補講

「忘れる」という動詞を一人称の現在形で用いることができるのはおそらく、「私はよく傘を忘れる」といった一般的真理を述べる場合だけだろう。実際の事実を記述する文として、「いま私は傘を忘れる」と言うことはありえない。「あ、傘、忘れちゃった」。忘却はいつも過去のなかにある。


 この忘却のパラドックスを述べた哲学者に、古代キリスト教最大の教父きょうふ・アウグスティヌス(354-430)がいる。


 私たちは忘却という事柄がなんであるかを知っている。知っているということは、それが記憶のうちにあるということだ。しかし、忘却とは記憶の欠如にほかならない。だから、忘却が現に存在しているなら、私はそれを記憶していることはできないのではないか。


 たとえば、ひとの名前を忘れてしまって、どうしても思い出せないとする。私は誰かに頼んで、手当たり次第に名前を言ってもらう。「田中さん?」「違う」「佐藤さん?」「違う」「小林さん?」「違う」「鈴木さん?」「そう! 鈴木さん!」


 私は、そのひとが鈴木さんであることを記憶していたから、挙げられた名前のなかから鈴木さんだけを取り出すことができた。しかし、そもそも私は、鈴木さんという名前を忘れていたのではなかったか?


 忘れたということを知っているかぎり、私たちは完全に忘れたわけではない。まったく忘れてしまったものなら、私たちはそれを無くしたものとして探し求めることもできない。アウグスティヌスはそう結論づけている。


 この発想は、プラトンの有名な「想起そうき」説とも関連している。


 私たちはなぜ、未知のものを探求できるのか。すでに知っているものなら探求する必要はないし、まったく知らないものは探求すらできないはずだからだ。


 ソクラテスの答えはこうである。私たちの魂は不死であり、輪廻りんねを繰り返す過程で、あらゆるものをすでに経験している。だから、私たちはまったく知らないものを学ぶわけではない。「学ぶ」とか「探求する」とかと呼ばれていることは、実は忘れているものを「思い出す」作業なのだ。


 この考えに疑いを抱くメノンに対し、ソクラテスは、メノンの召使いを相手にして実験的な証明をおこなう。召使いは、ソクラテスからなにも教わることなく、ただソクラテスの質問に答えていくことによって、ある正方形の二倍の面積をもつ正方形の作成方法に到達することができた。


 幾何学のことはなにひとつ知らない彼のなかに、知らないはずの事柄についての漠然とした思いのようなものがあり、それがソクラテスとの問答を通じて目覚めたというのである。


 このように、「ない」と言うかわりに、それを「忘れた」とか「失った」とみなすのは、哲学の歴史でたびたび現れる考え方である。


 しかし、「忘れられない」というのも残酷なことではないだろうか。生きるためには忘れることが必要である――忘却を肯定的に考えるニーチェのような哲学者もいる。

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哲学研究室の薄暮〜ミネルヴァの梟は飛び立ちたい 2〜 草野なつめ @kusano_iori

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