第2話 Composition ♬匠の場合
重くなった買い物袋を置いて、匠は鍵をかけた。玄関のチェーンは、手袋越しでも冷たい。大寒波が来るとの予報だったか。
靴とコートを脱いでキッチンに直行する。誰もいない部屋はいつものことだが、冷え込んで空気が澄んでいるせいか、さらに静かに感じられる。買い出したものを紙袋から出すガサガサという音が、部屋の中に妙に響いた。
食材をキッチンのステンレス台の上に並べていると、外からピアノの音が入ってきた。バッハのインヴェンション。そしてすぐに止まる。
––始まるな。
匠がそう思った直後、単純な音階が鳴り始めた。
––こっちも、取り掛かるか。
買い物袋から生クリームを取り出し、小鍋にかける。続けて台の上に並べた品々の中から板チョコレートを取り上げた。カカオ七十パーセントのビター・チョコレート。銀紙を剥がしてまな板に置き、包丁を取り出した。硬いチョコレートに当てて力を加えると、カツ、という音がして、薄い切片がまな板に倒れる。
響子の音階はまだ続いている。その単調な音の繰り返しに合わせて、匠は包丁を降ろしていった。音階の粒が揃うにつれて、チョコレートも匠の手先でどんどん細かくなっていく。板チョコの端まで刻み終えてボールに入れる。
すると、音階が和音の繰り返しに変わった。
匠は小鍋の生クリームをチョコレートの上に注ぎ、ホイッパーを手にする。狭い音域内で動く三度の和音。旋回する音の移動に合わせて、匠もホイッパーもボールの中でリズミカルに回す。
カカオの濃厚な香りが部屋に満ちていく。ざらついたチョコレートの表面が見る間に滑らかになり、生クリームとマーブル状の渦を描く。オレンジリキュールを入れてさらに混ぜる。次第にカカオ色だけになり、艶やかな光沢が生まれてきた。
和音が途切れたところで匠はホイッパーを止め、持ち手をボールの端に打ち付けた。ぽてりと落ちたクリームは、手で扱うにはまだ柔らかい。冷蔵庫を開け、庫内の場所を塞いでいた天板を取り出し、代わりにステンレスパッドに移したクリームをしまう。
プリン型にバターを塗ったり、材料を計ったり、無心に作業を続けていたら、ピアノはいつしかチェルニーを終え、クラーマー・ビューローに変わっていた。
––以前に聞いた時よりスピードが増してるな。
そう思うと、匠がふるいを揺らす速度も速くなる。小麦粉とココアの粒子が溶かしバターと卵に降りかかる。
生地を型に流し入れたところで、再びバッハが始まった。
手を止めて耳を澄ます。落ち着いた声部の進行。初めの主題停止が終わるまで聞いて、先のクリームを冷蔵庫から出す。
チョコレートのガナッシュは、ちょうどいい硬さになっていた。指で押すと跡が付くが、離した指にクリームがベタつき過ぎることもない。十六分音符に耳を傾けながら、スケッパーで一口大に切っていく。
匠は極度の末端冷え性だ。手指の先は常に冷たく、特に冬場は、素手で人に触ると文字通り引かれる。もしかすると、響子よりもずっと重度かもしれない。
しかし、冷えを治したいとも思わなかった。特にショコラティエになってからは。
調理用の手袋を嵌め、正方形に切られたガナッシュをつまみ、丸める。普通、ガナッシュ・クリームを扱う時には氷水を用意するが、匠には必要ない。冷やしたパッドを持ったのも手伝って、動かした手はまた冷たくなっていた。手の上で転がるガナッシュは、硬さを保ちながらつるりとした球に変わっていく。丸い玉が弾むようなモーツァルトの音がちょうど良かった。球になったら一つ一つ、プリン型の生地の中央へ埋めていく。
型をオーブンへセットし、吹き荒れるベートーヴェンに急かされて作業台を片付ける。洗い物を終えると、音が止んだ。
––来るな。
くすりと笑みがこぼれる。低い二度進行が、力強く響いた。《道化役者》、匠の好きな曲だった。気分が高まるのを感じながら、先ほど冷蔵庫から出した天板を作業台に置いた。出かける前にテンパリングしておいたホワイトチョコレート。ストロベリーチョコレートと混ぜ、ほのかにピンク色のマーブル模様になっている。
響子の音が飛び跳ね始める。匠もパレットをチョコレートに当てて削り始めた。細く丸めて筒状にする。
チョコレート菓子を作る時、よくある失敗の原因の一つは温度調節だ。触ったチョコレートが体温で溶け、上手く扱えなくなる。
ガナッシュの場合は丸める時に手に残り、纏まらずに悲惨なことになる。チョコレート細工の場合は形を整える際に溶け始め、思い通りの姿にならずに崩れるなど、繊細なデコレーションを作るには手の熱に注意が必要だった。そのため、常に氷水で調節しながら作業する必要があったが、匠はその苦労と無縁だった。
道化役者が鍵盤の上で踊り始めた。匠は少し大きく削り取ったチョコの板を指でしならせ、さっきの筒に巻きつける。少しずつチョコの大きさを変えながら、同じ作業を繰り返す。
高音域の和音が初めて煌びやかに鳴らされれるのと同時に、パットの上に薄く色づいた薔薇の花が出来上がった。また一つ。少しずつ花びらの向きや大きさを変えながら気紛れに手を動かす。
匠の冷たい手指はチョコレートを溶かさない。過度の熱を与えずにチョコを変形し、細かな細工を作ることができる。思いのままに形を変えるチョコレートが、花びらのように美しい姿に変わっていくのは楽しかった。
曲が終わる頃には、作業台の上に薔薇の花が満開に咲き誇っていた。オーブンが匠を呼ぶ。焼き上がった生地を手際よくプリン型から出し、クーラーに並べる。
そのうちの一つだけ、皿に取った。響子用だ。
パットに残ったチョコレートにナイフを入れ、細く帯状に切り取る。「
––今日は一段と、楽しそうだな。
スティリー風タランテッラ。弾いていると踊っている気分になる、と言う響子の言葉を思い出す。音に素直な響子らしいが、確かに踊りたくなると納得してしまう。滑らかなレガートに聴き入りながら匠はチョコの帯を曲線にしならせ、リングを作る。匠の指に押さえられ、新体操のリボンのように立体的な輪を描いた。
デコレーションを進める匠の耳に聞こえるピアノの音は、跳ねたり歌ったり、ころころ表情を変える。時に甘美に、時に謎めいて。曲に耳を傾けていたら、皿の上のチョコレートケーキは、匠の頭というより手の動きから、自然に飾られていった。
粉糖で白化粧した上にミントの葉をあしらい、アラザンを散らす。オレンジソースでケーキの周りに弧を描いて、そこにもミントを。そして葉の上に薔薇の花を三つ。
最後にホワイトチョコのリボンをケーキの上に固定させると、最後の主題が聴こえてきた。
––間に合ったな。
満足して皿にドーム型のガラスの蓋をする。
エプロンを取ってマフラーを巻くと、匠は皿を手に玄関へ向かった。
––––
ピーンポーン。
ピアノの音が止むのを待ってインターホンを押すと、間も無く玄関が開いて頰を仄かに紅くした響子の顔が飛び出した。
「出来た?たくちゃん…っわぁ綺麗!」
響子はすぐに匠が持つ皿に気が付き、手を伸ばす。しかしその手が匠の手に触れ、「ひゃっ」と小さい悲鳴が上がった。
「たくちゃんの手、冷たーっ」
「あ、悪い」
すぐに離されると思ったが、響子は自分の手の平を広げて、皿を持つ匠の手に重ねた。
「ふふ、冷たくて気持ちいいー」
そう言いながら、匠の手の甲をすりすり撫でて笑っている。音楽に存分に浸かって心地よいのだろう。匠もつられて笑ってしまう。
「そりゃどうも…響子の手は、温かいよ」
––完
それでもこの冷えた手が(旧) 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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