メナシチカフを見に行った
くろまりも
メナシチカフを見に行った
メナシチカフを見に行った。それが始まりだ。
雪菜がいなくなってから一ヶ月。僕は森を彷徨っている。
雪菜は僕の幼馴染で恋人だった。若者特有の無意味な気恥かしさから、付き合っていることは周囲に隠していたが、家族ぐるみの付き合いでほぼ公認だったので、ばれるのは時間の問題だっただろう。
彼女が姿を消した翌日、雪菜の両親が真っ先に連絡をよこしたのも僕だ。メナシチカフを見に行くという言葉を最期に、雪菜は家に帰ることはなかったという。
僕の住む町は自然が多く、冬は雪が深い。都会では少女が一晩帰らなかったからといって大騒ぎされることはないだろうが、ここでは命に関わる大事だ。すぐに捜索隊が組まれ、大勢の人間が森を掻き分けて雪菜を探した。
幸か不幸か、雪菜はすぐに見つかった。……捜索中に発見されたヒグマの胃袋の中から。
冬眠に失敗したヒグマは凶暴だ。高校生の女の子なんてひとたまりもない。
ヒグマは銃殺されて事件は解決したが、このエキサイティングな事件はマスコミによって大々的に報じられた。雪菜の両親はもちろん、僕のところにまで記者が押し掛け、悲劇の当事者として連日テレビに映された。
おかげで、雪菜の両親はすっかり心神喪失状態。ただでさえ、娘の葬式に使われた棺桶の中には、彼女の身体の一部しか入っていないというのに。
そう。雪菜の遺体は、ヒグマの胃袋の中に入っていた分しか見つかっていない。
ヒグマは、仕留めた獲物の一部を土に埋めて保存する習性がある。彼女の身体の大部分は、まだこの森のどこかに埋まっているはずだ。
折り悪く、雪菜がいなくなった翌日から雪が降り、ヒグマの足跡が消えていたため、彼女がどこに埋められたのかはわからない。それでも有志の人たちが探し回ってくれたが、徐々に人は減り、一ヶ月経った今でも諦めていないのは僕くらいだ。
雪が解けるのを待ってから捜索した方がいいというのはわかっている。だが、こうでもしていなければ正気でいられないほど、僕の心は吹雪のように荒れ狂っていた。
僕はまだ、雪菜が死んだことを信じられていない。あんな、ヒグマの食べかすだけで彼女の死を納得しろと言うのが無理な話だ。きっとどこかでまだ雪菜が生きているんじゃないかという希望を持って、僕は今日も森を彷徨う。
「メナシチカフを見に行ったんだ」
彼女の居場所の手がかりは、その言葉しかない。ただそれだけを頼りに、僕は雪菜を探し続ける。
ざくり、と背後で雪を踏みしめる音がした。
ヒグマの存在が脳裏をかすめ、僕はびくりと身体を震わせながら振り返る。だが、そこにいたのが自分より若い少女だとわかって、ほっと一息吐いた。
「こんにちは」
少女は明るい声で挨拶しながら、僕の方に歩み寄ってくる。
雪のように白い肌を持つ少女だった。だが、可愛さより先に美しさが先立ち、一目でぞくりとした寒気が走る。髪は白に近い灰色で、毛先だけ横縞のラインが入っており、明らかに不自然なのに、妙にしっくりする不可思議さがある。
そしてなによりの特徴として、彼女の眼は閉じられていた。
彼女は杖も持っていないのに、しっかりとした足取りで近づいてくる。明らかに雪の森を歩き慣れた様子だ。しかし、僕はこの森によく来るはずなのに、彼女に見覚えがなかった。一度でも見かけていたら、絶対に忘れないであろうに。
「……こんにちは?」
「こ、こんにちは」
僕が黙り込んでいると、灰髪の少女は首を傾げながらもう一度挨拶する。僕も慌てて返事をするが、幽霊か妖怪にでも会った気分だった。
「こんなところで何やってるの?このあたりは最近人喰いクマが出て物騒なんだ。女の子が一人でいるのは危ないよ」
最初は気圧されたが、年長者として一応注意しておく。まして、相手は目が見えないのだ。一人で出歩くには危険すぎる。
僕の言葉を聞くと、少女は目尻を下げて、ほぅほぅという音を口から漏らした。少しして、それが笑い声であるということを僕は理解した。
「あの子は人間に退治されたんでしょう? 他の子はきちんと寝てるから、無理に起こしたりしなければ大丈夫だよ。それに、クマに襲われたら、男でも女でも変わらないわ」
冬眠に失敗したクマが他にいないとは限らない。しかし、彼女は妙に確信した物言いで、奇妙な説得力があったので僕は納得してしまった。
だが、目の見えない少女を森に置いて、はいさよならというわけにもいかない。家まで送り届けてあげようかと思っていると、先に少女の方が口を開いた。
「あなたこそ、こんなところで何をやっているの? 最近、毎日ここに来ているようだけど」
僕は返答に詰まった。幼馴染の死体を探しに来たなんて言えば、変な奴を通り越してサイコパスと思われる。なにより、こんな子どもに話す内容ではない。
適当にお茶を濁そうかとも思ったが、最終的に僕は正直に話すことにした。不思議と、彼女は僕の話を聞いても引かないという確信があった。
「知ってるわ。殺される瞬間を聞いていたもの」
予想通り、灰髪の少女は僕の話を聞いても引きはしなかったが、その口から出たのは予想外の言葉だった。
身の凍るような思いでありながら、真夏のように大粒の汗が背中を伝うのを感じる。僕はカラカラの喉を震わせて、この悪趣味な少女を怒鳴りつけた。
「き、聞いてた?嘘言うな!適当なこと言って、僕をからかって――」
途中で、僕はギョッとして言葉を途切れさせる。
少女の目が開かれていた。とても大きな瞳には狼狽する僕の顔が映っており、彼女はそのまま首を九十度横に倒してみせる。その不気味な動作に、僕は思わず半歩後ずさった。
「君、目が見えてるのか?」
「うぅん、見えないよ。ただ、目蓋を上げてた方がよく聞こえるから」
聞こえる?僕の疑問を余所に、少女は森の中を歩きだす。その足取りに迷いはなく、本当に目が見えていないのかと疑問に思えるほどだ。
僕が戸惑いながら少女の背中を見送っていると、途中で彼女は振り返った。その瞳からは確かに光が失われていたが、顔の向きは正確に僕を捉えている。
「彼女の死体を探しているんでしょう?案内してあげる」
そう告げると、灰髪の少女はもう振り返らずに歩き始める。
今の僕はきっと間抜けな顔をしているだろう。狐に化かされてるんじゃないだろうかと真剣に思いながら、少女の後を慌てて追いかける。
ざっ、ざっ、という雪を踏みしめる音が響く。しかし、少女の足音はとても静かで、まるで彼女は幻で、自分は一人で歩いているんじゃないだろうかと錯覚しそうになる。
「お兄さん、フクロウは好き?」
鳥の囀りのような少女の声が、彼女が現実の存在であるということを知らしめる。
僕は少し迷ってから頷いた。雪菜と一緒に、よくバードウォッチングをしたものだ。フクロウだって、よく見つけた。
「フクロウは森の物知り博士って言われるくらい賢い鳥なの。彼らはお互いの声で連絡を取り合い、情報交換をする。声は二キロ先まで届くから、森で起きてることは何でも知ってるの。人間でも注意して聞き分ければ、何を言っているのか大体分かるのよ?」
「……それで、雪菜がクマに殺されたことを知ったっていうのか?」
少女は足を止めて、不思議そうに首を傾げた。その大きな瞳が僕の心を覗きこんでいるようで、不安な気持ちになる。
だが、心が乱れるより先に、僕の視線は雪から覗くものに釘づけになった。
「不思議なことを言うのね?彼女を殺したのはあなたじゃない」
少女の言葉は耳に届かなかった。彼女がすべてを知っているという予感は既にあったし、それ以上に今の僕はそれどころではなかった。
僕は少女の隣を通り過ぎ、雪から生えていた腕の前で膝をつく。冷たく、ボロボロに傷ついた作り物のような腕だ。だが、そんな状態であっても、かつての恋人の腕を見間違えるはずがない。彼女はこの下に埋まっている。実感の持てなかった彼女の死を自覚して、腕を手にとった僕の目から涙がこぼれた。
合言葉に深い意味なんてない。ただ、僕たちだけが知る秘密というのが妙に楽しくて、そんな遊びをしていた。
僕と雪菜の間に問題なんて何もなかった。あの日だって、僕たちは雪の中でじゃれていただけで、彼女を殺す理由なんてない。ただ、僕が悪戯で彼女を雪の上に押し倒して、雪の下に隠れていた石が後頭部に当たった。ただそれだけだ。
ただの事故だったが、その時の僕はそうは思わなかった。必死になってその場から逃げだし、ベッドの中でガタガタ震えながら夜が明けるのを待った。
雪菜の遺体はすぐに見つかり、僕は犯人として警察に捕まる。……そう思っていたのに、犯人はヒグマとなり、誰も僕を疑わなかった。
罪の意識で胸が潰されそうだった。だが、自首する勇気もなかった。だから、もしかしたら雪菜はまだ生きているかもしれないなんて、自分でも信じていない絵空事を信じて、彼女の遺体を探し続けた。
だが、雪菜の遺体を発見してしまった以上、もう自分へのいいわけはできない。僕が犯人だと知っている女の子もいる。僕はもう逃げられない。
そこでふと、悪魔が鎌首をもたげる。ここでこの子を殺してしまえば、僕の罪を知るものはいなくなるんじゃないか?目の見えない年下の少女一人。殺すなんてわけない。
雪が落ちる音で、はっと顔を上げる。木の枝に一羽のフクロウが止まっており、じっと僕を見つめていた。
あぁ、ダメだ。フクロウが見ている。フクロウが知っている。ここでこの子を殺しても、僕はメナシチカフから逃げられない。
僕は伸ばしかけた手を止め、雪の上に倒れて空を見上げた。
メナシチカフを見に来て、メナシチカフに見つかった。つまりはそういうことだろう。
メナシチカフを見に行った くろまりも @kuromarimo459
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます