マスター、コークスクリューをひとつ

伏見七尾

第1話

 ルカは唐突にバーテンダーをやることになった。

 というのも、アパートの隣室に住むオネエ系バーテンダーのミキが足を骨折したからだ。


「無理、無理だって。私はバーテンとかやったことないし! 他に人いるでしょ!」

「大丈夫よ! アンタ、確か居酒屋でカクテルも作ってたじゃない!」

「あのさ、私が作ってたカクテルってあれだよ! カシスオレンジとかマリブコーラとかそういう簡単なの! 混ぜるだけ!」

「余裕よ! たいていのカクテルは混ぜるだけだから平気!」


 できるできないの激しい問答の末に看護師につまみ出されを繰り返すこと二度。

 結局、ルカは押し切られてしまった。


「どうしよう……」


 バーテン服に身を包み、ルカは頭を抱えた。

 開店三十分前。誰もいない店でルカは呆然と立ち尽くしていた。

 お酒をつくって、お客さんのお話を聞いて、そうして勘定するだけ――ミキはそう言っていた。

 しかし実際にバーカウンターに立つと、凄まじい心細さが襲ってくる。


「……勉強しよう」


 そう考え、ルカはカウンターにおいていた図鑑を開く。昼間からずっと勉強していたが、それでも頭に酒の名前が入ってこない。


「ヤバイって……スクリュードライバーとか知らないって。私が知ってるスクリューってコークスクリュー・ブローだから。駄目だ、絶対に客にお出しできない……」


 そうして、開店時刻を迎えてしまった。

 リラックスだ。覚悟を決めたルカは後ろ手を組んでカウンターに立つ。

 なにも怖いことはない。昔のようにやればいいのだ。そう――。


「らっしゃーせー! 何名様ですか!」

「居酒屋かよ。デュワーズのロック」


 常連らしき老人は優しくツッコミを入れてくれた。ルカの心は傷ついた。


 その女が来たのは、雨が激しく降り出した十一時の頃だった。


「……ダイキリをひとつ」


 ずぶ濡れの女は開口一番、そう言った。

 傘を持たずに来たようだった。長い金の髪も、赤いルージュも、おしゃれなキャラメル色のコートも、全部無惨に濡れていた。


「ダイ……キリ……?」

「少なめにして。あとチェイサー」


 ぎこちなく繰り返すルカを気にするそぶりもなく、金髪の女はテーブル席に着く。

 不機嫌そうだ。眉をぐっと寄せて、唇を噛んでいるように見えた。

 逃げるようにカウンターに戻り、ルカは呆然と酒瓶を見つめる。


「……若人よ」


 ちびちびとカウンターで酒を飲んでいた老人が重々しい口調で声を掛けてきた。


「なんスか」

「ダイキリが何か知りたいか」

「知りたいですおじいさま」

「よし、ならば酒代の代わりに教えてやろう。いいか、ダイキリというのはな――」


 ――数分後。老人のいなくなった店内で、ルカは頭を押さえていた。

 金髪の女が、呆然と目の前に置かれたグラスを見ていた。

 透明な酒。

 そして、そこに浮かぶ大根の切り身。


「……私、ダイキリって言ったわよね?」

「もうその顔を見ただけでわかりました。すんませんでしたァア!」


 あのジジイ、次は酒代に迷惑料上乗せしてぶんどってやる。

 そんな決意に拳を震えさせつつ、ルカは頭を深々と下げる。

 小さな笑い声が聞こえた。恐る恐る顔を上げると、金髪の女は口元を押さえて笑っていた。


「大根の切り身を入れたから『大切り』……ふふっ、面白いわね」


 改めて見ると、美しい女だった。ただ目が赤く、まぶたが腫れている。

 そこで、ルカは気づく。

 この女は、不機嫌だったのではない。

 恐らく、本当に悲しいことがあった後、ここに来たのだ。


「――良いわ、マスターさん」


 金髪の女は笑いながら、緩く首を振った。


「すぐ帰るつもりだったけど、もう少しここでゆっくりしていくことにするわ」

「あ、は、はい……!」


 ルカは頭を下げ、慌ててカウンターに戻った。

 女はそれからサラトガクーラーを一杯飲んで、少しだけ浮ついた足取りで帰った。


 金髪の女はその次の夜も来た。


「こんにちは、マスターさん。今日はミルクセーキをおねがいできる?」


 いくらか機嫌が良さそうな金髪の女は、昨晩と同じくテーブル席に着いた。

 作り慣れたカクテルだ。

 ルカがすぐさまそれを作って持っていくと、金髪の女は物憂げに口を開いた。


「……ねぇ、愛ってなんだと思う?」


 恐ろしく重い質問が来た。


「あ、愛……ですか?」

「そう。簡単に失われてしまうのに、どうして人は愛を求めるの……?」


 恐ろしい難問だ。ルカは内心冷や汗をかきながら考えた。


「答えが出ないというか……いろんな愛があるというか……そう、痴人の愛とか」

「痴人の愛? ナオミちゃん?」

「……はい、ナオミちゃん」


 ルカはうなだれた。

 バカなことを言った。穴があったら入りたい。

 しかしルカの耳に、女の笑い声が聞こえた。


「マスターさんって、本当に面白いわね」


 今の問答に何か面白い点があったのだろうか。

 呆然とするルカの前で、金髪の女は笑いながらグラスに口を付けた。


 女は次の夜も、その次の夜も来た。

「コンクラーベ」「シンデレラ」

 女が注文するのは聞いたこともないカクテルばかり。

 そして、女は注文とともに重い問いかけをする。


「男って……みんな、同じなのかしら……」

「サンプル数が明らかじゃないんでなんとも」

「本当の愛って存在しないのかしら」

「そこになかったらないですね……」


 答えるたびルカは自分の頭の悪さに打ちのめされる。

 しかし女は何故だかルカが答えるたび満足そうに笑って、また注文する。

 必死でカクテルを作ったり、しどろもどろで答えたり。到底バーテンダーとしては落第点。

 そんな惨めな自分にも、金髪の女は笑いかけてくれる。

 いつしかルカ自身も、女の来訪を待ち望むようになっていた。


 ある夜、金髪の女は男とともに来た。

 洒落た服装の男は金髪の女を奥のテーブルに連れていくと、ルカを呼んだ。


「私はギムレットを。彼女は――」

「サラトガクーラー」


 女が言った。いつもより少し、疲れているように見えた。

 どちらもそこそこ作り慣れたカクテルだ。

 ルカはすぐさま作って、テーブルに運んだ。


「彼のことはもう忘れた方がいいよ」

 男が優しく言う。

「彼のことは、いいの」

 金髪の女が答える。


 手持ちぶさたのルカはひとまずグラスを拭く。

 カウンターでは老人が今日も今日とてデュワーズを飲んでいる。


「君を捨てるなんてどうかしてる」

 男が優しく言う。

「違うわ、私が捨ててやったのよ。――少し席を外すわ」

 金髪の女が言う。


 金髪の女はいったん席を外し、化粧室に向かった。

 男がルカに向かって軽く手を上げる。


「ブラック・ルシアン」

「は、はい」


 シンプルなカクテルだ。必要なのはコーヒーリキュールと、ウォッカ。出来上がったカクテルをテーブルに運んだ後、しばらくして金髪の女が戻ってきた。


「ううむ、良い気分だ。もう一杯もらおうかね……さて、デュワーズかボウモアか……」


 酒に迷う老人をのんびりと待ちつつ、ルカの目はまたテーブル席に向かう。

 そして、違和感を感じた。


「ひとりで生きていくわ」

 金髪の女が言う。

「どうかしてるよ」

 男が優しく言う。

「もう恋愛はたくさんなの」

 金髪の女が言う。

「君は少し疲れているのさ。そうだ、僕が注文したコーヒーを飲むといい」

 男が優しく言う。


 淡々と問答を繰り返すテーブル席。

 さっきルカが運んだブラック・ルシアンは、男ではなく金髪の女の前にあった。


「コーヒー?」

 金髪の女が首を傾げる。


「ああ。コーヒーを飲むとリラックスできるよ。ほら、こんな効果が――」


 男がスマートフォンをいじり、その画面を女の前に差し出す。

 そこで、ルカは見た。

 男の手――そこから、ブラック・ルシアンのグラスの中に白い粒が落ちるのを。


「――待って」


 気づけば、声を上げていた。

 空気が止まった。テーブル席どころか、酒に迷っていた老人までもが停止する。


「今、酒に何入れた?」


 ルカは男に鋭く問う。

 男は涼しげな顔で肩をすくめた。


「なんの話かな、マスター」

「とぼけるなよ。――というか、そもそもその人にブラック・ルシアンってなんのつもりだ?」


 体が燃え上がりそうだった。拳をきつく握りしめ、ルカはかすれた声で言う。


「その人、お酒ぜんぜん飲めないのに」


 この店で、金髪の女が飲んだアルコールは最初のダイキリモドキだけ。

 それ以外は全て、ノンアルコールだ。


「ブラック・ルシアンか」


 老人が顎を撫でながら言う。


「飲みやすいが度数は高い――酒に弱い奴に飲ませる酒じゃねぇなぁ」


 男がばっと立ち上がった。まっしぐらに玄関へと駆け出す。


「待てコラ!」


 ルカは叫び、追う。そして男の体が夜に消える寸前で、その手を掴んだ。


「離せッ!」


 男が手を振り払う。

 何かが光った。こめかみを掠めた。なにも感じなかった。

 そのまま、ルカは抉り込むようなコークスクリューを男の顔面に叩き込んだ。


 ――危うく死ぬところだった。

 怒り狂っていてさっぱり気づかなかったがあの時、男はナイフを持っていたのだ。

 幸い、ルカはこめかみを何針か縫うだけで済んだ。

 こめかみに貼ったガーゼを見るなり、入店した金髪の女は表情を歪めた。


「ごめんなさい、私……」

「謝らないで下さいよ、被害者なんですから。――で、今日は何にします?」


 金髪の女はカウンターの前に立った。

 そうして、ルカに向かって手を伸ばしてきた。


「えっ、と……?」


 目を白黒させるルカの頬を、女の手はそっと撫でた。

 そうして、女はカウンターから身を乗り出す。かすかな香水の香りがした。


「――ありがとう、素敵な人」


 たぶん、触れた。こめかみに、女の唇が。


「……本当にね、お酒は全然飲めないの」


 声も出せずにいるルカから離れ、金髪の女は肩をすくめた。

 はにかんだように笑う表情は美しく、愛らしく。


「でも、ここに来たのはね。――好きだったのよ、貴女との時間」


 ルカはこめかみに触れる。痛みは感じない。

 ただ、何故だか熱かった。


「よろしければ、名前を聞いても良いかしら」

「ルカです。貴女は?」

「私はナオミ」


 金髪の女は答え、そうして「本当よ」と甘い声で笑った。

 夜は、長い。

 そしてどんな酒よりも、人を酔わせる。

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