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 城京じょうきょう大学そばの喫茶店「クレール」。理子りこの視線の先にいるのは、忘れ物の財布を見つけた日に横の席に座っていた女性だった。年齢は二十代後半だろう。仕事帰りなのか、今日も黒いスーツを身にまとっている。つやのある長い黒髪が印象的だ。


 マスターの小山内おさないに促されて、理子と友香ともかが彼女の正面に並んで腰掛ける。ちょうど大道寺だいどうじもやってきて、理子たちのとなりのテーブルの、女性とはす向かいになる位置に静かに腰を下ろした。


 大道寺の存在に、女性は状況が飲み込めていない様子だったが、小山内の説明ですぐに安堵あんどの表情を見せた。それぞれの注文を聞いた小山内が去っていくのを待って、女性が口を開く。


「私、西永にしなが秋野あきのと申します。このたびはご迷惑をおかけして、すみませんでした」


 そう言うと、テーブルに頭がつきそうなほど深々と頭を下げた。あまりの丁寧さに、かえって理子たちが慌てる。


「あ、いえ、そんな……お忘れになった財布、お返しできてよかったです」

「ありがとうございます……忘れたというか、忘れられなかったというか……」

「え?」

「すみません。わけがわからないですよね……どこからお話したらいいでしょうか」


 秋野が申し訳なさそうに苦笑する。


「私と、川端かわばたくんと丸井まるいくんは、城大じょうだいのミステリー研究会の同期なんです……卒業して、もう五年も経ちますが」

「川端……俊哉としやさんですね。あの紙に名前があった……丸井さんは、『丸井青果店せいかてん』の丸井さん、でしょうか。函館はこだての」

「はい。二人は高校からの友だちで、一緒に同じ大学の、同じサークルに入って……私は彼らとそのミステリー研究会で出会ったんです」


 コーヒーを運んできた小山内が、ゆっくりとした動作でカップを置いていく。そのたびにソーサーに載せられたスプーンが、カチャと控えめに音をたてる。


「丸井くんの実家の電話番号、面白いでしょ?」

「あの、語呂合わせになってる」

「そう。丸井くんのお父さん、もとはサラリーマンだったんだけど、昔から『八百屋みたいな電話番号だ』ってからかわれてたらしくて。ある日、会社を辞めて本当に八百屋さんを始めたの。。宣伝にはいいわよね」


 理子たちと話していて学生の気分に戻ったのか、気がつくと秋野の口調が打ち解けたものに変わっている。


「川端くんがその話を気に入っててね。ミステリー研究会だから、トリックとか考えるじゃない? で、彼が、電話番号の隠れた『必読書リスト』を思いついたのよ」

「じゃあ、本当にあのリストは川端さんがつくった……」

「そうなの。『川端俊哉作成』っていうのは嘘じゃないのよ。出てくるのは丸井くんの実家の番号なんだけど。まあ、いま思えば、つまらない謎解きね」


 口元をほころばせた秋野が、コーヒーカップに手を伸ばす。中身を少し口に含むと、昔を懐かしむような表情になった。


「このお店にも三人でよく来てたわ。一番面白いミステリーはなにか、とか、歴史に残るトリックは、とか、そんな他愛もない話で盛り上がって」

「わかります」


 現役女子大生の友香がうなずいて、同意する。


「……川端くんと付き合い始めたのは、三年生の秋だったかな。付き合うようになってからも、変わらず三人で遊んでた……大学を卒業したら結婚する予定だったのよ、私たち。丸井くんも祝福してくれてて」

「『予定』だった……」

「ええ……四年生最後の春休みに、川端くん、函館に帰省してて、事故にってね。そのまま……」


 秋野が目を伏せる。


「川端くんの持ち物のなかに、新品の女性物の財布があったの。の革の財布。これがそう」

「エゾシカ……だったんですね」


 理子たちの目が、テーブルに置かれたグレーの財布に向けられる。先日から何度も見ているのに、突然に新しい意味を与えられた財布は、いまではまったくの別物に思える。


「多分プレゼントだろうってことになったんだけど、誰てのプレゼントなのか、はっきりしなくてね。川端くんには妹さんもいたし……結局、一番可能性が高いってことで、私がいただいたの……だから、本当はのよ」


 重い話の流れに、理子も友香もどう相槌あいづちを打っていいのか見当がつかなかった。沈黙の隙間を通り抜けるように、目の前のコーヒーカップから細い湯気がうっすらと立ちのぼっていく。二人の気持ちを察して、秋野が明るい声で続ける。


「最初はショックでふさいでたけど、すぐに社会人になったからそうも言ってられなくて。バタバタがんばってたら、あっというまに五年も経っちゃった。川端くんのことはいまも思い出すわ。でも、亡くなった恋人のことをいつまでも考えてても、っていう自分もいて……それでね、最後に賭けてみることにしたの」

「賭け、ですか」

「川端くんがつくった謎解きで、財布が私のところに返ってくるかどうか……だから、ここに忘れていったのはわざとなの。戻ってこなかったら、そのまま忘れられるような気がして……」


(……もしかして私たち、余計なことしちゃったのかな……)


 理子と友香が顔を伏せて、控えめに視線を交わす。秋野はテーブルの上の財布を手に取ると、愛おしそうに革をなでる。


「でも、不思議。戻ってきて、やっぱり嬉しいのよね……私、忘れたかったのか、忘れたくなかったのか、どっちなんだろう」


 秋野は満面の笑みになって、人差し指の背をそっと目尻に当てる。まぶたの端が光っているように見えた。


「丸井くんともほとんど連絡取ってなくてね、函館に戻ってることも知らなかった。お父さんが体調を崩したらしくて、こっちの仕事を辞めて実家の八百屋さんを継いだみたい。今回のこと、すっごく怒られちゃった……でも、あなたたちが謎を解いてくれたおかげで、丸井くんの近況もわかったわけよね。もしかしたら、三人の思い出を忘れないで欲しいっていう、川端くんの願いなのかもね」

「あの……」


 理子が遠慮がちに口をはさむ。


「財布を置いていかれたのは、たまたまあの日だったんですか? 私たちは偶然となり合わせただけで……」

「ううん。財布はずっと持ち歩いててね。せっかくだから三人の思い出が詰まった『クレール』にしようって、機会をうかがってたの……でも、あなたたちでよかったわ。そう考えたら、やっぱり戻ってきて欲しかったのかな」

「私たちでよかった?」

「ええ。あなたたち、ミステリー研究会の後輩さんでしょ?」

「「えっ」」


 理子と友香がそろって声を上げる。


「どうしてそう思ったんですか?」

「だって、あのとき、となりで楽しそうに推理してたから。たしか、誰それの授業がどうとか……」

「あああ、待ってください!」


 焦った友香が、ぱたぱたと手を振って秋野を制止する。横のテーブルの大道寺が、その狼狽ろうばいぶりを不思議そうな表情で眺めている。


「え? ミステリー研究会じゃないの?」

「えっと……」

「違います」


 ずっと黙っていた大道寺が突然口を開いたので、秋野が驚いた顔を向けた。


「僕たちは、です……申し遅れました、顧問の大道寺と言います」


 今度は理子と友香がぽかんと、平然とした顔の大道寺を見つめる。


「ミステリー研究会なら、謎解きはもう終わりでしょうが……哲学研究会の謎解きはこれからです」


(続く)

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