を書き残してくれたおかげで、私たちは彼の人生にこのような夜があったことを知っている。

 私はこの世界に、ほんの僅かでもいいから、自分の爪痕を遺したい。それに何の意味もなくとも。これを拾ったあなたが、ここに書かれた想いを持って消えていった人間がいたと、一瞬でもいい、考えてくれるなら、私がこの時代を生きた意味があると思うのだ。そしてこれを書いた人間は、それほど悪くない人生を送ったのだと、知ってほしい。その期待を、一縷いちるの希望を持てるなら、私は消失の瞬間を安らかに迎えられるだろう。

 これを読んでいるあなたは何者なのだろうか。ヒトでないのは確実だろう。あなたの姿を想像すると、こんな状況なのに少しわくわくしてくる自分が不思議だ。

 万年筆のインクも、紙も、もう残りが少ない。残された時間がいかほどなのかも分からない。しかし、書きたいことはきっとすべて書き尽くした。あなたがどうか、私の言葉の解読に挑んでくれますように。この文章が、いつかあなたに届きますように。


 これは遺書である。

 以上が私の遺志であり、あなたに対する私の願いである。

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