ウルティマ・トゥーレの大河

緯糸ひつじ

太陽系規模にまで話を膨らませたガール


 窓から覗くのは、地平線まで荒れ果てた大地、地を這う土煙、やや赤みがかっている広い空。人間の存在が希薄で、不安を煽る景色。

 私はこの過酷な環境でサバイバルしなければならない。すでに幾多の危険をくぐり抜けている。引き連れた五人の仲間には、命を預けていると言ってもよい。

 私が想像していた未来より、ずっとマッド感がマックスだし、ポストアポカリプス感に溢れている。ストレスはままあるけど、体はずっと軽い。


 不意に思い立ち、タブレットを取り出して、自分の誕生年で、検索してネットの百科事典を開いてみる。ゆっくり、飲料水を飲みながら。


 当時起こった出来事を抜き出してみる、順番はこんな感じだ。

 ルワンダ虐殺が起きて、アイルトン・セナがレース中に事故死して、ネルソン・マンデラが大統領になり、木星にシューメーカー・レヴィ第9彗星が衝突し、フェルマーの最終定理が証明されて、クリスマスに私が誕生した。


 それが一九九四年。

 この年の悲劇と希望で綱引きさせたら、どちらが勝つだろうか。


 昔々、嘘みたいに地獄に叩き込まれた国があり、そして真の融和へと踏み出した国があった。

 時速218キロメートルという速さでF1の貴公子を一人失って、360年間解かれなかった問を制した数学者が一人現れた。


 そして、そんな人類の営みもちっぽけに思うような、稀有で劇的な天体のイベントも起きる。

 シューメーカー・レヴィ第9彗星の木星衝突。


「地球からキノコ雲を観測するほどの威力だったとか」


 と仲間の一人が言った。


「まあね、人類が今日に至るまでに突き立てたソレとは、エネルギーが桁違いだけどね。あのとき木星に地球と同じサイズの衝突痕が残ったそうよ」


 人の営みなど、砂粒みたいなもの。想像の及ばない大きさで、世界は回っている。


「なんか、人一人のちっぽけさを思い知らされるよね」


 タブレットに収めた画像には、よく見知った男の笑顔がある。


「元気出せって。空を見上げろ、その彼も遠い遠いあっちの世界から見守っているよ」


 と仲間の一人が、私の背中をぽんっと叩いた。

 どうしてこんな荒涼とした大地が広がっているのか。

 私はこの風景に至るまでの月日を回想する。



 ■


 二〇〇四年、九月。九歳。小学四年生。

 移動式のプラネタリウムを見る。

 科学館に特設されたエアドームに入る。空気が漏れないように作られた小さな入り口は、洞窟に入るような未知への冒険を思わせる。

 当時最新鋭のプラネタリウムで投影された星空は、天の川の星まで一点一点の光で再現していた。

 久遠の空間と悠久の時間を、初めて意識した日。プラネタリウムから出た後の景色は、全く違って見えていた。


 日常の全てがちっぽけなことに思える。たとえば、逆上がりが出来なくても別に良くなった。


「お前、できねぇの?」


 公園で父との練習中に、友達に茶化されても。


「この鉄の棒を軸に回らなくても、地球の地軸を中心に私は回り続けているから、大丈夫」


 と私は返す。

 怪訝な顔をする少年に、父は笑いながら伝える。


「この子、ちょっと太陽系規模にまで話膨らませたがるんだ」



 ■


 二〇〇六年、八月。冥王星が惑星から外されて、準惑星となる。

 十一歳。小学六年生。「すいきんちかもくどってんかい!」と覚え直す。


 家の屋上で、私は夜空を見上げた。


「見えないんだっけ」


「この望遠鏡じゃ無理かな」


 父は望遠鏡に手を掛けて、首を振る。

 冥王星は肉眼で見えないし、望遠鏡でも家庭用では見えない。


「えー、残念」


 だけど、この星降る夜の何処かに、必ず冥王星は在る訳で。

 友情やら愛やら絆やらと同じだ。


「目に見えないけど、絶対にある。そういうモノの中で、実体が在るモノのひとつだ」


 と父は言いながら、私の頭を触れた。



 ■


 二〇XX年、X月。

 千葉県、九十久里浜に謎の隕石が一つ堕ちた。隕石墜落そのものによる被害はゼロだった。

 しかし翌日、千葉県の三分の二が灰燼と化した。

 数少ない生存者の証言によると「三本足の機械が現れるなり、ところ構わず破壊し尽くしていた」とのこと。


 政府は、非常事態宣言を発令。

 荒川を渡す橋を自衛隊が爆破したものの、その機械群の東京侵攻を阻止することは叶わなかった。


 すでに高校の校舎も瓦礫の山となっている。


 ──ほら、急げ、速く!


 学生服の男子が、私の手を引いて国道を走る。彼の真剣な横顔を見ながら走る。このシチュエーションでも、少し照れるものなのか。心臓のバクバクが、走ってるせいなのか、照れているせいなのか、判別できない。

 黒煙が湧き、ちらちらと炎がたゆたう街を、二人で駆け抜ける。人一人いなくて、現実感がまるで伴っていない。


 ──もっと速く!


 後ろを振り返れば、三本足トライポッドの機械が、うじゃうじゃ湧いている。私たちのすぐそこまで迫っている。吐いた熱線ビームはデタラメに建物を薙ぎ、焼き尽くす。


 もう足が回らない。針金でがんじがらめにされたみたい。私はここで終わりかも。距離がどんどん縮んでいく。


 ──ここは、僕に任せて、先にいけ。


 突然、彼は振り向いて三本足トライポッドに対峙する。そして無謀にも、異形の機械へ向かって駆け出した。それはさすがに無茶苦茶だ。


「いや、ちょっと待っ──」


 ──布団から飛び上がった。


「ってぇ……?」


 枕元には変な折り目が入ってしまった文庫本がある。G・H・ヴェルヌの「宇宙戦争」だ。

 本棚の「きまぐれロボット」と「ロウソクの科学」の間に、それを差し込む。


 夢オチか。読みながら寝落ちして、タコ型火星人に蹂躙されるあのストーリーをそのまま夢にしてしまったようだった。


 夢に見た男子の顔を、思い出す。よく知っている。私の同級生だ。



 ■


 二〇一〇年、六月。十六歳。高校一年。

 小惑星探査機「はやぶさ」がサンプルリターンを成功させる。私がプラネタリウムで宇宙に目覚める前に、すでに打ち上げられた探査機が、トラブルに見舞われながらも七年掛けて帰ってきた。


 私は教室から校庭を覗く。野球部の活気のある声が響いている。


「ねぇ、アイツでしょ?」


 親友が意味ありげに笑みを浮かべ、あごで示した。その先には、野球部の男子が練習している。


「ほんと分かりやすい。いつも顔に出てるよ」


 夢の中に登場したあの彼が、遠投をしている。ボールをグローブですぱんと受け止めて、彼が投げたそれはぐんと真っ直ぐに伸びる。そしてまた、遠くのグローブにすぱんと収まる。

 その一連の動作に、ちょっとまえから私の目は惹かれていた。ぐんぐんと真っ直ぐ伸びるそのボールの軌道そのものが、彼の性格を表しているようだった。


「告白すれば、いいじゃん」


 親友は肩をぶつけてくる。そんな簡単に言うものじゃない。


「このミッションは、失敗したくないんだ」



 ■


 二〇一一年、三月。

 計画停電で、都会の夜空に星が降った。

 懐中電灯の明かりだけの暗い公園に、私たちは二人でベンチに座る。教室と校庭という距離はいつのまにか、肩が触れ合うほどの距離に縮んでいた。


 何を話す訳でもなかった。あのときはただ一緒にいるだけでも、現実味の伴わない恐怖感や、地を這う夜霧のような心細さが、少し和らいでいた。



 ■


 二〇一三年、二月。ロシアのチェリャビンスク州に隕石が墜ちる。墜落してすぐに、数多くの動画がインターネットにアップされた。

 あの日の夢を思い出し、「ついに侵略が始まったか」と焦る。夢の中で手を引いてくれた彼は今、すぐそばには居ない。

 十九歳。

 大学入学と同時に始まった遠距離恋愛は、なにかと苦労した。


 アインシュタインは『恋に落ちるのは、重力のせいではない』と言ったけれども、やはり距離がうんと離れてしまえば、恋心の力も及ばないのではないか。


 流行ってた「激おこぷんぷん丸」と「ガチしょんぼり沈殿丸」というフレーズで、募った寂しさやちょっとした不安を、はぐらかしてみる。はぐらかせるか、ばか。


「あんたは太陽系規模までの距離なら、たぶんギリセーフ」


 と親友は私を励ます。



 ■


 二〇一五年、七月。


「え、なんでここに居るの?」


「サプライズだ!」


 久しぶりに会った彼は、この画像データを見てほしいと、スマホの画面を向けた。


 ──冥王星。


 探査機ニュー・ホライズンズが、今月その画像データを地球に届けていた。


 名前とは裏腹に、クレーターの少ない綺麗な肌と大きなハートマークの柄を持っていた。

 初めてその事実を捉えた探査機ニューホライズンズは、何もなかったかのようにまだ新たな地平を切り開き、800ビット毎秒の微かな声を届けている。


「これを見て、無理なことは無いなって思ったんだよ」


「え?」


「ほら、冥王星に至るまでニュー・ホライズンズは何キロ飛んだんだ?」


「四十八億キロメートル!」


 私は即答する。

 とかく星の話だと熱くなる私に、彼はテンションを合わせていく。


「昔言ってたろ? 普通のやり方じゃ見えないって。でもさ、実際に無理矢理ぶっ飛んで、ぐっと近づいたら、ハートを捉えたんだぜ」


 ただの一目見るために、九年掛けて探査機を飛ばすほどに冥王星は、捉えたいものだし捉え難いものだ。


「どういう意味……」


「ずっと僕の隣にいてください!」


 あまりに直球。ぐんぐん伸びる球は彼の持ち味だった。



 ■


 二〇一六年、一月。チャレンジャー号爆発から三十周年。

 同じ過ちを起こさない為に、大学で航空工学の知識を学んでいる。



 ■


 二〇一九年、一月。二十四歳。大学院で研究を続けていた。NASA長官が「二〇三〇年半ばに火星への有人飛行が可能だ」と発表したというニュースを読む。


「──まさか、ね」


 そして同月、探査機ニュー・ホライズンズが太陽系外縁天体を写真に捉えた。雪だるまのような、その微小天体の名は「ウルティマ・トゥーレ」。

 ラテン語で綴られた、その意味は──。


 ──既知の世界を超えた場所。



 ■


 二〇二一年。二六歳。

 探査機「マーズ2020」が、無事にジェゼロ・クレーターに着陸。

 そこは、太古に干上がった湖と考えられていて、生命の痕跡が存在する可能性がある。降り立ったローバーはサンプルを集める任務を行う。


 夫が買い物袋を抱えて、自宅に帰ってくるなり、私に注意する。


「なぁ、勉強とはいえ、一応妊婦なのだから無理するなよ」


 生命という響きはやっぱり偉大だな、と思う。



 ■


 そして、二〇三八年、今日。人類史上初の有人火星着陸。

 初の有人探査に選ばれた地域は、火星の赤道に沿って伸びる太陽系最大規模の渓谷、マリネリス峡谷。

 その中央部に位置する、幅広のメラス谷に、私たちの基地がある。


 クルーはたったの六名。火星の空が青いのは、朝焼けと夕暮れの時だけで、昼間は地表の細かい砂の粒が大量に空に舞っている影響でやや赤い。体が軽いのは、重力が地球の三分の一だから。まぁ、この星に着くまでずっと無重力で居たので、体感ではめっちゃ重いけど。


 思い立って、ネットの百科事典を開いてみると、私の誕生日が記されている。それはたぶん、私が人類史に名を刻む偉業に関わっているからだろう。


「元気出せって。空を見上げろ、その彼も遠い遠いあっちの世界から見守っているよ」


「夫が死んじゃったみたいに言うな」


「まぁまぁジョークじゃないか。ほとんど意味は間違ってないけどさ。はい、これは元気の出るプレゼント」


 仲間がタブレットの映像メッセージを、私に見せた。


 画面には、見知った自宅のリビングが映る。


『ママー、元気ぃ? 』


 メッセージは、高校生の娘の気が抜ける挨拶から始まった。


『ちゃんと気を引き締めるんだよ、おばさんなんだから』


 高校生の娘に、チーム最年長であることをいじられる。四十四歳。宇宙飛行士の平均年齢は三十四歳くらい。私はベテランだが、太陽系に比べれば、まだまだ。

 そして、画面外から夫の笑顔が、にょきっと入ってくる。


『戻ってくる頃には、もっとおばさんだ。旅はまだまだ長いからな。まあ、じっくり楽しんで、笑いジワの一つくらい増やしてこいよ』


 ずっと隣にいる約束を反故にしてしまったが、必ず帰ってくることでチャラにしてくれるそうだ。



 ■


 生涯を大河に例えることがある。火星には太古に大洪水が起きた痕跡がある。グランドキャニオンを遥かに凌ぐサイズの渓谷にとって、私の人生の歩みなど、いわばたった一滴の水に等しいかもしれない。


 途方もないが、悲観することもない。どこもかしこも、既知の世界を超えた場所。心は躍りっぱなしだ。


 着陸機のハッチから、宇宙服に包まれた身を乗り出す。


「さぁ、火星に降りよう──。

 ──私たちにとってのウルティマ・トゥーレへ」


 私は梯子を慎重に下り、火星にゆっくり降り立つ。

 人類にとっては大きな飛躍かもしれないけど、私にとっては小さな一歩だ。


 そう、たった一歩。今まで何度も踏み出して、これからも跡を残していく、ただの変わらないちっぽけな一歩。

 今日も、プラネタリウムへと踏み入れたあの一歩と同じように、私を未知の世界へ連れていってくれる。



 ■完■

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