/9 温室(六月十日)
――今でも覚えているのは、錆びた匂いと、肉を断つ感触。
次に思い出すのは、古めかしい鉄の刃。和室の桐箪笥に仕舞われていた、天使の羽のあしらいが印象的な大ぶりの鋏。指掛けの色が少し剥げていたけど、よく手入れされていて、目立った汚れも、刃毀れひとつなかった。
あれは、確か中学の頃だっただろうか。マナちゃんが、ずっと続けてきたバレエを辞めると言ったときだ。
引き止めはしなかった。本人が嫌がっているのに、無理に続ける必要はないと思ったから。
だからマナちゃんが辞めるなら、私も辞めると言った。マナちゃんがいないのに、続けても仕様がないと思ったから。
私がそう言うと、マナちゃんは何か取り返しのつかないことをしてしまったかのように口を噤んで、私たちの部屋から出て行った。心配になって後を追うと、マナちゃんは階下へ降りた先――一階の奥にある和室へ入って行くのが見えた。
和室の襖を開けると、マナちゃんは明かりもつけずに何かを探していた。しばらくして、箪笥からあの鋏を取り出すと、自分の長い髪に通し、ざくざくと目一杯力を入れて裁ち落としていった。
私はそれを黙って見ていた。振り返ったマナちゃんは、どうだと言わんばかりに胸を張った。
――その笑みが、手に持った鋏と同じくらい綺麗だったから。
畳に落ちた髪の刺々しさを足の裏で感じながら、私はあの娘の前に立った。面食らったマナちゃんの手から鋏を取り上げると、同じように自分の髪に宛てがって、一息に裁ち落とそうとしたのに。
ぷしり、と柔らかい感覚がして、真っ赤な雫が飛び散った。
――マナちゃんの手が、刃の間に挟まっていた。
呆然とする私の頬を、マナちゃんが強く叩いた。マナちゃんが手を上げたのは、それが初めてだったから、私はとても驚いたけれど、不思議と痛いとは思わなかった。
鋏の落ちる音がして、それからマナちゃんは私を抱き締めると、声を上げて泣き始めた。
マナちゃんが考えていることが分からなくて、それでもマナちゃんに抱きしめられたことが嬉しくて、私も一緒になって大泣きした。
駆けつけたお手伝いさんに手当てをされたあと、両親に酷く叱られて、それから二人揃ってバレエを辞めた。
マナちゃんのざく切りの髪は、美容師さんに調えてもらった。私も同じにしようかな、と言ったら、見分けがつかなくなるからやめて、と笑って返された。
見分けがつかなくたって構わなかった。それでもマナちゃんが笑っているなら、このままで良いと思えた。見た目が少し違ったって、私たちは久しぶりに分かりあえたのだから。
――それから、マナちゃんはまた髪を伸ばし始めたけど。
私と同じ長さに戻すことは、結局一度もなかった。
*
「そこにいるのは、確かに先輩たちの子どもですよ」
菩提樹の広場で、碓氷末奈が崩れ落ちた。
わたしの傍らで、碓氷ミナは長椅子にかけたまま、黙ってそれを見ていた。
「何故、あんなことを言ったのですか。貴女にだって、言って良いことと悪いことの区別くらいついたはずです」
跪いた末奈が、痛みを堪えるように目を細めた。わたしを睨む瞳は、しかしすぐそこに在る姉と胎児を見ようとしない。
「たとえここまでの結果になると予想できなかったとしても、ミナ先輩がどう思うか、少しも考えなかったわけじゃないでしょう?」
「――五月蝿い」
歯軋りの音がした。彼女か、あるいはわたし自身から発せられたのかも分からない。
「貴女はミナ先輩を傷つけようとしたんだ。
貴女が男に抱かれただなんて言わなければ、ミナ先輩はこんな身体にならなかった」
「五月蝿い!!」
痛ましさに、硝子の箱が
――このふたりは、コルシカの兄弟だ。
大デュマの小説を連想する。決闘によって死んだ弟と、弟の命を奪った傷と同じ位置に傷が浮かび上がった兄。無論それは空想に過ぎない。碓氷姉妹がシャム双生児だったという話は聞いていないし、物語の出来事がそのまま現実に起きるはずもない。
だが、想像妊娠とは空想の産物だ。
妊娠への期待、あるいは恐怖によって引き起こされるという心身症。そのメカニズムは完全に解明されておらず、また性交渉の有無とは関係がない。それどころか、ときには男性にも類似する症状が現れるという。
碓氷ミナは、碓氷末奈を自分自身であると言っていた。思うに、あの言葉は比喩ではなかったのだろう。ミナは心から――いや
だとすれば、末奈の妊娠を案じたミナが、自らを作り変えたとしてもおかしくはない。
――たとえ非常識に思えても、不合理を合理的に解釈すれば良いの――
硝子の言葉が脳裏を掠めた。ミナの症状は、まさに擬娩さながらだ。たとえ自身が男の味を知らぬとも関係ない。ほかならぬ彼女の半身が、それを知っていると嘯いたのだから。
だというのに、その半身は未だその罪を認めぬまま、独り苦悶していた。
――何て、醜い。
のたうつ末奈と視線が合う。眼鏡の下――彼女の瞳が憎悪の色に染まっていく。
「あなたの仕事は、想像妊娠について調べることでしょう?
それが、今更何? 私のせいにしないでよ。そんな馬鹿な話あるわけない。
何もできなかったからって、腹いせのつもりなの? 私が姉に何を言おうと、あなたに関係ない!」
全身で末奈が叫ぶ。振り絞り、罅割れた声は、聞くに堪えぬほどに悲痛で、切実だった。
だがそれも、結局は手前勝手な理屈に過ぎない。
「――つまり、貴女は最初から想像妊娠と知っていたわけだ」
自分でも意外なほどに、冷ややかな声が出る。面食らったような彼女の表情も、既に滑稽としか思えない。
「今、自分でそう言ったでしょう。
それとも――覚えていないんですか? 先輩がわたしに頼んだのは、ミナ先輩の体調不良と、サマリア会との関わりを調べることだったはず」
「っ――」
末奈の、息を呑む音が聞こえた。
末奈は、やはり姉の症状に気づいていた。その原因が自分にあることを知っていた。いや、それだけならまだ良い。
ズキズキとした痛みに気づいて、拳の力を緩める。いつの間にか、強く握り込んでいたらしい。
――わたしは、何を苛立っているのだろう。碓氷ミナに、同情でもしているのか。
呼吸を整えたくて、一度末奈から視線を外す。見上げれば、菩提樹の枝葉の間から、弱々しい光が零れていた。日が翳っているのだろう。雲がなければ、もっと強く光が射すはずだ。
(何様のつもりだ、わたしは)
分かっている。わたしの抱く嫌悪は、いつも自分に返ってくる。
――わたしが世界を嫌うのは、世界を嫌う、自分自身を嫌っているせいだ。
だとしても、わたしがミナに同情しているというのなら、ミナ本人が何も言わずに見守っている限りは、なおさら役割を投げ出すわけにはいかない。
己の病巣を検めてから、わたしは末奈へと向き直った。
「わたしだって、姉妹喧嘩になんか興味はありませんよ。
だけど、末奈先輩は嘘を吐きました。貴女はミナ先輩の症状の正体に気づいていた。それを自分のせいだと認めようとしなかった。
ひとまず、そこまでは良いとしましょうか。
ですが――そのことを隠すために、サマリア会なんて眉唾をわざわざ利用したのは、何故ですか?」
「――何故?
何故って、それは――」
「訊き方を変えましょうか。
何故貴女は、ミナ先輩の生理不順を少女Sのせいにしなかったんですか?」
末奈の目が泳ぐ。答えを探しているのか、それとも逃げ出そうとしているのか。そのどちらも、今の彼女には叶わない。
「この学院にいる限り少女Sを――心臓痕硝子を無視することはできない。先輩はそう言っていましたね。
貴女にとって、やはり彼女は特別だった。だから姉の症状が少女Sの呪いであるとは口が裂けても言えなかった。
だってそれは、貴女にとって最も恐るるべきことで――ある意味では真実だったから」
「――恐れてなんて、ない。
私は、心臓痕さんのことが」
末奈が、小さく首を横に振る。落ち着きのない様子で、彼女はまた自分の髪を触っていた。彼女はまだ自分の癖に気がついていない。
「先輩が通院を始めたのは、去年の秋ですね? 死人の幻か、悪夢でも視るようになりましたか?」
その問いを否定する者はなかった。末奈も、そしてミナも、死んだように口を閉ざしている。
これではっきりした。末奈の通院は心臓痕硝子の死に端を発するものだ。彼女が自殺したのは、去年の九月――まだ蒸し暑さの残る、秋の始まりだった。
押し黙る姉妹に代わって、視界の端で動くものがあった。それが何であるかなど、視なくとも分かることだ。花開いた眼球が、わたしたちを伺っているのだろう。
ノイズじみた幻聴が響いたあと、ミナが苦しげに呻いた。激しい風に似たその雑音が、胎児の
ミナが、また吐息を漏らす。病的に白かった頬が、今はすっかり上気していた。汗ばんで髪の張り付いた額も、濡れそぼった視線も、酷く艶めかしい。
――彼女の肚で、血走った眼球が厭らしく蠢動していた。
「あの子が何よりの証拠です。あれはミナ先輩の幻じゃない。末奈先輩、貴女が視ているものだ。
ミナ先輩に通院の理由を追及されたとき、貴女はそれを隠そうとして、あるいはそれに
妹の妊娠への不安からミナ先輩は想像妊娠に至り、貴女は後ろめたさと恐れから、胎児の幻想を作り出した」
白い肉塊を指し示す。末奈がようやく姉へと――胎児へと視線を遣り、しかし拒絶するかのごとく
胎児の眼球が――眼球の胎児が末奈の方を向く。彼女の姿を認めた胎児は、ぶよぶよに膨れ上がった肉体を、可笑しげによじらせた。
――胎児よ 胎児よ 何故躍る――
――母親の心がわかって おそろしいのか――
「あの子は少女Sなんかじゃない。
亡霊への恐怖と、ミナ先輩への罪悪感を折り重ねた――硝子の瞳の成り損ないです」
「いい加減にしてよ!!」
箱庭が、先ほどより大きく震えた。
殻に閉じ籠もるように、末奈は髪を掻き乱し、耳を塞いだ。
「私の気持ちを、勝手に決めつけないで!
未奈のことなんかどうだって良い。私は、私は心臓痕さんが――心臓痕さんだけが好きだった。なのに――」
頭を抱えていた手を、末奈はまたすぐに自分の鼻先まで持って来て、それからその震える指先を、怯えた目で凝視した。
「私の告白を、彼女は笑ったの。
違うって言いたかった。そうじゃないって。
――なら、どうして私はあのとき何も言えなかったんだ」
――私は、未奈先輩にはなれないよ――
――先輩が欲しいのは、
末奈の言葉が、頭の中の夕暮れと重なって、知らない記憶を幻視した。末奈はきっと、彼女に――心臓痕硝子に想いを伝えたのだ。
わたしたちは皆、同じ悔恨を抱えている。硝子の瞳に囚われた者は皆、彼女の死を悼んでいる。碓氷末奈も。鈴白要も。そして、わたし自身も。
後悔に悴む手で、末奈が視界を覆い隠した。
「心臓痕さんは死んでしまった。
私が告白なんかしなかったら、あのときちゃん答えてあげられたら、あの娘も飛び降りなかったかもしれないのに」
その驕りすら、誰もが抱いているに違いない。
それでも――いやだからこそ。そのことが悔しくて、許せなかった。
――硝子の最期の言葉を聞いたのは、わたしだけなのに。
唐突に、耳を
――胎児と、目が合ってしまった。
視線を逸らしたところで、最早間に合うはずもない。既に何もかもが遅過ぎた。わたしはもう、自分の傲慢に気づき始めている。
じゅくじゅくと、肉塊が下品に脈打ってみせる。わたしの嫉妬を見透かして、
――その綻びを、彼女にも気取られてしまったらしい。
またしても、まるで吸い寄せられるかのごとく、わたしの視線は胎児から離れ、自分の意志とは無関係に広場へと向かう。末奈は立ち尽くすでもなく、座り込むでもなく、ただふらふらとそこに留まっていたが、やがて静かに
――得体の知れない冷たさが、足元から這い
怨嗟に歪んだ末奈の目が、
「全部、あんたのせいだ。
あんたさえいなかったら、あんたさえ私と同じでいてくれたら、告白なんかしなかった」
末奈の患部が次第に露わになる。呪いの言葉を吐きながら、一歩、また一歩、ミナの座る長椅子へ近づいて来る。
その矛盾に、末奈はまだ気づいていない。それでも、ミナは俯いたまま何も言おうとしない。
無意識のうちに手を伸ばし、末奈の進路を遮っていた。末奈が立ち止まり、殺意の滲んだ視線でわたしを串刺しにする。
「ねぇ、何が悪いの?
私が姉を傷つけることの、何がいけないの?」
わたしが答えに迷う間に、末奈は舌鋒を半身へと向かわせる。
「嘘吐き。
ずっと一緒にいるって言ったくせに。本当は同じが嫌だったくせに。いつもいつも私より先にいたくせに。
だったら良いじゃない。その傷が目印になれば、私たちを取り違える人なんていなくなる」
欠けた月のように、末奈が笑った。
ようやく確信する。末奈は初めからすべてを分かっていた。ミナがどれだけ末奈を想っているのかも、どれだけミナが傷つくかも。
その結果どうなるかさえ分かっていたからこそ、あんなことを口にした。
末奈は――ミナを孕ませたくて、孕ませたのだ。
「それが、貴女の答えか」
自分の声が、酷く遠く聞こえた。だって、これではあまりに救いがない。
勝ち誇った顔で、末奈がわたしを見下ろしている。ミナへの悪意こそ、自らの欲望そのものであると、末奈はそう認めたのだ。今更わたしの言葉など、届くはずがない。
(ああ、そうか)
家族の――兄妹の顔を思い出す。わたしが慮れなかった人たち。わたしが愛することのできなかった人たち。
――本当に浅ましい。いつの間にか、わたしはそんなことすら羨んでいたのか。
末奈と胎児の笑い声が、硝子張りの牢獄に響く。結局真実なんて、何の意味も持たなかった。いやそれどころか、わたしが口を出さなければ、姉妹は上辺だけの平穏な関係を繕うことくらいできたかもしれない。
周囲の木々が、鬱蒼とした原色の悪夢が
わたしは失敗した。わたしにふたりを救うことは、できなかったのだ。
「――良いよ、それで」
耳障りな哄笑が、嘘みたいに鳴り
――振り返ると、弱々しくも立ち上がった碓氷ミナが、あの泣きそうな微笑みを浮かべていた。
◇
「――良いよ、それで」
長椅子の背もたれを支えにして、何とか立ち上がる。
「――先輩」
振り返った下級生に、精一杯の笑みを作ってみせる。上手くできたかは分からないけれど。だってそうしないと、彼女は今にも泣き出してしまいそうだったから。
「ありがとう、貴家さん。
――本当にありがとう。お陰で、どうすれば良いのか分かったから」
彼女の手を取って、感謝を伝える。私より一回りも小さな掌。こんな子が、私たちのために今まで頑張ってくれていた。
「でも、これじゃあ先輩たちは――」
少しの間、貴家さんは言葉を探していたけれど、結局その先を口にはしなかった。彼女は目元を一度だけ拭うと、少し頭を低くして、それから菩提樹の
――ぶっきらぼうで、口が悪くて、そのくせお節介。
――本当の彼女は、きっと誰よりも優しい人だ。
だからこそ、申し訳なく思う。私には貴家さんを救ってあげることはできない。彼女の纏う呪いは、私たちより遥かに色濃いものだから。私の力では、彼女の心を解きほぐすことなんてできない。
――その役割を、いつか誰かが担ってくれることを、強く強く、願う。
「マナちゃん」
鏡合わせの少女を見据える。今はただ、私の半身と向き合うときだ。
「何を――笑っているの」
私と同じ顔が、不愉快そうに眉を歪めた。だから私も、胸に手を当てて、心からの言葉を伝える。
「だって嬉しくて。マナちゃんが、本当の気持ちを教えてくれたから。
――マナちゃんは、私を傷つけたくて堪らなかったんだね」
くらくらと視界が揺れる。支えをなくすと、途端足元が覚束ない。お腹で見上げる
それでも私は、自分の足だけでこの場に立っていたかった。
私の言葉が意外だったのか、マナちゃんは一瞬眉を跳ね上げたけれど、またすぐにあの苛立った眼差しに戻って、
「そうだよ。
私は
――だから?
マナちゃんの言葉が途切れる。その続きを、私は
――だって目の前のこの娘は、ほかならぬ私自身なのだから。
「マナちゃん、もう良いの」
本心からそう思っている。
貴家さんは本当に良くやってくれた。彼女は謙遜していたけど、私だけではきっと、この答えに辿り着けなかっただろう。
「――良くない。
そんなこと、あって良いわけない」
隙間風のような掠れた声。
マナちゃんはお腹の子を視つめながら、一歩、また一歩と、今更恐ろしさに気づいたように、
――
――
――だから?
「だから、私はあんたを嫌ったって言いたいの? 私はあんたの代わりに、心臓痕さんを好きになったって、そう言いたいわけ?」
「もう、良いから。
もう――
「違う。――違う! あの娘はあんたの代わりなんかじゃない!
あの娘は私たちとは違う。私よりも、あんたよりもずっとずっと綺麗だった。だから――」
――私は、未奈先輩にはなれないよ――
――先輩が欲しいのは、
お腹の子が悲鳴を上げる。
完結した世界。完全なる完全。
その在り方はあまりに美しくて――あまりに完成され過ぎていた。
「――だから、私は心臓痕さんに憧れたのか」
内側から染み出すみたいに、言葉が零れ落ちていく。
いや、本当は憧れてなんていなかった。
――
――
心臓痕硝子は、たったひとりで満ち足りていた。あの少女にとって、
――あの鮮烈な
「――なんだ。
私は結局、自分しか愛せなかったんだ」
閉じた空を見上げたのは、どちらの私だっただろう。
似ていると言われて嫌だったのは、
姉妹として、双子として、肉を別たれた存在として生まれ落ちた以上は、どんなに似ていても、同じにはなれない。優れているのが姉で、劣っているのが妹。誇らしいのが姉で、可哀想なのが妹。そう決まっていた。
――だから、
けれど、
私はただ、私と同じ傷痕が欲しかったのに。
私は今まで、私のことすら理解していなかった。
――自分しか愛したことがない私に、私のことなんて分かるわけない――
あの言葉は、果たして誰に宛てたものだったのか。
「馬鹿みたい。今になって気づくなんて」
――そう呟いて、私はようやく、私自身と向き合った。
「マナちゃん」
「――お姉ちゃん」
ごめんね、とマナちゃんが小さく謝罪を口にする。その言葉は、何かを惜しむようにも聞こえた。
軋んだ音ともに、天使が羽を大きく広げていく。その輝かしい
――古い記憶。まだお互いの名前が、意味を持たなかった頃を思い出して。
――別れを告げるように、手の内の刃を走らせた。
鋭い痛みと、赤い雫が弾ける。
カラカラと、刃が地面に落ちた音。すぐ近くに、微かな息遣い。
――気づけば私は駆け出していて、マナちゃんを抱き締めていた。
「――ミナ?」
耳元で、戸惑う声が聞こえた。その存在を確かめたくて、半身を抱く腕に一層力を籠める。
――温かい。
「マナちゃん、辛そうだったから。
私を傷つけるときは、いつだって同じくらい痛かったんだね」
「――何それ。
また自分が悪いって言うの? あんたはそうやって、私の間違いさえなかったことにするの? 私が謝ったことだって、何も」
「違う」
少しだけ、腕の力を緩める。堰き止められていた手のひらの痛みが、急にやって来る。
それでも私は、そこにいるもうひとりの顔を、まっすぐに見た。
浅い色の髪。小さな鼻。穏やかに垂れた目尻。瞳の中には、自分自身の姿が写っている。
――これが姉妹愛でなくても、たとえ自己愛でしかなくても、何だって構わない。
「――マナ。
私だけを見て。心臓痕さんのところになんて行かないで」
全部、全部分かったから。
この先どんなに傷つけられても、
――だから、私を見て。
それが、私のたったひとつの望み。
震える私自身を、もう一度
「――私、はっ――」
――けれど、私が何を考えているかなんて、初めから考えるまでもなかった。
熱い雫が肩に落ちる。
足の力が抜けて、ふたり一緒にへたり込む。子どもみたいに泣きじゃくる
「怖かった。
私たちは姉妹だから。きっと同じものじゃないから。
ミナは私のものじゃないし、私はミナみたいにはなれない。私は出来損ないで、ミナと同じようにはできなくて。ミナみたいに、優しくもなれなくて。
私は、ミナに釣り合わなくなるのが寂しかったんだ」
不公平だと思っていたのは、ずっと同じでいたかったから。
別々に扱って欲しかったのは、ひとりで生きていけないことが分かっていたから。
私は私と違ってしまうことが恐くて、それでも、仕様がないと諦めていた。
――そんなお芝居は、今日でお仕舞いにしよう。
硝子の天蓋から、陽光が降り注いでいる。いつの間にか、雨雲はいなくなっていたらしい。幕を開けるみたいに、辺りが光に満ちていく。
互いの身体を少しだけ離して、それから見つめ合う。
笑えるくらいに酷い顔。編み込んだ前髪はぐちゃぐちゃに
――きっと私も、まったく同じ顔をしているのだろう。
もうひとりの私から、邪魔な眼鏡を取り払う。度が入っていないことは知っていた。だからこれは余計なものだ。こんなものはない方が、お互いの顔もよく見える。
手を取って、指と指を絡ませる。それから固く結ぶみたいに力を籠めた。温かい血が、私たちの手を濡らしていく。
――今なら分かる。愛が、自分に足りないものを求めることであるのなら。
私にとっての愛は、
当たり前にそこにいて、
馴染み深くて、
そして何よりも別ち難い、私自身のためにある。
「誓うよ。私たちはふたりでひとりだから。
死がふたりを別つまで――ううん。たとえ死んでしまったとしても、私たちはずっとずっと、一緒」
引かれ合う自然さで、額と額を重ねる。半身は静かに涙を流しながら囁いた。
「
「うん」
「
「――うん」
「――それでも、私と一緒にいてくれる?」
自分のお腹を見下ろす。あんなにも恐ろしかった
「ありがとう。
――お休みなさい」
感謝と、それから別れを伝える。
うとうとと瞼を下ろしながら、
――そうして、私たちを隔てていた幻は、あっという間にいなくなった。
本当に欲しかったものは、たったひとことだけ。
その言葉が聞けただけで、私はすっかり満ち足りてしまった。
*
胎児が消えるその瞬間を、わたしは少し離れた位置から見ていた。
「
網膜が一瞬痛みに焼かれ、続いて吐き気が襲ってくる。原因は分かり切っている。いつものように、わたしは彼女の呪いを取り込んでいたのだろう。
幸いにもすぐに悪寒は収まり、視界も
安堵に胸を撫で下ろしながら、立ち上がろうとする双子の方へと歩いて行く。
「――立てる?」
「うん。
そっちこそ、手、痛いよね」
「ちょっとだけ。保健室に寄らないと」
他愛ない会話の最中、片割れの視線がこちらを向いた。近づくわたしを認めると、彼女はにっこりと笑いかけた。
――何故だか、背筋がざわざわして。
まだ数メートルの距離を残したまま、わたしはつい足を止めてしまう。
「貴家さん。今日は本当にありがとう。
――それとごめんなさい。あなたには、失礼なことを沢山言ってしまった」
末奈と呼ばれていた少女が、深々と頭を垂れた。彼女の態度は、決して予想に外れたものではなかったのに、内心酷く驚いている自分がいることに気がついた。
「――謝るのはわたしの方です。
わたしはお礼を言われるようなことなんて、何もしていません。
わたしは――何の役にも立たなかった」
言いわけめいた嘆きが、つい口を突いて出る。
しかし、ふたりはそれすら大真面目な顔で、首を横に振り否やんだ。それから一方が小走りで寄って来ると、わたしの手を握って労った。
ごわごわとした布の感触。手のひらの傷にハンカチを巻いた彼女は、確か姉の方だったはずだ。
「そんなことない。
あなたがいなければ、私は自分の気持ちさえ分からなかった。あなたがいるから、私は私でいられるの」
穏やかで、それでいて芯のある声で彼女が言った。澄んだ瞳が、まっすぐにわたしを見ている。
――どうにも、居心地が悪かった。
彼女は少し驚いた顔をしていたけれど、あのすべてを諦めた目で、こともなげに微笑んだ。
それで気がついてしまう。彼女たちは本心からわたしに感謝していた。だからこそ、その見返りにわたしを救いたがった。
――つまるところ、わたしはふたりに見放されて、哀れまれたのだ。
取り残されたわたしを尻目に、
わたしは負け惜しみとばかりに、その背に問いかけた。
「――最後に、ひとつだけ聞かせてください。
今の先輩たちは――どちらがどちらなんですか?」
同時に振り返ったふたりは、わざとらしく目を丸くして、互いに顔を見合わせたあと、腹の底からおかしそうに、わたしの疑問を嘲った。
「どうだって良いよ、そんなことは。
私は私。どうしても区別をつけたいのなら、今まで通り、周りが勝手に決めれば良い。
――質問は終わり? ならこれで、ごきげんよう、貴家さん。
これからも、私と仲良くしてね」
晴れやかに笑いながら、ふたりは木々の間に見えなくなった。
「――それが、貴女の答えか」
誰もいない広場で呟く。
今のふたりには、もう
――彼女の世界は、これで完結してしまったのだ。
拳に血が滲む。わたしが差し伸べようとした手と、彼女が本当に望んだ救いは、こんなにもかけ離れていた。
それでも――何故だろう。
彼女の愛は、その在り方は、わたしには到底理解し難いはずなのに。
――少しだけ、羨ましいと思ったのは。
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