一番目の僕と、二番目の君と、

白石 幸知

第1話

 誰もいない教室で、僕は静かに本を読んでいる。いつものことだ。朝、一番最初に学校に来る僕は、こうして無音の教室でただただ学校の図書館で借りたハードカバーの文芸書を読んでいる。

 別に友達がいないわけじゃない。それなりに趣味の合うクラスメイトもいるし、お昼ご飯だってボッチではない。寂しいな、と思ったことはない。

 五分十分くらいページをめくっていると、ふと教室のドアが開く音がした。僕は本から視線を上げ、音がした方を向く。

「おはよう、石川くん」

「お、おはよう。松井さん」

 にこやかな笑顔を浮かべつつ入って来たのは、いつも二番目に教室に入る松井さんだ。堂々とした足取りで自分の机に荷物を置いて、僕の隣の席にやって来る。

「石川くんもそれ読んでるんだ。どう?」

「え? 松井さんも読んだの?」

 表紙を覗き込んで、すぐに僕と目を合わせる。

「うん。私も読んだよ。終盤の伏線回収が凄くて、鳥肌たった」

「本当? それなら今伏線撒いているところなんだね。頑張って読まないと」

「そうだね、最後でビクッとなるから」

 クラスでも人気者の松井さんだけど、こうやってクラスの余り者の僕にもこうやって気さくに話しかけてくれる。

 僕は、この朝の松井さんと話す時間がたまらなく心地よかった。

 でも、その時間は長く続くわけではなくて。

「あ、有紀おはようー」

「おはよー紗奈」

 松井さんが教室に入った五分後くらいに、三番目に来るクラスの女子が来た。すると、松井さんは「じゃあね、石川くん」と小声で僕に囁いてから、友達の女子の方へと向かっていった。

 僕はまた、一人で本を読み始める。

 三番目の人が来ると、あとはもう続々とクラスメイトが教室にやって来る。順番もアバウトになる。僕の周りの座席も埋まって、朝の雑談に花が咲き始めるんだ。

「えー有紀また告白振ったのー? これで何人目ー?」「いやいや、そんなに振ってないよ私。おおげさなんだから紗奈は」「でも松井さんってほんと人気だよねー週一くらいで男子に告白されてない?」「う、うん……そうかな」「それでまだ彼氏いないんでしょー? 誰か好きな人でもいるのー?」

 黒板の前で繰り広げられる松井さんグループの会話。別に聞き耳を立てているわけではないけど、声が大きいので自然と耳に入ってしまうんだ。

 ゴクリ。

 別に松井さんと強いかかわりを持っているわけではないのに、唾を飲み込んでしまう。

 す、好きな人、いるのかな……松井さんに。

「うーん。……好きな人っていうよりかは、波長が合う人、ならいるけど」

 その言葉に、一瞬、胸が跳ねる。え? 波長が合う……? いやいや待て待て。都合いいこと考えるな僕。こんな根暗で読書オタクの僕があの松井さんにそう思われているわけないだろ。妄想は妄想で終わるから妄想なんだよ落ち着け僕。

 ……で、でも……。

 僕は視線を紙に印刷されている文字から楽しそうに会話をしている松井さんに向ける。

「へ……? な、なんで……」

 すると、あろうことか、松井さんは可憐な瞳を僕に向けているではないか。慌てて目線を逸らし本に向ける。

「あれ? 今誰か見てた? 有紀」「いやいや。何でもないよ?」「えー? 気になるなー教えてよーだーれー? 波長が合う人ってー」

 ……あ、あれだ。きっと僕を見ていたのは僕の勘違いで、隣のイケメンでモテる水口を見ていたんだ。そうに違いない。

 朝のホームルームが始まるチャイムが鳴り、担任が教室に入る。

「ほらー席についてー。ホームルーム始めるよー」

 それに合わせて、騒がしかった教室が一旦静まり、また誰もいない教室のような静けさが取り戻される。

「今日の六時間目に、秋の修学旅行の班決めするからー、ある程度決めといてもいいから、クラス委員中心に考えといてねー。あと、進路希望調査票、まだ出していない人は提出。それくらいかなーじゃ、ホームルーム終わりー」

 簡単に連絡事項を伝えた先生は足早に教壇を降り、教室から出て行った。

 そっか……修学旅行か……。

 松井さんと回れたら、楽しいのかな……。

 いかんいかん。現実を見ろ僕。友達少ない僕は慎ましく大人しい修学旅行を送るんだ。そうだそうだ。

 ブルンブルンと頭を左右に振って意識を覚まし、僕は再び読みかけの本を進め始めた。

 松井さんの言う通り、その本は、伏線を拾い始めてからは圧巻の展開だった。やはり映画化されただけあるな。


 季節は流れ、二年の終業式。結局修学旅行は予想通り僕の数少ない友達と一緒の班になり、特に青春の過ちを犯すことなく終わっていった。クリスマスも、バレンタインデーも女の子と何かするまでもなく、ただただ本だけを読みふけって過ごしていた。

 終業式の朝も、変わらず僕は本を読んでいた。朝陽が窓から差し込んで、僕の体を優しく温める。誰もいない教室で、こんなセンチめいたことを考えることができるのが、朝一番乗りの特権かもしれないな、なんて馬鹿なことを思っていた。開いた窓から、柔らかな風が僕の頬を撫でて、片手で開いた文庫本のページをパラパラとめくる。

「いけね……」

 僕は本をめくって読んでいたところまで戻ろうとする。そのタイミングで。

「あ」

「あ、松井さん……」

「……おはよ、石川くん」

「うん、おはよう」

 二番目に来る松井さんが教室に到着した。これまで繰り返してきた毎日同様、荷物を置き、隣の席に座る。

「……風、気持ちいいね。陽射しも」

 いじらしく視線を落とす彼女は、僕にしか聞こえないような大きさの声で呟いた。

「クラス、替わっちゃうね」

 何かを惜しむように、上がらないテンションで続ける松井さんの目が、今日は僕と合わない。

 その一言で、僕も気づいた。

 そっか、クラス替えか……。じゃあ、別のクラスになったらこんなふうに松井さんと話すこともなくなるのか。僕と松井さんは住む世界が違う。きっと、こうやって朝会話をするだけでも奇跡的なことなんだ。クラスなんてわかれたら、もう二度とかかわることはないかもしれない。

 ……少し、寂しい、そんな気持ちがした。胸に押し上げる切ない感情。名前を付けるなら憧れか、はたまた恋情か。

 まあ、よくある地味男子の叶わない、って奴か。

 自分のなかで決着をつける。

「そう、だね」

 そういえば、秋前に、波長が合う人、みたいな話をして僕と目線が合ったような気がしたんだけど、それから何も起きなかったから、やっぱり僕の勘違いだったのだろう。

「あっ、あのさ……石川くん、よかったら……」

 松井さんは何かを決意したように、僕の顔をじっと見つめて、そして、

「……ライン、交換してくれない?」

 スマホを差し出しながら、そうお願いしたんだ。

 外に咲く桜の花びらが、風に舞い落ちて教室に流れ込む。ひらりひらり不規則に踊るピンク色は、僕の視界を横切る。すると。

「……?」

 錯覚だろうか、桜の花を見たからだろうか。隣に座る松井さんの頬が桃色に染まっていたんだ。

「い、いいけど……僕の連絡先、欲しいの?」

「うっ、うんっ。ほ、欲しい! ……あっ」

 僕が返すと、ノータイムで返す松井さんは、身を乗り出して僕に近づき過ぎてしまったことに気づいた。

 なんかシャンプーのいい香りするなあって思ったよ……視界の情報が先に来たから、驚くのが先になっちゃった。

「はい、QRコード」

 僕は画面をつけたまま松井さんにスマホを渡す。おもちゃを買い与えられた子供のようにはしゃぎながら松井さんは受け取り、友だち登録を済ませる。

「また、連絡していい?」

 満面の笑みを浮かべつつ、そういう彼女に、駄目だなんて言えるはずなかった。

 なんだかんだで僕も、少し、いや、結構嬉しかったのだから。

「おはよー有紀」

「あ、おはよう、紗奈」

 三番目の友達が入ったのを見ると松井さんは席を立ちあがり、片目をパチリとウィンクさせ、「これからもよろしくねっ。石川くん」と囁き、僕の側を離れていった。


 〇


「──っていうのが、お父さんとお母さんが出会ったきっかけかなー」

 高校の卒業アルバムをパタと開いたまま置き、隣に座っている僕の娘にそう話を締めくくる。

「へー。お母さん高校生のときは人気者だったんだー意外」

「そうそう。だから朝の時間しか最初は話さなかったんだけどね」

「まあ、お父さん今でも人と話すの苦手だもんね」

「……ほんと、僕に似なくてよかったよ、そういうところ」

「あれー? 二人で何話してるの?」

「あーお母さん。お母さんとお父さんの馴れ初め聞いてたのー」

 娘がそう言うのを聞き、台所からリビングに来た有紀は、ぽっと顔を少し赤く染め、

「よ、余計なこと言ってないよね……?」

「うん。言ってないよ」

 なんて言うのがまた少し可愛かったりする。

「えー? 何かあったのー? 教えてよー」

「い、言っちゃだめだからね」

「うーん……どうしよっかなー」

「も、もうお父さんの意地悪っ」

「あーお母さん拗ねたー」

 なんて幸せな家族のひとときを、僕は過ごしていた。


 ……信じられるか? 僕。ま、無理だろうけど。……でも、きっと、高三の冬に、気づくだろうから。そのときまで、せいぜい振り回されていなよ。なんだかんだで楽しかったからさ。

 卒業アルバムの最後のページに貼られた学年の集合写真。

 校庭で撮られたその一枚。皆思い思いのポーズ、人と固まっているなか、松井さんは……いや、今はその呼び方は違うか、有紀は、おどおどしている僕の横に飛び込んで満面の笑みを零していた。

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