それでもこの冷えた手が(旧)

蜜柑桜

第1話 Prelude ♪ 響子の場合

 駅の改札を出ると、夕方の空はどんよりと鈍色の雲に覆われ、今にも雪が降って来そうだった。


 スマートフォンを鞄の内ポケットに滑り入れ、ポケットから手袋を出して嵌める。息を白くする外の空気は革手袋を一気に冷やす。束の間ののちにはもう、指先に独特な痛みが走る。


「さむ。」

 響子は手袋を嵌めたまま、コートのポケットに両手を突っ込んだ。

「ほんとにな。今年の冷えはヤバい」

「たくちゃん、寒いの何ともないくせに」

「温泉は好きだよ」

 響子に続いて改札を通り抜けた匠も、パスケースをしまった手で手袋を取り出す。駅前の横断歩道の信号が緑に変わり、人の群れがバスのロータリーを横切り始める。その動きと連動して、二人の足も小走りになった。


「何ともなくはないけど、まぁ末端冷え性でも響子みたいな辛さはないかな」


 道路を渡り終えて歩調が整うと、匠が口を開いた。

「たくちゃんにとっては強みだもんね」

「まぁね。響子、カイロ効かないんだっけ」

「どうも指先だけは駄目みたい。もう痛くなってきた」


 手袋に包まれた爪の周りに焼けるような感覚を感じる。ポケットに入ったカイロの熱は、素手だろうが手袋の上からだろうが、響子の肌の奥までは侵入できないらしい。

 雑踏の間を抜けてコンビニの角を曲がると住宅街になる。車の行き交う音や人の話し声は二人の背後に離れ、さっきまで聞こえなかった足音が響く。近くの公園から音楽が流れ始めると、街灯が点いた。


 角を曲がって三軒目の家の前で、響子は家の鍵を取り出す。

「でも、この寒さも毎年のことだもん。少し動かせば、指も言うこと聞かせられるようになってきたよ」

「本番まであと少しだっけ」

「うん」

「じゃ、景気付けに後で実験台やってもらうかな。買い物付き合ってもらったし」

「ほんと?」

 響子は顔をぱっと輝かせ、「待ってるね」と言って扉を開けた。その姿が中に消えるのを見届けて、匠は向かいの家の門に手をかけた。


 ––––


 人気のない家の中、暗い玄関に扉を閉める音がパタリと響く。靴を脱いで居間に入ると、昼間に陽が当たらなかったせいか、フローリングが足元から身体の体温を奪っていく。響子は脱ぎ捨ててあったファー付きのスリッパに足を突っ込んだ。


 コートとマフラーをハンガーにかけて手袋を外す。素手になった指先が冷気に反応する。外の空気が家の中にも侵食してきたようだ。身体の芯まで侵食される前に、急いでエアコンをオンにする。


「さて」


 部屋の中央、照明の真下で黒く光るグランド・ピアノ。響子は音を立てずに鍵盤の蓋を開け、フェルトの覆いを取って椅子に座り、姿勢を正す。


 白い鍵盤に指をそっと置く。一日中、室内で冷やされた鍵盤は、触った途端に指の感覚を凍らせていく。


 冬のいつもの感覚。


 息をゆっくり吸って、響子は腕に力を込める。右手の親指から順に、鍵盤を押し始めた。


 ヨハン・セバスチャン・バッハ、《インヴェンション》第一番ハ長調。


 演奏会本番まで後少し。舞台の上で初めに弾く曲。全ての声部が補い合って、十六分音符のリズムが途切れなく、規則的に続いていく…はずの曲。


「っ…駄目かぁ」


 二声部目の主題提示から展開していくべき音楽に軋みが出た。冷え固まった親指と薬指が、交代する瞬間にリズムを壊す。

 鍵盤から離した指の関節を動かすと、どうも抵抗を感じる。目に見えない何かに空中で引っかかっている。


 バッハは怖い。誤魔化しが効かない。ただでさえ難しいのに、温度と共にしなやかさまで失った手ではなおさら、声部がばらばらになってしまう。


「…いつものいきますか」

 響子は椅子に座りなおし、再び両手を鍵盤に揃えた。


 ユニゾンのドの音をスタートに、両手の指が順番に鍵盤を押さえていく。ハノンの音階の練習曲。両手を平行に、鍵盤上を左から右へ、右から左へ滑らせる。


「さて」

 オクターブの音の粒が揃ってきたところで、響子は両手を鍵盤の中央へ戻し、今度は左手の小指と中指、右手の親指と中指を同時に下ろす。


 チェルニー《毎日の練習曲》。ほんの数小節、三度和音の上下を狭い音域で執拗に繰り返す。


 響子が出演する一番大きな演奏会はいつも冬だ。極度の末端冷え性である響子がピアノを弾くには不利な冬。外から室内に入ってしばらくは、手が響子の意のままにならない。響子のものではなくなってしまう。

 それでも、自分の思う音楽を作り出すにはどうしたらいいのか。毎年毎年のことにどう対処しようか考え見つけたのが、この練習曲のルーティン、指の準備体操だった。どれだけ弾けば、どの曲を弾けば、指が動き出すのか。演奏会会場での試弾の前にどれほど時間が必要かを見積もるためにも、毎年このルーティンでチェックし、調整する。


 同時に鳴る音が全て同じ強さに揃い始める。それを確認すると、響子は左手を鍵盤の端へ動かした。右手の和音を合図に、左手の指が低音から走り出す。チェルニー《左手のための練習曲》。右利きの響子の左手は、どうしても利き手より御しにくい。指に言うことを聞かせるには、準備運動も右手より多く必要だった。


 指の返しに違和感が減ってきたのを確認し、楽譜を開く。動き出した両手は、典型的な音型を左右様々な組み合わせで紡いでいく。クラーマー・ビューロー《練習曲》作品60、第43番。機械的な動きだけでなく曲調を出すように。


「こんなもんかな」


 指の関節を曲げ伸ばしし、鍵盤の上に気紛れに遊ばせる。五本の指はさっきまでテープが貼りついているようだったのに、今は柔らかに曲げ伸ばし出来た。


 ゆっくりと息を吸って止める。


 右手の親指をドの音へ。

 改めて、バッハのインヴェンション。今度はすんなりと指が動いた。チェンバロで弾いていると思って。ピアノのように長い残響はない。音が短めになるように。全ての声部がそれぞれ、対等に主題を主張する。


 続けてモーツァルト、ピアノ・ソナタ第11番、ハ長調。右手の装飾音を転がして。音を丸く。指を優しく。玉粒が煌めくようなモーツァルトに。ペダルを使うのは避けて。でもモーツァルトがバッハにならないように。タッチの軽い、ウィーン式のフォルテ・ピアノの音が出るように。


––転ばずに行けるかな。


 ベートーヴェン、ピアノ・ソナタニ短調、通称「テンペスト」第三楽章。単調なアルペジオの連続。でも練習曲ではない。冗長にならないよう、強弱と、アクセント。最高音をきつくせず、あくまで歌って。


 鍵盤に当たる指先にはもう、刺すような感覚はない。指の腹で押さえるレガートに、飛び跳ねるスタッカートに、心地よい抵抗を感じる。


 バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが味方になれば、もう止まることはない。響子は分散和音を一気に低音まで弾ききると、一呼吸おいて指の関節を丸め、宙に待機させた。


 ラフマニノフ《道化役者》。


 手を緊張から解放させる。指を滑らせ、つまむように鋭く離していく。光が瞬くみたいな装飾音と和音、続いておどけた二度の揺らし。

 遊んで、からかって、高音、低音、気紛れに。左手も右手も、あっちこっちを飛び回る。古典派までの曲のように、次にどこへいくのか予測はできない。道化役者の芸みたいに。


 身体ごと鍵盤に近づいて、離して、踊るように弾ききると、最後の音の余韻が消えるのを待って、響子は左ペダルを踏んだ。鍵盤がずれて、ハンマーが叩く弦の数が減る。


 演奏会の最後の曲。ドビュッシー《ダンス スティリー風タランテッラ》。響子の大好きなロンド。


 最初の主題はピアニッシモ。耳を澄まして聞かせるつもりで。鈴のようなアルペジオが跳ねる指先から零れ落ちる。レガートはハーフ・ペダルで音を濁さず、内声を聞かせて。クレッシェンドに突然のピアノ。何が出てくるのか分からない。プレゼントを開けるどきどき感。

 冒頭主題の繰り返しでボリュームを上げ、エネルギッシュに駆け抜けたら、低音から密やかな同音反復。左手の練習が効いて、よく動く。静かに爪弾かれる音に乗せて、右手の和音をちりんっ、と響かせてる。


 回帰するごとに表情を変える軽快な主題と個性豊かなエピソード。ほんの六、七分程度の長さなのに、いくつもの曲が詰め込まれているみたいだ。次々に情景を変える楽譜上の音楽に、響子は指先、腕、背中を連動させる。

 レガートに変われば身体が自然についていく。ゴンドラに乗るような揺れる伴奏は、響子の身体も一緒に乗せてくれる。

 一番好きなのは最後のエピソード。手を交差させ、低音から高音まで両手が滑らかに分散和音を紡ぐ。少しメランコリックで、甘くて、水の中で波を感じるような。指も今や自由に泳ぐ。響子が心の中で歌う旋律を、気持ちよく耳に響かせていく。


 じりじりと高まる興奮がゲネラルパウゼでせき止められると、一呼吸ののちに最後の主題。抑えに抑えたピアニッシモから次第にエネルギーを解放しつつ、響子はラヴェルの管弦楽編曲を思い出す。ピアノをフル・オーケストラに変身させて、急速な拍子変化とオクターヴ・ユニゾン。手に汗が出てくるけれど、その勢いで疾走!


 両手が鍵盤の端と中央にジャンプし、最後の和音が部屋を震わせた。


 息が上がり、心地よい疲労感に四肢の末端まで支配される。身体全体が熱を帯び、部屋に響いた残響に包まれて、響子自身が曲の一部になったみたいだった。


 ピーンポーン。


「たくちゃんだ」


 インターホンが、響子を音の膜から解放する。自由になった体で、ピアノと椅子の間から飛び出した。


 手をついた鍵盤が冷たくて、指に心地よかった。

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