第60話 図書委員長、最後の戦い
視界が少しずつ歪んでいった。
抱きしめた藤乃さんの制服姿が微かに揺らぐ。透明で不可視なそれは藤乃さんの胸の傷跡から拡がっていき、やがて彼女の全身を包み込んでいく。
顔をあげた僕は、まるで水の中から外界を見ているような感覚に陥った。
僕たちは文妖に取り込まれたのだ。
☆
「き み い く ん……」
間延びした音に、僕は振り向く。
斎原の声だった。
斎原は確かにそこにいた。
だがそれは僕が知る斎原美雪とは似ても似つかぬものだった。
これが文妖の視点なのか。
斎原美雪は『斎・原・美・雪』という文字に分解されていた。斎原だけではない。この生徒会室のすべてが本来の姿を失っている。
そしていま斎原を構成しているものは『細胞』という文字であり、その細胞は『分子』という文字に分解された。
分子はさらに『原子』という文字になり、さらに『素粒子』という文字に至る。
「ゲシュタルト崩壊……」
ひとつの文字を見詰めていると、それが単なる線の集合にしか思えなくなる時がある。そしてその文字が何を意味しているかさえ分からなくなるのだ。
これは、そんな感覚に似ている。生物、無機物すべて、文字という構成要素に分解されていた。
『初めに文字ありき』
世界は形を喪い、文字に還った。
☆
そこはただひたすらに白く、何の音も聞こえなかった。
僕の腕の中には、小柄な藤乃さんの身体があった。この世界の中には、もう僕と藤乃さんしか残っていないのだと気づく。
「みんな消えてしまえと願ったんです」
文妖に。図書館も、斎原も、彼女を構成していた文字さえもすべて。
「ずっと君と一緒に居たかったから」
藤乃さんは身体を起こし、僕にキスした。
何度も何度も唇を合わせる。
「永遠にこうやって一緒にいてくれますよね」
この世界なら、それができるのだ。
藤乃さんは制服の上着を脱ぎ、シャツのボタンをすべて外す。
清楚な下着に包まれたその胸。
微かだった二つの膨らみは、いまは零れんばかりに下着を押し上げ、その白い肌には少しの傷もなかった。
「これが本来あるはずの、わたしです」
藤乃さんは僕の背に手を回す。
「ここでだったら、何でもしてあげられます」
ゆっくりと身体を離し、僕は首を横に振った。
「でもこれは、藤乃さんじゃない」
藤乃さんは身体を固くした。
「どうして。胸の大きい方が好きなんじゃないですか?」
それは否定できなかった。できなかったけれど。
「ここに居たら、藤乃さんは本当に文妖になってしまうだろ。僕が好きなのは、人間の藤乃さんだ」
大怪我をしていて、繊弱で、胸がちっちゃくて。でも、一生懸命な藤乃さん。コンプレックスを抱えながらも、僕の事を好きでいてくれる藤乃さんが。
「僕は大好きなんだ!」
何かを言おうと口を開いた藤乃さんの内部で何かが反転した。
空虚な洞穴になった彼女の眼窩から暗闇が流れ出す。
僕の腕を掴んだ藤乃さんの手も闇色に変じ、溶けるように僕の腕に沈みこんでいく。
全身が凍り付いたように動かないまま、僕は闇に同化されていった。
☆
突風が吹き抜け、雲が切れたように明るい光が差し込んできた。
光を背に、長身の少女が立っていた。
「まったく、がっちゃんは世話がやけるな。さあ、帰るぞ」
折木戸はそう言って僕の手を引いて立ち上がらせた。
そうだ、折木戸はまったく文妖の影響を受けない稀有な女だった。
「待て、折木戸。藤乃さんは」
「大丈夫。外にいるよ」
そう言って折木戸は光の方へ歩き出した。
あれだけ広大に思えた文妖の内部世界だったが、いまはその痕跡すら残っていなかった。
「危なかったよ。生徒会室が全部呑みこまれるところだったからね、これに」
斎原の手のひらに小さな文妖の卵が乗っていた。
「折木戸さんがいてくれて良かったです」
月沼さんも頷いている。
「あれ、埜地がいないんじゃないか?」
「ん? いいんじゃない、別に」
斎原にそう言われると、それ以上追求しにくい。
(後で机の下に倒れているのを発見した。)
藤乃さんは才原に抱きかかえられていた。
眼を閉じたまま、ゆっくりと胸が上下している。
「ちょ、ちょっと失礼するぞ」
僕は藤乃さんのシャツに手をかけた。どうしても確認しておかなくてはならない事があるのだ。
「……あぁ」
藤乃さんの胸元を寛げた僕は、落胆とも安堵ともつかない声をあげていた。
ブラなんて無用とすら思える胸も、大きな傷跡も以前のままだった。つまり僕の知る藤乃さんだった。
「この変態がっ!」
次の瞬間、藤乃さんを抱えた才原に回し蹴りをくらった。
☆
「実は、今度は本当にお別れです」
あの文妖事件から数日後、藤乃さんは僕に言った。
転校することになった、らしい。
「前から決まってはいたんですけど、両親の、その、都合で」
沈んではいるけれど、どこか諦めも入った口調だった。
「時間が掛かりましたけど、あの二人も結論が出たみたいで」
藤乃さんも一緒に悩み、その結果、何度も文妖を発生させてしまったのだった。
「いっぱい迷惑をかけてごめんなさい」
こうして藤乃さんは現れた時と同じように、突然に僕の前から去っていった。
☆
もともと連絡がつかない事で有名な藤乃さんだ。
SNSはおろか電話で話すことも無いまま日々が過ぎた。
やがて東雲高校を卒業した僕は斎原と共に、彼女の実家が運営する大学に入った。学部は『文学部・特殊書籍学科』。
同時に『斎原特殊書籍研究室』の研究員にも正式採用され、各地で起こる文妖発生の調査に赴くことになった。この調査報告を提出すれば、学校の単位も貰えるのである。
ある日、斎原が一枚の書類を持ってきた。
「ねえ君依くん。明日からの夏休みを利用して、この調査をお願い」
またどこかの図書館で文妖が発生したらしい。
僕は斎原特殊部隊から借用した、派手な色の車を走らせた。
とある市立図書館。
僕はカウンターの前に立つと、名刺を出し用件を伝える。
「こちらの
カウンターの女性は、あーはいはい、と頷くと奥の事務室に声をかけた。
「久遠さん、お客さんですよ。例の、斎原さんとこの……」
「お待たせしました」
事務室から足早に小柄な女性が出てきた。胸の名札に「久遠」とある。この人が今回の依頼人だった。
「久遠さん……で、いいんですか」
その女性は僕を見て、ちいさく頷いた。
そして、ちょっといたずらっぽい表情になった。
「でも、呼びにくいようなら、藤乃でいいですよ」
少しだけふっくらしたように見える藤乃さんが、にっこりと微笑んだ。
「きっと、君が来てくれるような気がしてました。折木戸さんもお元気ですか」
「もちろん。あいつが元気じゃないところなんて想像できないでしょ」
「本当ですね」
藤乃さんこそ、元気そうでよかった。僕は少しだけ泣きそうになった。
「じゃ、仕事の内容を訊かせてください、……久遠さん」
僕は彼女の名札を見ながら言った。彼女もその様子に気付いたのだろう。
「ああ、この久遠って、母方の姓ですよ」
ほう?
「やだなぁ、結婚したとか思ったんですか。わたしはずっと君一筋ですよ」
――だったら連絡、くれよ。
――こっちから電話した時くらい、出てよ。
まあ、藤乃さんに言いたい事はいっぱいあったけれど。
「それじゃ、依頼の内容を説明します。一緒に来てくれますか」
藤乃さんの小さな背中を見ながら、僕は図書館の奥に入って行った。
人目がなければ、後ろから抱きついていたかもしれない。
そこには先客があった。
「遅いよ、君依くん。先に調査始めてるよ」
斎原だった。腰に手をあて、胸をそらす。
「にやけた顔してないで。じゃあ本格的に始めようか。もちろん藤乃さんも手伝ってくれるでしょ」
元 東雲高校図書委員長 斎原美雪。
彼女の戦いは、まだまだ終わらない。
図書寮の末裔~恋する図書委員長は戦い続ける 杉浦ヒナタ @gallia-3
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