五十年間、毎日一回、一目惚れ

水城たんぽぽ

五十年間、毎日一回、一目惚れ

 通っている高校が春休みに入って以降ずっと、私は気になっていることがある。


「絹子さん。どうか僕と結婚してください。一目惚れです」


 そう言って祖母の右手を取るのは、もう今年で七十六歳になるしおれた両手。骨ばっかりになって弱々しいはずのその両手が、この時だけは横から見ていても力強く感じる。

 ゆっくりと、噛みしめるようにはっきりと紡がれるそのプロポーズを最後まで待ってから、ひと呼吸。そうして絹子と呼ばれた私の祖母は、その言葉を彼に言う。


「ごめんなさいね。私にはもう、心に決めた相手がいるの。だからあなたの気持ちには答えてあげられないわ」


 決まって彼は泣きそうな顔になる。

 ――そうそう、この時見せた捨て犬みたいな泣き顔があんまり可愛くて、ついうっかりほだされちゃったのよ私。そんな惚気は祖母の手伝いを始めた初日にもう聞いた。

 じゃあ今はほだされないの、なんていうのは意地が悪い質問だったかもしれないと今は思う。それを聞いた時、祖母は少しだけばつが悪そうな顔をして、結局そのあとその日の天気の話をされてしまった。


 痴呆というやつは新しい記憶から消えていって、過去の記憶ばかりが残っていくものだとか聞いたことがある。

 初めて聞いた頃はどんな理屈だと首を傾げたけれど、どうやらあれは本当らしいとこの十年で思い知った。今の祖父は、祖母と初めて出会った五十年前の頃の記憶を最新のものとして抱えているらしい。

 五十年間一緒にいた相手の姿をきちんと五十年前の記憶に当てはめている辺りは、もう本人にしかわからない何かの理屈があるんだろう。


 祖父がその兆候を見せ始めたのが、私が五歳の頃。一度そうかもしれないと家族が疑問に思って、医者に行って、そこからは待ち構えていたように進行が早くて。

 うちの家族はそれを煙たがるほど薄情ではなかったけど、かといって毎日付きっ切りで介護をしてやれる人もいなかった。結果としてこの十年間、一日たりとも欠かさず祖父を支えて寄り添い続けたのは祖母だけということになる。

 長い付き合いだからと笑って、自分だって大変だろうに嬉しそうな顔で祖父の介護を続けるやわらかい笑顔を見ている限りでは、少なくとも夫婦仲が悪いわけではないのだろう。


 だからこそ、私はずっと気になっている。


「ねえ、おばあちゃん」


 告白むなしく振られた祖父がそれでもどうにか気を引こうと祖母の好きなものや趣味について質問攻めにするのも一通り済んで、少しだけ手が空いた拍子に私はこっそりと声を掛けた。祖父は今、枕元に置いていた小説に夢中だ。時代小説が好きなのは、痴呆になる前から変わっていないらしい。

 なにかしら、と首を傾げるおばあちゃんに、私は小声のままで耳打ちをした。


「どうして告白断っちゃうのよ? 五十年前はそこでほだされたんでしょ? おじいちゃんのこと、この五十年で嫌いになった感じには見えないけど」

「もう詩織しおり、またその話? 懲りずによくまあ聞いてくるわね」

「そりゃまあ、気になるもん」


 祖母が呆れて笑うのもまあ仕方のない話で、春休みに入って手伝うようになってから毎日、必ず私はこれを尋ねている。天気の話もいい加減ネタ切れだろうと思って話題を振るのだけどそこはさすがに年の功。

 いつもいつも聞きなれないちょっとした知恵袋を小出しにされてはその話題に興味を持っていかれて、気がつけば話を蒸し返す雰囲気ではなくなってしまう。

 けれど今回は決してそうはさせるものか。私には私なりの秘策がある。


「おばあちゃん。あたし明日、誕生日なんだよね」

「……あんたまさか」

「誕生日プレゼント、そのお話がいいなぁって。だめ?」


 春休みのど真ん中に産んだ両親を、小さい頃は「友達に誕生日祝ってもらえない!」と恨んだものだけど今ばかりは感謝だ。祖母はこういうイベントに弱い所がある人なので、こういうのを無碍にはできまいと祖母の顔色を窺うと、少しだけ苦い色合いだ。


 これはいけない。記憶に蘇るのは、私自身の希望によってカレーになった夕飯を後になってから「ハンバーグがいい」とごねた幼少期のことだ。今と同じような顔をしてから祖母は黙ってハンバーグを作り、そのあと一週間口をきいてくれなかった。

 切り札が強すぎたかもしれない。こういう時は北風よりも太陽だ。


「もし、本当に嫌ならいいよ。無理やり聞き出したいわけじゃないから、この話はここでおしまいにする。でも、毎日見てるとどうしても不思議に思っちゃってさ。聞いても後ろめたくないなら聞きたいんだ」

「……引き際ばっかり上手くなってもう」


 あんたそういうとこ幸人ゆきひとさん譲りよ、という口調と柔らかくなった笑顔を見てほっとした。祖父の名前が出てくるならまあ、怒ってはいないはずだ。ちょっと口調だけ苦々しげなままなのは祖母なりの負け惜しみといったところだろうか。


「詩織の言う通り、別に幸人さんを好きじゃなくなったりしたわけじゃないのよ。これだけ長く一緒にいるんだもの、もうそういう次元じゃないわ。隣にいるのが当たり前、名前を呼ばれて返事をするのが当たり前。まあ五十年一緒にいて嫌な所より好きな所の方がまだ多いから、後は死ぬまでそこは変わんないわね」


 なんだかんだ言いながらもう本人も今年で七十歳になるわけで、それなりに曲がった背筋なのに声や口調はピンと張っていて凛々しい、そんな祖母は言う内容もこざっぱりとして思い切りがいい。

 こういうのを「気風きっぷが良い」とか「江戸っ子気質」とかいうんだっけ。


「けどね、今のあの人が一目惚れしてんのは私じゃないわよ」

「じゃあ誰? 絹子さんなんて名前、他にいるの?」

「あの頃なら掃いて捨てるくらい。花子とか太郎と変わんないわよ絹子なんて。けどそういう意味じゃなくてね」


 ――あの人は五十年前のあの人なのよね。それで見てるのは五十年前の私なの。

 凛々しい祖母の口調がそこで初めて、ほんのかすかに揺らいだ。おやもしかしてこれは、なんて思った瞬間には影も形もないけれど、確かに一瞬だけ。


「こんなしおれたよぼよぼ婆さんのどこに、五十年前の美人を重ねてるのか知らないけど。あの人が見てるのは今の私じゃなくて、昔の私よ。断じてこんな婆さんじゃないわ。プロポーズの言葉聞いたでしょ? 一目惚れよ一目惚れ。あの人、面食いなんだもの」

「だから、断るの?」

「ええ。私だって惚れたのは今やよぼよぼになって酸いも甘いも一緒にかみ分けて、こんな婆さんを好きだと言ってくれたよぼよぼの爺さんの幸人さんなんだから。五十年前の私にうつつを抜かしてるうちはまともに取り合ってなんかやるもんですか」


 淡々と、ピンと張った口調で、だけど言う内容はいつもと違って思い切りがいいとは言い難い。

 おばあちゃん、ひょっとして拗ねてる? とは孫の立場からは聞きづらくて、私はただ曖昧に相槌を打つほかなかった。


***


「ね、ね、おじいちゃん。絹子さんの、どこが好きなの?」


 祖母に聞きづらいなら、次に聞くべきは祖父だ。決してそんな思惑があったわけでもなく、何かしらの答えを求めたわけでもなかったのだけれど。それでも手が空いた時にちょっと、聞いてみたくなった。

 記憶が若いころに戻っているせいか口調も年相応とは言い難い祖父は、おじいちゃん呼ばわりすると少しだけ拗ねる。けど祖母にとっての「幸人さん」は私に呼ばせれば「おじいちゃん」以外の何者でもないのだから勘弁してほしい。


 私の事を孫と認識できなくなったとはいえ、祖父のどちらかと言えば大人しい気性はそれほど変わったわけではないらしい――というのはこの春休みになってから知った。暴れたり攻撃的になったりする人も多い中、祖父はどちらかといえばぼうっとしたり曖昧に笑う時間のほうが目立つ。

 とはいえ何事にも例外というものはあるらしい。祖母の名前を出した途端、眠たげだった祖父の目は見開かれてきらきらと輝きだした。ベッドの上で上体を起こしたまま、軽くこちらに身を乗り出してくる。


「何と言っても凛々しい所だよ。気が強くてね、自分より頭一つ大きい男にだって間違っていると思ったら堂々と食って掛かるんだ。格好いい所も多いけれど、困っている人を放っておけない面倒見の良さもあるんだよ。困っていたら目の前に来て、黙ってないで潔く助けの一つも求めたらどうだってね。平手と一緒に飛んでくる言葉に痺れたもんだよ。それから――」


 おばあちゃん、これのどこが面食いなの。さっきから性格とか言動とか、内面の良さしか語ってないよこの人。一目惚れとか言っておきながら滅茶苦茶内面の話だよ。あとそれは面倒見の良さとは違う気がする。

 そんな風に胸の内で笑いと言葉を抑え込んでいるときだった。


「あと、これが一番なんだけどね」


 唐突に勿体つけた言葉が飛んできた。既に「好きな所」は両手の指でも数え切れないくらいに挙げられた後で、わざわざこんな前置きをされたらこちらも身を乗り出さざるを得ない。

 これだけ並べておいて、一番は一体何だろう。いよいよ一度も出てきていない顔か。やっぱり面食いなのか。


「当たり前みたいな顔でずっと隣にいてくれて、名前を呼んだらちょっと笑顔で当たり前のように返事をしてくれること。当たり前の事みたいな顔をしてるけど、これってすごく嬉しい事なんだよ」

「えっ」


 思わず祖父の顔をまじまじと見つめた。いつものように穏やかに、ぼんやりと、曖昧な印象を受ける笑顔だ。痴呆の症状がありますと医者から聞かされて以降見る回数が急に増えた表情だ。

 急に記憶でも戻ったのか、痴呆ってそういうことあるのか。そんな専門知識じみたものは欠片も持っていないから断言できない。

 でもこの言葉が出てきたことはきっと当たり前の事じゃないことだけは分かる。


「そんなわけで、いつもありがとう絹子さん。ちゃんと今のあなたが好きですよ」

「ええっ」


 不意に祖父の視線が私から、そのちょっと後ろへとずれた。同時に出てきた言葉にまさかと振り返れば案の定。トイレに行くと言って席を外していた祖母が帰ってきていた。

 その表情に驚く。

 目を見開いて、頬が真っ赤で。目はせわしなく泳いで口は金魚のようにぱくぱくと開いたり閉じたり。凛々しく江戸っ子な祖母はそこにはいなかった。完全に、五十年若返った恋するお嬢さんがそこにいた。


「でも、五十年前は顔見て一目惚れだって」

「一緒にいて毎日一目惚れしてます。それも嘘じゃありません」

「そんなこと知るわけないじゃない! 一回くらいそこまで詳しく言いなさいよ!」

「今ならプロポーズ、受けていただけますか絹子さん」

「うっさいわ! 年寄りどうしで思春期じゃあるまいし、寝言は寝てから言いなさいな!」


 ――あーこれ、あたし邪魔だな。

 さすがにそこの機微が読めないほど鈍感ではない。


「あとは若いお二人でどうぞごゆっくり」

「うるさいわこの小娘」


 そんな軽口を叩いて祖母の横を通り抜けると、返ってきたのは明らかに余裕の無い言葉で。

 それがまた微笑ましくて、立ち去る私の口角は緩く上がったのだった。

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