貢院の怪
古月
貢院の怪
そこは
林華は焦っていた。もう何十枚と下書きしたのに、未だにこれこそはと自信を持てる文章にならないのだ。どれだけ頭をひねり尽くしても、
林華は特別うぬぼれているわけではないが、自身が秀才であると信じて疑わず、事実その成績は郷里でもずば抜けていた。それなのにいつでも朴良に一歩及ばない。子供のころから共に学問を学んできたが、いつだって朴良は林華の上にいる。去年の
いっそ不合格であったならとどれほど思ったことか。一度郷試に落ちたからとて、それで二度と受験できなくなるわけではない。そうであれば、こうして同じ年の会試を受けることもなかったのに。
ふわっと地面の砂を巻き上げて風が吹く。
「腹が減ったなぁ」
染みが言葉を発した。林華は驚き、また悲嘆した。答案に頭を悩ませるあまり、とうとう精神が参ってしまったのか。
「上の荷物に食い物がある。好きに取っていいぞ」
ついうっかり答えてしまった。朝に問題と答案用紙が配られて以降、林華はまともに食事を摂っていなかった。荷物の中には食い物もいくつか詰め込んであったが、それらには一切手を付けていない。食べる時間を作るぐらいなら答案を作る時間に回したかったのだ。
壁の染みはずるりと動いて、ほほぅと漏らした。
「オレを恐れぬのか」
「ただの壁の染みを、どうして恐れなければならないのだ」
林華は自分でも驚くほどに冷静だった。今一番に集中しなければならないのは目の前の試験だ。壁の染みなど気にするに値しない。また筆を走らせる。
くつくつと染みは笑う。ずるずるとその面積を広げていつの間にか人間の顔と同じような目鼻口を作っている。
「面白い奴だ。オレは今までにこの貢院でいくつもの命を喰らってきた。オレが話しかけた奴は大抵、腰を抜かしてひっくり返り、ぺらぺらと己の
「それで、お前はそれを見て楽しむわけか」
「それもそうだが、一番の楽しみは、喰らうことだ」
染みはいつしか壁を抜け出し、狭い独房の中で真っ黒な影となって姿を現していた。とりとめがなく姿をはっきりと見ることはできない。なるほど魔物である。
「オレはこの貢院の中で、罪を犯した人間の魂魄だけを喰らうことを天帝に許されている。自らの罪を打ち明けた人間をオレはありがたく頂くのさ」
この外界から切り離された異界も同然の貢院では、
なるほど、この壁の染みもまた命を刈り取る貢院の怪であったか。
「では私はどうする。私はお前に打ち明けるような罪の持ち合わせがない」
「そうだな。残念なことに」
魔物はがぱっと口のような空洞を開き、林華の頭を喰う素振りを見せる。だが林華は動じない。この期に及んでも答案作成に勤しんでいる。
魔物の体が一転、しゅるしゅると縮んでゆく。
「お前は大した奴だ。自身の清廉潔白を信じているし、きっと本当にそうなのだろう。それどころか怪物であるオレに饅頭をくれるとまで言った。お前はなかなかの大物だ。きっと
「状元だと?」
ふん、と鼻を鳴らし、林華は初めて顔を上げた。筆を置き、書きかけだった草稿をぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。
「俺が一番の成績を取ると言ったのか? バカを言え。俺はいつだって二番目だ。俺の一つ上にはいつでも朴良の名前がある。今回だってそうだ。俺がどれほどの名文を書き上げようが、あいつは一歩その先を行くのだ」
だからこそ、いつまで経っても、どれだけ書いても、清書するに値する文が書けないのだ。もしかすると朴良は、これよりももっと優れた文を書いてくるのではなかろうか――少しでもそのような思いが過ぎると、傑作と思えたそれも駄文に見えてしまい、書き直さずにはいられなくなってしまうのだ。
へぇ、と壁の染みが興味深げに微笑んだ。
「そのような秀才がいるのか。どぉれ、その朴良とやらの様子を見てみようか。もしも奴がオレを見て恐れおののき、罪を告白したなら、オレはそいつを喰らうとしよう」
新しい紙を広げ、筆を執ったところの林華はぎょっとした。
「朴良を喰うのか」
「ああ、喰う。オレはそのような怪だからな。それに、オレが朴良を喰えばお前は誰にも劣ることはない。状元及第間違いなし、そうだろう?」
林華はしばし考え、やがてうむと頷いた。確かに朴良さえいなければ、自分は誰にも負けはしない。それは確かだ。
「それでは、ちょっと行ってこようか」
壁の染みがすうっと消える。
林華は再び文を作り始めた。すると不思議なことに、すらすらと文章が浮かんでくる。たちまち林華は四書題三、詩題一に対するすべての草稿を書き上げた。
我ながら素晴らしい出来栄えだ。林華は一度通しで読んでみて、強く自信を抱いた。さらにもう一度読んでみる。すると何か所かに不満を覚えた。そして
李華は地面に捨てていた草稿を拾い上げて読んでみた、するとどうだ、先の文章とはまるで違う、素晴らしい作ではないか。さらに二、三を拾い上げて読んでみれば、これまた見事な出来栄えである。読みやすさの中にも技巧が凝らされ、読めば読むほどに惹きつけられる。ただ美辞麗句を並べ立て、平々凡々な調子の中に無駄に凝った表現を散りばめた先の文とは大違いである。
どうしたことだ――林華は焦った。どうして我が文才は、ここにきて忽然と消え失せてしまったのか。
「――ああ、朴良!」
そうだ、これまで投げ捨てていた草稿は、いずれも朴良を超えようと知恵を絞り一文一文に心血を注ぎ、それでもなお満足できなかったものだ。それに対し、先の草稿はこの世に我と比ぶる者なく、我こそが状元であると心のどこかで確信しながら書かれたものだ。そのために傲慢さや虚栄心が見え隠れし、駄文と化したのだ。
朴良がいたからこそ、その背中を追ったからこそ、林華はここまでやってこれたのだ。それを、ああ! 恐ろしい魔物の贄へと差し出してしまった!
林華は号舎を飛び出した。他の号舎がずらりと並ぶのを横目に、その前を李華は大きく騒ぎ立てないように、しかしできる限りの足取りで朴良の号舎へと向かう。
ヒタヒタヒタ。前方の暗闇から誰かが歩いてくる。林華はドキリとして立ち止まった。見回りの兵だろうか。厠へ行こうとする他の受験者だろうか。それとも、あの魔物だろうか。
あちらもまた林華に気づいて立ち止まった。月と星明りの下、ぼんやりとした姿しか見えない。
「そこにいるのは、誰だ?」
聞き覚えのある声だった。
「朴良か? 朴良なのか? 俺は、林だ。林華だ」
「なに、林華だと」
お互いに歩み寄ると、ようやく顔が見えた。確かに相手は朴良だった。
「林華、無事だったのか」
「無事だった、とは?」
林華が問い返すと、朴良は頭を振って嘆息した。
「信じられないかもしれない。そして幻滅するかもしれない。俺はついさっき、魔物と出会ったのだ」
林華はドキリとした。
朴良が言うには、彼の号舎にも林華と同じく壁の染みに化けた魔物が現れた。腹が減ったという声に対して朴良が手持ちの食料を分けてやろうと申し出たところ、魔物はこう言ったという。
「お前が言う林華とやら、オレが喰らうとしよう。そうすればお前は誰にも脅かされることなく、状元及第できるだろう――と。林よ、俺はな、いつかお前に追い越されるのではないかと恐れていた。だからいくつも下書きをしては、未だにこれはと思える文が出来上がっていない。魔物が去った後、俺はまた一つの草稿を書き上げた。だがそれは目も当てられない酷い出来だった。俺はお前がいなければ、決して良い文章は書けなかったのだ」
林華は驚いた。魔物の一件が自身の体験したものと似通っていたこともあるが、なにより朴良が林華を意識していたという部分にである。
林華もまた自身の身に起こったことを話した。朴良はやはり驚いた。何ゆえにこのような怪異が、自分たち二人の身に起こったのだろうかと。
やがて得心したように林華は言った。
「これは天の計らいだったのかも知れない。俺たちはこのままでは、いずれお互いを妬み合い憎み合って、あるいは謀殺してしまったかも知れない。それを未然に防ぎ、変わらず切磋琢磨せよと、天は諭してくれたのだ」
そうに違いない。二人は頷き合った。
林華と朴良はその年の進士、すなわち合格者となった。
どちらが状元でどちらが
(了)
貢院の怪 古月 @Kogetsu
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