推歩先生とチビの龍
吉晴
第1話
木々の緑と、その葉が縁取る丸い空が小さな湖に映り、爽やかに揺らめく。
ちゃぽん、と音がして水面が揺れ、静かに龍の首が現れた。
緑の鱗はまるで周囲の木々の葉をまとったように瑞々しい。
くるりとあたりを見回すスカイブルーの瞳は真ん丸で愛嬌がある。
紺碧の鬣は水滴が輝いて夜空のようだ。
ただ、彼は龍と呼ぶにはいささか小さい。
通常、成長すれば立ち上がると大木と並ぶほど大きくなるはずであるのに、彼は成獣してなお人よりも少し大きい程度だ。
それは彼の最大のコンプレックスである。
だからこそ、人里も、他の龍の住処からも遠く離れた小さな島の小さな湖にひっそりと住んでいた。
龍の両親は生まれたとき小柄だった彼を心配し、この世で一番大きい「ソラ」を名前として贈ったが、それも虚しく龍は小さいままだった。
だからソラは空という言葉が、名前が、大嫌いであった。
「おうい。」
どこからか呼びかけられる声に身をひるがえし、水に潜る。
龍としては小さいソラなど、同族からはいじめの対象でしかなく、人間からは物珍しさから狩られかねない。
「おうい、龍はおらんかね。」
湖の淵で、一人の老人がそう呼びかけている。
自分を探していることがわかると、ソラは尚の事、水の底で体を固くした。
「おうい、少し話をしたいんだ。
出てきてくれんかね。」
こちらには話したいことなどない、と龍は身体を丸くしてだんまりを決め込んだ。
平和な日常を壊されてはたまらない。
静かな水を泳ぎ回ったり、誰にも目につかない夜に空を飛びまわったり、それから人里でこっそり手に入れた紙とペンで絵を描いたりして、たった独り、寂しいなりに楽しく毎日を過ごしているのだ。
余計な来訪者等願い下げである。
だが、不幸にもソラは空を飛ぶことと水に潜ること以外、龍らしいこと――火を噴いたり、雷を落としたり、竜巻を起こしたりすることは、何ひとつできなかった。
だからいつも来訪者が来るとこうして水底で小さな体をより小さくして去るのを待っていた。
だから今日もそうしようと決め込んでいたのだ。
ところが、事件は起きた。
「おや。紙があんなところに。」
老人が木の上を見ている。
それはソラが木の葉の間に隠していた紙とペンだ。
「神の思し召しだろうか!」
感極まって木に登って取ろうとする老人に、ソラは慌てる。
たかが老人一人、自分でもなんとか追い払えるはずだと意を決して湖から飛び出し、紙とペンの前に立ちはだかる。
「何馬鹿なこと言ってんだ!
やろうとしていることはただの泥棒だろ!」
精一杯身体を膨らませて大きく見せる。
すると老人は、かっかっか、と楽しそうに笑った。
「お前さん、そんなにその紙が大事かね。」
「うるさいうるさい!
俺が何を大切にしていようと勝手だろ!
出ていけ老いぼれ!」
「老いぼれとな、こりゃ事実だ愉快愉快!」
「なにが愉快だ!」
言葉の通り、本当に愉快そうに笑う老人に腹の虫がおさまらない。
「威勢のいいチビ助、お前さん、儂を乗せて飛ぶことはできるかね。」
「馬鹿にするな!
お前のような老いぼれを乗せるくらい朝飯前だ!」
「そりゃ結構!
龍は渡り鳥同様、正確な方位がわかるというが真かね。」
「じゃなきゃどうやって飛ぶんだよ!」
「ほう、流石だ。
ではお前さん、筆は持てるかね。」
「筆?
使ったことはないが、ペンでならば絵を描ける!」
くるりと舞い上がって木の上に置いていた絵を老人に突きつける。
木々、花々、里山、そこに描かれているものは絵とは思えないほど写実性が高い。
「ほぉ!こりゃ予想以上だ。
星は?天体には詳しいか?」
「夜空を飛ぶには星を知らねば飛べないだろう!」
「なんとこれは!
水に潜れて、空を飛べて、絵が描けて天体に詳しいなど、お前、最高じゃないか!!
これこそ神の思し召し!」
かっかっか、とまた高らかに笑う老人に、ソラは怒りも忘れてしまう。
この老人は何を言っているのだろうか。
意味は分からないが、褒められたことなど初めてで、鬣がむずむずとこそばゆい。
「お前さん、名は何という。」
一番嫌いな問いかけに、ソラは鼻を鳴らす。
「あんたに教える名前なんてないね。」
「そりゃ結構。
ではそうだな、木々の緑のように瑞々しい鱗だから葉(ヨウ)でもいいな。
小さい体のくせに粋がいいから元気(ゲンキ)なんてのも悪くない。」
「おい、勝手に名前を付けるな!」
自分のペースで話を進める老人に頭を抱えながらもソラは怒鳴る。
「ではチビ助、広い世界を見てみたくはないかね。」
「ふざけた名前で呼ぶな!」
怒鳴りつけても老人はどこ吹く風。
「ここは美しい。
静かで、空気も澄んでいて、穏やかで満ち足りている。
・・・だが、世界にはもっと不思議な場所や、息を飲む絶景もあるだろう。
様々な人や生き物がいるだろう。
興味はないかね?」
「何が言いたい?」
老人の目がきらりと光る。
「儂は、地図を作りたいのだ。
この黄泉の国の地図を。」
「黄泉の国の地図?」
思いもよらぬ言葉に首をかしげる。
「左様、この国の全てを書き記した、一枚の地図を作りたい。」
「あんた、正気か?」
この広い黄泉の国の地図など、そう簡単に作れるものではない。
ところが老人は深く頷いた。
「この黄泉の国に来る前、私は自分の国の地図を作っておった。
志半ばでこっちに来てしもうてな、もう、居ても立ってもいられない。
この黄泉の国がどれ程広かろうとも、この老体鞭打ってでも、今度こそ地図を完成させたい。」
その瞳はまるで少年のように、活力に満ちている。
覇気の塊だ。
時折この黄泉の国に、彼のような特殊な人もやってくる。
老いてなお、死してなお、何かを成し遂げようとする活きのいい死人。
「それにはチビ、お前さんの力が必要だ。
空を飛べれば崖でも測量ができるだろう。
泳ぐことが出来れば水辺の測量も簡単にできる。
正確な方位が分かるのならば持ち歩く道具も減る。
その上天体にも詳しいならば猶更だ。
お前がいれば百人力、いや、千人力とも言える!」
鼻息荒く語る様子がおかしくて、ソラはぷっと噴出した。
笑い出すと止まらなくて、腹を抱えて、涙を流して笑う。
こんなに笑ったのは、生まれて初めてだった。
「何がおかしい?」
「何がおかしいって、あんたそりゃ、」
ソラは涙をぬぐって言葉を続ける。
「龍には小さすぎる俺をそんなに褒め称える奴なんて初めてだからさ。
それにあんたが一生懸命すぎる。
それがもう、おかしくて。」
ソラが笑うと水面が揺れて霧が立つ。
それが晴れ渡る空から光を受けて虹を描く。
木々が揺れて葉が躍り、花が咲いて芳しいにおいが立ち込める。
「なるほどこれが極楽浄土。
素晴らしきかな、素晴らしきかな。」
老人は歌うように呟きそれから、声高に問いかける。
「して答えは!」
龍はくるりと空高くまで舞い上がり、おおう、と凛々しい雄たけびを上げた。
「行こう、老いぼれ!俺がお前の夢、叶えてくれる!」
その目は活力に満ちている。
覇気の塊だ。
同じ目をした老人は頬を上気させ、ぽんと膝を打つ。
「その意気だ!夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はもちろん、安穏とした極楽生活もいらん!」
かっかっか、と老人の笑い声が響く。
龍は湖岸に舞い降り、ぐいっと顔を近づけた。
「老いぼれ、お前の名を聞いておこう。」
「伊能忠・・・いやここは、苗字も刀もいらぬ極楽浄土。
となれば、推歩(スイホ)と呼んでもらおう。」
「スイホ?」
「推歩とは天体の運行を測ることや、暦を調べること、それから・・・
たどるように歩くことだ。
第二の人生を歩み始めたころは、『推歩先生』とよく呼ばれたものだ。
おおっと。」
老人改め推歩先生の袖を引き、背中に乗るように促す。
「俺に乗って地図を作るのに、たどるように歩くと名乗るとは、酔狂な。」
「酔狂で良いのだ。
歩いて歩いて、地道に続けることこそ大切なのだ。
お前にかまけてその初心を忘れぬために。」
ソラはひらりと飛んで木の上に隠してあった紙とペンを推歩先生に渡す。
渡された方はそれを大切そうに風呂敷に包み、背中に背負った。
「いざ。」
ソラが一気に大空に飛び上がる。
推歩先生は慌ててその首にしがみついた。
「おおお!こりゃ愉快!
何たる絶景!何たる迫力!
一気に若返るわ!」
「愉快だな推歩先生は!」
あまりに背中で叫ぶので、ソラはくつくつと笑う。
「おうい、チビやぁい!」
推歩先生が風音に負けじと怒鳴る。
「いい加減その呼び方をやめ」
「儂はお前のことをこれからソラと呼ばせてもらうぞ!
空色の瞳も、天駆ける素晴らしい力も、お前をソラと呼ぶに相応しい!」
ソラはスカイブルーの瞳を零れんばかりに見開いた。
まさかそんなことを彼に言われるとは、夢にも思わなかったのだ。
ソラはすっと目を細め、微かに口の端を上げた。
「好きに呼べ。」
推歩先生とチビの龍 吉晴 @tatoebanashi
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