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マスターの
大道寺の存在に、女性は状況が飲み込めていない様子だったが、小山内の説明ですぐに
「私、
そう言うと、テーブルに頭がつきそうなほど深々と頭を下げた。あまりの丁寧さに、かえって理子たちが慌てる。
「あ、いえ、そんな……お忘れになった財布、お返しできてよかったです」
「ありがとうございます……忘れたというか、忘れられなかったというか……」
「え?」
「すみません。わけがわからないですよね……どこからお話したらいいでしょうか」
秋野が申し訳なさそうに苦笑する。
「私と、
「川端……
「はい。二人は高校からの友だちで、一緒に同じ大学の、同じサークルに入って……私は彼らとそのミステリー研究会で出会ったんです」
コーヒーを運んできた小山内が、ゆっくりとした動作でカップを置いていく。そのたびにソーサーに載せられたスプーンが、カチャと控えめに音をたてる。
「丸井くんの実家の電話番号、面白いでしょ?」
「あの、語呂合わせになってる」
「そう。丸井くんのお父さん、もとはサラリーマンだったんだけど、昔から『八百屋みたいな電話番号だ』ってからかわれてたらしくて。ある日、会社を辞めて本当に八百屋さんを始めたの。電話番号に合わせて。宣伝にはいいわよね」
理子たちと話していて学生の気分に戻ったのか、気がつくと秋野の口調が打ち解けたものに変わっている。
「川端くんがその話を気に入っててね。ミステリー研究会だから、トリックとか考えるじゃない? で、彼が、電話番号の隠れた『必読書リスト』を思いついたのよ」
「じゃあ、本当にあのリストは川端さんがつくった……」
「そうなの。『川端俊哉作成』っていうのは嘘じゃないのよ。出てくるのは丸井くんの実家の番号なんだけど。まあ、いま思えば、つまらない謎解きね」
口元をほころばせた秋野が、コーヒーカップに手を伸ばす。中身を少し口に含むと、昔を懐かしむような表情になった。
「このお店にも三人でよく来てたわ。一番面白いミステリーはなにか、とか、歴史に残るトリックは、とか、そんな他愛もない話で盛り上がって」
「わかります」
現役女子大生の友香がうなずいて、同意する。
「……川端くんと付き合い始めたのは、三年生の秋だったかな。付き合うようになってからも、変わらず三人で遊んでた……大学を卒業したら結婚する予定だったのよ、私たち。丸井くんも祝福してくれてて」
「『予定』だった……」
「ええ……四年生最後の春休みに、川端くん、函館に帰省してて、事故に
秋野が目を伏せる。
「川端くんの持ち物のなかに、新品の女性物の財布があったの。エゾシカの革の財布。これがそう」
「エゾシカ……だったんですね」
理子たちの目が、テーブルに置かれたグレーの財布に向けられる。先日から何度も見ているのに、突然に新しい意味を与えられた財布は、いまではまったくの別物に思える。
「多分プレゼントだろうってことになったんだけど、誰
重い話の流れに、理子も友香もどう
「最初はショックで
「賭け、ですか」
「川端くんがつくった謎解きで、財布が私のところに返ってくるかどうか……だから、ここに忘れていったのはわざとなの。戻ってこなかったら、そのまま忘れられるような気がして……」
(……もしかして私たち、余計なことしちゃったのかな……)
理子と友香が顔を伏せて、控えめに視線を交わす。秋野はテーブルの上の財布を手に取ると、愛おしそうに革をなでる。
「でも、不思議。戻ってきて、やっぱり嬉しいのよね……私、忘れたかったのか、忘れたくなかったのか、どっちなんだろう」
秋野は満面の笑みになって、人差し指の背をそっと目尻に当てる。
「丸井くんともほとんど連絡取ってなくてね、函館に戻ってることも知らなかった。お父さんが体調を崩したらしくて、こっちの仕事を辞めて実家の八百屋さんを継いだみたい。今回のこと、すっごく怒られちゃった……でも、あなたたちが謎を解いてくれたおかげで、丸井くんの近況もわかったわけよね。もしかしたら、三人の思い出を忘れないで欲しいっていう、川端くんの願いなのかもね」
「あの……」
理子が遠慮がちに口をはさむ。
「財布を置いていかれたのは、たまたまあの日だったんですか? 私たちは偶然となり合わせただけで……」
「ううん。財布はずっと持ち歩いててね。せっかくだから三人の思い出が詰まった『クレール』にしようって、機会を
「私たちでよかった?」
「ええ。あなたたち、ミステリー研究会の後輩さんでしょ?」
「「えっ」」
理子と友香がそろって声を上げる。
「どうしてそう思ったんですか?」
「だって、あのとき、となりで楽しそうに推理してたから。たしか、誰それの授業がどうとか……」
「あああ、待ってください!」
焦った友香が、ぱたぱたと手を振って秋野を制止する。横のテーブルの大道寺が、その
「え? ミステリー研究会じゃないの?」
「えっと……」
「違います」
ずっと黙っていた大道寺が突然口を開いたので、秋野が驚いた顔を向けた。
「僕たちは、哲学研究会です……申し遅れました、顧問の大道寺と言います」
今度は理子と友香がぽかんと、平然とした顔の大道寺を見つめる。
「ミステリー研究会なら、謎解きはもう終わりでしょうが……哲学研究会の謎解きはこれからです」
(続く)
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