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「哲学研究会?
「ええ、最近できました。というか、僕がつくったのです」
きっぱり断言する大道寺の姿に、理子と
「そうでしたか……私たちのころにはなかったので、知らなくて当然ですね。そうそう、
哲学科の出身ということは、川端
「忘却は哲学の大問題のひとつです」
「?」
「僕たちは日常的に『忘れる』という言葉を使っていますし、実際に毎日、色々なことを忘れています。ですが、『忘れる』現場に立ち会うことはできません……忘却なるものは実在しないのです」
「……えっと、すみません、抽象的な思考にあまり慣れていなくて。どういうことでしょうか」
秋野が眉間にしわを寄せながら、恐縮した様子で言う。
「たとえば朝の天気予報で、『夕方から雨が降る』と言っていたとしましょう。僕は『傘を忘れないようにしなきゃ』と自分に言い聞かせながら、身支度をします。それで家を出て、駅に着いたときにはたと気づくのです……『しまった、傘を忘れた』と」
「『忘れる』現場というのは、『忘れる』瞬間のことですよね」
理子が大道寺の説明に言葉を足す。
「そうです。傘を忘れるまさにその瞬間に立ち会っていたら、傘を忘れるはずはないのです。その瞬間には傘のことを覚えているわけですから」
「私たちは、自分がなにかを忘れる場面に居合わせることはできない……」
「なるほど……たしかに」
秋野がゆっくりうなずく。
「つまり、僕たちは『忘れる』ことはできなくても、いつしか『忘れている』ものなのです」
納得したような素振りを見せていた秋野が、「え」と顔を上げて大道寺を見つめた。眼鏡の向こうの大道寺の目が、優しく微笑む。
「川端さんのことを忘れたり、思い出したり、また忘れたり……これからもそれを繰り返すことでしょう。そういうご自分を責める必要はありません。そのとき川端さんの記憶は、忘れられたわけではなく、あなたのなかに溶けこんで、あなたの一部になっているのです」
秋野が黙って、目を伏せる。
「ありがとう……ございます」
プルルルル、と店の電話が鳴った。すぐに小山内が出る。もしもし、ええ、はい、少々お待ちを、と声が響いたあと、早足で理子たちのもとへやってきた。
「話の途中、ごめんね。お嬢さんに電話。
「え? 丸井くん?」
秋野が席を立って、小山内のあとをついていった。ほどなくして、もしもし、うん、元気、ごめんね、という声が聞こえてくる。
「あ、そうだ」
大道寺の声に、しみじみとした感情に浸っていた理子と友香が我に返る。
「さっきの話、なんだったんですか? お二人が推理してたっていう。面白そうですね、よかったら教えてもらえませんか」
「え!? いや、その……」
理子が慌てふためく。まさか友香とドーナツを賭けて、大道寺の授業の内容を勝手に予想していたとは、本人には言えない。とっさにごまかすことに決める。
「あ、それはそうと、先生! 今学期の授業って何曜日なんですか? たしか、まだ情報が出てなくて……」
「大学院の『精読演習』ですか? 明日です。金曜日」
「え? 明日!?」
「はい。今週から授業が始まったじゃないですか。何曜日にしようか、なにを読もうかと本気で悩んでいたら、いつのまにか木曜日になっていました。もう明日の金曜日しか残っていません」
ハハハと笑う大道寺の晴れやかな声が、夕闇に沈み始めてきた店内に響く。
(……先生、いくらなんでも、それでいいんだろうか……せっかく感動的な話を聞いたあとなのに……)
つかみどころのない大道寺の性格を知っている理子も、さすがに今回ばかりは不安になる。
「それで、テクストはなにを読むんですか? 私も出席したいと思ってるんですけど……」
理子と同じくやましい気持ちがあった友香も、そういう大道寺の姿を見て、反省しなくてもいいような気になってきた。
「ええ、候補は何冊かありまして。そのなかから、明日、参加者のみなさんと相談して決めたいと思っています」
「候補ですか。たとえば、どんな本があるんですか?」
理子の問いかけに、大道寺がニコニコしながら、テーブルの上の財布をちょんちょんと指差す。
「マル、遺産……七冊も選択肢があるなんて、贅沢ですね」
理子と友香が呆れて顔を見合わせた。
店の奥からは、秋野の細い声が、ときおり華やかな彩りを帯びて、こちらにも届いてくる。
*
翌日。哲学専攻の共同研究室に、理子の
「え、大道寺先生の授業、休講なの!?」
昨日の今日だというのに、一体なにが起こったのか。その日、初回の授業があるはずの大道寺が、前の晩に知った情報にショックを受けて体調不良に陥り、まだベッドから起き上がれずにいることを、そのときの理子は知らない。
(第一講 終わり)
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