10

「哲学研究会? 城大じょうだいにそんなサークルありましたっけ?」


 はす向かいに座る大道寺だいどうじの顔を見ながら、西永にしなが秋野あきのが首をかしげる。彼女も理子りこたちと同じ、城京じょうきょう大学の出身だ。


「ええ、最近できました。というか、僕がつくったのです」


 きっぱり断言する大道寺の姿に、理子と友香ともかもどこまでが本気なのかわからず困惑する。


「そうでしたか……私たちのころにはなかったので、知らなくて当然ですね。そうそう、川端かわばたくんは哲学科だったんですよ。だから、あの『必読書リスト』も哲学の本ばっかり」


 哲学科の出身ということは、川端俊哉としやは友香の直接の先輩ということになる――残念ながら、ミステリー研究会の先輩後輩ではなかったが。


は哲学の大問題のひとつです」

「?」

「僕たちは日常的に『忘れる』という言葉を使っていますし、実際に毎日、色々なことを忘れています。ですが、『忘れる』現場に立ち会うことはできません……のです」

「……えっと、すみません、抽象的な思考にあまり慣れていなくて。どういうことでしょうか」


 秋野が眉間にしわを寄せながら、恐縮した様子で言う。


「たとえば朝の天気予報で、『夕方から雨が降る』と言っていたとしましょう。僕は『傘を忘れないようにしなきゃ』と自分に言い聞かせながら、身支度をします。それで家を出て、駅に着いたときにはたと気づくのです……『しまった、傘を』と」

「『忘れる』現場というのは、『忘れる』瞬間のことですよね」


 理子が大道寺の説明に言葉を足す。


「そうです。傘を忘れるまさにその瞬間に立ち会っていたら、傘を忘れるはずはないのです。その瞬間には傘のことを覚えているわけですから」

「私たちは、自分がなにかを忘れる場面に居合わせることはできない……」

「なるほど……たしかに」


 秋野がゆっくりうなずく。


「つまり、僕たちは『忘れる』ことはできなくても、いつしか『忘れている』ものなのです」


 納得したような素振りを見せていた秋野が、「え」と顔を上げて大道寺を見つめた。眼鏡の向こうの大道寺の目が、優しく微笑む。


「川端さんのことを忘れたり、思い出したり、また忘れたり……これからもそれを繰り返すことでしょう。そういうご自分を責める必要はありません。そのとき川端さんの記憶は、忘れられたわけではなく、あなたのなかに溶けこんで、あなたの一部になっているのです」


 秋野が黙って、目を伏せる。


「ありがとう……ございます」


 プルルルル、と店の電話が鳴った。すぐに小山内が出る。もしもし、ええ、はい、少々お待ちを、と声が響いたあと、早足で理子たちのもとへやってきた。


「話の途中、ごめんね。お嬢さんに電話。函館はこだての丸井さんから」

「え? 丸井くん?」


 秋野が席を立って、小山内のあとをついていった。ほどなくして、もしもし、うん、元気、ごめんね、という声が聞こえてくる。


「あ、そうだ」


 大道寺の声に、しみじみとした感情に浸っていた理子と友香が我に返る。


「さっきの話、なんだったんですか? お二人が推理してたっていう。面白そうですね、よかったら教えてもらえませんか」

「え!? いや、その……」


 理子が慌てふためく。まさか友香とドーナツを賭けて、大道寺の授業の内容を勝手に予想していたとは、本人には言えない。とっさにごまかすことに決める。


「あ、それはそうと、先生! 今学期の授業って何曜日なんですか? たしか、まだ情報が出てなくて……」

「大学院の『精読演習』ですか? 明日です。金曜日」

「え? 明日!?」

「はい。今週から授業が始まったじゃないですか。何曜日にしようか、なにを読もうかと本気で悩んでいたら、いつのまにか木曜日になっていました。もう明日の金曜日しか残っていません」


 ハハハと笑う大道寺の晴れやかな声が、夕闇に沈み始めてきた店内に響く。


(……先生、いくらなんでも、それでいいんだろうか……せっかく感動的な話を聞いたあとなのに……)


 つかみどころのない大道寺の性格を知っている理子も、さすがに今回ばかりは不安になる。


「それで、テクストはなにを読むんですか? 私も出席したいと思ってるんですけど……」


 理子と同じくやましい気持ちがあった友香も、そういう大道寺の姿を見て、反省しなくてもいいような気になってきた。


「ええ、候補は何冊かありまして。そのなかから、明日、参加者のみなさんと相談して決めたいと思っています」

「候補ですか。たとえば、どんな本があるんですか?」


 理子の問いかけに、大道寺がニコニコしながら、テーブルの上の財布をちょんちょんと指差す。


「マル、遺産……七冊も選択肢があるなんて、贅沢ですね」


 理子と友香が呆れて顔を見合わせた。


 店の奥からは、秋野の細い声が、ときおり華やかな彩りを帯びて、こちらにも届いてくる。



  *



 翌日。哲学専攻の共同研究室に、理子の唖然あぜんとした声が響き渡った。


「え、大道寺先生の授業、休講なの!?」


 昨日の今日だというのに、一体なにが起こったのか。その日、初回の授業があるはずの大道寺が、前の晩に知った情報にショックを受けて体調不良に陥り、まだベッドから起き上がれずにいることを、そのときの理子は知らない。


(第一講 終わり)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る