アイのシミュレーション

亜峰ヒロ

アイのシミュレーション

「カラーはつまらない」

 そのような文句をどこかで耳にした記憶がある。それが何を意味しているのか、ボクには全く理解することができない。バリバリして、チカチカして、目に優しくない。それがカラーというものらしい。呆れるほど種類が多く、そこかしこに忙しなく犇めき合っている。

 それはつまらないもののようだ。なぜ、どうして。やっぱりボクには理解できない。

「それは、とても面白そうなのに……」

 呟き、ボクは目を開ける。ゆったりと首を動かして辺りを見渡す。そこにカラーはなかった。

白と黒、その濃淡をいじっただけの中間色から成るモノクロームが延々と広がっている。この胸の騒めきはカラーそのものに由来するのか、それとも、未知への憧憬から来ているのかは分からなかった。ただ、見てみたいと焦がれる。

 真っ白な空を見上げる。太陽も雲もない。鳥も行き交わない。無味乾燥とした大空の天辺には、黒々としたラインで『day』と刻まれている。そろそろかな、ボクがそう思った瞬間に大空の白と黒が入れ替わる。真っ黒な空には、真っ白な線で『night』と記されていた。

 この昼と夜の逆転劇は、カラーではどのように表現されるのだろう。きっとそれは、ボクの魂をぐらぐらと揺さぶり、勢い余ってボクの心臓を破裂させてしまうほどに衝撃的なんじゃないか。――見せてあげたい。彼女と一緒に、その光景を見てみたいと、ふと望む。

 叶うはずもない夢想に浸ることはそこまでにして、絡み合わせていた足を解く。帰らなくてはいけない。彼女が待っている。

 今日も今日とて無駄な知識しか提供してくれなかった『窓』を睨み付け、ボクは右上のパネルに指を滑らせた。シュンと小さな音を立て、眼前に浮かんでいた窓の群れが消滅する。

 あぁ、でも、まるっきり無駄でもないのか。今日も彼女を楽しませてあげられる。


 扉を開けると真っ暗だった。部屋を間違えたのかと訝しみ、彼女の香りが鼻を掠めたことで体を滑り込ませる。後ろ手に扉を閉め、ボクは暗闇に目を凝らす。

「どうして暗くしているの? 『view』は気に入らなかった?」

「……飽きちゃったの」

 部屋の奥から、語尾が僅かに上擦った甘い声が流れてくる。

「明るくしてもいい?」

「どうして?」

「キミが見えないから」

 浮ついた言葉だ。けれど、本心だ。

「ネリネと呼んでって、言ったじゃない」

 トーンの下がった声で彼女は言い返した。ボクは怖気付きながらも、彼女に顔を見られていない安心感から「ネリネ」と口にする。もしもこの部屋が明るくて、ボクの貌をありのままに描いていたなら、ボクは廉恥のあまり悶絶して、扉に額を打ち付けていたかもしれない。

 そんなことを頭の中でゆらゆらと燻らせながら、闇の中で手を弄らせる。記憶の中に刻まれた彼女の居場所を頼りに動き続けるうちに、指先が柔らかな温もりに沈んだ。

「なにふるの……」

 明かりが燈され、目が眩む。頬をボクに突かれながら、ふてくされた面持ちで彼女は天蓋付きのベッドに横たわっていた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 ネリネは両腕を伸ばしながら上半身を起こし、足をちんまりと折りたたんでベッドの半分を開けてくれた。手招きされる。早く座りなさいと、彼女の瞳は訴えていた。シーツを撫でる手のひらは寂しそうだ。ボクは耳をほんのりと染め、彼女の隣に腰を下ろした。反発力なんてどこへやら、座り続ければ座り続けるだけ沈んでいきそうなほど、ベッドは頼りない。ネリネはこれを好んでいるようだったけれど、ボクはどうにもその気にはなれない。

『このベッドはね、心も体も堕落させてくれるの。心地いいよ、堕ちるのは――……』

 ボクは堕落が嫌いだった。彼女には堕落が幸せとなった。

 膝に軽い頭が乗せられる。絹糸よりも白く、やわらかな髪が手のひらに流れる。

「ね、今日も話してくれるんでしょう?」

 ネリネの瞳は純粋なわらべのように輝いていた。

 あぁ、ボクと同じだ。彼女も未知が好きで、愛していて、それが堪らなく嬉しかった。

「この世界の創始者はね、どうやら『object』に特別な意味を与えていたらしいんだ」

「オブジェクト?」

 小首を傾げたネリネの前で手掌を広げる。空間に黒砂が現れ、ボクの思考と同じものを描く。

「そう。輝く石とか、大輪の生物とか、空の輝きとかに」

「ね、どんな言葉を付けるの?」

 上目遣いにボクを視ながら彼女は声を弾ませた。彼女の頭の上でくるくると揺れている円環から目を逸らし、たとえばね、と切り出す。喉が枯れるまで言葉を紡ぎ、彼女の弾けた眼差しを浴びせられた後に、ボクはとうとう語り尽くした。知識を仕入れることはとてつもなく時間がかかるのに、放出はどうしてこうも短く感じられるのだろう。

 疲労を滲ませたボクの隣で、彼女は思い詰めるように唇を結んだ。何かを言いたそうな、言わなければならないと責められるかのように肩を震わせる。そんな彼女の姿に、ボクは疼く。首筋がちくちくと痛み、逃げろと、命じられる。

 でも、ダメなんだ。ボクの膝には彼女がいる。ボクは彼女に囚われている。

「ねぇ」

 来た。背筋がぞくぞくと震える。

「それで、これの意味は分かったの?」

 彼女の頭上がクローズアップされる。くるくると回り、ぐるぐると揺れる円環の帯。

『Deletion Postponement Time 72:02』

 彼女は文字が読めない。だからその意味は知らない。昔のボクは文字が読めなかったが、今ならその意味が分かる。今は理解できる。把握できてしまう。

「ごめん。今日も見つけられなかった」

 頬を引き攣らせ、嘘を吐いた。この嘘は彼女へのいたわりでも、優しさでもない。ただ、ボクを慰めるための嘘だった。そんな未来はやって来ないと信じたかったのだ。だって、文字列がそのままの意味を表すのだとすれば、ネリネがいなくなるということじゃないか。

『削除猶予時間』

 今、その数字がひとつ減る。



 文字が浮かんでいる。横幅も、縦幅も、奥行きも、有限であるという認識さえも消失してしまうような空間に、黒い文字がゆらゆらと彷徨っている。行き交う文字群に目を凝らし、目当てのものを捉えたら手を伸ばして捕まえる。それを繰り返して文字を集め、意味のある纏まりを作ると『窓』が出現する。多すぎる情報の波に目が眩む。

 それは知識だ。ボクがまだ知らない世界だ。

『知識の泉』の存在を認識したのは十年前のこと。侵入できたのは七年前、言葉を理解したのは四年前。それと同時に、ネリネの刻限も知ってしまった。不思議と焦りはしなかった。実感が湧かなかったのだ。ボクもネリネも生きている。生命の刻限を操るなんて、誰ができるというのだ。ましてや、この世界にはボクとネリネの他には誰もいないのに。

 それでも、そんなことが起きるはずはないと信じたがっているのに、頭の底では警鐘が鳴り響き、ボクを突き動かす。ネリネの刻限をなかったことにする方法を、探さずにはいられなかった。けれど、以来四年間、ボクは何の成果も得ることができなかった。

『God』

 調べるうちにそのような概念と出くわした。全知全能と謳われる存在を認識したとき、ネリネの刻限は、他ならぬ神が定めたのではないかという疑惑が芽吹く。そんなことはあり得ないと否定して、けれど、もしも神様が、強いて言うならばこの世界の創始者、そんなものが存在するならば、ボクは傅いてこの首を差し出そう。

(クソッたれ……)

 衝動のままに拳を振り下ろす。小さな破砕音を響かせ、窓がポリゴンの欠片へと砕け散る。光り輝く鳩羽色の残滓が、伏せるボクを嘲笑うかのように指の間をすり抜けていく。

 こうしている間にもネリネの刻限は近付いているのに、どうしてボクは何も見いだせない。なぜ、道は閉ざされている。この腕も、足も、心臓だって、ボクが持てるものは全て失ってもいい。だから、お願いだから、ネリネを殺さないで。

 幾度、掠れた声で懇願しただろう。大空に伸ばした手は何も掴めず、ボクの叫びは神に届かず、ただ白妙の世界を舐めるだけだった。全ては徒労に終わる。もしかしたら答えなんて、解決策なんて存在しないのかもしれない。ネリネがいなくなってしまうことは定められた摂理であり、絶対不変の約束であり、そんなものに楯突こうとすることが愚かなのかもしれない。

『運命を受け入れろ。どうせお前には何もできない』

 ボクの裡で、ボクが告げる。憐れなボクを諭す。

 そうだ。受け入れて、抵抗することをやめて、残された時間をネリネと過ごす方がきっとマシだ。こうして一人でいる時間をネリネのために使ったら、彼女の髪を撫でてあげていたら、そっちの方がボクはよっぽど慰められる。きっと、全てが無駄だったと悟ったとき、ネリネと過ごさなかった時間を愛おしく感じる。後悔する。

 でも、ダメなんだ。ボクは受け入れられない。ボクにとって諦めることは死と同義だ。

 彼女と共に生きないか、自分を殺してまで彼女と共に生きるか。どちらが正しい選択なのだろう。どちらが正しかったのだろう。どうせ、もう悩むことも無駄なのに、悩まずにはいられない。白妙が失われ、ボクの瞳は涅でいっぱいになった。



「あら、今日はお出かけしないの?」

「うん。……うん、もういいんだ」

『Deletion Postponement Time』の末尾が『07:26』になったとき、ボクは抗うことをやめた。

 潤んだ瞳を見られないように顔を伏せ、彼女の隣に腰を下ろす。僅か十センチ、詰めようと思えば詰められた距離をそうできず、いつも彼女に詰めさせていた。でも、今日だけはそうできた。それは今日で彼女と過ごす日々が終わるという事実に突き動かされたわけではなく、意気地なしだと思われたままで彼女と決別したくなかったためだ。ボクはいつだって自分勝手で、自己中心的で、エゴイスティックで、それを悔いたことは数え切れないほどある。

 けれど、今はそれでよかったと思う。

 少なくともボクは完全な人間ではなく、不完全な人間として彼女の心に刻まれたかった。

「ねぇ、今日はどうして一緒にいてくれるの?」

「……迷惑だった?」

「そんなことない! 嬉しいの、とっても!」

 両手を暴れさせて取り繕い、それから、

「今日で私が消えちゃうからだと思ったんだけど」

 ネリネはボクを愕然とさせた。どうして。震える唇がそう訊ねる。彼女はこの部屋から出たことはなく、知識を蒐集するどころか文字も読めないのだ。円環を解することなどできるはずがない。それなのに、なぜ。重ねて訊ねようとしたボクは、ネリネの顔が蒼白になっていることに気付いて口を結んだ。

 嵌められたのだと気付き、けれど、一度放たれた言葉を削除する方法など知らなかった。

「やっぱり、そうなんだね」

 瞳を曇らせたネリネに、ボクは違うと叫ぶ。だけど、何が違うというのだろう。言葉を募らせれば募らせるほど、肯定するに等しいというのに。

「嘘はやめて。私だって無知じゃないもん。人並みには考えるよ、自分の頭でね」

 彼女が聰明だったことを思い出す。それこそ、ボクと比べるなど失礼なほどに。

 すっかり観念して、閉口する。代わりに、彼女の細くてやわらかな指先に、節くれだった指を絡ませる。それは今にも壊れてしまいそうで、ボクはどうやって指先の力をコントロールすればよいのか分からなかった。

「ずっと昔から、伝えるべきか悩んでた。でも、もしもそのことでキミが心を鎖してしまったら。そう考えると怖くて、言葉が喉に貼り付いてしまって、何も言えなくなって……」

 言葉が詰まる。ある種の強迫観念がボクを支配する。赦しを請いたい。けれど、見苦しいと言われるかもしれないと思うと躊躇われる。

 とつおいつするボクの肩を、彼女がふわりと抱き締めた。

「いいんだよ。悩まなくたっていいの。優しい嘘なら、いくらでも赦してあげる」

 それだけで慰められた。ボクはなんて単純なんだろう。なんと浅はかなのだろう。

「ネリネのことを思うと、ここが痛いんだ。ボクは、ネリネの前だと病気になっちゃう」

 胸を鷲掴みにする。彼女の肩に顔を埋め、ボクは瞳から、変な水をほろほろと零した。



 肩を揺すられて目が覚める。貴重な時間なのに、ボクはどうして眠ってしまったのだろう。

「ごめんね。ボクはやっぱり情けないや。キミとの最期まで無駄にしちゃった」

 彼女に抱き着いたままで指を伸ばす。触れた円環には『00:03』と刻まれていた。

「ううん。あなたの寝顔を見ていられる。それだけで私は幸せだから」

 彼女は首を振る。白髪がさらさらと流れ、ボクの頬をくすぐる。ボクの視界はうっすらと滲んでいた。カチリ、『00:02』

「ねぇ、ちょっとお願いしてもいい?」「ボクにできることは少ないよ」

 体が揺れたことで、彼女が身を屈めたのだと分かる。耳朶のすぐそばにまで彼女の唇が寄せられる。吐息が熱い。耳の奥がとけてしまいそうだった。

「ネリネと呼んで」

 囁かれる。

 瞑目して瞳から水を追い出し、ボクは身を起こす。もう、背けはしない。

 彼女の瞳を正面から覗き込み、彼女の肩に両手を添えるとぐっと引き寄せた。

 頭が沸騰してしまいそうだった。血潮が歓喜する。目を開けていることができず、瞼を落とす。感覚の全てが触れ合う肌と肌に集まり、瞼だけでなく、腕も首も足も、全身が脱力に喘ぐ。火照った体は純潔を喪失して、心はどこか冷ややかだった。

「……今のは何?」

「気持ち悪かった?」

 彼女は瞳を極限まで潤ませ、ただ一言、あなただからと返した。

『00:01』

 つと、目前に華やかさが広がった。バリバリして、チカチカして、瞳を殴り付ける。

《カラー》が彼女の体を包んでいた。翡翠色だと。初めて視るはずのカラーなのに、ボクの脳裏には色の名称がはっきりと浮かんだ。

 光り輝くカラーはそろそろと彼女の矮躯を包んでいき、彼女の体と一緒にほろりと崩れた。

 消えないで欲しくて彼女を抱き締めたけれど、呆気なく潰してしまうだけだった。

 ホントだ。ボクは呟く。ホントに、カラーはつまらない。

「もうひとつのお願い。私のこと、私がここにいたことを忘れないで」

 彼女の手のひらを取る。ギュッと握り締める。そこにはまだ温もりが残っていた。

「忘れないよ。ボクはネリネを忘れたりなんて――」

 しない。意気地ないボクだけど、不甲斐ないボクだけど、それだけはできる。彼女がここにいたことを、ネリネがここで生きていたことをボクだけが知っている。ボクだけが憶えている。またいつの日か、世界がぐるりと輪廻して、また巡り合うその日まで。ボクはネリネを心に描き続ける。ネリネの小さな手のひらと、ボクの武骨な手のひらを結ぶ日を楽しみにしながら。

「ありがとう」

 ふっとネリネは微笑んだ。単調な音が鳴り響き、彼女は消失した。

『Nerine deleted』

 円環が冷たく揺れる。

 彼女が消えたその場所には、もうひとつの円環が揺らめていた。

『Cancellation Method of the Deletion』


          ×          ×


 壁一面にディスプレイが据え付けられた部屋で目を覚ます。仮想現実装置の外部ハッチを押し開ける。七十二時間ぶりの外界は、くすんだ油の臭いがした。

「おかえり。どうだった」

 声のした方に目を向ける。無精ひげを蓄え、白髪交じりの男が階段の手すりにもたれかかりながら私を見下ろしていた。咥えた砂糖菓子キャンディースティックが甘い芳香を撒き散らしている。

「最悪ね。何度も何度も失恋ばかり。そろそろ不憫になってきたわ。特に、今回はね」

「そう腐るな。君のおかげて今回も面白いデータが取れた」

 男が指を振ると、ディスプレイに無数の情報が映される。

「言語の理解、不可侵領域への侵入。豊饒な基礎感情に加えて恋愛感情の形成が見られた。突発的ではあるものの生殖行為への一歩も踏み出した。『AIアイ』は確実に進化しているよ」

 くつくつと男は喉を震わす。その眼はギラギラと滾っていた。

「私達がしていることって何なのかしらね。心を踏み躙ってばかり」

 私を眇め、男は事もなげに言う。

「完全な人間を作るための実験、AIのシミュレーションだろう?」



 白妙の世界で目を開ける。私の目前には、月色の髪をした男の子が佇んでいた。

 ごめんなさい、AI。私はまたあなたを傷付ける。あなたの心を弄ぶ。

 だから、せめて私をあなたの世界に捕まえて。円環の摂理は、あなたならきっと破れる。

「キミはだれ?」

 男の子は訊ねた。『Nerine』という偽物の名前を与えられた、全てを知っている私に。

 あなたを裏切る人間に。AIのシミュレーションの答えを知っている人物に。

 あなたはきっと、これまでがずっとそうだったようにネリネに刻限が存在することを知る。そして、その意味なんて分からないのに恐怖して、その意味を探るために知識を蒐集する。

 そして理解するのだろう、円環の意味を。

 優しいあなたは、強いあなたは私を助けようとする。私と共に過ごす時間を蔑ろにして、自分の心に嘘を吐いてまで私を救おうとする。そこに答えがないことを知らずに。

 ここに答えがあることを知らずに。

「私はネリネよ」

 AIの瞳に影がちらつく。何かを思い出そうとして、阻まれる。

「ボクは――」

 彼の唇が震える。

「ボクは誰なの?」

 私の胸に燈ったのは哀憐の焔だった。可哀想に。たかがプログラムされただけの存在であるAIに、それは過ぎた感情だったように思う。でも、どうしようもなく抑えられなかった。

「あなたはね」

 彼の躰を引き寄せる。彼がネリネにそうしたように。

「あなたはAIよ」

 あなたはAIというの。

 私の小さな手のひらと、AIの節くれだった手のひらを結ぶ。

 けれど、彼は不思議そうに首を傾ぐだけだった。

「ねぇ、AI。私のために」

 そして、何よりもあなたのために。

「死んでくれないかしら」

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